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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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 河合雅男の口に何も噛まさなかったのは失敗だった。


 大日本帝国の処刑業務の一端を担っている執行者達は、残虐趣味の山田秀人の依頼に応えるべく、河合雅男を電殺するための場所の提供と、関係文書の改変を請け負った。


 警官達が河合雅男を別人とすり替えて警察署から連れ出したのと同じように。正式な文書を通した上で今夜処刑されるはずだった死刑囚達の中に、河合雅男を紛れ込ませたのだ。


 河合雅男の処刑自体は、さほど骨ではなかった。


 問題は山田秀人のリクエストが帝国では採用されていない『電気椅子による処刑』であり、現場と死体の後始末を極秘に行わなければならないところにある。


 電殺された死体を、部外者の目に触れさせてはならない。電殺自体が法的正当性のない、違法な行為であるからだ。


 山田秀人がこの施設の長を計画に引き入れていなければ、流石に執行者達も協力しようとは思わなかっただろう。


 刑場内にいる人間は限定され、買収と人払いによって、秘密を保持するには最高の環境が整えられた。


 にもかかわらず、施設の地下に現れた山田秀人の『より生々しい電殺を見たい』との要望を聞き入れた施設長が、河合雅男の口に噛ませてあった猿ぐつわを外してしまったのだ。


 吐き出される怒りに満ちたうめき声が、やがて懇願の色に変わり、いよいよ電気椅子が起動すると、地下の壁を震わすほどの大絶叫に変わった。


 痩せ細った老人の喉の、どこからこんな声が出るのか。それほどに凄まじい、プロの執行者達がうろたえるほどの苦悶の叫び。


 電殺とは、これほどに残酷なものなのか。


 帝国で初めて電気椅子を扱った執行者達は、自分達が不慣れゆえに器具を正確に装着していなかったことにも思い至らず、ただ恐怖していた。


 河合雅男の頭にかぶせたキャップからは、電極が当たる部分の頭髪を事前にっておかなかったために、たんぱく質の燃える独特の臭いと共に黒煙が上がっていた。


 水気のない、乾燥しきった皮膚をう電気は河合雅男を即死させることはなく、体中を焼き切り、筋肉を痙攣けいれんさせる。


 阿鼻叫喚あびきょうかんの叫びが施設の外にまで漏れるのではないかと慌てる執行者達。

 しかし、河合雅男と対面して豪華な革張りの椅子に腰掛けていた山田秀人だけは、手を叩いて大喜びで笑っていた。


「凄い! 凄いぞっ! こんな凄まじい死は戦場でも見たことがないっ! 又の字! あの顔を見ろ! 目と耳から血が噴き出してるぞ!」


 手足をバタつかせて河合雅男のまねをする山田秀人に、かたわらに立った又の字は口元を押さえてうめいた。


 山田秀人に仕えて三年目の彼女は、自分よりも長い年月を主人の下で働いてきた河合雅男の死と、それに対する山田秀人の態度に戦慄せんりつしていた。


 ただでさえ非人道的と言われる本来の電殺よりも、はるかに残酷で、汚らしい醜態。


 目の前で起きている事故とも言える光景を、山田秀人はまるで恐れていないのだ。


 生きながら、目に見えない電気という力にズタズタに焼き切られていくかつての部下を、この男は心底愉快そうに観ている。


 そんな彼の様子に、彼に買収された執行者達も電気椅子を止めようとはしない。仮にも法の下の殺人をつかさどる者達が、阿呆のように立ち尽くしたり耳をふさいでいるざまは、法治国家においては国辱以外の何ものでもなかった。



 結局河合雅男が血まみれのゴミのようになって息絶えたのは、処刑を始めてから十分以上が過ぎてからだった。


 誰もが惨劇に圧倒され沈黙する中、山田秀人だけが笑い疲れて、ひいひいと引きつった声を上げている。


 又の字は脂汗で崩れた化粧の奥から、改めて自分の主人である男を見た。


 平均的な日本人の身長、軍で鍛え上げられた肉体の上には、今は丸いぜい肉がたっぷりとっている。見た目はただの太った中年男だが、一度実戦的な筋肉をつちかった体は多くの一般人の肥満体よりも、重い。


 一度義理で彼の体重を正面から受け止めた又の字は、二人分にも三人分にも思える圧迫にたまらず嘔吐おうとした。


 真っ黒な髪は短く、毛先がはねている。鼻の下から口を縁取り、あごにまで伸びる髭もまた短く、針鼠はりねずみのように尖っていた。


 そんな山田秀人の、顔。目鼻立ちのはっきりした顔面には、今、臭うような狂気と悪意がにじんでいる。


 他人の苦痛が、死が、楽しくて仕方がない。


 殺人と惨死の観賞をしたいがために軍に入り、日清戦争に臨んだのだと豪語する……おそらく帝国で最も邪悪な軍人の姿が、そこにあった。


「――ああ……楽しかった」


 ようやく落ち着いたらしい山田秀人が椅子から立ち上がり、河合雅男へと歩み寄った。


 もはや本来の人相を留めていない、口から煙を立ち上らせる老人のあごを、山田秀人は無造作につかむ。


 感電を危惧きぐした執行者の一人が声をかけようとしたが、山田秀人は唇に人さし指を当て、「しぃー……」とそれを制した。


 河合のあごは外れていて、大きな毛深い手につかまれるとどろりと血肉の塊を吐き出した。


 山田秀人はそれを見ると満足そうにうなずき、すぐに電気椅子から離れ、それっきり河合雅男を振り返ることはなかった。


 どんなに寝食を忘れて遊んだ玩具も、壊れてしまえば興味を失くしてしまう。そんな山田秀人が、周囲のぼんくら共に両腕を広げて笑いかけた。


「諸君! 諸君のおかげで今日はとっても楽しいものが見られた! 司法から合法的な殺人の権利を預かり、天下万民のためにそれを行使するはずの君達が、僕のような大金持ちのために融通ゆうずうを利かせてくれたことは歴史的な大事件だな!」


 礼だか皮肉だか分からない口上をべる彼に、又の字以外の全員が唖然とする。


 山田秀人は歯を剥いて各人の顔を見ながら、最高級の革靴で床を叩き、でたらめなステップを踏む。


「だがね、油断はしてくれるなよ! このような悪辣あくらつな行為が許されるほど大日本帝国はいい加減な国じゃない! 死刑が個人の要求で行われたと知れれば、君達よりもずっと偉い人達が大軍を差し向けて君らを捕らえにくるぞ! 今日の出来事を完璧に隠蔽いんぺいしたまえ! そこまでやって『仕事』だ! 有能さを証明できれば、国家的大富豪の僕が望むものをあげるよ! それが目当てだったんだろ!? ええ!?」


 高らかに笑う山田秀人に、笑顔を返す者はいない。返事もできない連中を放置して、山田秀人は又の字の肩を抱き、刑場を出て行く。


 長い通路を通り、地上への階段を上ったところで、二人を待ち受けていた男が頭を下げてきた。


 山田秀人は又の字の首筋を指の腹でなでながら、男に一瞥いちべつをくれる。


「城戸警視か。一緒に電殺を観ようと誘ったのに、もう終わってしまったよ」


「警察官の私が、そんな場に居合わせるわけにはいきませんよ、閣下」


 白髪だらけの頭髪をかき、城戸警視は情けない笑みを返した。


 身分を隠し安いコートを着込んだ彼を、山田秀人は露骨に莫迦にして鼻を鳴らす。

 背の高い城戸警視は、山田秀人を見下ろさないように腰を折った姿勢のまま、顔だけを上げて話をしている。


 媚びへつらいの手本のようなその態度に、女の又の字が舌打ちをして睨みつける。


「おう城戸、お前山田栄八に取り入り損ねたからって、うちの旦那さんに目ぇつけたんやろうがな。旦那さんは山田栄八と違って、しょうもない媚びは嫌いなん知ってるんか?」


「それはもう……」


「せやったらこんなトコにおらんで、結果出してこんかいッ! 刈田幸太郎は警察官が保護しとる言うたやろ! なのになんで未だ居場所報せてけぇへんのや!」


 城戸警視は又の字を睨み上げ、口を引き結んだ。


 彼は権力者としての山田秀人にはしきりに媚びを売り、お近づきになろうとしていたが、山田秀人の部下である又の字に対してはちょくちょく反抗的な態度を取った。


 一見して教養のなさそうな、関西弁を使う彼女を、城戸警視は山田秀人のを借る愛人だとでも思っているのだろう。


 彼は又の字が情婦の類ではなく、実戦力としての護衛であることを理解していない。取っ組み合いになれば命を奪われる危険があることに、気づいてもいないのだ。


 さながら雌豹めすひょうを猫と勘違いしている城戸警視に、山田秀人が外国産の葉巻を取り出しながら、ため息混じりに声を投げる。


「そもそも、事件の被害者の保護を面倒がって現場の人間に一任するってのが間違いだよ。警察は被害者の保護なんかより加害者の逮捕の方に興味があるんだろうけど、おかげでとんだ無様をさらすことになった」


「必ず見つけます。ご安心ください、事件を担当した刑事から聞き出せばすぐに」


「城戸警視、君さあ、その刑事に河合の身代わりを移送するのを目撃されたそうじゃないか? なーんで、しっかり部下に指示して、人気のない時間を選ばせないの? しかも君の部下、その刑事を暴行しちゃったそうじゃない。完全に、警戒されたよね。違う?」


「いや、それは……問題ありません。警戒されようが、警察というのは縦社会です。刈田幸太郎を隠匿いんとくするなどということは、彼には許されません」


 わずかに声を上ずらせる城戸警視を、山田秀人は又の字に葉巻に火を点けさせながら睨む。


 激しい怒りは感じない、しかし静かな殺気のような緊張感をはらんだ視線だった。


「――その刑事に、前に君が言っていた邪魔者の森元が接触したのは知ってるかい? 君が山田栄八に売り渡した、哀れな警部補だ。実際に警察内部にいる君には釈迦しゃかに説法かもしれんがね……ひょっとして、今、ものすごくまずい状況なんじゃないのかね」


「始末します。森元は、すぐに」


「同じ台詞を前にも聞いた。だから言ったじゃないか。始末したいなら僕の兵隊を使わせてあげると。当時僕は君との友情のためにそれを申し出たが、君は辞退したね。『俺にもこれぐらいやれるんだぜ』って、有能さのアピールをしたかったんだろうが……君は結局失敗して、今、僕に迷惑をかけている」


「いや、そんな……」


「君が刈田幸太郎の居場所を聞きだそうとすれば、その動向は森元君にも伝わるんじゃないかな。彼は山田栄八の部下だった男だ……しかも、かなりの切れ者だったと聞いている。下手をすると、僕の存在にも気づいているかもしれないな」


 山田秀人の声色に、城戸警視への信用や、親愛さといったものは一切なかった。


 初対面の時はうわべだけでもつくろっていたそれらが感じられないことに、城戸警視はあせったようだった。


 山田秀人は、山田栄八亡き今、城戸警視が絶対に逃してはならない命綱なのだ。


 森元のせいで、城戸警視の立場は警察内でも微妙なものになりつつある。山田栄八の死の真相と、城戸警視とのつながりを、森元は小出しながらも各方面へばら撒いているのだ。


 ここで山田家に取り入っておかなければ、そういった醜聞を真に受けた誰かが敵に回った時、対抗できるかどうか分からない。


 何より山田栄八時代から城戸警視が望んでいた、息子を政治家にするためのバックアップの構築も夢と消える。


 今は下らない思想活動に傾倒している一人息子だが、持って生まれた人心を掌握する才能と、弁の立ち具合は本物だ。


 森元の襲撃に彼の組織を巻き込んだのは、組織に罪をかぶせて森元が城戸親子とは無関係のところで死んだことにするための方策であり、息子にきゅうをすえて、本来の政治家への野望に向かわせるためでもあった。


 もっとも、誘い出し役の部下が森元に警察署内でまかれてしまい、計画自体が先延ばしになってしまったのだが……城戸警視の息子はそれを契約破棄とでも捉えたのか、ずっと雲隠れしていて連絡がつかない。


 山積した問題を解決するためには、とにもかくにも、森元の処分が必要だった。彼さえいなくなれば、全てが上手く回り出すはずだ。


 そういった城戸警視の一連の思考を、山田秀人は完全に看破した上で、彼を浅はかな愚か者と評価しているのだ。




 城戸警視は又の字の首筋をでている山田秀人に、ぴんと背筋を伸ばして敬礼した。


 冷めた目を返す二人に、なけなしの気合の入った声を飛ばす。


「責任上、森元の件は必ず私の手で処理します! 刈田幸太郎の所在についてもお任せください! 部下を総動員して突き止め、すぐにお報せします!」


「それしきのことに部下を総動員しなきゃあならないって、おかしくないかい」


 山田秀人の返事に、城戸警視はぐっ、と喉を引きつらせた。


 山田家の次期当主と目されている男はしばらく城戸警視を見つめた後、又の字の尻を叩いて歩き出した。


 敬礼したままの城戸警視は、彼が又の字の尻をなで回しながら、吹き出すように笑ったのを見逃さなかった。


 嘲笑ちょうしょう。他に言い表しようのないそれに、体温がゆっくりと上昇するかのような錯覚を覚える。



 悪趣味な、俗物めが。



 胸の内で悪態をついた城戸警視は、その俗物にすがらねば自分の未来がないかもしれないという現実に、ただただ歯噛みした。


 山田秀人は、今、明らかに山田栄八の代わりに帝都に支配の根を伸ばそうとしている。


 完全支配などあり得ないだろうが、帝都の各方面の実力者の何人かは、確実にこの男に膝をつくだろう。そうなった時、自分がどれほど山田秀人に近しい存在になっているかが、今後の明暗を分けるのだ。


 靴音が遠ざかって、完全に聞こえなくなってから、城戸警視は敬礼を乱暴にふりほどく。


 忌々(いまいま)しげに通路の先を睨む城戸警視の後ろで、顔面蒼白になった施設長が、焼けた河合雅男の臭いを伴って階段を上がって来た。





「――実は、ずっと気になっていることがある」


 夜が明けた、午前八時。

 往来を棚主と並んで歩いていた時計屋が、不意に口を開いた。


 エプロンを着けていない着物姿の彼に、普段どおりの服装の棚主は、ハットの奥から視線を投げかける。


「聞こうじゃないか。何だ?」


「幸太郎の一家が河合に襲われた時の状況だ。三吉の操る馬車がカッフェに着くと、三吉と幸太郎の両親が話している間に、幸太郎だけが一人馬車から降りた。そしてカッフェの中を覗いている背後で、馬車が炎上、振り向いた先に河合が立っていた――」


「そういう話だな」


「つまり河合は、幸太郎が出て行った扉から馬車の中へ燃焼剤を放ったということか」


 角を曲がり、本屋の前を通り過ぎながら、棚主は目を細めて首を傾ける。


「断定はできんが……幸太郎の両親は、座席に座ったまま死んでいたそうだ。いくら強力な燃焼剤でも、馬車の外側に噴きつけて燃やしたのなら、燃え上がるまでに脱出ぐらいはできそうなものだ。開いた扉から、直接燃焼剤を内側に噴射されて焼き殺された、かもな。三吉の方は知らんがね」


「馬車の炎上で、カッフェの壁がげたと聞いた。馬車は壁の近くに停まっていた。

 思うのだが、馬車は壁に横付けされていたのでは? 馬車に扉がいくつついていたのか知らんが、少なくとも片方は壁に面していて開かず、逆側からは河合が燃焼剤を噴射してきていた。だから被害者は、馬車の外へ逃げられなかった」


「ふむ、筋は通っているな」


「私が被害者なら、河合と逆側の扉があればそこから逃げる。それに、河合側の扉を閉めることも考える」


 話しているうちに、前方に件のカッフェが見えてきた。

 しかし棚主はカッフェではなく、時計屋の顔に視線を向けている。


 説明を求める目に、時計屋は海草のような髪を揺らしながら言葉をついだ。


「河合の放火の仕方は私もこの目で見た。まず燃焼剤をまき、それに魔法マッチで火をつける。火がおこれば、それに燃焼剤をぎ足し、炎の線で相手を追う……燃焼剤をまいてから、着火するまでに隙があるんだ。

 強力な燃焼剤だからこそ、事前に魔法マッチを点けておいたり、片手で噴射機の水鉄砲を操作することも考えにくい。自分の体に火の粉や燃焼剤が飛び散れば、引火して自分が燃えてしまう。放火を続けてきた、いわば達人の河合ならばこそ、そういうことには気を使うと思う。

 河合には仲間がいた……彼らに魔法マッチを投げさせたと考えられないこともないが、私なら御免だ。彼らの手元が狂って自分の袖にでも引火したら死ぬに死ねない。それに、河合は『火付け』が好きだと言っていた」


「魔法マッチを投げられる前に、扉を閉める時間はあったということか。引火を恐れるなら、河合が扉の取ってをつかんでいたということも多分ない。が、それでも結局は燃えてしまう。逃げ場がないからな」


「だが叫ぶことはできる。『幸太郎、逃げろ!』とな。……だが幸太郎は、馬車が炎上してから事態に気づいている。両親が突然の襲撃に動転して、何もできなかった可能性もあるが……しかし、御者である三吉も、そういった声は上げていない」


 カッフェに近づくと、焦げた石壁がそのまま正面に見えた。


 炎上した馬車が横付けされていたら、このぐらいの焦げ方になるのだろうか。考えながら、棚主は腕を組み、時計屋に口を開く。


「結局、何が言いたいんだ? 馬車は一瞬で燃え上がった。人も、馬も、幸太郎以外の全員が焼け死んだ」


「幸太郎も、現場の近くにいたという書生も、いきなり馬車が燃え上がったと言っていた。……手際が良すぎる。着火するまでの一瞬、当然あるべき騒ぎが証言から抜け落ちている。馬車の中にいる人間も、御者も、馬も、何故騒げなかったんだ?」


 時計屋は石壁の焦げ跡を手でこすり、うつむいた。ぐるぐると妙な音を喉の奥で鳴らし、考えている。


「馬車の中と、外、両方に燃焼剤を噴きつけておかなければ、全てを瞬時に燃え上がらせることはできない。そして燃焼剤を噴きつけた後、被害者が騒ぐ間もなく着火……考えられるのは、河合の他にも燃焼剤を扱った犯人がもう一人いた……か……」


「『謎の人物』じゃないか?」


 時計屋は一瞬、棚主の言葉の意味が分からなかったらしく、首をかしげた。


 だがすぐにその言葉が、幸太郎一家がカッフェで会うはずだった行方不明の人物を指していると気づくと、勢い良く棚主に向き直る。


「――ありうる。幸太郎の証言から、私達はつい謎の人物を被害者側において考えてしまったが、彼あるいは彼女が加害者側だということは十分考えられる」


「しかもそう考えると、今までの話に別の説明ができる。謎の人物はカッフェで幸太郎一家と会うはずだったが、直接馬車を訪れたんだ。幸太郎の両親は元々会う相手だったから、何の疑いもなく馬車の扉を開けた、あるいは幸太郎が出て開けっ放しになっていた扉から、相手を招き入れようとした」


「馬車の中には謎の人物が、外には河合が燃焼剤を噴きつける?」


「燃焼剤にこだわる必要はない。扉の正面に立った謎の人物が、煙草や火のついたものを中に投げ込んで、飛びのけばいい。その背後から河合が燃焼剤を噴射すれば、着火の手間が省ける。そのまま炎の線を引いて、三吉と馬を燃やせばいい」


「振り向いた幸太郎は、燃焼剤の水鉄砲を持っている河合だけを放火犯と思う、か……なるほど」


「でもな時計屋。昨晩も言ったが、俺は推理ってのは嫌いだ。証拠を伴わない推理は、どうしても推理する側に都合の良い結果になる。やはり俺は『論より証拠派』だ」


 棚主はそう言うと、カッフェの中から女給が出てくるのを見つけて、そちらを手で示した。


 店の前の鉢植えに水をやっている彼女に、棚主と時計屋は互いに一度うなずき合ってから、足を踏み出した。

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