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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  二章  時計屋
37/110

 不気味なほど赤い夕陽が、帝都を染め上げる。

 探偵社の窓を開け、しばらく茜色の世界を眺めてから、棚主は手元の写真に再度目を落とした。


 午後四時。時間どおりに探偵社を訪れた依頼人は、今、棚主の背後で勧められた木椅子に座っている。


 開口一番に人探しを頼みたいと言った初老の男は、一枚の写真を棚主に手渡した。

 髪の長い少女が晴れ着で写っているその写真を渡すと、男は他に何を言うでもなく、腕を組んで黙っている。


 余計なことは訊くな、黙って捜してこい。


 気難しい顔と態度で言外にそう命じている依頼人に、棚主は背を向けたまま、ため息をついた。


「……警察には、既に届出済みですか」


「警察はさじを投げた。だから自力で捜しているのだ。その写真は、かなり前のものだ。本人はもう大人になっているが……顔の特徴は変わっていないはずだ。警察によると、帝都のどこかに潜んでいたことは間違いないらしい」


「そのようですな」


 背を向けたまま低く言う棚主に、依頼人の男は片眉を上げる。


 屋上へ続く扉も、階下への扉も、今は閉ざされている。

 窓から吹き込む風に髪を揺らしながら、棚主はもう一度ため息をついて少女の写真で口元を覆う。


 少女の名前も、自分との関係も語らない依頼人に、棚主はいつになく冷たい声を投げた。


「私のことはどこでお知りになったんで?」


「びるぢんぐの玄関扉に『四階、探偵社』と書いてあったぞ」


「飛び込みですか。他の探偵には……」


「言っておくが、俺は給料泥棒が嫌いだ。お前が給料に見合う働きをして、ちゃんと彼女を捜し出せば、他の探偵を雇う必要などないだろうが」


 棚主を指さして「捜し出せなかった時は、びた一文出さんからな」と凄む依頼人。


 紋付羽織袴もんつきはおりはかまの彼は、態度こそ傲慢だがそれなりに育ちは良いらしい。仕草の端々に多少の品があるし、一度びるぢんぐの玄関扉を見てからわざわざ電話で面会予約を入れ、探偵社を訪れている。


 棚主はそんな依頼人を、全力でぶん殴ってやりたい衝動を抑えながら、ゆっくりと振り向いた。


 写真を口元に当てたまま、剃刀のような光を宿した目をきゅっと細める。


 棚主の様子に何かを感じ取った依頼人は、向けていた人さし指を下ろし、目をそらして再び腕を組んだ。棚主の唇が、のろのろと言葉をつむぐ。


「彼女の名前は」


「……名字は言えん。下の名前なら」


「いや、けっこう。あなたとのご関係は」


「…………娘だ」


「見つけ出した後どうなさるんで?」


故郷くにに連れて帰る! 何だこの質問は!?」


 ぎろりと棚主を睨んだ依頼人は、貧乏ゆすりをしながら煙草入れを取り出した。


 他の探偵を雇う必要はない、と彼は言ったが、おそらく帝都のめぼしい探偵達には既に話を持ち込んでいるのだろうなと、棚主は思った。そしてことごとく門前払いを食らわされ、やっとのことで葛びるの玄関扉を見つけ出した。そんなところだろう。


 既に成人している人物の子供の頃の写真だけを差し出し、名字も素性も明かさず、ただ見つけて来いと命じる。しかも探偵を動かしておいて、成果が出なければ金を払わないとぬかす。


 そんなふざけた依頼を好んで受ける探偵が、いるわけがなかった。目立つ場所に広告や看板を出している名探偵達に蹴られたから、棚主のような、銀座の隅に潜んでいるような男を捜さざるを得なかったのだ。


 棚主が依頼人と写真の少女の事情を知っていたことは、まったくの偶然だった。

 依頼人が犯罪者として手配されている娘の素性と、家の醜聞が広まるのを恐れて名字を出したがらないのだということも、心得ていた。


 依頼人は煙草を一本口にくわえて、マッチ箱を探った。すると最後の一本が折れている。

 視線を巡らせれば、机の上に棚主の魔法マッチが載っていた。「火を借りても?」と訊くと、棚主が蛇のような目で「どうぞ」と答える。


 ……しかし、そう答えたきり、棚主は動かない。依頼人の座っている木椅子から机までは遠く、魔法マッチを取るには立って歩かねばならなかった。


 普段の棚主なら、客のために魔法マッチを取ってきて、火を差し出すところまで当然に行うだろう。だが今の棚主は、まるで別人のように無礼だった。


 依頼人は舌打ちをし、結局くわえていた煙草を外し、マッチ箱の中に無理に詰め込んだ。


 その様子を見下ろしながら、棚主はなんでもないふうに、告げる。


「娘さんはもう帝都にはいませんよ」


 顔を上げる依頼人の目に、今まさに沈み行こうとする夕陽の最後の光を背に受けた棚主の、逆光で影になった顔が映る。


「……何だと……?」


「おっしゃるとおりです。子供の頃の写真でも、面影はある……あなたの娘さんはね、ヤクザの情婦になって、野垂れ死にましたよ。雨音あまねさんのことでしょう? はい、死にました」


 お気の毒です。


 そう言って、暗い、表情のうかがえない顔から、針のような眼光が、天道雨音の父親を刺す。


 目をわずかに剥いて棚主を見た後、依頼人はやがて、両膝に手をついて顔をそらした。


「確かか? 何故お前が娘の末路を知ってる」


「探偵なんて仕事をしてると、ろくでもない連中と関わることも多いんでね。ヤクザに知り合いがいまして……そこから、ちょっと」


「本当に雨音なのか? 死んだのか……本当に……」


 くっ、と依頼人の喉から出た音が、泣き声なのか、笑い声なのか、判断がつかなかった。


 棚主は幼い雨音の写真をポケットに滑り込ませると、唾棄すべき男を見下ろしたまま、言う。


「雨音さんは、天道栄治という男にたぶらかされ、あなたの家から大金を盗んで逃げたと聞いています。その金は、天道栄治が博打ですっちまった。雨音さんはね、天道栄治の借金のカタに売り飛ばされて、何年もヤクザの床の相手をさせられたそうです」


「男に抱き殺されたか。莫迦な女だ」


「……天道栄治も、結局は船の事故で死にました。雨音さんも、その仇も、雨音さんが持ち逃げしたあなたの金も、全てこの帝都から消えうせたわけだ」


 ふっ、と、今度こそ明確に依頼人が笑った。


 棚主の目が、部屋の出口に走る。それからすぐに依頼人の白髪の混じった頭に視線を戻すと、声が低くなりすぎないよう注意しながら、さらに言葉をつなげた。


「もう一度お訊きします。雨音さんが見つかったら、どうする気だったんですか。あなたは雨音さんを盗人として警察に通報している。だから帰れないのだと、雨音さんは言っていたそうですよ」


「お前が俺達の事情をどう聞きかじったか知らんがな。もし俺が持ち逃げされた金が惜しくてあいつを捜していたと思っているのなら、とんだお門違いだ」


「ほう」


「俺はあいつを行方不明の盗人のまま放っておきたくなかった。実の娘だ。分かるだろう」


 棚主の目が一瞬緩みかけた。だが次の瞬間、依頼人の男が浮かべた表情を見るや、ぎりりと音がしそうなほどに、吊り上がる。


「――あいつが出て行ってから、男児が産まれたんだ。盗人で駆け落ち女の姉がいたら、出世に響く……せめて一族の手で捕らえ、官憲に引き渡せば面目も立つと……な。それが叶わなかったのは残念だが、死んだのなら一応決着はついたということだ。生きていられるより、ずっといい」


 心底ほっとしたという表情で、「罰は受けた。自業自得。死ねば仏……一件落着」。そう言ってのけたのだ。


 棚主は逆光の中悪鬼の形相を浮かべ、拳を瞬時に握り込んだ。


 天道雨音。かつて父親から虐待を受け、尊厳を奪われ続け、人として当たり前の幸せを求めて逃げるように上京してきた女。


 棚主が山田栄八との戦いの中、森元警部補と力を合わせて守り抜いた彼女の命を、その父親はまるで邪魔物のように言ったのだ。


 せめて一撃。この男が一生忘れられないような痛打つうだを喰らわせてやろうと腕を振りかぶりかけた、その時だった。


 閉じた扉の向こうから、階段を上がってくる足音がした。


 次いで調子外れの鼻歌が聞こえ、コンコンと扉をノックする音。


 依頼人が目を向けると同時に扉が開いて、七輪とバケツを持ったマスターと、幸太郎が顔を出した。


「あ、すいません棚主さん。ちょっと屋上行っていいですか? 今日はね、天気がいいから屋上でご飯食べようと思って」


「駄目ですよマスター、ほら、まだお客さんがいらっしゃるから……」


 棚主は窓に向き直り、右の拳を左手で包みながら、深呼吸をした。

 そして窓を閉めると、「そういうことですので、お力にはなれません。お引取りを」と、抑揚のない声で言う。


「それとも雨音さんの死の確証が欲しいとおっしゃるなら、彼女を囲っていたヤクザを紹介しますが」


「けっこうだ。そんな連中と関わって、俺まで殺されては本末転倒だからな。警察が追いきれなかった雨音が、ヤクザの手の内で死んでいたのなら、なるほど納得というものだ。親族にもそう説明する……俺は今夜のうちに、故郷くにに帰るよ」


 天道雨音の父親はゆっくりと木椅子から立ち上がると、道をあけるマスターと幸太郎を一瞥いちべつしてから、階段を降りて行った。


 礼も、『邪魔をしたな』の一言も言わなかった彼に対して、棚主は多くの嘘をついた。


 その中でも一番の嘘は、天道雨音が死んでいると証言したことだ。天道雨音は帝都の尾張町角でカッフェを営み、未だ存命である。


 だが男達に虐げられ続けた彼女の人生に、もはや父親は必要ない。


 まして娘の死を喜ぶような父親は、ようやく平穏を手に入れた雨音の、害にしかならないはずだ。


 彼を殴らずに帰したことは、棚主の心にはづくづくとうずくようなむかつきを残した。だがこのまま言葉どおり彼が故郷に帰り、二度と雨音のいる帝都を訪れなかったとしたら。

 雨音の人生にとって、最大の危機の一つが消えたことになるのかもしれない。



 棚主は入り口に突っ立っているマスターと幸太郎を見ると、強張った表情をほぐすように顔を両手でこすった。


 そうして息をつくと、「何を作るんだ?」と、七輪を指さして、笑ってみせた。





 陽が落ちてから、葛びるの屋上に煙の筋が立つ。


 七輪の網の上には細く切られた油揚げとねぎが並び、マスターと津波が小さな箸で焼き加減を議論しながらそれらをひっくり返している。


 蛇口の付近には、マスターがパーティー気取りで招待した木蘭亭の三人娘が陣取り、水が臭いだの生ぬるいだの文句を言いながら野菜を洗っていた。


 何もせずに屋上の隅で怠けているのは、棚主と時計屋だけだ。


 棚主は石の囲いに肘をのせ、夜の帝都を背景に、天道雨音の写真を眺めていた。

 きれいな晴れ着とは裏腹に白黒の少女は酷く痩せていて、申し訳程度の笑みを浮かべている。

 その目元を、涙をぬぐうように指を動かした棚主に、わきから幸太郎が声をかけてきた。


「棚主さん、油揚げです。マスターが渡してきてって」


「ああ、ありがとう」


「その子、誰ですか?」


 背伸びをして写真を覗いてくる幸太郎に、棚主は油揚げの皿を囲いの上に置き、割り箸を割りながら答える。


「友達だよ。友達の昔の写真だ……なあ幸太郎、どう見える?」


「え? どうって?」


「きれいな着物だろ。可愛いと思うかい」


 棚主はしょうゆのたっぷりかかった油揚げをかじりながら、幸太郎に問う。

 ぱりぱりに焼けた油揚げは、津波の好みだ。幸太郎は小さくうなってから、存外はっきりと首を横に振った。


「女の子に対して可愛いとか、美人だとかは、まだ僕にはよく分かりませんけど……なんだか、かわいそうです」


「! かわいそう……?」


「この子、嫌がってますよ……そう見えません?」


 写真の少女の顔を示す幸太郎に、棚主は口を引き結ぶ。


 そのまま囲いを背に、ずるずると座り込むと、やがて幸太郎を見て、笑った。

 きょとんとする幸太郎に、棚主は髪をかきながらうなずく。


「ああ、そのとおりだ。彼女は嫌がってるんだよ。本当は晴れ着なんか着たくないし、写真にも写りたくないんだ。でも厳格な親父が怖いから、笑いたくもないのに笑っている……彼女の人生は、万事そんな調子だったのさ、幸太郎」


「……でも、たとえ怖いお父さんでも、いないよりは幸せで……あ、いえ……」


 また泣き言を言いかけたと口をつむぐ幸太郎を、棚主は肩に腕を回して引き寄せる。

 困惑する幸太郎に棚主は月を見上げながら、柔らかい声で言った。


「実はな、幸太郎。俺は捨て子で、親がいないんだよ」


「えっ」


「もちろん、生きてはいるのかもしれない。だが物心ついた時には俺を捨てて、どっかに行っちまってた。多分もう、お互いを見つけることもできない」


 幸太郎が棚主の腕の中で、目を見開いたまま視線を落とした。


 マスターと津波が向こうで騒いでいる。だが棚主の低い声は雑音をすりぬけて幸太郎の耳の中にまっすぐに落ちて行き、その鼓膜こまくを震わせた。


「今更会いたいとも思わない。仮に親子として顔を合わせても、きっと憎しみだけが膨れ上がって、敵になってしまう。……写真の彼女にとっても、父親は敵だったんだ。少なくとも娘を殴り、蹴り、飢えるほどに痩せさせるような男には、父親の資格はない。俺はそう思う」


「……」


「俺と彼女にとって、親はいない方が幸せなのかもしれん。子を愛さない親がいるように、親を愛さない、愛せない子もいる」


「……」


「だから、俺は君がうらやましい」


 つぶやくような棚主の声に、幸太郎はそっと顔を上げる。


 棚主には、マスターや津波のような、幸太郎を傷つけまいという必要以上の思慮、遠慮というものがなかった。


 同じ孤児の立場にある者同士、自然とデリケートな話にも踏み込んでいく。


「君は、両親に良い思い出がたくさんあるんだろう。だから彼らのことで感情が揺れる。……親を誇りに思えない子供は、泣くことすらない。それはとても寂しいことだよ」


「お母さんは、僕をいつも大事にしてくれましたから。勉強とか、礼儀を教わる時は厳しくて怖かったけど……」


「それだ。君はとても頭と品が良い。十一歳にしては異常なほどだ」


 良い教育を受けたんだろう。

 そう言って指さしてくる棚主に、幸太郎は小さく笑った。


「お父さんは……あの、棚主さんには嫌な思いをさせてしまいましたけど……」


「いいよ、気にしてない。お父さんは何だ? 名探偵かい?」


あこがれてました。シャーロック・ホームズを目指して探偵になったんだって、いつも言ってましたから。いずれ小説に出るくらい有名になってやるって……お父さん、ホームズが実在の人だと思ってたらしくって」


 死んだ両親の思い出を、目じりにしずくを浮かべながらでも笑って話せるようになった幸太郎を、棚主は目を細めて見つめる。


 焼けたネギとラムネを運んで来た津波が、そんな二人の様子を見て、そっときびすを返した。莫迦騒ぎをしているのは、マスターと佳代だけだ。


「両親とも、本当に僕には優しくて、大好きでした。僕は……一生忘れません。二人のことは、誇りです」


「ああ、それが一番幸せなことだ。今度、写真の彼女と三人で珈琲でも飲もう。『子供』だけでも、良い時間は過ごせるからな」


 二人は秘密の約束をするように、人さし指を立て合って笑った。




 そうしてささやかな宴の時は過ぎ、七輪で焼く物もなくなった頃。


 それまで屋上の隅で眼下を見下ろしていた時計屋が、不意に声を上げた。


「誰か来たぞ」


 耳をすませば、何かの走行音が通りを近づいて来ている。


 油揚げの食いすぎで動けないマスター以外の全員が、囲いから身を乗り出して音のする方を覗き込んだ。



 近づいて来る走行音は、棚主には聞き覚えがある。月光に浮かび上がるシルエットは……輸入車の、フォードだ。


 葛びるの玄関前に停まったフォードの扉が開き、男が二人降りてくる。

 その内の一人が不意に頭上を見上げると、棚主と目が合った。


 眼鏡をかけた男の顔に、棚主が目を丸くしてつぶやく。


「どうしたんだ今日は……あの事件の『関係者』が、立て続けに現れるとは」


 棚主の視線を受けて、細い森元の顔が、歪むように笑った。

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