八
警察署から徒歩十五分の場所にある、横山刑事の自宅。
小さな平屋の中は整然としていて、生活必需品と本の類しかない。
台所から麦湯(麦茶)の入った湯飲みと、きゅうりのぬか漬けを丸のまま二本持って来ると、横山刑事はかつての同僚と畳の上で対座しながらそれをかじった。
「新米の頃はよくこうして二人で食ってたな」
「ああ、金がなかったからな。腹が減ったらいつもこの組み合わせだった」
「森元、お前、今までどこに行ってたんだ」
ぼりぼりとぬか漬けを咀嚼しながらの横山刑事の問いに、森元はうつむき気味に小さく笑った。
「……別に。帝都にいたさ。しょっちゅう居場所を代えてはいたがね」
「やはり前署長の死が関係してるのか? お前が山田署長を糾弾しようとしていたことは、今じゃもう署の公然の秘密になってるんだぞ」
森元は、かつて鴨山組というヤクザと癒着して長年汚職に手を染めていた築地警察署の前署長を内偵し、その悪事を暴露しようとしていた。
前署長、山田栄八の忠実な部下の仮面をかぶり、その悪事に加担するふりをして決定的な汚職の証拠をつかもうとしていたのだ。その過程で森元は山田栄八の敵である棚主と出会い、結果的に彼と共闘した。
だが山田栄八は戦いの中で第三者に射殺され、その死も事故死として処理されてしまい、彼の本性が広く世に知れ渡ることはなかった。
森元は内偵の代償として警察官の身分を失い、今ではただの一般人として生きている。
横山刑事はそんな森元が古巣の警察署にいたことに不審を隠さなかった。
「山田署長の権力は隠然たるものだった。彼の実家は帝都でも指折りの名家だからな、世話になっていた警察幹部も多い……そんな山田署長の敵に回ったお前が署に堂々と現れるのは、いささか無謀じゃないか」
「横山。警察署はいつから、悪党のたまり場になったんだ」
ぬか漬けをぼりっ、と噛み砕く森元に、横山刑事は口を引き結ぶ。
森元の眼鏡の奥の双眸が、凍てつくような鋭さを秘め、虚空を射抜く。
「法に仕えるのではなく、法を利用して私腹を肥やす。警察官としての誇りも良心も持ち合わせない悪党どもに、何故私が遠慮しなくてはならないんだ。山田署長のような悪人の恩恵を受けていた連中が堂々と居座り、私のような者が引け目を感じる。そんな場所は、とうてい警察署とは呼べないだろう」
「変わらんな、お前は」
どこか安心したように言った横山刑事が、しかし首を横に振り、湯飲みを持ち上げる。
「どんなに現実の汚さを見せつけられても、理想を捨てない。正しいとはこういうことだと、いつも明確な答えを出そうとする。それは警察官として素晴らしいことだが……森元よ、『正しさ』はお前を守ってはくれないぞ」
「私が警察署の人間に襲われると? さっきの君のようにか?」
お互いに麦湯をすすりながら、二人は畳の上に視線を落とした。
平屋の前を、通行人が笑い声を立てながら通り過ぎ、遠ざかって行く。
横山刑事は眉間にしわを寄せ、目をつむった。
「――俺は、警察の正義を信じられなくなったよ。お前の言うとおり、今の築地署は悪党のたまり場だ。正義をなそうとすれば叩き潰される」
「何があったんだ」
「お前は部外者だ。話せない……だが、覚えはあるだろう。たやすく責務を放棄する警察官が、どれほど多いか。犯罪者と結託し、国民を危険にさらす愚か者が、刑事の中にいる。その現実に」
森元が顔を上げ、身を乗り出す。
「学生時代から同じ釜の飯を食ってきた、私にも話せないのか」
「当たり前だ。それこそ刑事の良識に反する」
「ならば私が当ててやろう。河合雅男を、誰かが逃がしたんだ」
横山刑事はぎょっとしたように顔を上げた。
河合雅男の名は、彼が起こした放火殺人事件の概要と共に、連日新聞の紙面に踊っている。
今現在、帝都で最も名が知れ渡っている犯罪者が、河合雅男だった。彼が築地警察署に拘留されていたことも記者達は知っていて、記事に起こしている。
森元が新聞の情報と横山刑事の言葉を結びつけて、事情を推理したとしても不思議ではなかった。
かりにも元刑事に対して、無警戒に喋りすぎたか。
そう顔をゆがめる横山刑事に、森元はしかし、ささやくように言った。
「横山、河合雅男を誰が逃がしたか、かくまっているか、知りたくはないか?」
「な、何っ……!?」
「心当たりがあるんだよ。証拠はないが、まず間違いないだろう」
森元の言葉に、横山刑事が唾を飲み込む。
「何故お前がそんなことを知ってる?」
「私はね、横山。河合雅男を知ってるんだ。ヤツが今度の事件を起こす前から、何度も顔を合わせて、実際に会っている。……私は、山田栄八の腹心だったからね」
「どういう意味だ!」
「河合は、山田家の『兵隊』なんだよ。ヤツを雇っていたのは、山田家の人間だったんだ」
目を剥いた横山刑事が、口を開けて森元を見た。
長年、山田栄八……名家山田家の御曹司の腰ぎんちゃくを演じていた男が、睨め上げるような目つきで、続ける。
「山田栄八の御伴として、何度か山田家の親族会議に行った時、河合雅男はある男の護衛についていた。山田家には政財界の大物も多いから、屈強な護衛をつけるのは当たり前だったようだが……河合雅男はあのとおりの老体だからね、自然と目を引いたんだ」
「お前、河合を凶悪犯と知ってたのか」
「最初に会った時に紹介されたからね。クズだと分かってはいたが、当時は山田栄八に怪しまれるようなことは避けねばならなかった。だから河合雅男にまで手が回らなかったんだ」
「じゃあ、つまり、その河合を護衛にしていた男が、河合を築地署から逃がした黒幕だってことか? そしてひょっとしなくても、河合に今回の放火殺人を働かせたのも、その男……」
興奮気味に訊く横山刑事に、森元はうなずく。
「おそらく。そもそも放火常習犯の河合雅男が死刑にならなかったのも、その男が手を回し、関係者を買収して判決を歪ませたからなんだ。司法関係者を買収できるなら、刑事なんかわけもない。ましてそれが今は亡き山田栄八に飼いならされ、新しい大金持ちの主人を求めている汚職警官達なら、なおさらだ」
「その男は誰なんだ?」
「山田秀人。山田分家の中で一番の出世頭だ。日清戦争の英雄で、軍部に顔が利き、海運業を営む大会社をいくつも持っている。超人的な男だよ。惜しむらくは変人で、常軌を逸した殺人者を飼う趣味があるということだ」
森元は麦湯を飲み干して唇を湿らせると、人さし指を立ててさらに続ける。
「私が山田栄八が死亡した後、警察組織から姿を消したのには二つの理由がある。一つは山田栄八を糾弾しようとした際、それまで私の活動を支援してくれていた城戸警視が突然裏切り、山田栄八と内通して私を亡き者にしようとしたからだ。結局死んだのは山田栄八の方だったが、私は城戸警視がいる警察にはもう戻れなかった」
「城戸警視が……!?」
「彼は今も私を排除したがっている。私が彼の悪行を公にしようと、嗅ぎまわっているからね。今日築地署に行ったのも昔の仲間に城戸警視の動向を探ってもらうよう頼むためだったんだが……案の定、城戸警視の部下が正面玄関で待ち伏せていたのでね。かわして裏口から出ようとしたら、君と再会したというわけだ」
太い腕を組み、横山刑事は低くうなった。
「警視まで味方に引き入れるとは……山田栄八は築地署を完全に支配下においていたんだなあ。そしてヤツに飼われていた警察官は、今度は山田秀人を新たな飼い主に迎えようとしている……となると、城戸警視も山田秀人と、既につながっている可能性があるわけだ」
「そこで二つめの理由だ。山田栄八が死んだ時、実はその息子の山田栄治も死亡していてね。山田家本家には現在、家そのものを取り仕切るべき男がいないんだ。つまり、本家筋に男がいないから、分家で最も力のある者が本家を取り仕切る必要がある。山田秀人はその一番の候補なんだよ」
「山田家本家を継ぐってことか? そうすると、築地署の支配もそいつが引き継ぐ……」
「その可能性が高い。となると、山田栄八を内偵していた裏切り者の私は、ますます警察にいるわけにはいかなくなる。支配者となった山田秀人が、山田家に牙を剥いた私をどう扱うかは、河合雅男の使い方を見れば一目瞭然だからね」
話を聞きながら、横山刑事は頭をひねるように首を傾け、渋い顔をしていた。
警察署は悪党のたまり場ではない、汚職警官に遠慮などしないと言っていた森元が、いつしか築地警察署の暗たんたる未来を語り、自分が警察にいられなくなった理由を語っている。
横山刑事は顔を上げると、渋い顔のまま森元に訊いた。
「山田秀人は何故河合に馬車を襲わせたんだ? 今度の事件の被害者は山田秀人にとって、何だったんだ?」
「それはまだ分からない。何しろ私は事件に直接関わることのできない一般人だからね。被害者の顔も知らなければ、名前も知らない。……何事も、情報不足では判断できないのだよ」
何かを含ませるような言い方をする森元。
横山刑事はその顔を睨み、うなる。低く喉を震わせながら、奥歯をぎりぎりと、きしませた。
「俺に捜査情報を漏らせと言うのか。現職の刑事である俺が、一般人のお前にそんなことを話すと思うか」
「規律に反することだ。だが刑事には意味のない情報でも、山田家の内情に詳しい私が見れば、事件の真相に行き着くこともあるかもな」
「お前の目的は何だ。城戸警視への復讐か? それとも山田栄八の後継者である、山田秀人の糾弾か?」
「……私の目的は、正義だよ。世の中に正義を、求めてる」
大真面目に答える森元に、横山刑事があぐらをかいた自分の膝を平手で叩く。「くそっ」と小さくうめくと、忌々しげにあごに左の拳を当て、しばらく思案してから、再度口を開いた。
「最後にもう一つだけ教えろ。お前は山田栄八を糾弾しようとした時、信用できる同僚を集めて決死隊を作ったと聞いた」
「まあね」
「俺は呼ばれなかった。俺は……不適格だったのか?」
森元はその言葉を聞くと、へら、と笑って答えた。
「あの時、山田栄八は横浜港の客船の上にいたんだよ。……君、泳げないだろ?」
だから外した。
笑う森元に、横山刑事は顔を真っ赤にして「いつの話だ! とっくに克服してたよ! 現職の刑事だぞ!」と、怒鳴りながら畳を何度も平手で打ちつけた。
葛びるの屋上をぐるりと一周する石の囲いに肘をのせ、幸太郎は眼下の通りを眺めていた。
さんざん泣いて腫れた目元に、吹きつける風が心地良い。隣では棚主が何故か釣竿を持ち、真下の自分の探偵社の窓へと糸を垂らしている。
糸の先に巻きつけられたスルメを見やりながら、幸太郎は首をかしげて棚主に声を投げた。
「これ、何を釣ろうとしてるんですか?」
「さあ、何だろうねえ…………鳥? 鳩とか、とんびとか?」
鳩がスルメを食べるのだろうか。
幸太郎はまた逆の方向に首をかしげると、軽く眉根を寄せる。
「釣れるんですか?」
「釣れたことはないねえ」
「針がついてないから、多分餌だけ持ってかれちゃうと思いますよ」
「そうだねえ」
なんだかやる気のない返事をする棚主に、幸太郎はますます怪訝な顔をする。
くぁ、とあくびをして、棚主は竿をしゃくりながら言った。
「仕事が入ってね、四時に依頼人が会いに来るんだが、それまで暇でね。外出するわけにもいかないから、釣りをしてるんだ」
「……絶対釣れませんよ、それ……」
「まあ、人生たまには無意味なこともしなくちゃな。無意味、無駄を排除した人生なんか、しんどいしつまらんもんだよ。風に当たって釣れない竿をしゃくってるのも悪かぁない」
暇人この上ない台詞を吐く棚主に、幸太郎はそういうものかとあいまいにうなずいた。
眼下を行きかう人々は、棚主の釣竿になど気づきもせず、忙しく歩いている。
ふと、幸太郎の見知らぬ鳥が飛んで来て、棚主の横にとまった。鳥は真下にぶらんと吊るされたスルメを二、三度覗き込み、次いで棚主の顔を見る。
ちらりと視線をやる棚主と目が合うと、鳥はそのままばさりと羽ばたいて、空の向こうに飛んで行った。
……釣り餌だと認識もしてもらえなかったらしいスルメを手繰り寄せると、棚主は口をへの字に結んで幸太郎を見る。
幸太郎は顔をうつむかせ、肩を震わせて笑っていて、棚主は釣竿を持ったまま「だあー!」と仰向けに寝転んだ。
「――東京ってな、けったいなヤツがおるんやな……」
アホや。そうつぶやきながら、洋食屋の窓から葛びるの釣竿を見上げていた女は首をかしげた。
白いテーブルクロスの上には、分厚いビフテキの皿とワイングラスが載っている。女はビフテキにずぶりとフォークを突き刺すと、慣れない仕草でナイフを動かし、肉を切り取る。
薄い唇の奥に肉の塊を押し込むと、ワイシャツの胸元の又の字(アスコット・タイ)に、ぽたぽたと肉汁が垂れた。
そばかすの浮いた目元をぴくぴくと震わせながら、女は満足げにビフテキを咀嚼する。
テーブルの対面には、最高級の暗色の背広を来た男が足を組んで座っていて、そんな女の仕草に微笑みを浮かべて低く通る声を出した。
「混血文化の花咲き誇る帝都東京。人々の価値観も多様だよ。よそでは変人でも、ここでは先進的な人と評価されることもある」
「まやかしやね。しょうもない……」
「莫迦にしてはいけないよ。そういう東京人の寛容さが、君のような人種の価値を認めているんだからね。又の字」
又の字と呼ばれた女は、なでつけた髪を指で触りながら鼻を鳴らす。
獄中の河合雅男と会った時よりも、又の字の身だしなみには気合が入っていた。化粧もしていれば、爪もぴかぴかに磨かれている。耳には小さな真珠の耳飾りが揺れていた。
又の字はワイングラスを傾け、国産のぶどう酒で口の中を洗い流してから、対面の男に目を向けた。
「それで、河合のおっちゃんはどうしましたん? 旦那さん」
「手続きが終わったから、今夜にでも電気の椅子に座ってもらうよ。ああ、実に楽しみだ……君も観においでよ、きっと愉快だよ」
「さあ、どうでっしゃろ。若い子ならともかく、よぼよぼの爺さんがもだえ死んでも面白ぅないかも……」
目をそらして小さく口角を上げた又の字に、男は突然、大声で笑いだす。
はじけるような笑い方に店内の全員の視線が男に集まるが、店員は又の字達のテーブルに近づこうとはしない。又の字が頬をひきつらせて笑顔を消すと同時に、男もぴたりと笑うのをやめる。
無表情に、一切の感情を感じさせない目で自分を見つめてくる男に、又の字は再びワイングラスで口元を隠しながら「ああ、分かりました」とつぶやくように言った。
「ご一緒させていただきます。けど……例の子供の捜索、急がんでええんですか?」
「大丈夫だよ、何となく攻め方が分かっちゃったから。捜索にあたってどの人脈を使えばいいかさえ分かったら、後は簡単さ。
それより君、後で着替えておいでね、胸が汚れてるから。お手洗いにも行っておいで。ああ、電気の椅子。電殺。電気が肉を焦がし、脳髄を焼く時、河合はどんな声を上げるんだろう? ねえ又の字、楽しみだねえ。楽しもうねえ。僕らだけの娯楽だよ、河合の死は」
両手の指をまるで活きのいい芋虫のようにわきわきと動かす男に、又の字は愛想笑いを浮かべてビフテキの塊を口に押し込んだ。




