七
目の前で、馬車が燃えている。
吹き上がる炎の中で、父と、母と、三吉の影がもだえている。
地獄のような光景を背に、こちらを振り返るのは河合だ。残酷な笑みを浮かべた、放火魔の老人。
パン、と乾いた音がして、馬車から火のついた木片がはじけ飛んでくる。
幸太郎はとっさに眼前に落ちたそれを外套の袖で包んで拾い上げ、河合に向かって振り回した。
だが、河合はひるまない。炎を愛しげに眺め、手を伸ばしてくる。
幸太郎は逃げた。父母と三吉を置いて行きたくはなかったが、河合の異常性を前に踏みとどまる勇気はなかった。河合は猛烈な勢いで追ってくる。
火事の野次馬にぶつかり、転び、這うようにしてその群の中に逃げ込む。
そのまま現場を離れ、路地裏へと逃げ込むと、民家の壁に立小便を禁ずる旨の張り紙がしてあった。
首を巡らせれば、民家の屋根越しに時計塔が見えた。とっさに張り紙を剥がし、引き裂く。
文字の書かれていない箇所に、既に火が消えた木片をこすりつけ、『時計塔ノ裏』と書いた。
幸太郎は張り紙を手に、再び走り出す。
あの恐ろしい河合と、戦える人のいる場所。
数人のヤクザを闇にまぎれて、叩き伏せた男の住むびるぢんぐへ。
慣れない東京の町を、途中何度も迷いながら走った。びるぢんぐに『彼』がいれば、そのまま保護を頼む気だった。留守ならば人気がある時計塔のそばで、彼と合流する。
本来なら、びるぢんぐの中で『彼』の帰りを待てばよかった。
だが幸太郎は、人気も逃げ場もない室内に河合が入り込んで来る事態を恐れたのだ。
大人三人を一瞬で殺してしまう河合なら、たとえびるぢんぐに何人か人がいても、眉一つ動かさずに始末してしまうかもしれない。
幸太郎は是が非でも、河合に匹敵する暴力の持ち主を味方につけねばならなかった。
息を切らし、何度目かの角を曲がると、石造りのびるぢんぐが見えた。
玄関扉に、小さく銀色の文字で『葛ビル』と書いてあるのが分かる。
幸太郎はちぎれそうな足で地面を蹴って、玄関に駆け込む。
突き飛ばすように扉を開けると、炎に包まれたミルクホールに、笑顔の河合が立っていた。
「…………はぁ……」
寝台から起き上がった幸太郎は、最悪の幕切れを迎えた悪夢にため息をついた。
柱時計は確認するまでもなく、午前十一時を過ぎている。
高い窓からは快晴の空に向かって堂々と伸びるカエデの枝が見えるが、幸太郎の気持ちは晴れはしない。
いったい、この毎晩展開される悪夢はいつまで続くのだろう。
自分の中の、両親を失った悲しみと、三吉を巻き込んでしまったことへの罪悪感と、河合への恐怖が、ないまぜになって悪夢を形成している。
ならば時が悲しみを癒してくれたら、悪夢は軽減されるのか。
三吉への罪悪感は、消えないだろう。
逮捕された河合が裁かれて、二度と世の中に出て来なくなれば、その恐怖もやわらぐのだろうか。
幸太郎は寝台を降り、部屋を出た。ミルクホールには津波がいて、見知らぬ男とカウンターで珈琲を飲んでいた。
「――ですから、こう、見上げるような角度で撮って頂きたいんです。同じ建物でも写真の撮り方で全然違う印象を受けるでしょう? 私どもの駅を、威風堂々、まるで巨人の家のように演出して欲しいんですよ」
「ははあ、なるほど」
「例の馬車業者襲撃事件に関する警察の発表のせいで、鉄道への風当たりが強まることが懸念されています。もちろん事実無根ですが、我々は身の潔白を世に訴えると共に、改めて鉄道機関の利便性と魅力を伝えようと……」
不意に津波が幸太郎に気づいて、カウンターを強く二度叩いた。
見ればカウンターの奥では床の上に布団を敷いたマスターが酒瓶を抱いて寝ていて、右手の親指を赤ん坊のようにしゃぶっている。
津波が「起きろよ! 幸太郎が腹空かせてるぞ!」と怒鳴ると、マスターは指をしゃぶったままカッと目を見開き、カウンターに頭をぶつけながら立ち上がった。
衝撃で珈琲がこぼれかけ、津波と客の男があわててコップを押さえる。
ただでさえ仮眠室をあてがわれ、マスターを床で寝かせている幸太郎は、その光景を前に恐縮するしかなかった。一礼してカウンター席に着くと、マスターが口を開く前に謝罪した。
「すいません、窮屈な思いをさせて……ごはん、軽いもので結構ですから」
「何言ってるの! 私は狭い所が大好きなんだよ! 隙間大好き! あーよく寝たなあ!」
頭をさすりながら大声で笑う相手に、幸太郎はますます身を縮める。
マスターが寝巻きのままフライパンを用意し始めると、津波達は気を取り直して、商談らしき会話を再開した。
「是非、明日にでもお願いします。撮って頂きたいのは駅の正面と、プラット・ホームです。できた写真は他の駅の写真と合わせて専門誌に載せますので」
「分かりました。では朝の十時でいかがでしょう? お代は撮影する枚数を考えまして……」
会話の内容から察するに、客の男は鉄道会社の社員のようだ。
河合達が自分達の犯行を、鉄道会社からの依頼だったと供述したことは、既に警察の発表を通して新聞社へと伝わっていた。
各社の紙面は今、帝都東京の全ての鉄道関係者に対する非難で埋め尽くされている。
被害者の馬車業者に対する同情が次第に、廃れ行く移動手段としての馬車それ自体への同情へと発展し、馬車業の復活と鉄道汽車の排斥さえ論じている新聞もあった。
客の男は、そんな新聞社の反鉄道記事に対抗するため、真逆の情報を発信しようというのだ。河合達の供述が偽りであることを世に訴え、同時に鉄道汽車と駅の広報を改めて行う。
事情を理解した幸太郎は、しかし何よりも、男がそのための写真を津波に撮らせようとしていることに驚いていた。
きゃめらまんの世界のことは知らないが、鉄道会社から指名でそんな依頼がくるというのは、そうそうないことなのではないか。少なくとも広報に使う写真を、二流三流の人間に任せるとは思えない。
単にすでに鉄道会社の評判が落ちていて、依頼を請けてくれる者がいないのかもしれないが、それでも津波がこんな大きな仕事を頼まれていることに驚いた。
ひょっとすると、葛びるには案外その道のプロというような人が多いのかもしれない。
密かに感心していた幸太郎は、しかし客の男が帰った後、津波自身にその考えを否定された。
「鉄道会社がわざわざ俺なんかに仕事をくれるのは、ありゃ、下心があるからだよ」
「下心……?」
「言ってたろ、身の潔白を世に訴えるって。でも新聞社が敵に回ってちゃ、中々そんな機会はない。専門誌だの雑誌だのに意見を載せたって大新聞ほど人の目には触れねえからな。となると、必要なのは新聞関係者への懐柔だ」
首を傾げる幸太郎の前に、マスターがハヤシライスを出しながら言いそえる。
「津波さんは昔、大手の新聞社に勤めてたんだよ。退社した今も、業界に知り合いがいるんだ」
「開駅式なんかを取材したりしたからな、その時に渡した名刺でも取ってあったんだろう……既に退社した新聞関係者を抱きこんで、反撃の手札にできねえかと考えてるのさ。つまり、俺が新聞社のお偉いさんの『弱み』を握ってることを期待してる。仕事が終わった後に探りを入れて、そいつを買い取ろうって算段なんだろうよ」
幸太郎は数秒ぽかんと口を開けてから、「握ってるんですか? 弱み」と訊いた。
津波はしれっと「ううん」と首を横に振り、残った珈琲を飲み干した。
「新聞社との駆け引きに使えるようなネタは持ってねえよ。でも、鉄道会社や鉄道院は俺みたいな元新聞関係者に手当たり次第に声をかけて、相手方の嫌がる裏事情を探してるんだろう。
帝都中をあされば、そういうネタも一つぐらい見つかるだろうよ。問題を全く抱えていない新聞社なんぞ存在しねえからな。で、各新聞社と秘密裏に交渉するわけだ。『鉄道批判をやめてくれれば、そっちの醜聞も世には出さない』ってな」
「あまり賢いやり方じゃありませんねえ。お金と手間がかかってしょうがない。そんなことをするぐらいなら、軍部や政府のお偉方に頼ったほうが確実じゃありませんか? 鉄道批判は帝都の正常な経済活動を妨げる、とかなんとか言えば、いきすぎた報じ方をしている新聞社には注意ぐらいしてくれますよ」
カウンターの奥で着替えを始めるマスターに、津波は狭い肩をすくめてみせる。
「もちろんそっちの方面にも働きかけてるだろうな。けどな、マスター。今回は警察も鉄道会社の敵に回ってるってのが問題なんだ。警察が公の場で『鉄道会社はクロだ』って言っちまったんだぜ。既に世間の心証は最悪だし、軍部や政府だって帝都東京で放火殺人をしでかしたかもしれない組織を、堂々とかばってひんしゅくを買いたくはねえさ。
それよりは、鉄道会社の誰かをスケープ・ゴートにして、全責任を取らせたほうが簡単だと思うんじゃねえか?」
「……つまり、鉄道会社は完全に孤立している。四面楚歌ってわけですか」
「だから焦ってるのさ。金をばら撒き、慣れない裏交渉を進めようとして必死にあがいてる。でも多分、結局は根負けするだろうな。無実の誰かが責任を取らなきゃ、この騒ぎは収まらねえだろうよ。河合達がどこの鉄道会社の名を出したかは知らねえけどな、そのあたりの調整も水面下で行われるんだろう……」
幸太郎は大人達の間で交わされる話に、頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
河合の事件が、この東京にどれほど大きな波紋を広げたか。幸太郎を狙ってやって来た放火魔が、どれほど多くの人に累を及ぼしたかを、今更ながらに思い知ったのだ。
両親を殺され、自身も恐ろしい目に遭ったせいで、幸太郎は自分こそが一番の被害者だと心のどこかで思っていた。
だが見方を変えれば、河合という極悪人をこの東京に呼び、暴れさせたのは、他ならぬ幸太郎自身なのかもしれないのだ。
他の場所ならよかったというわけではない。しかし、少なくとも幸太郎が上京しなければ、東京の人々が迷惑をこうむることはなかったはずだ。
「幸太郎――?」
気がつけば、津波とマスターがこちらを見ていた。
幸太郎は無理に笑って、目の前のハヤシライスに手をつけようとしたが、胸が苦しくて口を開けられない。
たくさんの感情が喉にたまっていて、開口と共に泣き声になってしまいそうだった。
マスターの料理は、いつも美味しそうだ。どれも幸太郎が食べたことのない、手の込んだ料理だった。
……不幸になった人々を差し置いて、何故自分だけがこんなに美味しいものを食べているのだろう。
温かいベッドで寝て、本来縁もゆかりもないはずの大人達に優しくされて、守られているのだろう。
焼け焦げた両親や、三吉や、冤罪に苦しんでいる鉄道会社の人々の横で、何故、元凶の自分が……
スプーンを持ったまま、しまいにはぶるぶると震え出す幸太郎に、津波が流石に異常を察して立ち上がろうとした。その時。
二階へと続く階段から、棚主と一人の女が降りて来て、幸太郎の様子を見るなり、女の方がずかずかと大股で近づいて来た。
「おい、意地っ張り」
頭上から降ってくる声に、幸太郎は顔を上げる。
とたんに女に頭をつかまれ、彼女の胸に顔を放り込まれた。
両腕で乱暴に頭を抱きしめられ、くぐもった声でうめきながらスプーンを取り落とす。
女は、先日時計屋の一円券を届けに来た、お近だった。
彼女は棚主達が朝飯に頼んだ弁当の、器を包んだ風呂敷を右手に持ったまま、幸太郎を締め上げてドスの利いた声を放つ。
「何死にそうな顔してんだよ、ガキのくせに」
「……!?」
「本当に泣きそうな時は我慢するな。力づくで気持ちを殺してると、息が止まっちまう」
泣け。
低く命じて背中をつねってくるお近に、幸太郎は数秒こらえた後、たまらず口を開いた。
お近の胸の中で上がった泣き声は、まるで断末魔のような、号泣だった。
幸太郎が警察署で、両親の死について訊かれて泣いた時よりも、ずっと大きく、無防備な泣き声。
それは幸太郎の意志でも止めようがないようで、彼の喉が涸れるまで続いたのだった。
「――やるじゃない」
数分後、ようやく泣きやんだ幸太郎が屋上に顔を洗いに行った隙に、棚主が言った。
カウンターの水道で手ぬぐいを濡らし、着物を拭いていたお近が、じろりと視線を返す。
「あの子、普段あまり声出して泣かない子でしょ。いつも辛さを我慢して、すすり泣いてばかりいるような」
「かもな」
「あんた達のことだから大丈夫だろうけど、ああいう子に泣くことを我慢させちゃ駄目だよ。『男だからしゃんとしろ』なんて、口が裂けても言っちゃいけない。それこそ心が壊れるまで我慢して、おかしくなっちまうから」
知ったような口を利くお近に、棚主は一度うなずいてから、片眉を上げてみせる。
もの問いたげな彼に、お近はため息をついて、勝手にカウンターの珈琲をいれながら言った。
「うちの佳代とそっくりだったから。あの子の震え方……涙をこらえすぎて、もうすぐ限界を超えちゃう、心が壊れちゃう、寸前の震え方だった。だから無理にでも泣かせなきゃ駄目だって、分かったのよ」
「佳代か。確か、日露戦争で親父さんと兄さんを亡くしたんだっけな」
以前どこかで聞きかじったことを思い出しながら言う棚主に、お近はうなずく。
「お母さんはそれ以前に亡くなってたから、あの子ほんとに一人ぼっちになっちゃってさ。知り合いだった女将さんがふびんに思って、旅籠に置いてやったんだけど……莫迦な親戚どもが、遺産関係であの子をつっつきまわしてさ。おかしくしちまったんだ」
「最初から情緒が不安定だったわけじゃなかったんだなあ」
「想像できないだろうけど、素直で真面目な子だったんだよ。厳格なしつけをされてたから、家族がみんな亡くなっても涙一つ見せずに、親戚連中と渡り合ってさ。でも結局何ヶ月も因縁をつけられて、遺産もほとんどかすめ取られて。
最後に死んじまうんじゃないかってぐらい大泣きした時には、もう手遅れだったんだ」
珈琲をコップに注ぐお近の話に、棚主は黙って腕を組む。次いで、自分の座っている席の隣に目をやった。
視線の先では、津波とマスターがカウンターに突っ伏してくたばっている。
靴先で津波の足をつつきながら、棚主は肩をすくめて言う。
「つまりだ、幸太郎があれだけの号泣をしたことは彼の心にとっちゃ良いことだったんだよ。あんたも言ってただろ? 幸太郎は悲しみを我慢しすぎてるから、潰れる時は一瞬だって。それを回避できたんだから御の字じゃないか」
「……思慮が足りなかった……あいつの前で、俺はなんて余計なことを……」
「幸太郎君、きっと責任を感じたんですよ……自分達が馬車業者の三吉さんのお世話になってたから、鉄道会社が罪を着せられてるんだって……ああ、大の大人が二人がかりで子供を追い詰めるようなことを!」
幸太郎を泣かせたことに対して自己嫌悪に陥ったマスターと津波が、カウンターを叩いたり顔をこすりつけたりしながらわめく。
涙をこらえる子供には寛容なお近も、感情をだだ漏れにして取り乱す大人には厳しいらしく、「やかましいぞ野郎ども! わめくな!」と無情に一喝する。
狂態の中、棚主はふと首を巡らせて階段の方を見た。
おもむろに立ち上がり、騒々しい他の三人を残して階段へと近づくと、陰に幸太郎が赤い顔をうつむかせて隠れていた。
泣き過ぎてわずかに腫れぼったくなった顔は、しかしどこか悪いものが溶けてなくなったような、すっきりした印象を受ける。
棚主は壁に寄りかかりながら、小さく笑って声をかけた。
「どうだい、旦那。すっとしたかい?」
「……本当に、すいません……ご面倒ばかり…………」
「いいさ。俺達は、お前さんに構うのが好きなんだよ」
勝手に他の住人の気持ちを代弁する棚主は、階段に腰掛けながら幸太郎の肩に腕を回した。
ずしりと筋肉質な腕を華奢な肩に載せ、幸太郎の目元を指でこする。
くすぐったさについ顔を上げる幸太郎に、棚主は笑みを浮かべたまま、しかし真剣な声で言った。
「勘違いするな。君は、何も悪くない。悪いのは君を襲って来た犯罪者達と、自分の都合しか考えないやつらだ。君の周りで起こっていることに、君が責任を感じる必要はないんだ」
「……棚主さん」
「さあ、津波達のところへ行ってくれ。あのおじさん達は君に謝りたくてしょうがないんだとさ。君が一言『許す』と言ってくれなきゃ、しまいにゃやつら、出家して丸坊主になっちまうよ」
幸太郎は「そんな」と小さく笑ってから、うなずいて、カウンターの方へと出て行った。
隣人達の騒ぐ声を聞きながら、棚主は懐から煙草を取り出し、口に咥える。
魔法マッチを探しながらふと頭上を見上げると、階段上で時計屋が、先ほどの幸太郎と同じように、物陰に隠れて立っていた。
――同時刻、築地警察署の裏手に、一台の自動車が停まっていた。
自動車のそばにはフロックコートを着た男達が立っていて、腰の後ろで手を組み、警察署の方を向いている。
やがて視界の奥から数人の刑事が歩いて来ると、男達は自動車の扉を開け、一礼した。
「ご苦労様です。あとはこちらで処理しますので」
「よろしくお願いします」
短く言葉を交わすと、刑事達は自分達の中心に隠していた老人を差し出した。
老人は手錠をかけられ、うつむいている。フロックコートの男達はうなずくと、老人の腕をつかみ、自動車へ乗せようとした。
「待て! お前達、何の真似だ!?」
不意に警察署の方から野太い声が上がり、牛のような大きな男が駆けて来た。
フロックコートの男達と、刑事達の視線が彼に集中する。先日の放火事件で、棚主と時計屋の取り調べを担当した、横山刑事だった。
「放火殺人事件の容疑者、河合雅男を移送するんだ。こちらは担当官の方々だ……文書は回ってきたはずだが」
「担当官!? 何の担当官だ! いったい貴様ら……何を企んでる!」
顔を見合わせる同僚達に、横山刑事は太い指で老人を指した。
「この男は誰だ! 河合じゃないぞッ!」
顔を上げた老人は、丸顔で太っていた。痩せぎすの河合とは、似ても似つかない。
老人は焦点の合わぬ目を横山刑事に向け、「へへっ」と小さく笑った。本物の河合の喉は、潰れているはずだ。
顔を真っ赤にして詰め寄る横山刑事に、他の刑事達は平然と、冷めた声を返す。
「この男が河合だ。寝ぼけてないで書類を確認しろ、横山。疲れてるのか?」
「黙れ! 河合の調書を取ったのは俺だ! 河合の面を直接この目で見ている! その男は別人だ!」
「証拠はあるのか」
白々しい台詞に、横山刑事の目がこぼれんばかりにひん剥かれる。
河合雅男という名の人間が、放火殺人の容疑者であるとする文書はある。だがその書類に、顔写真はない。
河合が負傷していたため、撮影するにしても最低限立てるようになるまで待つようにと、上から指示があったのだ。
そんな中での、突然の移送措置。横山刑事は不意打ちを食らった形だった。
「その男を署内に戻せ! 拘留中の河合を見ている署員はいくらでもいる!」
「お前にそんなことを言う権限があるのか? 犯罪者の移送は迅速に行うのが常識だ。こちらの担当官を待たせることになるんだぞ。論外だ」
「貴様らいったい誰に買収……」
言葉半ばで、横山刑事は腹に蹴りを食らって腰を折った。
信じがたい同僚の行為に、横山刑事は唖然と口を開けて他の刑事達を見る。
河合の身代わりの老人は、その隙に自動車に押し込まれた。発車する自動車を横山刑事から守るように、刑事達は人の垣根を作って横山刑事を阻む。
「言葉に気をつけろ、莫迦野郎。これ以上下らんことを言いやがると、上にお前の素行を報告することになるぞ」
「素行だと……?」
「河合自身に関する捜査は、これ以上必要ないと上から通達があったはずだ。なのにお前は、一部の連中とつるんでまだ何かこそこそと探りを入れてるそうじゃないか」
自動車の走行音が完全に警察署から遠ざかると、ようやく刑事達は道を開け、だらだらとした足取りで署内に戻り始める。
横山刑事のわきを通り過ぎながら、彼らは冷笑を隠しもせずに言い捨てて行った。
「終わった事件を嗅ぎ回るのは、規律違反だ。警察ってのは個人を殺して、組織として足並みをそろえるところだぜ」
「手を引け、横山。今日見たことを誰かに話しても、何も変わらん。逆にお偉方に睨まれて、出世に響くだけだ」
「自分がどんな扱いを受けたいのか、よく考えることだな」
賢くなれ。
警察署の中に消える刑事達のそんな言葉に、横山刑事は目を血走らせ、怒りに全身を震わせた。
こんなやり方で、犯罪者が逃がされるのか。
人を殺し、子供を追い回し、世間に恐怖を撒き散らしたゲス野郎が、警察官の手を借りていとも簡単に法の裁きを免れるのか。
本物の河合は、いったいどこに行ったのか。いつ連れ出されたのか。それすらも横山刑事には分からない。
地面を睨んだまま、横山刑事は獣のようにうなった。激高した時の癖で、瞳がまぶたの裏に隠れ、白目を剥く。
「クズどもめ……警察官の、面汚しめッ! 畜生……!!」
「――どうしたんだ?」
頭上から降ってきた声に、ゆっくりと瞳がまぶたから降りてくる。
横山刑事の目の前に、革靴のつま先があった。履き古されてすり切れているが、元々は中々に値の張る、高級品のようだった。
横山刑事は、その革靴に、見覚えがあった。
「大丈夫か? 横山」
再びかかる声に、横山刑事は、がばりと顔を上げて相手を見た。
眉の下までだらしなく伸びた前髪に、無精ひげ。痩せた顔に、眼鏡。
くたびれた背広を着た男を、横山刑事は震える指で指さしていた。
「――森元警部補――!」




