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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  二章  時計屋
33/110

 帝都の全ての正常な時計の針が、午前零時(れいじ)を回った。


 雨が降り出した深夜の東京湾の一角に、浜に放置された木造の倉庫群がある。


 岩場の陰に隠れるようなその場所は、江戸時代から続く埋め立て事業の一つとして、ある民間の会社が手をつけていた区画だ。


 着々と準備を進め、何年にも及ぶ大規模な開発をするはずが、日露戦争による不景気のあおりを食らって会社経営が破綻はたん

 工事を続けることができなくなり、せっかく整備した開発基地をまるごと投げ出して経営陣は解散した、といういきさつだった。


 倉庫と倉庫の間は木造の道路でつながれており、最終的にそれは桟橋のようになって海に続いている。


 時とともに雨足が強まってゆくその場所で、帝国救民党の党員達は人知れず、世を変革するための集会を開いていた。


「明日、森元は築地警察署の知人に会いに行くらしい。ヤツが用を済ませて警察署を出たところで、城戸警視の部下がヤツを誘い出す。この地点の……廃工場だ」


 立ち並ぶ倉庫の一つ。天井から吊るされた無数のランプの灯の下で、帝国救民党の党首は机に広げた地図を指で叩いた。


 大量の資材やトロッコが放置されただだっぴろい倉庫には、インバネスコートを着た十人ほどの党員達と、私服の党員見習いの男女が数人、集っている。


 彼らの視線を一身に受けながら、党首は拳を振り上げ、力強く声を上げた。


「諸君も知ってのとおり、今回仕事を依頼してきた城戸警視は我が父親にして、帝国救民党の長年の障害だった男だ! 党首である私の活動にいちいち文句をつけ、権力で党を解体させようと目論もくろんできた愚物だった! そんな男が我々を頼ってきたことが何を意味するか分かるか!?」


 党首の言葉に、周囲の者達は黙って耳を傾けている。

 しかしいったん演説の声が途切れると、屋根を叩く雨音に混じって倉庫の奥の方から、弱々しい悲鳴と、怒声が聞こえてくる。


 何かしらの失態でもやらかしたのか、党への献身が不十分だったのか、インバネスコートを着た男が物陰で柱に縛りつけられ、複数人に殴打されていた。


 すぐそばには上半身裸の女が床に倒れ、あざだらけの体を丸めて血を吐いていた。二人とも顔が異様な大きさに腫れ上がり、本来の面相を保っていない。


 よってたかっての暴行を受ける党員の悲鳴に眉一つ動かさず、党首は両腕を広げ、演説を再開する。


「我が帝国救民党は、警視という警察組織の幹部から、じきじきのお墨つきを得るということだ! 標的の森元は悪辣あくらつな男だが、現役警察官や新聞関係者に知人が多く、強引に逮捕することができないそうだ。ヤツは狡猾こうかつで、法律すれすれの方法で城戸警視を脅迫してくる。手も足も出なくなった城戸警視は、我々に正義の代行を依頼してきたというわけだ!」


「警察官の部下を差し向けるより、部外者の我々を使った方が都合が良いということでしょうか」


「森元を始末した後、切り捨てられる恐れはありませんか? 襲撃を我々の独断行為ということにして、城戸警視が無関係を装うようなことも……」


 党員達が口を挟むと、党首は腕を組み、深くうなずきながらゆっくりと答える。


「もちろん完全に城戸警視を信用するのは危険だ。だが安心してほしい。城戸警視は、愚物なりに息子である私の身を案じているのだ。今回の仕事を依頼する時も、決して私自身は襲撃に参加しないようにと、そう注文をつけてきた。つまり彼はあくまで私ではなく、我が党の力を借りたいわけだ」


「自分の息子を危険にさらしたくないと……」


「そうだ。ならば逆に、私が彼の注文を蹴って襲撃に参加すればどうなる? 万が一現場に城戸警視の部下が押し寄せて、我々が逮捕されたとしてもだ。その面子の中に私がいたなら、城戸警視は下手なことはできなくなるのではないかな」


 きっと全員釈放して、謝罪するはずだ。


 そう続ける党首の言葉に、党員達の大半は感心したように声を上げたが、何人かは懐疑的な表情で顔を見合わせていた。


 そもそも、警察幹部が邪魔者の始末を素人集団に依頼している時点で、正義の代行も何もあったものではないのだ。


 警察は法の番人というが、その法を利用して自分達に都合の悪い意見をねじ伏せるべく、集会や刊行物を検閲し、国民を捕らえ拷問することもある。


 だがそれらもあくまで『法にのっとった上での行為』であるべきで、法的体裁を一切つくろわずに警察が動くことは、法治国家では許されないことだ。


 そこにきて城戸警視は、法的根拠を示して森元を逮捕することを諦め、いわば私刑にかけようとしている。森元が新聞社に流したというネタや、疑惑が虚偽であるならば、名誉を損なわれた城戸警視は堂々と森元を糾弾できるはずだ。


 それをこそこそと裏で黙らせようとしているのは、ことを大きくして疑惑の真偽を調べられた時、出てきては困るものが出てくる恐れがあるからだ。


 公の場で堂々と戦うことができないから、城戸警視は森元を、暗殺しようとしている。

 そんな男を、果たしてどこまで信用できるのか。行動を予測できるのか。


 だが帝国救民党の党首は、まるで何も心配していない様子で拳を振り上げ、演説の最後の締めに入る。


「警察に貸しを作っておけば、今後の活動もより円滑に運べるはずだ! 成金どもに天誅を食らわせる際の警察の妨害も、熱の入れ方が違ってくる! 我々は警察幹部の依頼を受けた実績を得るのだ……それはつまり、警察の同盟も同然ッ!」


 都合の良い理屈を叫ぶ党首は、ばさりとインバネスコートのケープを広げ、興奮する同志達の一人一人の顔を指さして微笑ほほえんだ。


 倉庫の奥から聞こえていた悲鳴は、いつの間にかやんでいた。

 資材の陰から血まみれの腕とインバネスコートのすそがわずかに覗いているが、今は誰も、そちらを見やろうとはしない。


「この仕事は、我々の理想を実現する大きな第一歩となるだろう! 爪を研げ! 牙を剥け! 全ての民の明日のために、必ず成功させるのだ!」


 帝国救民党の獣のような気合の声が、木造の倉庫を揺るがさんばかりに響き渡る。


 彼らは明日、官憲の協力のもと、一人の男をこの世から消す。


 それは暴力ではなく、この世を変革するための崇高すうこうなる行為なのだ。


 より多くの貧しい民を救済するため、悪人だと説明を受けた見知らぬ男をちょっと・・・・殺すだけ。


 それは何の問題もないことだし、万人に胸を張って誇れる正義だ。


 そう、おそらく誰もが信じていた。


 だからこそ次の瞬間、誰もが言葉を失った。




 倉庫の奥、悲鳴の聞こえていた方向から、ゴロゴロと音を立てて何かが迫って来る。


 振り向く人々の目に映ったのは、倉庫内に無数に転がっていた木製のトロッコだった。

 ランプの灯に照らし出されるそれは不安定な軌道で人々の中に分け入り、最終的に党首が向かっていた机にゴツンとぶつかって停止した。


 唖然とする人々が見つめるトロッコには、大きな黒いかばんと一緒に、二人の人間の頭部が入っている。

 それは木田と、彼の様子を見に行っていた、党の幹部の首だった。


 酷く損傷した二つの首はかっと目を見開いた形相で固まっていて、生きている仲間達を恨むかのような視線を投げかけてくる。


 数秒の沈黙の後、同志と共に絶句していた党首がはっとして机を飛び越え、トロッコがやって来た方向へ走る。他の者達も慌ててその後を追い、資材の向こうへ走った。


 物陰で悲鳴を上げていた者達も、彼らを折檻せっかんしていた者達も、未だそこにいた。


 ただし全員が血にまみれ、息をしていない。

 鋭く刃物同然に研ぎすまされたドライバーを首や胸に突き立てられ、息絶えていた。


 折檻していた三人は全員喉を押さえ、互いにかなり離れた場所で倒れている。

 演説の最中、一人一人始末されたということだろうか。しかも最初に喉を潰され、声を封じられた。その後は首の太い血管を裂かれ、絶命したのだろう。


 逆に折檻を受けていた男女は、体が触れ合うほど近い場所で死んでいる。


 既に意識がなかったからなのか、声も出せないほど弱っていたからなのか、二人とも刺されているのは一箇所かしょだけだった。凄まじい力で心臓に突き立てられたドライバーは、柄の部分まで肉に沈んでいる。


「……誰だ……誰だッ!?」


 叫びながら、党首は背後の同志達を振り返った。


 知らぬ間に仲間が殺されていた。しかもその死に方は、とても尋常なものではなかった。


 演説の途中、確かに折檻の声は聞こえていた。ならば敵は、人知れず倉庫内に侵入し、演説が始まってから終わるまでの間に三人の仲間と、二人の男女を殺したことになる。


 そしておそらく別の場所で殺して切り取った木田達の首を、倉庫内にあったトロッコに詰め込んだ。それを自分達の方に押し出して……


 ……それから、どこに行ったのか?


「異常だ! 普通じゃない! こ、こんなことができるのは……『慣れている者』だ! 殺人に慣れている……犯罪者……!」


「党首」


 錯乱気味の党首に、集団の最後尾から声がかけられる。

 見れば党員の一人が、トロッコに首と一緒に入っていた黒いかばんを取り出して、こちらに運んで来ていた。


 党首は同志達の視線を一身に受けながら、荒く呼吸を繰り返してかばんを見つめる。


 黒い、闇を塗りこめたようなかばん。その中身がたっぷりと詰まっていることは、膨れ上がった外見と、抱いている者の重そうな仕草から察せられる。


 何が詰まっている? 首と共によこされたかばんは、敵からのメッセージだろうか?


 党首は倉庫のどこかに隠れているかもしれない敵を警戒するのも忘れ、かばんを持つ党員にこくりとうなずいて見せた。


 党員はかばんを抱いたまま、留め具を片手で一つずつ外しにかかる。人が言葉を発しない倉庫内には、激しく屋根を叩く雨音がうるさく響き渡っている。


 騒音の中、かばんを開くと同時に外に漏れ出てきた音を聞き取った者が、何人いたか。


 かちり、かちりと、一定間隔で針が動く音。時を刻む、時計の音。


 かばんの中を覗き込んだ党員は、仲間達全員が見守る中で「ぎっ!」と驚がくの声を上げて、抱いていた物を床に取り落とした。


 騒々しい音を立ててかばんから飛び出すのは、釘やねじ、剃刀の刃、割れたぎやまんの欠片に、尖った得体の知れない金属片。


 そしてそれらが詰まっていたかばんの中から、稼働中の時計が埋め込まれた、鉄の直方体が顔を出していた。


 帝国救民党の面々は、それがかつて自由民権運動の急進派達が製造、使用した、爆裂弾の類であることを、瞬時に理解した。


 出口に向かって、全員が走り出す。しかしその直後、爆裂弾の時計の針は文字盤の、本来十二の数字が刻まれているはずの場所を指し、発火した。


 針の先には、爪で引っかいたような細い字で『罰』と書かれていた。



 バンッ! という爆発音と共にかばんが弾けとぶ。


 爆裂弾自体の殺傷力はたいしたことはなく、せいぜい床板をいくらか吹き飛ばす程度だった。しかしその周りにぎっしりと詰め込まれていた鋭利な凶器の山は、爆風に乗って弾丸のように人々の背に襲いかかる。


 肌の露出の多い私服の者達は釘やぎやまんが直接肉に食い込み、一瞬で血まみれになって床に倒れた。


 インバネスコートを着た党員達は多少そういった被害から身を守れたものの、一瞬遅れて飛来する太い金属片や剃刀の刃に服ごと貫かれ、切り裂かれ、やはりその大部分が重傷を負い、命を落とした。


 爆裂弾を用いて人間を殺傷しようとした者は、明治の思想活動家の中には何人もいた。


 だが彼らはせいぜい爆裂弾を直接標的に投擲とうてきして負傷させるか、小石を詰め込んで威力の水増しをする程度の工夫しかしてこなかったはずだ。


 そこにきて、今日使用された爆裂弾の使い方は、周囲にいる者全員に致命傷を与えようという、残虐性を一切隠さない最悪のものだった。


 二十人近くいた帝国救民党の面々がことごとく床に倒れ伏し、うめき声一つ立てない。


 半数以上の者が、おそらく既に絶命している。

 生き残った者も気絶したまま傷からの出血を止められず、やがて死ぬだろう。


 唯一、数人の党員に身を盾にして守られた党首は、仲間の死体を押しのけながら体を起こした。


 信じられない凄惨な光景に、尻を床につけたまま呆然とする。


 一瞬、爆発音を聞きつけて外部の人間や警察官が駆けつけるかもしれないと思ったが、その可能性はまずないということに気がつく。


 岩場の陰に隠れたこの場所は、周囲に誰も住んでいない。

 倉庫の所有権も、埋め立て工事の権利も宙に浮いたまま放置されているのだ。

 人気がなく、集会を開いて声を張り上げても通報される危険がないからこそ、自分達はこの場所を占有していた。


 そして……実のところ、帝国救民党もこの倉庫を使って、爆裂弾の製造実験をしたことがあるのだ。


 先達の活動家達にならい、最終手段である暴力による革命の手段を得ておこうと、みんなで知恵を合わせて爆裂弾を製造し、爆発させた。


 その時は今日と違って晴れていて、爆発音が想像以上に大きく響いてしまい、慌ててその場を後にしたのだが、後日現場を確認しても、誰かが駆けつけた形跡はなかった。


 大雨が降り、波が岩場に砕け散っているような今日の天候では、爆発音は余計よけいに外部には届かないだろう。


 党首はそこまで考えて、ようやく今すぐに倉庫を出るべきだと思い至った。


 予想もしていなかった出来事に完全に判断能力を失っていた。

 今は大勢の仲間が殺されたことに驚がくしている場合でも、生存者を救助している場合でもない。


 敵は、邪魔の入らぬこの環境で、ゆっくりと自分を始末することができるのだ。


 立ち上がり、倉庫の出口へと走る。右足をくじいたらしく痛みが走ったが、構ってはいられない。仲間の死体をまたいで、資材やトロッコの間を縫うように進む。



 そうして出口に近づくと、閉まっていたはずの扉は開け放たれていて、そのすぐそばに怪物が立っていた。


「……あ……」


 党首が口を開け、ペスト医師の格好をした相手を見る。

 死神のような黒衣。白い、鳥の仮面。


 怪物の目は、仮面に開いた二つの覗き穴の奥に沈んでいる。

 しかし、闇をまとった眼球は、確かに党首を睨んでいるようだった。


「誰だ……貴様……誰に雇われたッ!?」


 党首は懐をあさり、小さなナイフを取り出して相手に突きつけた。

 刃渡りが人さし指の長さ程しかないナイフだ。


 怪物はそれに対して、黒衣の中から大きな、ずっしりと重量感のあるレンチを取り出した。


 無言で、床板を鳴らしながら歩いて来る。

 党首は後ずさることもできずに虚勢を張り、なおも叫んだ。


「小松屋のどら息子の報復か!? それとも成金の毒嶋ぶすじまの差し金か! ……森元がこちらの動きを察知したのか!? おい、どうなんだッ!」


 襲われる心当たりがいくつもある党首は、しかしつい昨日いさかいを起こした男のことを口にしなかった。


 子連れで電車に乗っていた、一見うだつの上がらなさそうな青年の姿が、とっさに目の前の恐ろしい殺人鬼と結びつかなかったのだ。


 電車内の青年が報復に殺人鬼を雇うような人間には見えなかったし、ましてその殺人鬼が青年自身だなどとは思えなかった。


 だが殺人鬼……怪物は、そんな党首にはお構いなしに歩を進め、すぐに目の前までやって来る。

 レンチを振りかぶる相手に、党首はナイフを振り回し、威嚇いかくした。


 その手を、レンチが容赦なく強打する。

 べきっと音がして、ナイフを握る人さし指がひしゃげた。


 悲鳴を上げてナイフを取り落とす党首の頭部めがけて、怪物はさらにレンチを振り下ろす。



 だが、レンチが頭部にめり込む寸前、資材の陰から飛び出してきた一人の党員が怪物に突進し、くらいついた。


 体中に釘や金属片が刺さったその党員は、電車内で青年の胸倉を吊り上げていた、背の高い男だった。


 彼は怪物の首を柔術で鍛えた腕でがっちりとかため、締め落とそうとしながら党首に叫んだ。


「避難してください党首! こいつは私が!」


 党首は負傷しながらも駆けつけて来た同志に感動して喜色を浮かべたが、次の瞬間には怪物の指が、党員の腕に深く食い込んでいた。


 屈強な党員は全力で怪物を捕らえようとするのだが、怪物の両手が、ぶるぶると震えながら、次第に腕の拘束を解いてゆく。


「こ……こいつ……!」


 腕自慢の自分を上回る怪力に、党員が目を剥きながら、顔を真っ赤にして踏ん張る。

 その様子を見た党首は瞬時に青ざめ、くじいた足を引きずって倉庫の出口へと逃げ出した。


 彼が出口に到達し、倉庫の扉が閉まった瞬間。

 バチン! という金属音と、絶叫が響き渡った。


 その声につい扉を見やった党員の腹に、完全に拘束を解いた怪物の拳がめり込んだ。

 ぐっとうめく党員のあごを、さらに怪物が取り落としていたレンチを拾い上げ、殴り飛ばす。


 壁際に吹っ飛んだ党員はふらつきながらも未だ立っていたが、怪物は攻撃の手を緩めることなく再び肉薄し、レンチを叩きつける。

 頭部を殴られた党員が膝をつくと、その角帽を払い飛ばし、髪をつかんだ。


 怪物はそのまま、呼気と共に獣のような声を発しながら、党員の頭を変形するまで殴打し続けた。


 血液が壁や床に飛び散り、党員は動かなくなる。その死体を投げ捨てるように床に倒すと、怪物は荒く呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと出口へと近づき、扉を開けた。


 雨が降り注ぐ、真っ暗な闇の中で、党首が怪物に足を向けて倒れている。


 その右足には、扉のすぐ外に仕掛けられていた虎挟みが噛みついていた。

 一般にりょうに使われるものより、かなり歯が鋭い。


 党首は血まみれになった足を引きずることもできず、自分を見下ろす怪物を、責めるように睨んだ。


「あんまりだ……あんまりだろうッ! 何なんだ、お前は……何故こんなむごいことができる!?」


 怪物はその言葉に何の反応も示さず、扉の陰に置かれていた、爆裂弾を入れていたものとは別のかばんにしゃがみ込む。


 かばんをゆっくりと開ける怪物に、党首は木の道路を叩きながら叫んだ。


「誰の差し金だ!? 何の報復だ!? 仮にどんな理由があるにせよ、こんな鬼畜のような殺戮さつりくが許されると思っているのか! 人を殺すにも……やり方というものがあるだろうがッ!」


「人道的な殺人というやつか?」


 初めて言葉を発した怪物に、党首は目を丸くした。


 聞き覚えのある声。つい昨日聞いた声。まさか、と絶句する彼を、怪物は首を傾けて見やる。


「銃弾一発で射殺する。一刀のもとに首をはねる。確かに外野から見れば死体の損壊も少なく、マシな死に方に見える。電気椅子が非人道的でギロチンや絞首台が人道的と言う連中は、その辺に根拠があるんだろう。別に間違ってないし、異を唱えるつもりもない」


 だが、と怪物は膝を伸ばし、後ろ手に何かをつかみながら立ち上がる。


「私は『人道』という言葉には、何の興味もないのだ。お前達害獣どもに対し『人道的な殺し方』をしてやる義理は、これっぽっちもない。害獣は害獣らしく、爆裂弾や虎挟みにズタズタにされて死ねばいい」


 雨に打たれながら、怪物ははっきりと、声を上げて笑った。

 ごつり、ごつりと足音を立てながら、党首の頭のすぐそばに立ち、手にした凶器を持ち上げる。


 遠くで、雷鳴がとどろく。稲光に照らされた凶器は、ほとんどなたのような厚さの、のこぎりだった。


「金を奪われたり、暴行されたことに対する復讐ではない。その点は安心してくれ。お前達を殺すのは……私の住む帝都に、どぶ臭い思想家もどきは不似合いだからだ」


「なっ……」


「その脳髄には、二十世紀が宿っているそうだな」


 確かめてやろう。

 そう低くつぶやいた怪物が、鋸の刃を、党首のこめかみにあてがう。


 激しい雨音と雷鳴にかき消されて、鋸を引く音は誰の耳にも届くことはなかった。






 ――その日、時計屋が葛びるに帰って来たのは、午後十一時を回った後だった。


 マスターや棚主に銀座を案内されたり、津波と銭湯に行ったりと一日を過ごしていた幸太郎は、まる一日以上姿を消していた時計屋と二階の廊下ではちあわせた。


 出かけた時とは違う真新しい服を着て、かばんも一つしか持っていない時計屋が、口端を上げてニッと笑いかけてくる。


「……何か、良いことでもあったんですか?」


 目に見えて疲労しながらも、心なしかすっきりした表情の時計屋に、幸太郎も笑顔で訊く。

 時計屋は小さく「ああ」と応えて、そのまま自分の店の中に入って行った。


 その時幸太郎は、開閉する扉の向こうにある物を見た。


 室内の机の上に、小さな写真立てが置かれていた。その中に入れられていたのは写真ではなく、確かにしわの入った一円券だった。


 バタンと音を立てて閉まる扉を見つめ、幸太郎はやがて、小さく含むように笑って階段を下りて行く。





 時計屋は暗い部屋の中で、硬い長椅子に横たわる。

 激しい戦闘と、その後の死体の処理で、体中の筋肉が悲鳴を上げていた。


 だが彼は満足げに闇の中で微笑み、誰にともなくつぶやいた。



「帝都の平和は、守られた」


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