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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  二章  時計屋
29/110

 棚主は誤解している。


 彼の人生に不可欠な友人という存在を大事にするがゆえに、その友人達を、色眼鏡で見てしまっている。


 一度得た友人関係を手放すことは、棚主にとっては身を切られるよりもつらいのだろう。

 だからこそ多少の欠点や、不義ぐらいは大目に見る。他人ならけしからんと言うことでも、友人ならばこそさほど強くは追求しなかった。


 時にその寛容さは盲目的でさえあったが、それでも棚主は最低限『好ましい』と公言できる人間を友人に選んでいたので、深刻な事態を招くことはなかった。そう、誤解していたのだ。


 好ましく『良い奴ら』で占められた友人関係の中に、たった一人、恐ろしい男が混じっている。


 その男は狂っていて、沼のようによどんだ心を持っている。


 優しさや、愛情というものはその九分九厘が自分自身に向けられていて、残り一厘だけが棚主や、限られた他人のために、申し訳程度に差し出されている。


 そんな男にとって、他人とは元来敵だ。自分を傷つけ、消滅させようとする、許せない仇だった。


 できるならばこの世の全ての人間を抹殺し、自分一人だけで生きていたかった。自分だけを愛して、自分だけで死にたかった。そんな願望を持っていた男だった。


 男が幸太郎の行く末に怒ったのは、彼への同情や、大人としての良識によることではない。

 かつて男自身がたどった苦難の道を目の前で再現されることが、許せなかったのだ。


 そんなものを見せられるぐらいなら、幸太郎を引き取りたい。

 でなければいっそ、彼を殺してしまいたい。


 孤児院に入る子供を見るぐらいなら、その未来を永遠に閉ざしてしまった方がどんなにか楽だろう。救われた気分になるだろう。


 時計屋はそんな、あまりにも傲慢ごうまんで理不尽な考えを一晩中こね回していたのだ。

 そしてそれを振り払うのに、ワインを二本も空けねばならぬほど、彼の倫理は狂い果てていた。


 自制の心はある。とんでもない動機の殺意を抱えても、それを実行に移さないようにする努力はできていた。だがその心の支柱は、常人に比べてあまりにももろい。

 実際彼の殺意をとどめる堤防は、今まで何度となく決壊していた。


 殺した人数だけなら、おそらく銀座の誰よりも多い。

 そんな男を棚主は、『良い奴』と、誤解していたのだ。




「マカロニーはね、輪切りにした赤茄子あかなす(トマト)と乾酪かんらく(チーズ)を敷き詰めて、じっくりと焼いてグラタンにするのが、一番美味しいんだよ」


 ほくほくと言葉通りのグラタンを皿に取り分けるマスターに、カウンター席に座った幸太郎が体をちぢこまらせながら、申し訳程度にうなずいた。


 今日の銀座は風は強いが日差しがある。にもかかわらず幸太郎はまたもや寝坊をしてしまい、午砲ごほう(主に正午に時間を報せるために撃たれる空砲)に叩き起こされる始末だった。


 もはや寝坊の原因が日差しの有無ではないのは明白だった。床に入ってから、一人きりの寝室でつい、余計なことを考えて夜更かしをしてしまうから、起きられないのだ。


 ほんの数日前まで一緒にいて、動いて言葉を交わしていた家族の顔と、死に様。悪魔のような形相で笑い、追って来る河合の姿。


 そういったものが、記憶が、眠る前の幸太郎の意識をおびやかし、覚醒させ続けていたのだ。


「ぼく、働こうと思うんです」


 ちぢこまったまま突然意を決して言う幸太郎に、マスターがグラタンの皿を差し出したまま「へ?」と首をかしげた。


 幸太郎の隣で新聞を読んでいた棚主が、白湯さゆを飲みながら「よせよ」と首を振る。


「変に気を使う必要はない。君がここにいるのは、言ってみりゃ警察の都合だしな」


「でも、言うじゃないですか。『働かざるもの食べるべからず』って」


「聖書の格言か? だが使い方が間違ってる」


 棚主が新聞を、背後のテーブル席に座った津波に手渡す。

 どうやら葛びるの住人達は、一つの新聞をみんなで回し読みするらしい。


「『働かない者』ではなく、『働きたくない者』は食いたくもなかろう、というのがその言葉の本来の意味だ。働けない、働く機会が与えられない者も含め全員飢えちまえって意味じゃない。ついでに言えば、『働く』というのは職について金を稼ぐというだけの意味でもないと思うよ」


「……?」


「その人がすべきことをする、ってことさ。君のすべきことは、そんななまっちろい腕で中途半端な労働をすることじゃない。とりあえず、そいつを冷まさずに食うことだな。で、マスターを喜ばせればいい」


 グラタンを指さして格好の良いことを言った棚主が、舌の根の乾かぬうちに背後の津波に体ごと振り向いて「ところで、昼飯がないんだ」と訴える。


 津波の食べていたライスカレーの最後の一口の権利を交渉する大人達をわきに、幸太郎はグラタンをじっと見つめて考え込む。

 マスターはそんな彼に苦笑しながら、「そう言えば」と、カウンターの端で影のように気配を消していた時計屋に目を向けた。


「時計屋さん、今日はどこぞの柱時計の調整に行く日じゃありませんでしたか? えっと、ほら、何とかいう成金のお宅……」


「……」


「幸太郎君、びるぢんぐでじっとしてるのが嫌なら彼と一緒に行けばいいよ。荷物持ちのお供がいれば助かるだろうし、それに」


 マスターがさりげなく時計屋の前にもグラタンの皿を置き、能天気な笑顔で続ける。


「せっかく東京に来たんだから、怖いところだけじゃなく楽しいところも見てもらわないと。電車に乗るのもいいもんだよ」


「……出歩いて、いいのか?」


 ぼそりと訊いたのは時計屋だ。マスターと幸太郎の視線を受けた棚主が、とうとうライスカレーをもらえずに嘆息しながら、うなずく。


「不安要素を数えたらキリがないが、びるぢんぐに閉じこもっていれば安全という状況でもないしな。それにマスターがついてるより、時計屋が一緒の方が心丈夫だろう」


「あっ、ひどい。私もやる時はやるんですよ」


「二分と走れない男が何を言うか。それ、俺にはないの?」


 グラタンを催促する棚主の了承を得て、幸太郎は時計屋を見る。


 子供の視線に何を返すわけでもなく、時計屋はグラタンにフォークを突きたて、真っ二つに引き裂いた。




 一時間後、プラット・ホームに立った時計屋と幸太郎は、電車を待ちながら無言でたがいを観察していた。


 着物の上にマスターからもらった毛織の襟巻きを着けた幸太郎は、時計屋の仕事道具の詰まったかばんを両手で提げている。

 一方時計屋はワイシャツを着て黒いズボンを履き、手ぶらで軽く背を丸めていた。


 普段和装に作業用のエプロンをつけている彼が、ちょっとした紳士風に化けている。これから会いに行く客は、それだけ大事な相手ということなのだろうか。


 やがて電車がホームに入って来て、二人は車内に乗り込んだ。時間帯が良かったのか、乗客はほとんどいない。座席に並んで座ると、時計屋が懐中時計を取り出し、手の内のそれをじっと見つめ出した。


 ……まさか、駅に着くまでの時間を計るのだろうか。なんとなく居心地が悪くなった幸太郎は、周囲を見回しながら口を開いた。


「どこの駅で降りるんですか?」


「三つ先だ」


「何というお宅に……」


熊笹くまざささん」


「……そうですか」


 時計の針を睨み続ける男の声には、抑揚がない。

 ガタンガタンと電車に揺られながら、しばらく押し黙る。


 やがて一つ目の駅に着くと、時計屋がちらりと幸太郎に視線を向けた。


「私達の住む『葛びる』……その名の、意味を考えたことがあるか?」


 脈絡のない問いかけに一瞬目を丸くしたが、せっかく相手が沈黙を破ってかけてくれた声だ。幸太郎は必死に頭をひねる。

 窓の外で、駅員が電車の手動扉の戸締りを確認している。その手際を眺めながら、幸太郎はゆっくりと答えた。


「秋の七草ですよね、葛って。紫色の花がきれいで……その、びるぢんぐを建てた人が、好きだったんじゃないでしょうか? あ、それとも秋に建設されたから、七草の名前をとったとか」


 幸太郎の無邪気な推測に、時計屋は首を傾ける。そうして電車が、再び発進した。


「……くず。別名、裏見草うらみぐさ。……言葉遊びだ」


「え?」


「『クズ』の集まるびるぢんぐ。ゆえに、クズびる。裏見草は、『うらみ』、『ぐさ』り。……恨まれて、刺される」


 今度こそ目を剥いて絶句する幸太郎に、時計屋は懐中時計に視線を戻す。

 その喉が、唾を飲み込んで静かに上下した。


「無論、命名した者の考えたことではない。世間の連中が勝手にそう言ってるだけだ。しかし事実、葛びるは犯罪者の温床だ。恨みを買い、刺されるようなクズの巣窟そうくつだった」


「嘘です」


「本当だ。元々は維新志士いしんししの隠れ家の一つだったらしい……維新志士とは、江戸幕府と戦争をして勝利し、明治政府を作った連中のことだ。その時は『葛茶屋』だったらしいが」


「だって……それって、昔の話なんでしょう?」


 幸太郎が訊いた時、不意に時計屋の隣に、車両を歩いて来た男が腰を下ろした。

 男は藍色あいいろの着物を着て髪を短く刈り込んでおり、膝を大きくハの字に広げて、時計屋に腿をくっつけてくる。


 他にたくさん空いてる席があるのに……幸太郎がそう思った瞬間、突然男が小さく悲鳴を上げ、弾かれるように立ち上がった。


 驚いて見上げると、男の右手のくすり指を、時計屋ががっちりと握り締めている。関節と逆方向に指をひねると、ぽきぽきと嫌な音が響いた。

 恐怖に引きつった男の顔に、時計屋の暗い視線が突き刺さる。


「……昔の話じゃない……」


 その台詞は、先ほどの幸太郎の問いに対するものだ。捕まえられていない方の手で時計屋を殴ろうとした男が、足を払われて姿勢を崩す。


 ぼきりと、握られたままのくすり指が折れる音がした。


 男が絶叫する前に、時計屋がその大きく開かれた口に、手にしていた懐中時計を突っ込んだ。


 何故男がこんな仕打ちを受けているのか。がく然とする幸太郎が問う前に、時計屋が変わらぬ暗い声を男に投げた。


「金はやらん。代わりにこいつをくれてやる……うせろ、スリめ」


 見れば、時計屋の足元に財布が落ちている。男がかすめ取ろうとしたのだろうか。


 男は懐中時計を食わされたまま、腰を蹴りつけられて床に手を突いた。

 そこで初めて車内の他の乗客が男に目を向ける。


 彼は折れたくすり指をかばいながら、それでも警察を呼ばれることを恐れてか、黙って車両の端の扉へ歩いて行く。


 やがて二つ目の駅に到着し、男が降りて行くのを見届けてから、幸太郎は時計屋に顔を向けた。時計屋は落ちた財布を拾い上げながら、何事もなかったかのように話を再開する。


「元々追われる者をかくまうための施設だった葛びるは、その性質をある程度受け継いでいる。今の管理人に明確な信念があるわけではないだろうが……葛びるは少なくとも、入居する者の前科を問わない。だからまともな住所を得られないような人間が、自然と集まる」


「……」


「明治政府のお偉方には、葛びるのような隠れ家に世話になったやつもいたから……行政の摘発や、指導を免除してもらってきたんだろう」


 公然の掃き溜めだ。そう結ぶ時計屋が、幸太郎を見て笑った。口端を引き上げただけの、白々しい笑顔。誰かを愉快にする類の表情では、断じてなかった。


 幸太郎はその笑顔から顔を背けながら、素早く何度もまばたきをして、言った。


「維新志士は、良い人達だって本に書いてありました。世の中を良い方向に導いた英雄だって……だったら、その隠れ家だった葛びるは、名誉な場所じゃないですか」


「維新志士達が何をしたか、その本に書いてあったか? やつらを英雄と呼ぶ人の数だけ、悪党と憎む人がいる。闘争とはそういうものだ」


「維新志士はどうでもいいんです!」


 つい駄々っ子じみた怒り方をする幸太郎に、時計屋は目を細める。

 かばんの取っ手を握り締め、幸太郎はわずかに肩を震わせながら、うなるように言った。


「クズじゃないです……あのびるぢんぐの人達は……みんな、良い人です……」


「……泣くな」


 だんだん声が上ずってくる幸太郎に、時計屋が命じる。「泣きません!」と目をこする幸太郎から、時計屋は尻一つぶん、距離をとった。


 二人はそのまま、目的の駅に着くまで口を閉ざしていた。

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