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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  一章  葛びるの人々
28/110

 暗い映画館に、雨の音が響く。


 上映されているのは外国の活動写真で、白黒の海辺に若い男女が並んで腰を下ろしている。


 映像の中の海辺は晴れているのだが、館内に響く雨音と雷鳴のせいで、現実感がない。無声の活動写真の台詞や内容を補完する弁士べんしが、うるさい環境音に負けじと声を張り上げるため、本来しんみりとした内容のはずの作品が雑然とした印象になってしまっていた。


「あの二人は何で悲しい顔をしてるんだ? さっきまでは幸せそうだったのに」


「さあ、わからん。肝心な台詞を聞き逃したらしい……とりあえず、心中を考えてるみたいだな。ほら、銃を出したぞ」


 最後列の席に座った棚主と大西巡査が、ラムネを飲みながら声を交わす。騒がしい館内では、彼らの声は周囲の誰にも届いてはいないようだった。観客はまばらで、他にわざわざ後列の席に座る者はいない。

 棚主達以外は全員、弁士に近い最前列に集まっている。


 白黒の世界で、男が女の胸に銃を押しつける。銃口が女の服のボタンを引きちぎり、はらりと胸元がはだけた。

 大西巡査が一瞬目を丸くして、すぐに腕を組み鼻を鳴らす。


「けしからんな。下品な演出だ」


「あ、撃った。……なあ巡査、俺は別に、世にどんな作品が公開されてもけしからんとは思わんのだが……帝国産の『人の花』が禁止されて、この外国作品が容認されるのはどういう判断だ? 言っちゃ悪いが、こっちの方が断然暴力的で官能的な内容だぜ」


「俺に訊かれても困る。規制する作品を決めるのは上の連中だからな……あ、おいちょっと待てよ!」


 声を上げる巡査が見つめる先では、女を射殺した男が拳銃を放り出し、頭を抱えながら海辺を逃げ出していた。命が惜しくなったのだろう男は画面の外に消えて行き、死んだ女の安らかな顔だけが取り残される。


 弁士の周囲でざわめきが起こり、そして映し出されていた画面が消えた。作品は悲劇的な結末を迎えたようだ。


 観客達は弁士を巻き込んで、やれ男がひどいだの脚本が悪いだのと批評を始めている。棚主はラムネを飲み干し、足を組み替えて鼻を鳴らした。


「殺伐とした作品だな」


「信じられん。こんなものが東京中で観られているのか?」


「いや、ここの館主が個人的に輸入した作品だそうだよ。どっかの金持ちが道楽で作ったそうだが……警察の許可は得ているだろう。それに考えてみれば、心中ものの劇は日本にもある。『曽根崎心中』とかな」


「これは心中じゃない! ただの殺人だ! 殺人と裏切り! 女だけ殺して逃げやがった!」


 活動写真が映し出されていた方を手で示しながら、大西巡査は「ひでえ作品だ!」と嘆いた。


 棚主はハットのつばを指でつまみ、目深まぶかにかぶり直す。大西巡査はそんな彼にため息をつき、両手を頭の後ろで組んで椅子に深く腰掛けた。


「……活動写真はいい。話の続きだ……幸太郎君の証言は上に伝えるが、期待はしてほしくない。分かるか?」


「分からないね。あの子は被害者側の唯一の生き残りだ。その彼の証言を、何故信じない?」


「俺は信じる。横山刑事だって同じだろうさ。だが上がその証言に基づいて捜査の指揮をることはありえない」


 雷鳴がとどろき、映画館の床が震える。棚主の目が空になったラムネの瓶を見つめ、軽く揺すって中のビー玉を転がす。


「……よもや、莫迦なことを考えちゃいないだろうな」


「莫迦なこと?」


「今回の事件、警察は面目を保っているとは言いがたい。三吉を襲ったヤクザや、放火魔の河合を取り押さえたのは警察官じゃないからな。河合に限っては新聞社を抱き込んで警察の手柄にしたが、現場にいた人々はそれが事実と違うことを知っている」


 ビー玉のカラカラという音が、雨音に混じって床を這う。大西巡査は黙っていた。


「警察にしてみれば、この事件は河合の逮捕をもって決着としたい。警察が事件を解決した、と、そういう形にしたいはずだ。……河合はきっと、鉄道会社に罪を着せた供述をしたんだろう。標的はあくまで馬車業者である三吉。河合は鉄道会社の『誰か』に頼まれ、商売敵を襲撃した……幸太郎の一家は、その巻き添えを食った。そう言ったはずだ」


「……」


「ならば、警察はあとは捕まえた河合達を締め上げ、雇い主を吐かせるだけでいい。吐かなかったとしても、黒幕が鉄道会社であると発表すれば、世間の非難は間違いなく警察より鉄道会社に向かう。ことの真偽にかかわらずな」


 棚主の目がハットの奥から、大西巡査を見た。鋭くはないが、真剣な視線が大西巡査の顔に注がれる。


「だが、幸太郎の証言はそういった思惑おもわくを完全に破壊するものだ。標的が三吉ではなく幸太郎だったとしたら、そして河合にまだ仲間がいて、幸太郎を狙っているとしたら。警察は事件解決のためにもっと困難な仕事をしなければならなくなるし……しかも幸太郎は取り調べの時にではなく、警察が解放した後、一般人に対して口を開いている。彼の証言を認めて、万一事実が新聞社にでも漏れれば、警察の面目は今度こそ潰れる。何から何まで一般人任せの無能警察だとな」


「事件に新しい展開があれば、そのつど認識を改め対応するのが捜査の基本だ」


「あんたはさっき、それができないと言った」


 雷鳴がひときわ近くでとどろいた。雨はさらに激しく、映画館の屋根を叩いてくる。


 大西巡査が虚空を睨みながら、す、と息を吸った。


「おそらく、上は失敗を恐れてるんだと思う。幸太郎君の証言を信じれば、河合達の真の目的は未だ分かっていないということになる。そうなると、今後捜査が順調に進み、全てが明らかになるという保証はなくなる」


「そんなものはハナからない」


 棚主の言葉に、大西巡査はうなずいた。深く、ゆっくりと。


「捜査の動機が、すでに狂ってきてるのかもしれないな。今回の事件は非常に派手で、国民の注目度も高い。警察はたとえ間違いであったとしても、確実に体裁が保てる結末を用意しておかねばならない。それが鉄道会社の陰謀という、河合達がこしらえてくれた『言い訳』であってもだ」


「そんな大嘘を世間に発表して、事件解決を偽装すれば満足なのか? 河合達を是が非でも締め上げて、仲間の存在と真実を吐かせる気はないってのか」


「河合達はもう喋れない」


 大西巡査が棚主に顔を寄せ、ささやいた。

 わずかに目を剥く棚主に、年配の警察官は怒りを顔ににじませながら続ける。


「喋れないんだ。完全にしてやられた。食器を割って、喉をえぐりやがった。全員が、一夜の内にだ。もう証言が取れないんだ」


「……自傷だと思うか?」


「上はそう判断した。事件はもう終わったんだよ。犯人達の自傷は鉄道会社の雇い主を守るための行為。警察は卑劣な鉄道会社に黒幕の差し出しを求めるが、当然鉄道会社には黒幕が誰かなんてことは分からない」


「鉄道会社が黒幕をかばい、犯人をかくまっている。そう新聞に発表すれば、非難の矢面に立つのは彼らというわけか」


 ため息をつく棚主には、大西巡査がこんな裏の事情を自分などに話している理由が分かっていた。それは大西巡査個人の正義感や、良心の呵責かしゃくによるものではない。


 棚主が幸太郎をかくまっているからこそ、話しているのだ。知る権利があると判断してのことなのだ。


 そしてそれは暗に、棚主にこのまま幸太郎を預かってくれと言っているも同然の行為だった。


「河合達にまだ仲間がいるのか、幸太郎君が今後も襲われる可能性があるのか、分からない。だが少なくとも警察は組織としてはもう、幸太郎君が襲われてからでないと動かないだろう。そしてその時は幸太郎君の名前を伏せ、今回の事件とは別件として捜査する。幸太郎君には身寄りがない。名無しにするのも容易だ」


「汚いぞ」


「ああ、汚い。そんなことは俺達の誇りが許さん。……俺達というのは、俺や横山刑事のような現場の警察官のことだがな。俺達は俺達で、この事件を追い続けることにした。無論上には報せない。だから効果的に捜査できるわけじゃない」


 棚主の目をじっと覗き込みながら、大西巡査は初めて後ろめたそうな表情をした。


 現場の人間で捜査を続行する、とさらりと言ってのけたが、それは場合によっては免官ものの逸脱行為のはずだ。素性も知れぬ子供のためにそこまでする警察官が、何人もいるとは思えなかった。


 彼が何かを言い出す前に、棚主が煙草を取り出しながら「分かった」と息をつく。


「今から幸太郎を警官の家に移すのも都合が悪いんだろう。管理のいい加減な葛びるなら住人の情報も役所に伝わってないし……河合達の口を、警察内部の人間が封じた可能性もないとは言えんからな」


「以前なら怒鳴りつけて否定してやるところだが……うちの署には前科があるからなあ」


 銀座を管轄する警察署の前署長は、ヤクザと結託し長年悪事に手を染めていた。大西巡査は知らぬことだが、前署長は棚主とその友人を拉致し、殺害にまで及ぼうとしていたのだ。


「同居人達と相談してから返事をする。だがまあ、彼らも嫌だとは言わんだろうよ。幸太郎はこのまま預かろう……その代わり、あんたらは死ぬ気で捜査を続けてくれ。幸太郎が今後も安心して生きていけるのかどうか、分かるまでな」


「すまん。恩に着る」


 棚主はマッチをこする大西巡査に、くわえた煙草の先を近づけた。


 焦げる煙草を見つめながら、棚主が小さく、笑う。


「活動写真の規制係でもやってれば、探偵なんぞに頭を下げることもなかったのにな」


「冗談だろ。虚構の世界を正しても犯罪は減らん」


 大西巡査が応えた直後、せっかく火がついた煙草に天井から雨漏りの雫が落ちてきて、ジュッ、と音を立てた。




 そのまま同じ活動写真をもう一度観てから映画館を出ると、雨は上がり、雷鳴も空の向こうへ遠のいていた。水気を含んだ空気を吸い込みながら、雨上がりの往来を葛びるへと歩く。


 棚主は今の状況を、どう判断すべきか考えていた。幸太郎を自分のそばに置いておくことが、どれほどの危険を伴うものなのかと。


 無論危険性はある。河合を雇った何者かが、幸太郎を未だ探している可能性は高い。だがその者が何故幸太郎を探すのか、殺したいのか、その理由は依然分かっていない。


 動機が分からなければ、襲撃者の幸太郎に対する執着しゅうちゃくの強さもはかれない。世間が騒げばなりを潜める程度の殺意なのか。それとも、何が何でもなさねばならない殺人なのか。


 河合が捕まり、警察が真相解明に動き出していたことはある程度の抑止力になっていたはずだ。幸太郎が警察の保護下にあるとなれば、襲撃者側も下手に行方を探れなかっただろう。


 だがいずれ大西巡査が言ったように、捜査本部が事件の解決を……あるいは、誤った犯人像を世間に発表してしまえば。襲撃者はきっと安心して、さらに大胆に動き始めるだろう。


「いっそ名前を変えて孤児院にでも入れてしまうか……いや、事件直後に入所させたら逆に足がつくか……?」


 思考を口に出しながら、棚主は空を見上げた。上空の風が、雲を異常な速さで吹き飛ばしてゆく。


 幸太郎の両親がカッフェで会うはずだった人物についても、棚主は大西巡査に伝えておいた。だが当日席を予約していたのは幸太郎の両親だけで、その他の人物の名は浮かんでこないらしい。

 本人が名乗り出てこない限り、見つけるのは難しいと言われていた。


「幸太郎の顔は相手方に割れていない……本当に? 顔も分からない子供を、何故殺しに来る……」


 幸太郎の話から、棚主はある程度事件の背景を推測はしていた。

 幸太郎の母親は、幸太郎を帝都に連れて来ることで、自分達の生活が改善されると言っていた。子供一人の存在がそこまで大きな変化をもたらすケースは、そう多くはない。


 だが、その推測を裏付ける証拠は何一つなかった。真実が未だ闇に沈んでいる以上、根拠のない推測をいくらこね回してもどうにもならない。


 ぶつぶつと独り言を道路に落としていた棚主が、ふと顔を上げて目を細めた。

 なんだか良い匂いが漂ってくる。香ばしい食い物の匂いだ。


 映画館では結局ラムネを三本も空けてしまった。液体ばかりが入った胃が、ついついよじれて音を立てる。


 小走りに角を曲がると、葛びるの入り口に火が見えた。一瞬ぎょっとした棚主だが、よくよく見れば火は正面玄関を出たところの、道路に降りる広い石段の上で焚かれている。


 レンガを組んだ即席のかまどの中で燃える火は鍋をあぶり、何かを揚げている。長い箸を嬉しそうに操るのは、恵比寿様のようなマスターだ。


 棚主が無言で歩いて行くと、マスターの他に、石段の周りに座っていた津波や時計屋、幸太郎が気づいて手を振る。彼らの手には穴の空いたドーナツが、たけのこの皮越しにつままれていた。


「……何やってんだ、あんたら」


「ドーナツですよ、ドーナツ! あ、ご存じない? ドーナツは英語の『ドー(生地)』と『ナッツ(くるみ)』をかけあわせた名前のお菓子でー」


「放火騒ぎの直後だぞ! 外で火なんか使って警官に見られたらどうする!」


 怒鳴られたマスターは「あっ!」と手を口に当て、ラードの入った鍋を慌ててびるぢんぐの中に持って行った。

 幸太郎もかまどの火を消そうと水の入ったバケツに手をかけるが、残った津波と時計屋は涼しい顔で動かない。


 幸太郎の手からバケツを取り、消火しながら、棚主は二人に少しばかり非難がましく声を投げた。


「こんなことをするのはマスターだろうが……あんた達も何で止めないんだよ」


「石のびるぢんぐと道路が燃えるかい? ラードだってほんの少量さ。ちゃんとかまども組んであるし……雨上がりだから、大丈夫だよ」


 ふだん住人の中では一番常識人ぶっている津波の台詞に、棚主はあんぐりと口をあけて眉を寄せた。


 津波はドーナツを食いながら幸太郎を「マスターを手伝ってきな」とびるぢんぐの中へ追いやり、尻のそばに置いた大皿を棚主に差し出す。


 山盛りのドーナツを睨む棚主に、わきから時計屋が、視線もくれずに声を投げた。


「幸太郎は、今は私達が預かっている。だが、いずれ誰かが連れて行く。……どこへ?」


「それは、施設だろう。孤児院だ」


「孤児院など掃き溜めだ!」


 いきなり声を荒げた時計屋が、地面を睨んだ。目を丸くする棚主に、彼はドーナツの匂いを嗅ぎながら続ける。


「この国の孤児対策はまるでガラクタだ。まったく完成されていない。それは世間が、孤児の待遇に十分な興味を示していないからだ。一部の慈善家や、理想家が、個人の思惑おもわく惰性だせいで運営する……それが今の孤児院だ」


「まるで入ったことがあるような口ぶりだな」


「入っていた。私の人生の大半を過ごした場所だ」


 棚主は「初耳だね」とつぶやき、石段の上に腰を下ろした。津波は差し出していた大皿を下ろし、自分のドーナツを、黙ってかじる。


 時計屋は落ちくぼんだ目にぎらぎらとした感情を宿らせ、呪詛のように言葉をつなげていく。


「孤児院を運営する者を、世間は奇特な偉人と評価する。世の不幸な子供を救済する、素晴らしい人だと。だから疑わないんだ、その人格を。孤児院を運営する人は心優しい立派な人間だから、けして悪事に手を染めない。子供を大事に扱っている。そう信じきっているから……孤児院の中を、確かめようともしないんだ」


「確かめる……?」


「子供が中でどんな仕打ちを受けていても、どんなに泣いていても、絶望していても、誰も助けようとしないんだ! いや、たとえ知っていても……『育ててもらってるだけありがたく思え』と、そう言うに決まってる! 今はそんな時代なんだ!」


 時計屋の言葉を、棚主も津波もただ聞いていた。二人は時計屋の過去を知らない。同じ場所に住みながら、一度たりとも聞かされたことがない。


 そして今その断片を口走る彼の形相もまた、隣人達が過去に見たことのない激しさをはらんでいた。


「私は幸太郎を知らない。彼という人間を、ほとんど理解していない。だから彼を好ましいとか、愛しいとか、友達だと思うような気持ちは、まったくない」


「……」


「だが、孤児院は嫌いだ。孤児院に子供を送るのは、反対だ……あそこは、地獄だから」


「ええっと、ちょっといいか時計屋? 何て言うかさ、たぶん、気持ちがたかぶって話の要点がずれていってるんだよな」


 津波がドーナツを食い終わり、話を引き継いだ。うつむく時計屋から棚主に視線を移し、頭をかきながら口を開く。


「つまりさ、俺達は俺達で、これから一緒に暮らす幸太郎の今後を考えてみたんだよ。まあ、あいつが最終的にどこに行くのかは分からないけどさ……あいつはもう、一人なんだよな。親を殺されてさ、人生を一人で歩いて行かなきゃならないわけだろ」


「ああ」


「それって幸せなことだと思うか?」


 真顔で訊く津波に、棚主はほんの少し口をゆがめる。返事が来る前に津波は両手を広げ、続けた。


「つらいぜ。どう考えたってしんどいよ。時計屋みたいに孤児院全部を否定するわけじゃないけど、幸太郎はきっと、これから何度もすごくさびしい思いをしていかなきゃならねぇんだと思うんだよ」


「それとびるぢんぐの前で火を焚くのと何の関係があるんだ?」


「ありゃあマスターが勝手にやっただけさ。幸太郎に飯食わせるのが楽しいらしくてさ、わざわざドーナツなんてしゃれたもん持ち出して、外で宴会やろうぜ、ってさ。……でも、幸太郎は、マスターの料理を心底うれしそうに食うんだよ」


 津波が棚主をじっと見つめる。


 びるぢんぐの住人の中では、津波が一番の年上だった。

 ふだん棚主はそのことをまったく意識しないが、今は何故か、大人にさとされる子供のような心地になっていた。


「あいつは、まだ十一だろ。十一のガキが親殺されて、何日も経ってないのに……ちょっと美味い飯食っただけで、笑えるもんかな」


「……無理はしてると思う。彼は、賢い子だから」


「ああ、賢くて、良い子だ。だが、潰れる時は一瞬だ」


 棚主はハットを取り、がしがしと頭をかいた。なでつけた髪が垂れ下がり、目の前に落ちてくる。


「時計屋と同じで、俺も親を知らん。幸太郎の苦しみを、正しく理解しているとは言いがたいな」


「理解する必要はないさ、ただちょっとだけ、支えてやろう。あいつが俺達から離れるまでの間、せめて楽しい思い出をくれてやろう。悲しみが消えることはなくても、人生に良い思い出があれば……なんとか、生きていけると思うんだ。そしてあいつがつらくて、しんどくて、どっかに逃げ出したくなった時にさ、この葛びるを思い出してくれるようにしようよ」


 棚主はつい、空を仰ぎながら「こいつらこんなに饒舌じょうぜつだったっけ?」とぼやいていた。


 二人の視線を受けながら、浮かべる表情が分からぬようなひきつった顔を戻す。


「とんだ子供好きだ。俺が浮浪児やってた頃にはいなかったぞ、あんたらみたいなのは」


「いたさ。ただ、出会わなかっただけだ」


「どっちでもいい。とにかく外で火を焚くのは禁止だ……まったく、壮大な言い訳をしやがって」


 立ち上がり、大皿のドーナツを一つ取り口に放り込む棚主。

 だが言葉とは裏腹に、この連中になら大西巡査との話を伝えても眉一つ動かさないだろうなと。


 棚主はそう胸の内でつぶやき、口端をゆるめていた。

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