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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  一章  葛びるの人々
27/110

 牢屋の中に寝転ぶ河合に、女は格子こうしをへだてて声をかけた。


 河合は一瞬身を起こそうとしたが、傷ついた背筋に激痛が走ったらしく、再び床に寝転んで芋虫のようにもだえる。

 彼の頭部と上半身裸の背中には包帯が巻かれていて、床にはいくつか、嘔吐おうとした跡があった。


 格子の前に立つ女は、そのザマに声もなく口端をゆがめて笑う。


難儀なんぎやな、河合のおっちゃん。年取って一人で静かな部屋に倒れとるのは、こう、心が寒うなるやろ? 誰も助けてくれへん、構ってくれへん悲しさ、人生の色んなことを後悔しとうなるんちゃうか?」


「うっさいわボケ……! 旦那さんは何て言うとるんや……何ヶ月で出してくれる?」


 顔も向けずに訊く河合に、女は今度はくつくつと声を立てて笑う。


 女は若く、人好きのする顔立ちをしていた。鼻と、目の下にそばかすがあり、優しげに弧を描く目は、見る人に安心感を与える。しかしその服装、いでたちは、普通ではなかった。


 黒髪を男のようになでつけ、額をさらした彼女は袖のないワイシャツを着て、胸元に『又の字』……いわゆる『アスコット・タイ』を締めている。

 下半身はスカートではなくズボンを穿き、まるで亜米利加アメリカのガンマンのような、拍車のついた靴を履いていた。


 いくら東西の文化が入り混じる帝都東京とはいえ、あまりにも奇抜すぎる格好。河合はそんな女に対する侮蔑ぶべつを隠すこともなく、吐き捨てるように言った。


「ワシは価値のある狂人や……旦那さんは絶対に助けてくれはる。お前みたいなカッコだけの若造とちゃうんじゃ……」


「あはは、狂ってしもうた人間に価値なんかあるんかあ? しかもおっちゃん、そこらのゴロツキにやられたんやろ? 警官が言うとったで、善意の一般人がおっちゃん捕まえたってな」


「ワシは何人も殺した後やったんや! 分からんのかボケナス! 疲れとったら油断もするわ!」


 背を向けたままの河合には分かるはずもなかったが、彼の台詞を聞いた女の顔が、瞬時にして豹変した。笑みをたたえていた顔に軽蔑けいぶの色が満ち、小さく舌打ちをする。まるで虫けらを見るような目で、河合に、変わらぬ優しげな声を降らせる。


「おっちゃん、あんたの一番肝心な仕事って何やったっけ。馬車屋の三吉を殺すことやったか? 刈田夫妻を消し炭にすることやったか? ちゃうやろ? なあ、全然ちゃうやろ?」


「分かっとるわ……せやからこれは、前準備や。これで邪魔者は居のうなったわけや……ここから出たら、そのまま始末しに行ったる。楽しみは最後にとっとくもんや」


「いや、全然分かってないわ。おっちゃん、何考えてんのん」


 冷たい女の声に、河合は初めて首を持ち上げ、視線を彼女へと向けた。

 眉間や鼻面に醜悪なしわを何本も刻み、自分を睨んでいるその顔に、河合がぐっ、と喉を詰まらせる。


「ま、又の字……!」


「『何ヶ月で出してくれる』やと? アホが。何のために旦那さんがお前みたいな『狂犬』を放ったと思うとるんや。大事になっても、確実に、一発であの子を始末するためやろうが。ええ?」


 又の字と呼ばれた女がズボンのポケットに両手を入れ、格子を蹴りつけた。

 そのまま銀色の拍車でがりがりと格子を削り、牢の中に唾を吐く。優しげでほがらかな顔つきは、もはや影もなく消えうせていた。


「せっかく旦那さんが刈田一家を消す舞台をあつらえてくれたのに、肝心の息子を取り逃がすたあどういう了見やボケぇ! 好き勝手燃やすだけ燃やして新聞沙汰になって、なーんも収穫なしやないか! あの子の顔すら分かっとらんのやろ!」


「し、仕方なかったんや……あのガキ帽子と襟巻きで顔隠しとったし……そ、それに大丈夫や! ここには旦那さんの()の警官がおるんやろ? そいつに訊けばええ……ガキの取り調べをした刑事から情報が取れるはず……」


生憎あいにく取り調べの刑事はうちの犬とちゃう。まっとうな警官や。お前がしくじるなんて思うてなかったからな……身内の警官に、顔をしっかり見た者はおらん」


 床に手をつきあえぐ河合に、又の字は天井を仰いだ。瞳だけで河合を睥睨へいげいし、再度舌打ちをする。


 彼女の背後には、警官が一人部屋の出口に背を向けて立っていた。彫刻のような無機質な表情の警官は、まるで又の字達の会話が聞こえていないかのように黙している。


「かろうじて、あの子が警官の誰かの家にかくまわれたってことだけ分かっとる。あとはウチの仕事や……おっちゃんよ、一八八九年から亜米利加の『にゅーよーく』で、電気を使った処刑が行われとるそうや。電殺っちゅうやつやな」


「な……何……?」


「びりびりーっと体に電気を流して、殺すんやと。ただ、我が国のお偉いさんは電殺は人間味に欠けた残酷過ぎる処刑法やから、導入すべきやないって言うとるそうや。こう、生きたまま火葬するような、気分の悪い死に方なんやと。火葬。火葬やで、おっちゃん。生きたまま燃やすんや」


 又の字が格子に両手をつき、舌を出した。死んだ人間から自然に垂れ下がるような、異常に長い、赤い舌。それがちろちろと、格子をなでる。


 河合は真っ青な顔をして、口をぱくぱくと開閉した。だが言葉は出てこず、引きつった呼吸の音が漏れるだけだ。


「おっちゃん、あんたにぴったりの死に方やないか。旦那さんはな、いっぺん本物の電殺を見てみたいっておっしゃってな……死刑の担当者に手ぇ回して、特別におっちゃんを輸入物の椅子に座らせてくれるんやて。電気の椅子にな」


「待……! ワシ……を……!」


「旦那さんも、ウチもな。自分の仕事に誇りを持っとらんやつが大嫌いなんや」


 言葉にならぬ叫びを上げる河合に背を向け、又の字は部屋を出て行く。扉を開ける警官に去り際、「余計なこと喋らんよう、口封じとき」とささやく。


 警官は静かにうなずくと又の字を見送り、後ろ手に扉を閉めた。


 河合を無表情に見つめ、おもむろにポケットから、右手で牢屋の鍵を、左手で薄汚れた、食器のかけらを取り出す。牢内の罪人が手にできる道具を使うことで、河合が自白を拒んで自傷したように見せるつもりだった。


 喉さえ潰せば、河合はもう誰にも、何も伝えることができない。河合は文字を読むことも、書くこともできなかった。


 だめ押しに両目もえぐってしまおうか。流石に怪しまれるだろうか? いや、河合は狂った放火魔、凶悪犯罪者だ。狂った男が常軌じょうきいっした自傷に及んでも、何の不思議もない。何とでもごまかせる。


 警官は無表情のまま一人納得して牢屋の鍵を開け、恐怖にわめき散らす河合に手を伸ばした。




 目がさめた瞬間、血の気が引くのが分かった。


 寝台に寝転んだ視界には窓を激しく叩く雨粒と、その向こうで踊るようにゆれる、カエデの木の枝。

 よもやと思い柱時計を見ると、針は午前十一時を指していた。


 幸太郎は朝に弱い。だからいつも窓際に寝て、朝の日差しを顔に浴びて体を起こすようにしている。逆に言えば、日差しの弱い日や雨の日は、寝過ごすことが多かった。


 葛びるに泊めてもらった初日に惰眠だみんをむさぼってしまった幸太郎は、寝台から飛び降りて髪を指ですく。鏡がないから、身だしなみを整えることもできない。

 顔を引きつらせて扉を開け、ホールへ出た。


「ごめんなさい、寝すぎました! もうお昼……」


「あら、かわいいボウヤ」


 頭上から野太い声が降ってきた。見上げれば、背広姿の男達が三人、さわやかな笑顔で幸太郎を見下ろしている。ぽかんと口を開ける幸太郎に、一番背の高いひげ面の男が屈み込み、ポケットからあめを取り出して差し出してきた。


「飴食べる? ねぼすけさんね、でも寝る子は育つって言うしねえ」


「マーちゃん、この子女の子じゃないの?」


「ンもう、お莫迦さんねチサト! 臭いで分からないの? 男よ男! 将来男前になるわよぉー」


「アタシ達の仲間入りしたら? 稼げるわよ、ってごめんねぇー寝起きで生臭い話して!」


 ごつい男達が女のように口元に手を当て、「ホホホホー」と笑っている。


 人生で初めて遭遇する異常事態に、幸太郎は飴を握らされながら目を剥いていた。何だ、この人々は。外見と口調が一致していない。


 そんな男達の後ろから、ハンチング帽をかぶった小男が森林をかきわけるようにして現れた。「はいはいごめんよー」と幸太郎の袖をつかむ小男は、確か津波という名の住人だ。きゃめらまんをしていると昨夜紹介を受けていた。


「無事か小僧。まずいとこに現れたもんだなあ」


「まっ! 失礼ね津波ちゃん! そんなんじゃ一生お嫁なんかもらえないわよ!」


「こいつらはここの客でな、たまに珈琲コーヒーを飲みに来るんだ」


 男達を無視して、津波は幸太郎をカウンターに連れて行く。カウンター席には時計屋が座っていて、小さな懐中時計をいじっていた。その向こうではマスターが、げんなりした顔で和蘭芹オランダゼリ(パセリ)を刻んでいる。


 幸太郎が着席すると、先ほどのごつい男達がきゃいきゃい言いながら追いすがって来た。みな、服装は立派な紳士の格好をしているのに、腰と手首がくねくねしていて気持ち悪い。

 彼らに何があったのか。呆然とする幸太郎に、マスターがひきつった笑顔で説明する。


「いわゆる素人しろうと女形おやまというか、女性になりたい男性というか。昔から陰間茶屋かげまちゃやなんていって、男性が男性を、こう……女性のようにもてなす商売があったんだよ。彼らはそういう仕事をしてる人達で……」


「『彼ら』じゃない! 『彼女ら』!」


 鼻を太い人さし指でぐにゃりと潰されて、マスターは「ふぁい」と変な声を上げた。

 さりげなく時計屋と共に幸太郎を挟むようにして座った津波が、狭い肩をすくめる。


「葛びるにはこいつらみたいに、あまり日なたじゃあ見かけないような連中がやって来る。というより、そんなやつらがハメを外しに来るんだな。世間じゃ同性愛者を追放したいやつは多いが、少なくとも俺らにゃそこまでする気はねえ。こいつらだって普段は紳士ぶってやがるんだぜ」


「そうよぉ、本当はお髭もって綺麗な着物を着たいんだけど、明治からこっち世間が冷たくてねえ」


「西洋化のせいよ。もっと言えばキリスト教のせい。陰間の歴史はすっごく古いのに、異性装が不道徳だーって考え方が外国から入ってきてから、みーんなそっちに向いちゃってさ」


 フン! と鼻を鳴らす角刈りの男が、幸太郎の首筋を指の腹でなでた。ねちっこい触り方に、ぞぞぞっと鳥肌が立つ。


「そりゃあ人の趣味は好き好きだし、あたしらが気持ち悪いって言うなら仕方ないけど? 昨今さっこんは嫌われるどころか犯罪者扱いしやがるから腹が立つのよ。犯罪者って、法律を犯した人のことじゃない? 少なくとも今、異性装は違法じゃなくてよ」


「以前男色が違法化されたことはあったけど、今は違うわね。でも聞いた? 異性装の常習者は警官に摘発されることがあるかもしれないんだってよ」


「ふざけてるわ! 法的根拠がない逮捕は違法逮捕よ! 法の番人が法を犯そうっての? 帝国が法治国家から遠ざかるわ!」


 彼ら……いや、彼女らは、彼女らなりに自分達の地位を守るために知恵をつけているらしい。難しい言葉を使って議論する大人達に目をぱちくりさせる幸太郎に、マスターが「お昼、オムレツでいいよね?」と卵を割りながら苦笑する。


 口を開こうとした幸太郎の周囲で、またもや紳士の格好をした淑女しゅくじょ達が野太い歓声を上げた。


「やだあ、マスターったらオシャレさん! どしゃ降りの雨の日にミルクホールでオムレツ食べるなんてちょっとした『絵』よ!? 西洋絵画にありそう!」


「よく分かりませんが、食べたいなら座ってください。幸太郎君がおびえてます」


「はーい!」


 いそいそと着席する彼女らに、葛びるの住人達はほぼ同時に、深く息をついた。


 熱したフライパンにバターを落とし込む良い匂いが立ち上ると、津波が新品のシャツの襟をつまみながら、幸太郎に笑いかける。


「珍妙な光景で恐縮だが、これがこのびるぢんぐの日常だ。変な奴らが集まる変な場所、ま、たいがい閑古鳥かんこどりが鳴いてんだがな」


「マスターが悪いのよ。休みたい時に勝手に休むから、日参できないのよ」


「わ、私は自由業ですから」


 無責任極まりないことを言うマスターが、卵を一気に三つもわんに落としてフォークでかき混ぜる。塩を入れたそれをフライパンに注いで、軽く混ぜながら形を整え、フライパンを返す。


 くるりと半月形の卵が空中に舞い、すとんとフライパンに落ちた。「わっ」と思わず声を上げた幸太郎の目の前に皿が出され、フライパンからするりと、何も具を入れていないオムレツが滑り落ちてくる。


 見事な手際は、腐っても料理人か。マスターはそのままフライパンに少量のバターと刻んだニンニク、和蘭芹を投入していためる。釜から飯を木べらですくいとり、フライパンの中へ。フライパンを揺すりながらかき混ぜると、最後にしょうゆで味付けして、皿の上のオムレツのわきへ木べらで形を整えながら降ろした。


 目をきらきらさせている幸太郎に少々照れながら、マスターはフォークとスプーンを差し出した。


「はい、オムレツ定食お待ちどう。飲み物はどうする? 珈琲飲めるかな」


「飲んだことないけど飲みたいです! でも、なんだかすいません。こんな贅沢ぜいたくさせてもらって」


「贅沢?」


 きょとんとするマスターに、依然懐中時計に工具を差し込んでいた時計屋がぼそりと言う。


「田舎の人間から見れば、東京の食生活は贅沢で異常だろう……」


「洋食なんてほとんど食べたことないんです。いただきます!」


 合掌してオムレツをフォークで切り分け、大事そうに口に運ぶと、幸太郎は一瞬目をみはった後に破顔した。


 噛むのを惜しむように卵を舌の上で転がすと、なめらかな表面から半熟の中身が染み出してくる。鼻から幸福そうに息を漏らす彼に、誰よりマスターが満面の笑みを浮かべ、嬉しさに身をくねらせながら珈琲をいれる。


「いやあ、いやあ、何をおっしゃいますやら。そんなにおいしそうに食べてもらえるならオムレツの一つや二つや三つ……むふふ、むふふふ」


「そんじゃあ早いトコ俺らの分も焼いてくれよ」


 津波が言うと、時計屋を除く大人達全員が口々にマスターをかす。「あんた達もちょっとはありがたがりなさいよ!」とカウンターに珈琲を置くマスター。そこで幸太郎はふと、気づいたように周囲を見回した。


「そういえば、おじさん……棚主さんは、いないんですか?」


「やつなら出かけてるよ。ほら、お前さんの話を警察に伝えるって言ってたろ? 顔見知りの巡査に会いに行ったよ」


 津波がささやくように言うと、幸太郎の目の前でマスターが巨大な椀を取り出して、卵を両手でバカバカと割り始める。


 幸太郎は勢い良く卵をかき混ぜる音を聞きながら、どしゃぶりの窓の外を眺めていた。

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