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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  一章  葛びるの人々
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「――ミルクホールの奥に休憩室があってね。そう、その階段の横の部屋。普段は私が使ってるんだけど、今日から幸太郎君の部屋にしよう。狭いけど寝台も机も、本棚もあるんだよ。高いところにある窓は『はめごろし』だけど、空とカエデの木の枝がうまいこと見えていて、中々風情があるんだ」


 幸太郎少年に福々しい笑顔で説明するマスターが、休憩室の扉を開ける。


 木板に囲まれた部屋はおおむねマスターの説明どおりの様相だったが、寝台の上には食べ残しのたい焼きの皿と酒瓶が転がっており、枕にはマスターの下着がかぶさっていた。


 本棚には思想書や聖書がずらりと並んでいる。しかし棚主がその一つを開いてみると、真面目な表紙の中身は白紙で、日本髪の美女のヌード写真が貼り付けてあった。


「風情、ね」


「し、室内ランプはあるけど明かりが弱くてね。ホールには電気照明が点いてるから、単に明かりが欲しいだけなら扉を開けといたほうが効率的だよ!」


 棚主から卑猥ひわいな聖書をふんだくり、マスターは笑顔を引きつらせる。

 だが幸太郎少年は部屋の惨状を目の当たりにしても表情を動かすこともなく、マスターと棚主にぺこりと頭を下げて礼を述べた。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。行き場が決まるまでの間、どうかよろしくお願いします」


「あっ、これはご丁寧に……」


 幸太郎少年は年のわりにとても礼儀正しく、腰が低い。頭を下げられた大人達の方が恐縮してしまうほどだった。


 マスターは「とにかく、遠慮なくくつろいでね! 自分の家だと思って!」と笑顔を撒き散らし、寝台の上のゴミと食べ物をかき集めて部屋を出て行く。

 おそらく掃除用具を取りに行ったのだろう、「ほうきほうき! バケツ! 雑巾!」と一人で騒いでいる。


 不意に棚主と二人きりになった幸太郎少年は、右手の人さし指を左手でつまみながら、ちらちらと視線を送る。子供の目線からは、体格の良い棚主は巨人のように映るはずだ。


 棚主はなおもマスター秘蔵の聖書を物色しながら、そんな幸太郎少年に声を投げる。


「うん、そろそろ訊いてもいいかな?」


「……はい」


「見たんだね?」


 ハットの奥から、棚主の目が少年を見る。口元は笑みを浮かべていたが、目は笑っていない。

 幸太郎少年は律儀に寝台に向かって一礼してから、腰掛けた。うつむいた顔に、はらりと前髪がかかる。


「ぼく、あの夜、三吉さんの家の中にいたんです。お父さんとお母さんも一緒で、もう布団ふとんに入ってました。それで……いきなり、三吉さんの悲鳴が聞こえて」


「うむ、家の前で馬車を掃除していた三吉が、ヤクザに襲われたわけだ」


「お父さんが助けようと言ったけど、相手はたくさんいて……警察を呼びたくても、電話がなくて。みんなで『火事だ!』って叫べば近所の人が来てくれるんじゃないかって、そう話してたら……おじさんが」


 少年が棚主を見上げ、すぐにまたうつむく。


「……電柱のそばに立ってるのが見えたんです。おじさん、携帯電灯(懐中電灯)を持ってたから。『あの人に報せよう』って、みんなで声を上げようとしたら……おじさんは、電灯を消して……その後……」


「一部始終を見られてたわけだ」


 棚主が聖書を見もせずにめくりながら、笑った。

 ぱらぱらと紙をめくったまま、「で」と首を傾ける。


「何故俺がこのびるぢんぐに住んでると分かった? まさか尾行したわけじゃないだろう」


「尾行したんです」


「……」


「お父さんが。……おじさん、喧嘩の後ちょっと離れてから、また電灯を点けたでしょう? それで追って行けたんです。このびるぢんぐに入って行ったって……あの……お父さん、探偵だったんです」


 少年の言葉に、棚主の手が止まった。

 聖書を持ったまま、壁を見つめる。


「ごめんなさい。でも、どうか許してあげてください。お父さんはおじさんの居所を知ってました。銀座の葛びるって建物にいるって、ぼくに教えたんです」


「だから何だって言うんだ。多少腕っ節が強そうだから、何かあったら助けてもらえとでも言ったのか」


「こ……今夜のことで……(おど)せば、お金を取れるだろうって……」


 泣きそうな声で言う少年に、棚主はあんぐりと口を開けた。

 だがすぐに口を閉じ、聖書を本棚に戻す。眉間を指で揉みながら、「まあ……」と息をついた。


「探偵なんざ、そんなもんだろうな。ろくな人間なわけがない」


「ごめんなさい」


 少年は小さく何度も謝りながら、前髪が膝にかかるほどに背中を曲げ、震え出した。棚主はそんな相手に少し迷ってから「いや、失言だ。忘れてくれ」と手を振った。


 自分を脅すつもりだった父親には腹が立つが、その父親の代わりに頭を下げる息子を責める気にはなれなかった。何より両手で口を覆い、女の子のような声で泣く彼を見ていられなかった。


「余計なお世話だろうが、男がそんな声で泣くもんじゃない。ろくなことがないぜ」


「……はい……」


「俺はね、あの夜はちょっと気になってた活動写真を観に行ってたんだ。『人の花』って作品なんだが、警察の石頭どもが姦通……ええと、つまり、あまり良くない題材を扱ってると言って、公開禁止にしようとしてるんだよ。だから観れる内に観てこようと、出かけた帰りだったんだ」


 棚主は腕を組み、本棚にもたれた。ろくに掃除もしてない棚の上から、わずかにほこりが落ちてきた。


「で、たまたま三吉が襲われてるのに出くわした。彼と面識はなかったが、あんまりな状況だったんでね。ああいう運びになった……俺のことは警察には言ってないんだろう?」


「訊かれませんでしたから」


「よし」


 一つ息をつき、うなずく。


 おおよその経緯はこれで理解できた。この少年が棚主を知っていた理由、葛びるまでやって来て頼ろうとしたのは、棚主がヤクザを半殺しにして三吉を助けたのを、その目で見ていたからだった。


 棚主なら河合から自分を守ってくれると考えたのだ。ならば、残る疑問は一つだけだ。


「何故警察に行かずに、俺を探していた? 銀座には立番している警官が何人もいる……目につかなかったはずはないだろう」


「……」


 少年は棚主を見たまま、頬を引きつらせる。寝台のシーツを握り締め、言葉を探すように視線をさまよわせる。


「警察は……信用できないから……」


「何?」


「ぼくのお母さんは、警察が嫌いだったんです。だから、死んでも近づいちゃいけないって」


「死んでも……」


 棚主はあごを指でなでながら、少年を見下ろした。


 と、その時突然扉の向こうで、凄まじい騒音と悲鳴が響く。びくりと肩を跳ねさせる少年の耳に、マスターの「ああ! 花瓶が! 私の花瓶が! ほうきのせいで!」という声が届く。どうやら運んでいた掃除用具をひっかけて、店の花瓶を落としてしまったらしい。


 棚主はそっと半開きになっていた扉を閉め、マスターのわめき声を遮断しゃだんした。少年に顔を向けると、ささやくように最後の質問を投げる。


「――ヤクザや、放火魔は……本当に三吉を狙って来たのか?」


 少年の目に、明らかな動揺の色が走った。

 棚主は彼に歩み寄り、眼前にしゃがみ込む。目線の高さを合わせると、再度口を開いた。


「狙われたのは……親父さんか?」


「……」


「……お袋さん?」


「……」


 無言が答えだった。棚主が少年の肩に両手を置く。細い、華奢きゃしゃな肩。ろくに食べてない体だった。


「大事なことだから、正直に言うんだ。君は俺を頼った。他人に助けを求めたからには、少なくとも事情を話す義務がある。君が真実を隠すと、俺や、あのマスターにも危険が及ぶ……きつい言い方をするが、それは俺達への、裏切りだ。分かるね?」


「あ……の……」


「狙われたのは君だな?」


 少年が、数秒迷ってから、うなずいた。

 棚主が「よし」とうなずき返してから、ゆっくりと口を開く。


「狙われた理由は分かる?」


「……お母さんしか、知らない」


「何故?」


「お母さんが、言ってたんです。帝都に行けば、今の暮らしから抜け出せるって。ぼくを連れて行けば、何もかもが変わるって……でも、それを良く思わない人達がいて、僕を奪いに来るかもしれないって、そう言ってたんです。お父さんやぼくが、それ以上のことを訊いても、教えてくれなくて……三吉さんのお世話になってる間も、お母さんは一人で、誰かと会ってたみたいでした」


 誰か。眉を寄せる棚主に、少年は続ける。


「あのカッフェ……三吉さんに送ってもらったお店で、会うはずだったんです。お母さんの……遠い親戚の人だって……」


「親戚? お袋さんは天涯孤独と聞いたが……」


「詳しいことは知りません。でも、その人と相談すればもう、何の心配もいらなくなるって……そう言ってたのに」


「……その『誰か』の名前と、顔は……分からないんだろうなあ」


 うつむく少年に、棚主は鼻をかいて目を閉じる。

 やはり事件の真相は、別にあったのだ。三吉は、少年を狙う者達が襲撃の目的を隠すために、利用されただけだったのだ。巻き添えを食い、殺された。


 棚主は立ち上がり、少年の頭をがしがしとなでた。「よく話してくれた」と笑み、大きく息をつく。


「今の話は、びるぢんぐの連中と大西巡査に伝えさせてもらう。お袋さん達が会うはずだった人物も、捜してもらうよう頼もう」


「あの、何と言うか……三吉さんとお父さん、お母さんは見つかってしまったけど……ぼくは大丈夫だと思うんです! 帝都に来る前から、あの格好で……お母さんの言いつけで、ずっと顔を隠してたから」


 少年が寝台から腰を離し、棚主を見上げてくる。


「か、鏡を見ても、ぼく自身ぼくだって分からないぐらいだったんです! その、襲ってきた人達にまだ仲間がいて、ぼくを見ても、ぼくが刈田幸太郎だって分からないと思うんです! もう違う格好だし、それに……」


「君は大西巡査の家にいることになっている。万一警察の情報が漏れたとしても、君がここにいるとは分からない。大西巡査の家は、銀座にはないからな……あの人は日本橋に住んでるんだ」


 棚主が肩をすくめ、少年に「心配しなさんな」と笑って見せる。


「放り出したりしないさ。ここに住んでる連中はみんなわけありのろくでなしでね、不穏な話にも、まあ、慣れてる。警察も放火魔どもを締め上げてる最中だし、仲間がいるならじきに捕まるよ」


「……」


「義務を果たしてくれたなら、義理を返す。ま、隣人としてよろしくつき合ってくれ。幸太郎君」


 棚主はもう一度少年、幸太郎の頭をなでると、扉を開けて「おーいまだかよ! ほこり臭いぞこの部屋!」とマスターに叫んだ。


 マスターはホールの真ん中で割れた花瓶を掃除しているのかと思いきや、お気に入りの花瓶のかけらを抱いて「ごめんよごめんよ」と、おいおい泣いていた。


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