四
翌日、朝刊には一連の放火殺人事件の顛末と、主犯である河合雅男の名が載った。
白昼の銀座で人の乗った馬車を炎上させ、さらに男性二人を焼き殺した老人は、駆けつけた警官と一般人に取り押さえられ現在取り調べの最中であるそうだ。
棚主達や生き残った子供に関する記述はほとんどなく、記事の要旨は放火魔の老人、河合雅男の犯行の凶悪さに終始していた。
朝刊に一通り目を通して息をつく棚主に、マスターが引きつった笑顔でアイスクリームを運んで来る。卵とレモンの味の仏蘭西風アイスクリーム。資生堂パーラーの名物だ。
昨日時計塔へ向かう道程で脱落したマスターは、結局現場にも警察署にも現れず、パーラーで一人アイスクリームを食べて帰ってしまっていた。
まさか棚主達が放火魔と一戦交えていたなどとは思いもよらず、夕方に帰って来た棚主達を笑顔で迎え、お土産のアイスクリームを勧めて、文字通り肘鉄を食らったのだった。
「何だい、昨日とは別のアイスクリームじゃないか。また買ってきたの」
「うちの冷蔵庫じゃアイスが溶けるのを遅らせるだけで、保存はできないんですよ。勘弁してくださいよお棚主さん……三人分のアイスを食べたおかげで昨夜はずっとお手洗いにこもってたんですから。そろそろ許してくださいよ」
「言うほど怒ってないけどね。しかしあのメモを持ってきた子と唯一会話をしたあんたが、現場に来ないんじゃしょうがないじゃないか」
「反省してますって。あ、早く食べたほうがいいですよ」
銀のスプーンをマスターから受け取り、棚主は一口アイスクリームを食べる。朝飯を抜いていたせいもあり、一昔前の高級洋菓子は驚くほど美味かった。
わずかに頬が緩むのを見届けてから、マスターはテーブルの対面の席に腰掛け、もみ手をしながら言う。
「で、結局何だったんですかあの子? 棚主さんに会いに来たんですよね?」
「そうらしいが、全く覚えがないんだ。あの子もまだ警察署にいるはずだから、しばらくは話を聞けんだろうし……」
「そうでもないぞ」
不意にミルクホールの扉が開き、大西巡査が入って来た。その手を、粗末な着物を着た少年が握っている。
少年は髪を耳の下まで伸ばし、日に焼けていない青っ白い顔色をしていた。その目は赤く、わずかにうつむいて、ミルクホールの床を見つめている。
「誰です? あんたの隠し子?」
「莫迦か」
マスターの戯言を一蹴し、大西巡査は少年を連れて棚主達のテーブルに歩み寄る。
空いた席に少年を座らせると、大西巡査は棚主のアイスクリームを見つめながら言った。
「昨日お前らが助けた子だ。刈田幸太郎、十一歳」
「げっ! 男!?」
声を上げたマスターに、棚主が額を手で押さえながら天井を仰いだ。十三、四歳の美人に違いないとうかれていた助平へ、「良い目だな」とため息混じりに言う。
「普段からいやらしいことばかり考えているから誰でも女に見えるんだ。あんた、女の客にひいきしすぎるって評判悪いぜ」
「そんなあ! あの声で男? 本当に? うわあ」
勝手に落ち込んで頭を抱えるマスターを、少年は上目づかいに見る。不安そうな、心配しているような、そんな視線。一方彼を連れて来た大西巡査は完全にマスターを無視し、棚主に向かって口を開く。
「幸太郎君は、やはり馬車内で焼死した夫婦の息子だったよ。両親が御者と話している間に馬車を降りて、カッフェの中を覗いていたら、突然馬車が炎上した。そして火を放った河合と目が合い、追いかけられたと……そう言っている」
大西巡査の言葉に幸太郎少年はさらに深くうつむき、唇を噛んだ。
両親を一度に失い、狂った放火魔に追いかけ回された少年に、棚主は自分の食っていたアイスクリームを差し出してみる。「どうぞ」と言うと、少年は「ありがとうございます」ときちんと礼を言ってスプーンを取った。
行儀の良い子だ。少なくとも食べかけのアイスクリームを人によこす棚主より品が良い。
「で……彼を何故ここに連れて来たんだ? 巡査? 取り調べが終わったのなら家に……いや、親戚か誰かの所にでも、帰してやればいい」
「それがな、いないんだよ、親戚が」
大西巡査はいつまでも落ち込んでいるマスターをつつき、「俺にもアイス」と催促する。しかし「あれで最後です」と幸太郎少年のアイスクリームを指され、「じゃあ茶でいい」と妥協した。
カウンターへ立つマスターの背を見送りながら、咳払いをひとつして話を再開する。
「刈田夫妻の戸籍がないという話は覚えてるだろ? あれから色々調べたんだが、どうも刈田一家は、炎上した馬車の持ち主……御者の家にやっかいになっていた、居候だったらしいんだ」
「何だって? じゃあ、馬車屋と客の関係じゃなかったのか」
「そうらしい。この幸太郎君が言うには、自分達には一家三人以外に身内がおらず、昔から地方を転々としていたそうだ。母親はもともと亡くなった祖母と二人暮らしをしていて、一方父親は前科者で、家を勘当されたごろつきだった。天涯孤独の二人が出会ってもうけた息子が、幸太郎君というわけだ」
「つまり、親類も住所も持たない、根無し草の一家か」
「おそらく両親が夫婦の関係になった時も、幸太郎君が産まれた時も一切役所に届け出ず、そのまま放浪生活を続けていたんだろうな。だから戸籍情報に混乱が生じたんだ。父親の方が前科者だから、わざと過去の足跡を消し去ろうとしたきらいもある。
それで、馬車の御者の方だが……彼は植野三吉という名で、やはり独り者だった。両親もかなり前に亡くなっている。
路上で夜明かししようとしていた刈田一家を見つけ、同情心で家に泊めてやっていたそうだ」
アイスクリームを口いっぱいに頬張った幸太郎少年が、目からこぼれかけた雫を着物の袖で拭いていた。大西巡査は彼の方を見ようとはせず、「まあ、しかし」とわざとらしく声を大きくして続ける。
「刈田一家にとって不運だったのは、三吉が鉄道会社に狙われていたことだな。三吉は河合に殺害される前日、鉄道会社の雇ったヤクザ者に襲撃されている。こいつらもおそらく、河合の仲間だろう……三吉を狙った襲撃事件に巻き込まれたんだ。かわいそうに」
瞬間、棚主の顔色が変わった。大西巡査に鋭い視線を向け、しかし感情を殺した声で訊く。
「御者が夜道でヤクザ数人に襲われた……例の事件か」
「そうだ、お前も新聞で読んだろう」
「やつらが鉄道会社の回し者だと何故分かった? あくまで噂だっただろう。鉄道会社が馬車業者を脅迫して、廃業させたがってるなんてのは」
「自白したんだ。逮捕されたヤクザどもが、鉄道会社に雇われたとな。事実現場には、三吉に署名させようとした『誓約書』も落ちていた。今後二度と馬車による業務を行わない、って内容のやつだ」
「河合も駅員の半纏を着ていた。俺達に自分は鉄道関係者だと話したよ……わざわざ、な」
「何?」
「ヤクザも河合も、実は鉄道会社や鉄道院に罪をかぶせようとしたんじゃないのか。俺にはそう思えてならん。巡査、案外この事件、狙われたのは三吉ではなく……」
そこまで言った棚主に手の平を突きつけ、大西巡査は首を振った。真剣な顔をする大西巡査のその手の平に、茶を運んで来たマスターが雰囲気を読まずに湯飲みを握らせる。
大きく『酒池肉林』と彫られた湯飲みを握ったまま、大西巡査は棚主に言った。
「めったなことを言うな、探偵。現実の犯罪捜査にシャーロック・ホームズは必要ない。何の証拠もなく無責任な推理なんかで現場をかくらんする名探偵は、迷惑なだけだ」
「おおむね同意だがね。河合達は確実に何か隠してるぜ」
「やつらの取り調べは刑事達がぬかりなく行っている。心配いらん……とにかくお前は、妙な推論を他言するな。混乱を招くだけだ」
「分かったよ。……で……結局何なんだ?」
肩をすくめる棚主に、大西巡査が首をかしげる。ため息をひとつついて、棚主が食べ終わったアイスクリームに合掌する幸太郎少年を指さした。
「彼を連れて来た理由だよ。横山刑事に『一般人に情報を漏らすな』と言っていたあんたが、ぺらぺら事情を話してくれてるのは何故だって訊いてるんだ」
「ああ、それは……つまりだな、その……話したとおり、幸太郎君には身寄りがないわけだ。一家で地方を転々としていたから、当然寝泊りする家もない。いずれ孤児救済の専門家が彼の処遇を決めに来るだろうが、すぐというわけにはいかん。このご時勢、向こうも立て込んでるからな」
湯飲みの『酒池肉林』の字を突きつけ、次第に身を乗り出して来る大西巡査。棚主とマスターは嫌な予感に顔を見合わせ、あごを引く。
「警察での取り調べは終わったが、今後幸太郎君に意見を求める必要も出てくるかもしれん。かといって警察署に彼を置くわけにはいかん。実は上は、俺の家で彼を預かれと言ってるんだが……残念ながらうちは、お世辞にも広いとは言えん。嫁と二人で暮らすのが精一杯の小屋みたいな家だ。そこにきてこの葛びるは、とっても広い」
「おい、ちょっと待てよ」
「特にミルクホールがあるのが良い。育ち盛りの子供を養うには最高の環境だ。びるぢんぐのどこかに寝台でも置いて、寝泊りさせてやってくれればいい。で、飯を食わせて、預かってくれればいい。それだけでいい」
「それだけってあんたな」
「いいだろ! 昨日横山刑事を紹介してやっただろ! な!? な!? もっと意地の悪い刑事が取り調べを担当していたら歯の一本でも折られていたかもしれんだろ! 俺に恩があるだろ!? なあ!?」
湯飲みを握り締めて叫ぶ大西巡査を、棚主達はとうとう押しのけることができなかった。




