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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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老獣

 体中にガタがきている。それは十年以上も前から感じていたことだ。


 若いころは、彼もまた腕利きの喧嘩士だった。ぱんと呼ばれる組織で長くチンピラをして、兄貴分の気まぐれで阿片の運び屋を任されるようになった。


 買い付けや密輸の手段、難しいことはみんな幹部が考える。自分の役目は直接危険を負う実行部隊の一人として、命令に従い、商売相手にせいぜい恐ろしげなツラでこちらの条件を伝えること。


 警察に上げられたり、商売相手に舐められて取引が失敗したりすると、幇の刺客が即座に差し向けられる。大陸では人の命は安い。巨額の富をもたらす阿片の前では、運び屋などいくらでも取り替えのきく消耗品に過ぎなかった。


 一度の失敗が死につながるからこそ、運び屋達は必死に密輸と商談を成功させようとする。警官の追跡をまくために、見知らぬ少女の腕を折って道に転がしたこともあった。阿片を値切ろうとした取引相手の目玉をくりぬき、食わせたこともあった。


 極悪非道の振る舞いは、自分自身が粛清されぬための防衛行為だ。


 完全に人間性を捨てた者だけが、阿片の運び屋として年を取ることができる。


 老人は外道に堕ちたからこそ、幇の阿片部門の代表として日本に派遣され、ヤクザ相手の商売を任された。


 成功すれば、運び屋達の親分になれるはずだった。日本に十分な量の阿片を流通させるパイプを作れば、下級幹部に抜擢して部下をつけてやる。そう頭首は約束していた。危険な仕事は部下に任せて、自身は椅子に座って仕事ができる。


 粛清と隣り合わせの生活から脱出できる、最初にして最後の機会だった。


「夢。夢ね。はかない幻よ」


 老人は真昼間から酒を食らっている若者達を見つめながら、深く息を吐いた。


 場所は浅草。十二階と呼ばれる巨大な建造物がすぐそこにそびえ立つ、もぐりの娼婦達のひしめく裏通り。


 薄暗い道に勝手にござを敷き、テーブルと椅子を出して客を座らせている料理屋の主人は、鬼の刺青の彫られたごつい腕で老人にオムレツを運んで来た。


 見るからにまずそうな、水っぽいオムレツだ。おそらく卵に朝飯の残りの味噌汁を混ぜて、かさ増しして焼いている。


 腐ったような色の卵と同化している豆腐を見て、老人は主人の背に小声で罵声を投げた。


 隣のテーブルでは若者達が同じオムレツを美味そうに食いながら、明らかに梅毒に冒されている遊女の体をべたべた触っている。


 遊女の指にできた熟れたヤマモモのような出来物が視界に入ると、老人はたまらず代金をテーブルに置いて席を立った。


 欲はあるか。きれいな女を抱きたいと、良い服を着たいと、ちゃんと思っているか。


 古烏組組長の釘島に言われた言葉が、ずっと老人の頭に居座っていた。欲がなければ人間はおしまいだ。その台詞がずっと気になって、振り払えなかった。


 日本での商売を成功させ、比較的平和な、犯罪者の幹部としての生活を得たい。直接阿片を売り歩く危険な人生から脱却したい。それが老人の一番の欲望だった。


 それが夢と消えた今、他にどんな欲が残っているか。確かめるために町に出てみれば、なんと一つも見つからない。


 ポケットになけなしの札束をねじ込み、銀座を歩いてみた。


 様々な店を覗き、高い背広や貴金属、珍しい舶来品を物色しても、心から欲しいと思うものは一つもない。高級料理店は漂ってくる焼き肉の臭いだけで胸がもたれるし、唯一起業家のための経営指南勉強会の呼び込みが興味をひいたが、すぐに自分には縁のないものだと思い直した。


 この年で異国に新しい事業を起こすのはあまりにも遅すぎる。何より自分は阿片の取引に失敗し、組織にいつ刺客を送られてもおかしくない立場なのだ。


 真っ当な仕事ができるなら、初めから苦労などしていない。


 暗い道を歩いていると、前から歩いて来た遊女がにっこりとほほえんだ。その目は老人の、札束を詰め込んだポケットに向けられている。


 遊女達の、金の臭いをかぎ分ける嗅覚は大したものだと思う。


 スリにやられないよう右手を常にポケットにつけているのが逆に目立つのだろうか。


 遊女が目の前に立った。老人よりも背の高い女は、美人ではないが、胸がやたらに大きい。老人はじっと女の顔を見つめる。


「女。何できる?」


「何でも。あんたが動くのがしんどいなら全部あたしがやったげるよ。お金しだいで手取り足取り、腰取りね」


「何でもできるなら、ちょっと表通りまで走って車屋呼んで来てほしい。足ががくがくで歩くの辛い。私、ここで待ってるから」


 老人はポケットから一円券を三枚抜き出し、ぽかんと口を開ける女の着物の胸元にこぶしごとねじ込んだ。


 ますます目を剥く女の前で、老人は道のわきの、どぶ板の上に腰を下ろす。体中にガタが来ている。ほんの二時間歩いただけで、ひざが細かく震えていた。


 女が自分の胸を押し開き、ねじこまれた紙幣の額を確かめて歓声を上げる。「いいよ、呼んで来たげる!」と再び笑顔を向けると、そのまま背を返して走って行った。


 老人は女の着物のすそからはみ出た白い足や、胸以上に大きな尻を横目に、己の肩を抱いた。


 きれいな女を抱きたい? 年齢の問題もあったが、日常的な密輸の緊張のために彼の男性機能は若い頃から異常をきたしていた。


 まともに女を抱いたことなど、一度もなかった。


 生ぬるい風が、女が去って行った方から吹いてくる。それに乗って破れた新聞紙が飛んできて、老人の震えるひざにがさりと引っかかった。


 釘島の顔が、老人を見上げていた。紙面に載せられたヤクザの似顔絵が、『凶悪犯』の文字と共に風に揺れている。


 車屋を呼んで来ると言った女は、結局戻って来なかった。

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