探偵達 九
東城は待っていた。
事態を好転させるための、ほんのささいな出来事。ほんのわずかの隙を、床に這いつくばりながら辛抱強く待っていた。
腹や胸に叩き込まれる拳を、申し訳程度の筋肉を緊張させてしのぎ続けた。
そのかいあって、喉から血があふれてきたり、骨が折れる音を聞くようなこともなかった。
だが、いずれ東城の体は壊される。その前に好機の到来がなければ、命運は尽きる。
床に転がった東城の眼鏡を、鯉の刺青の男が踏み潰した。この場にいる二人のヤクザの、弟の方だ。彼はひしゃげた眼鏡のつるをつまみ、東城の眼前でぷらぷらと揺らす。
「あーあ、残念。ぶっ壊れちゃったよ。眼鏡がなきゃ、ろくに見えないだろ? 俺の顔、分かる?」
「……高級品だ。後で弁償してもらう」
ヤクザが声なく笑い、眼鏡を放り捨てる。
直後にわきから青面の方のヤクザが、東城のわきばらに蹴りを入れた。
床を転がり、咳き込む東城を、二人のヤクザが交互に蹴りつける。
背中を丸めてはダメだ。骨を痛めぬよう、腰を伸ばした姿勢で急所を腕で守る。
直子が寝台の上でわめいている。美耶子は……この体勢からは、視界に入らない。
やがてヤクザ達が息を乱しながら東城から離れ、獣のような声を上げた。
青面のヤクザが首の骨を鳴らし、弟に言う。
「飽きてきた。素人のくせにしぶといやつだ……素手の拷問ではらちがあかない」
「いやあ、そりゃあ想像力が貧困だぜ兄貴。別に道具を使わなくたって面白い拷問はできらあな……強情を後悔させてやる」
弟のヤクザが、呼吸を整えながらにぃっと笑った。
東城の体の左側に回ると、がっちりと腕と手首を取り、引き起こす。
「兄貴、逆の腕を取れ。ひじの裏側に腕を回して、手首をかためるんだ」
「何をする気だ?」
「ハイカラに行こうぜ。西洋風の拷問……いや、『処刑』だ。向こうじゃあ人間の両腕に縄をくくりつけて、それぞれの端を二頭の馬の鞍に結び、反対の方向に走らせるんだとよ」
「……そんなことしたら、真っ二つになっちまうじゃねえか」
「面白えだろ?」
顔を引きつらせる東城に、兄貴分のヤクザはすぐに破顔し、東城の右腕をかためにかかった。
両腕を取られた東城は床に膝を立て、全身に力を入れて衝撃に備える。
弟分のヤクザが、そんな彼に悪魔のようにささやいた。
「二人がかりで引き裂いてやる。人間の手で人間を解体できるか……? 大実験だ!!」
次の瞬間、東城の両腕が、肉体が凄まじい力で左右に引かれる……
「ちょっと待て」
両の手首とひじに激痛が走りかけた瞬間、兄貴分のヤクザが声を上げた。
こんしんの力で腕を引こうとしていた弟分が「ああ!?」と不機嫌そうな怒声を上げる。
「なんだよ! 興が醒めるだろ!!」
「うるさい、静かにしろ」
東城の腕を取ったまま、ヤクザ達が静止する。
ダンスホールの奥、先刻大男が出て行ったのとは逆の方向から、わずかに音が聞こえてきた。ドンドンと、扉を叩く音だ。
脂汗を床に落とす東城の頭越しに、ヤクザ達が顔を見合わせた。
「組長かな?」
「違う。組長は買い物に出たら二時間は戻らない。ぶらぶらそのへんを散歩して、一杯ひっかけてからじゃないと帰って来ねえ」
兄貴分のヤクザが東城を放し、ホールの奥の扉へと向かった。弟分が「金橋かもよ!」と怒鳴ると、うんざりした顔で兄貴分が視線を返す。
「とにかく確認してくる。戻って来るまで休憩してろ。でかい音は出すな」
「早くしてくれよ。せっかく気がたかぶってんだからよ。早くしろよ兄貴」
東城の腕をつかんだまま早口で言う弟を放って、兄貴分は扉を開け、ホールを出て行く。
――好機か。東城は自由になった方の腕の拳を握り締め、息を整えた。
青面のヤクザは後ろ手に扉を閉めると、広い事務所を抜け、裏口へと続く廊下に出た。裏口の扉をノックする音は静かに、しかし断続的に響いてくる。
金橋でもないな、とヤクザは思った。あの男はノックなどめったにしないし、したとしても無遠慮に、乱暴な叩き方をする。
廊下は突き当たりで左に曲がっていて、さらに右に曲がり、裏口へと到達する。
襲撃者が侵入した時、即座に銃撃されないようにするための構造だった。
裏口の扉の前に立つと、ヤクザはじっと木製のぶ厚い扉を見つめた。ノックはまだ続いている。だが至近で聞くと、どうも素手で叩いているわけではないらしい。何か硬いものを、扉に打ちつけている。
……何を持ってやがる?
ヤクザは一瞬『誰だ』と声を上げようとしたが、思いとどまり、わきに置いてあった鉄製の傘立てを静かに持ち上げた。
ゆっくりと扉の鍵を開け、ノックが続いていることを確認する。
次の瞬間、一気に体全体を扉に叩きつけ、ノックの主を弾き飛ばそうとした。
だが、開いた扉の向こうに手ごたえがない。外に飛び出したヤクザが眉を寄せる間もなく、開いた扉の反対側の方から、即ち真横から、「よお」と声が上がる。
「古烏組の組員だな」
牛のような大きな体をした男が、警察の持つ警棒を頭上に振り上げていた。
扉のわきに潜み、警棒を伸ばしてノックをしていたのだ。警棒が、ヤクザの頭部に振り下ろされる。
バキッ、と音がして、視界が揺れた。うめきながら、衝撃のままに外に数歩よろめき出てしまう。
背後で扉が音を立てて閉められ、次いで電柱や物陰から、制服を来た警官が六人ほど現れた。
振り向くと、牛のような男のわきに、眼鏡をかけた男が立っている。どうやら扉の開く側に潜んでいて、鼻を打ちつけたらしい。赤くなった鼻面からひとすじ、血が流れていた。
「……とりあえず、警官への暴行で確保しろ。間宮直子、その他の拉致容疑は後で確認する」
ヤクザが咆哮を上げると、警官達が警棒を手に、一気に襲いかかって来た。




