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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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探偵達 八

 ダンスホールを出ると、夜の銀座には雪が舞っていた。


 大男は人通りの途絶えた路上に出て行き、太い両腕をめいっぱい天に伸ばして歩き出す。まるで沸騰ふっとうしたヤカンから噴き出る蒸気のように、大男の口から白い息が、魂のように吐き出される。


 道のど真ん中を、大きな靴底で叩いて進む。


 しばらく腕を伸ばしっぱなしにしていた大男が、やがて角を曲がる際に、振り回すようにして下ろした。


 銀座の大通りの賑わいは屋根をいくつも越えた先にあり、大男のいる地区では、しわぶきの音一つしない。


 夜と雪のせいだけではない。寄桜会の建物が近くにあるがゆえに、近隣住民は難癖をつけられることを恐れ、生活音を極力出さないようにして暮らしているのだ。


 落ち目になったとは言え、ヤクザの影響力は未だ人々の生活に、習慣として根づいている。


 大男はそのまま一人で道を歩き、やがてせまい路地へと入って行った。

 両脇に板塀いたべいが並ぶ奥には黒々とした闇がこもっていて、その闇の中に埋もれるように、木造の煙草屋があった。


 開け放たれた玄関を覗き込むと、暗い店内にたったひとつ、ランプの光が揺れている。

 大男はズボンのポケットに両手を突っ込み、無防備に光の方へ踏み出す。


 闇の中には様々ながらくたが転がっていて、煙草の葉の香りと、燃えたマッチの臭いが漂っていた。


 やがてランプの灯に顔が照らされる距離まで近づくと、大男はランプが載っている机に着いている老人を見下ろした。


 背中を丸めて椅子に座っている老人はどこか日本人離れした顔つきをしていて、日に焼けた腕には無数の注射針を刺した跡があった。


 大男がポケットから右手を抜き、老人の腕を取る。舌打ちをして、ぎょろりと老人を睨んだ。


「品物に手を出す売人ってのは最悪だな。情けねえ……うちの会長が生きてた頃は、あんたも立派なえーじぇんとだったはずだ。いつから阿片を打ってる?」


「……寄桜会が衰退してからに決まってるよ。あんたの会が、私らの組織の一番の上客だったからね」


「だからって一緒に衰退するこたないだろ。密売組織なら複数の取引先ぐらい用意しとくもんだ」


「親組織は無事よ。日本で商売してた私らが切り捨てられた。寄桜会が弱体化してから、港の検閲すごく厳しくなった。今までお目こぼししてくれてた役人が、必死に私らの尻尾つかもうとしてる。日本に持ち込んだ阿片、さばけない、持ち出せない」


「寄桜会、そのぱとろん候補だった山田秀人を介して癒着していた悪党どもが、罪のなすりつけあいにやっきになってるんだ。まあ、運がなかったが、だからって血管潰すような薬の打ち方をするもんじゃねえ。売るのは得意でも使うのは苦手らしい」


 大男は老人の腕を投げ捨て、周囲の商品棚を物色し始めた。

 ポケットから取り出した魔法マッチをこすり、その火で商品を照らし出す。


 ゴールデンバット、マッチ箱、古めかしいパイプに……埃をかぶっている、聖書。


 大男は床に転がっていた空の木箱に無造作に品物を放り込む。「歯ブラシはどこだ? 馬毛の」と訊く大男に、老人がどろりと濁った目で棚の下段の方を指さした。


 腰を屈め、歯ブラシの箱を手に取る大男が、中身を確認しながら言う。


「あんたの抱える阿片は、いまや換金できねえ絵に描いた宝だ。海外に持ち出す手段はなく、国内のヤクザで唯一阿片を買ってくれていた寄桜会は風前のともしび。軍に売り込む手もあるかも知れんが、あんたにはそのためのパイプ、人脈がない。軍はきっと商談に応じるより、あんたを不良異人として確保して、阿片を接収する方を選ぶだろうな」


「……だからってあんたにタダでくれてやるわけにはいかないよ。釘島さん、私の阿片、ちゃんと役に立ってるの? お金、今月、もらってないよ。どっかの会社の社長落としたんじゃないの」


「あの件はもう終わりだ。これ以上金にはならねえ。今、他の方法を考えてるとこだ」


「頼むよ。この店にある阿片、なんとか金に換えてよ。本来の値段ほどじゃなくていいからさ。ここに阿片がある限り、私もったいなくて逃げることもできないよ」


 大男、釘島が歯ブラシを木箱に放り込み、その手ですでに箱に入っていた聖書の表紙をめくった。


 表紙と以降の半分ほどのページは糸で縫いつけられていて、ページの真ん中に大きな穴が空いている。

 その穴の中に、折りたたまれた油紙がいくつも隠されていた。


 釘島がその一つを手に取り、破ると、阿片の茶色の粉がばらばらと床に落ちる。


「こんなゴミみたいな粉が、人間の精神と肉体を蝕み、死に至らしめる。阿片の山は、火薬の山より危険でたちが悪い。……たちが悪い古烏組とは、相性が良いってことだ」


「玩具じゃないよ。ちゃんと使ったら金に換えてよ」


「会長はこの阿片を人を操るために使っていた。おっかなびっくりな。つまりは自分が甘い汁を吸うために他人に盛っていたわけだが……どうせなら、ぱーっと使いてえもんだ。利益度外視で、悪ふざけでばらまいてみてえ」


 老人の顔色が、さっと変わった。だが彼が何かを言う前に釘島は木箱を抱えて立ち上がり、魔法マッチを吹き消した。


 棚から鹿肉の缶詰を取り上げると、なんと歯で缶詰のへりを噛み砕く。

 べきべきと音を立てて開いていく缶詰に、老人が背中をのけぞらせて顔をゆがめた。


 釘島は、缶詰のふたを床に吐き捨てると、鹿肉をつまみながら歩き出す。「まずっ」とつぶやきながら、最後に老人に声を飛ばした。


「どうせ密売人だろう。ろくな死に方をするわけがねえ。必要以上に金を貯め込んでも、使い道なんてありゃしねえんだ。欲はあるかい、じいさん。きれいな女を抱いて、良い服着たいってちゃんと思ってるか?」


「女? この年になったら女なんて欲しくないよ。服も、別にいいよ。高いの興味ない」


「飯も煙草も酒も、多少の金があれば手に入る。あんた、大量の阿片を金に換えても、使いきれないのさ。大金をつぎ込むべき欲望が枯れちまってる。おまけに外国で一人ぼっち、遺産を残す相手もいねえ。そんなあんたが阿片と大金を抱えて何の意味があるんだ?」


 欲がなくなりゃ、人間おしまいよ。


 釘島は呆然とする老人にそう言い残し、笑いながら闇の中に戻って行く。


「金より、楽しみが欲しい。阿片は金儲けより悪意の充足に使った方がそれらしい・・・じゃねえか。強制はしねえがよ……金は地獄にゃ持ってけねえぜ、ジジイ」

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