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無名探偵  作者: 真島 文吉
一章  無名探偵
10/110

 雨音の家の玄関扉を蹴破ると、真っ暗な部屋に一気に月光が差し込んだ。

 無人の部屋には真新しい洋服と化粧品が散乱している。寝台に手を置くとすっかり冷えていて、体温の名残は無い。

 寝台からは引き出しが飛び出たままになっていて、奥に電話が隠してあった。


「兄さん」


 背後の緋田の声に、棚主が振り向く。苛烈かれつな視線を、緋田は冷静な顔で受け止める。


「警察署長……山田は、駆け落ちした息子をずっと捜しとったようです。ただ、地方に遊びに行った先でいのうなったから、まさか帝都に戻っとるとは思わんかった……」


「警察署長の息子が駆け落ちしたなど、醜聞もいいとこだ。部下を使って捜させるわけにもいかなかったんだろう」


「そうです。まして鴨山組になんぞ捜させたら、ゆすりのネタを提供するようなもんや。ずっと病気療養中ってことにして、こそこそ自力で捜しとった……それが…………ある日突然、帰って来たんですな」


 緋田の脇を通り、棚主は家の外に出る。月が明るく、ガス灯が要らないほどだった。


「まぶたも唇も削がれて、血まみれで転がり込んできよった。山田は怒り狂ったそうですわ。莫迦息子もやけど、一人息子を二目と見られん顔にした犯人を当然憎んだ。何が何でも捜し出せと叫んだと、山田の家の使用人が証言しとります」


「そいつは、金で買収したのかい」


「いえ、訊いたら勝手に喋りよりました。山田が私的に雇っとった使用人は、今はもう全員クビにされとります……山田が辞職した当日に、一方的に追い出されたと言っとりました」


 今までの情報は、つまり解雇された使用人が軽くなった口から吐き出したわけだ。

 緋田が月を見上げる。


「山田は、鴨山組から偶然に真相を知らされました。兄さん……これは鴨山組ではなく、山田の復讐です。一人息子をそそのかした天道雨音と、切り刻んだ兄さんに報復するために、山田は職を辞したんです」


「笑わせる。ヤクザと結託して民の生き血をすする悪党が、死に体の仇討ち気取りか」


「山田は既に嫁を亡くしとります。息子の栄治だけが自分の血を継ぐ者やった……長年捜し求めた栄治が顔剥がれて帰ってくりゃ、仇討ちもしとうなるでしょうな」


「ああ、つくづく」


 棚主が言葉を切る。目を瞑り、眉間にしわを寄せながら、底冷えのするような声で。


「つくづく、殺しておけばよかった。雨音が『傷つけろ』と依頼したんだ。だが……殺しておくべきだった」


「どうしょうもないことです。穴鳥組が筋通さんと秘密を漏らしたのも、山田署長が標的の親父やったのも、何もかも不運でしかない」


「緋田さんよ」


 棚主が目を開く。ゆらゆらと感情の火が灯った瞳が、夜道の先を睨んだ。


「穴鳥組の若頭には、どこに行けば会えるんだ?」




 だだっ広い店内に踏み込むと、穴鳥組の男達は一斉に目を細めて遠慮のない視線をぶつけてきた。


 新築のびるぢんぐに入ったダンスホールには、壁際に洋風の家具やテーブル、寝台が並んでおり、中央に一段高くなった石床の舞台が設置されている。奥にはカウンターがあり、裸同然の下着姿の女給が酒を注いでいた。


 穴鳥組の男達にはそれぞれ一人か二人、同じように下着姿の女達がついてしゃくをしたり、ダンスの相手をしたり、寝台に寝ていたりした。彼女達は『本日貸切』の張り紙をした玄関扉を開けて入ってきた棚主と緋田を、信じられないものを見る目で見ている。


「なんだてめぇら。今日は穴鳥組の貸切だぞボケ」


「ぶっ殺されてぇのか」


 ざっと見て、男達は六人。奥に事務所があるはずなので、もっといるのかもしれない。


 棚主はハットを取りながら「天道雨音に俺を紹介した人は?」と声を上げた。すると長椅子に座らせた女に膝枕をさせていたヤクザが、むくりと起き上がる。


 上半身裸の腕には虎の刺青があり、右耳が半分千切れていた。首からは、何のまじないか、ひもを通したカラスの頭をぶら下げている。剥製はくせいだろうか。


「てめぇが例の探偵か」


「棚主だ。あんたとは初対面のはずだが、どうして俺のことを知った? 雨音と引き合わせたのは何故なんだ」


「よその組が探偵風情をひいきにしてるって聞いてな。本職がカタギを使うなんざ、珍しいじゃねえか。鉄砲玉の類かと思ってよ……ちょっと興味がわいてな、調べさせてもらった。方法は企業秘密ってやつだ。……で、ちょうど雨音が面倒臭いことを言ってやがったからよ、首尾を見守らせてもらったってわけだ」


 ヤクザ達が棚主と緋田を、扇状に囲むように立つ。空気が張り詰めているのに、女を避難させない相手に腹が立った。棚主が眉間にしわを寄せて、虎の刺青の若頭を睨む。


「鉄砲玉かもしれない男に、自分の女を一人で会わせたのか……結果は満足だったかい」


「まあな。はした金で動くゴロツキだってのはよぅく分かった。兵隊が要る時は呼ぶからよ、よろしくしてくれや」


「雨音はどこだ」


 これ以上の前置きは不要と判断し、本題に入った。

 若頭は頭を掻き、視線をらしてとぼける。棚主はすかさず言葉を継いだ。


「鴨山組のことも山田署長のことも知ってる。俺と雨音を差し出したな……知らんとは言わさんぞ」


「何だその口のきき方はァッ!」


 横から年を食ったヤクザが怒鳴り、棚主に酒瓶を投げつける。

 腕でそれを弾く棚主に、若頭が「あーあー」となだめるように手を広げた。床に砕け散った酒瓶の欠片かけらを、その革靴がさらに踏み砕く。


「まぁ、落ち着けよ。自業自得じゃねえか、仕方ねえことだろ?」


「何……っ」


「『お前ら』は人を一人傷つけたんだよ。結託して、カタギの男の人生を台無しにした」


 若頭がゆるやかに棚主の周りを歩き始める。途中で震える女を一人抱き寄せ、自分と棚主の間に立たせた。顎を掴み、棚主に女の顔を見せつけるように向ける。


「このご時世、顔の皮がないやつぁ人間扱いされねえ。人生おしまいってやつだ……そんなひでえことをしたら、復讐されて当たり前だろ? 親御さんの山田署長には大義ってやつがあるのさ。だから俺らも、善意で雨音の家を教えてやったに過ぎねえ」


「……」


「復讐は復讐を生むってやつだなあ。人を呪わば穴二つと……おっと、勘違いするなよ。俺らはなぁんにも悪いこたあしてねえ。最初から最後まで、誰一人傷つけても殺してもいねえんだからなあ」


「いくらもらったんだ」


 棚主の表情に、間に立たされた女が怯えて目を瞑った。若頭が「おーよしよし」とその頭を撫で、心底愉快そうに笑う。棚主が、とうとう歯をむいて声を荒げた。


「雨音はあんたらの女だろうがッ! 何故守ってやらなかった!」


「……ん? そんな義理があるか?」


 若頭の顔から笑みが消えた。片眉を吊り上げて、首を傾げる。


「『あれ』は借金のカタに差し押さえた肉布団だ。具合が良かったんで愛用はしてたがな……俺専用の、使い古しさ。愛着はあるが、大金積まれて譲ってくれって言われちゃ、仕方ねえ」


 棚主だけではなく、隣にいる緋田の眉間にも深いしわが走った。いくら物同然にさらってきた情婦と言えど、五年以上もそばに置いて一切義理がないと言い切るのか。


 そんな二人の反応を楽しむように、若頭の舌が軽やかに回る。


「お前らも一度抱いてみりゃ分かるぜ。見栄えはいいし何でも言うことを聞くが、もうかなり使い込まれて気持ちよくねえんだよ。そりゃあそうだ、朝も晩もなく五年だからなあ。俺が囲う前は下っ端から組長までとっかえひっかえ、一度血を吐いて動かなくなったことがあって」


「居場所を教えて欲しい」


 話をさえぎり、棚主が言った。

 その顔は俯き、表情が見えない。

 若頭は傾げていた首を逆の方向に倒し、口を歪めて笑った。答えはない。


 棚主が手にしたハットを胸に当て、そのまま腰を曲げて頭を下げた。低い声が、ダンスホールの床を這う。


「雨音さんがどこに連れていかれたか、教えてください。若頭」


 お願いします。そうしぼり出すように付け加える。


 数秒の沈黙の後、棚主の頭に、ごつっ、と何かが当たった。

 下げた棚主の頭に、若頭が酒瓶を手にして押しつけていた。ぐりぐりと瓶底をこすりつけながら、嘲笑する。


「頭が高ぇよ。土下座だろ、この場合」



 棚主が動くより早く、若頭が緋田の拳を顔面に受けて吹っ飛んでいた。

 背後のテーブルを巻き込み、派手に床に倒れ込む。下着姿の女達が我慢できずに悲鳴をあげ、奥の事務所に逃げ出した。


 ただ、組長を殴られてもすぐには動けなかった鴨山組と違い、穴鳥組のヤクザ達はすぐに行動を起こした。周囲の武器になる物を手に瞬時に戦闘態勢に入り、手前にいた二人のヤクザが棚主に木椅子を、緋田に洋酒の酒瓶を振り下ろす。


 棚主は相手のどてっぱらに蹴りを入れて退けたが、緋田は頭に、もろに酒瓶を食らう。が、微動だにしない。

 唖然と口を開いたヤクザは、先ほど棚主に酒瓶を投げつけた年配のヤクザだった。その両目に、緋田の左右の親指が突き刺さる。


 絶叫するヤクザの目玉をえぐりながら、酒に髪を濡らした緋田が悪鬼のように笑う。


「ええ年こいて、つまらんことしよる。殴るなら薄い洋酒の瓶やないやろが」


 指を抜かれ、床に膝をつくヤクザ。その後頭部を緋田が別の瓶で叩き割った。


一升瓶いっしょうびんじゃ。ボケぇ」


 悲惨な姿で転がったヤクザは、最早どこにでもいる老人にしか見えなかった。完全に戦意を喪失そうしつして、失禁している。


「……誰だこいつ……!」


 カタギの探偵についてきた男の思いがけない強さに、木椅子を持ったヤクザがうなる。刹那せつな、棚主の拳がその横っ面を打ち、歯をへし折った。たたらを踏んだヤクザの膝に、さらに重い蹴りが突き刺さる。


 関節が、何とも形容しがたい嫌な音を立てて砕けた。

 二つ目の絶叫が、ダンスホールに響き渡る。


 流れるように二人が倒され、残るヤクザ達が危機を感じて一歩、二歩と下がった。これだけ大騒ぎしても、奥の事務所から助けが来る気配はない。穴鳥組の若頭がようやく立ち上がり、倒れたテーブルの裏から何かを音を立ててひっぺがした。


 釘で打ちつけてあった革の袋に包まれているのは、柄が金色の匕首だ。鞘を投げ捨てた若頭が、血の混じった唾を吐きながら敵二人を睨む。


「探偵ェ……根性者のヤクザに手ぇ上げたらどうなるか、分かってんだろうなあ……」


「大丈夫でっせ、兄さん。こいつは根性者やあらへん」


 即座に否定する緋田に、若頭は「あぁ!?」と怒鳴る。

 酒に濡れた髪を掻き上げ、同じ若頭の称号を持つ緋田は乱闘の際に肩から落ちていた上着を拾い上げる。その細い目が、三日月のように弧を描いた。


「ワシ、一度こいつとうてますねん。こないだの露西亜ロシアとの戦争、ワシら極道者もようけ参加しましたからなあ……もっともうちの組は身分隠して、国民として志願しましたけど。こいつら穴鳥組は軍部へ顔売る目的で志願しとったから、ヤクザ然としとりました」


 緋田の台詞に、穴鳥組の男達がつい顔を見合わせる。極道を自称する男の余裕たっぷりの語り口に、迷いが生まれたらしかった。緋田が若頭を指さす。


「こいつは梶野優助かじのゆうすけ、戦場の恥とまで言われたやつです」


「てっ……」


 梶野が絶句し、仲間を見て何かを言いかけた。だが開いた口からは何の言葉も出てこない。即座に否定できないのは、緋田の言葉が事実だからだ。気のきいた台詞がすぐに浮かばなかったことで、梶野は釈明しゃくめいの機会を永遠に失った。


「こいつの耳、片方千切れとりますやろ? これはな、戦場で逃げ回り、味方を盾にして敵から後ろへ後ろへと遠ざかろうとして、怒り狂った上官に拳銃で吹っ飛ばされたんですわ。まぁ、戦場は恐いところや。逃げ出したって責められんかもしれん……カタギならな」


 怒りで赤くなる梶野の顔を笑いながら見つめる緋田は、拾った上着を手で遊ばせながら更に語る。梶野の子分であるヤクザ達も、いつの間にか緋田の話に耳を傾けていた。


「こいつのしょーもないところは、戦場でそんだけ醜態晒しながら、捕虜になって収容所に入れられてからは誰よりも偉そーに幅きかせとったところですわ。『俺達は穴鳥組だ。本物のヤクザだ』って、同じ捕虜相手に威張り散らしてな。ホンマ……笑いこらえるの大変やったわ」


「どこのモンだ……てめえ……」


「おたくらと違って、ワシらカタギの兵隊と仲よぉやっとったんでな。同じ隊にいても、目立ち方がちゃうわ……でも、それでも勉強不足やな。棚主の兄さんのこと調べて、ワシのこと手付かずなんてな」




 相手の話を聞きながら、梶野はうっすらと当時の記憶を思い出していた。

 他の兵隊の顔など全く覚えていなかったが、そういえば、一つだけ思い当たることがある。


 収容所で、衛生確保のために入浴を許された時、梶野は浴場で周囲の捕虜に自分の刺青を見せていた。両腕の虎と、背中の般若はんにゃ。物珍しさから捕虜よりも、露西亜の兵士の方が話を聞きたがって寄ってきた。


 どこの何という彫り師の作だの、墨を入れている時の痛さだのを自慢げに話していた梶野の目に、何の前触れもなくそれは飛び込んできた。


 自分を囲む男達の向こう、離れた場所で一人体を洗う捕虜の背中に、一匹の虎がいた。


 それは梶野の両腕で大口を開けている虎よりも大きく、力強い線で描かれていて、竹の葉の上に身をかがめ、口を閉じてこちらを睨んでいる。


 眉間に深いしわを寄せた虎の目は殺気をはらみ、チンケな威嚇いかくなどせず、静かに、黙って、梶野を狙っていた。


 震え上がってしまったのは、湯冷めのせいだと信じている。さっさと服を着なかったから体温が下がったのだ。梶野を囲む男達が気付く前に、虎を背負った捕虜が浴場から出て行ったのは幸いだった。


 ……去り際に、捕虜が一度だけ梶野に顔を向けた。髪を刈られた顔は、嘲笑に歪んでいて……細い目が、三日月のように弧を描いて……




「ぐエっ……!」


 悲鳴に、はっと我に返る。

 匕首を振りないだ子分が、喉仏を棚主に叩き潰され、血を吐いて床に倒れるところだった。


 もう一人の敵の方を見ると、同じように跳びかかっていた仲間がわき腹に蹴りを食らい、壁に顔から突っ込んでいた。うめく間もなく、敵が手にした上着を首に絡め、締め上げる。


 凄まじい力に一気に血管を圧迫され、すぐに動かなくなった。血流を止められ気絶したのか、死にかけているのか、梶野には分からない。


 もうその場には、梶野の味方は一人の子分しか立っていなかった。あっという間に二対二の状況に持ち込まれた梶野は、匕首を手にしたまま呆然とする。


 我流の喧嘩の構えをとる棚主の横で、もう一人がきれいに唐手からての構えをとった。握った左拳を前に出し、梶野へとまっすぐに向ける。


「そうか……そうか! てめえ! あの時の虎の刺青の!」


「何年かぶりに名乗ろか。千住緋扇組、若頭、緋田四郎ひだしろう。こちらの兄さんはうちのお客さんや」


 歯軋りする梶野の脇を、突然子分が走り抜けた。血走った目で追う梶野に、若いヤクザは言い訳がましく叫んで事務所へ飛び込んで行く。


「兄貴! ほ、本家に応援頼んできます!」


 自分の組の若頭を置き去りにして、彼は現場から離れて行く。店の奥から扉が二度開く音がした。裏口から外へ出たのだ。


「本家っちゅうと、穴鳥組の上の寄桜会か。ははは、無理や。助けてくれへんで」


「そりゃ、何故だい」


 棚主が梶野を睨んだまま声を返す。緋田は声で笑いながらも、同じように敵をめつけて言った。


「ワシも阿呆ちゃいまっせ。寄桜会の方にはうちのモンが先に挨拶に行っとります。ま、緊急やったから向こうの返事は聞いとらんけど、十中八九黙っててくれるやろ。立場悪ぅなるのはコイツの方や」


「ほう、これだけ暴れたのに、許してもらえると」


 棚主がじりじりと円を描くようにすり足で移動し、梶野の後方を取りに来る。


「当然や。シマの離れた千住の極道となんで乱闘になったか、こいつらが説明できると思います? よそのシマに入り込んで暴れたんはワシの無法かもしれんが、コイツの無法はその比とちゃう。

 山田署長に売られた天道雨音はとうに借金返して、身分上はカタギの一人や。穴鳥組の持ち物やない。

 今までの経緯、何もかも筋が通っとらんのや……兄さんはカタギの天道雨音を探しに来て、ワシは兄さんを組の客人として守りに来た。そこにこいつら、喧嘩売ってきたんでっせ」


 細かいことはともかく、確かに最初に酒瓶を投げつけたのは、穴鳥組のヤクザだった。


「寄桜会のお偉方は、さっき逃げてった姉ちゃんらにも話聞くやろ。どっちが先に手ぇ出したか、コイツがどんな振る舞いしたか、全部分かる……向こうさんもこないな阿呆な理由で抗争なんぞしたないわ。穴鳥組数名が痛い目見るだけで済むならと、そう仰るやろ」


 つまり、と緋田は右手の拳から人さし指をわずかに引き出し、第二関節をとがらせ脇を親指でがっちりと締めた。唐手の、人さし一本拳の形だ。


「これはワシら二人とてめぇらの喧嘩。筋を通さんかったてめぇらは、誰の助けも期待できへんちゅうこっちゃ……なあ、『戦場の恥』」


 梶野が声にならぬ咆哮を上げ、匕首を腰だめに構えた。

 完全に敵の背後に回った棚主が、その背に最後の質問を投げる。


「雨音はどこだ。どこに連れて行かれた」


「知るかクソがあッ! 連れてった山田署長自身が行方不明だ! 覚悟しとけよ探偵……素人ってのは加減を知らねぇ、五年以上生かさず殺さず雨音を飼ってた俺達とは違うんだ!」


 梶野が棚主と緋田に交互に向き直り、威嚇いかくする。その度に首に下がったカラスの頭が、肩や顎に当たって踊った。


「なぶり殺しだ! いや、その前に犯されるのはお決まりだぜ! あいつは慣れてるだろうがな! その後痛めつけられて、虫けらみてえにぶっ殺されるんだ!」


「……」


「あいつは殴られると『何でもするから』って泣いて媚びまくるんだぜ! 首を絞めると小便漏らして喜びやがる! 天性の変態だよ! あの雨音は……」


 緋田と棚主が同時に前に出た。梶野は棚主に突進し、匕首を突き込もうとする。


 棚主は身体を開いて刃先をかわし、梶野の顔にひた、と右手を当てた。

 指に一瞬にして凄まじい力が込められ、梶野の顔に食い込む。続いて左手が髪を掴み、右足が梶野の足を払った。


 我流の、めちゃくちゃな投げ方だった。そのまま力任せに、梶野の身体を仰向けに床に叩きつける。したたかに後頭部を打った梶野の手から匕首がこぼれ、それを拾った棚主が、梶野の手のひらに突き立てた。


 鬼の形相で叫ぶ梶野の鼻の真下、人中じんちゅうと呼ばれる位置に、膝を折った緋田が人さし一本拳を真上から打ち込む。


 人体の急所から骨の軋む音が響き、梶野が鼻血を噴き出した。




 そのまま白目を剥き、梶野は動かなくなる。荒く息をする棚主が、梶野の上からゆっくりと立ち上がった。


 ふと見れば、梶野が首から下げていたカラスの頭が床に落ちている。匕首の刃で切ってしまったのだろうか、紐は千切れて、抜け落ちていた。

 そのカラスの頭を緋田が拾い上げ、眺める。首を傾げた後そばのテーブルの上に置き、膝を伸ばして棚主を見た。


「後の始末はやっときます。天道雨音の行方、こっちでも調べてみますわ……」


「緋田、何でだ?」


 敬称をはぶき短く問う棚主に、緋田は肩をすくめる。


「こいつらが兄さんに目ぇつけたのは、緋扇組が兄さんと関わっとったからや。ちゅぅことは……こりゃ、ワシにも責任があるわけです」


「山田署長の恨みを買ったのは俺と雨音だ」


「ああ、もう、ごちゃごちゃ言わんと任しといてください! これに関しちゃ貸し借り言いませんから!」


 しっしっ、と猫でも追い払うような手つきで、棚主を帰そうとする。


「……嫌いなんですわ、こういうやつら。カタギを舐めくさって、筋通さんと……侠客ってのは、そういうモンなんです、兄さん。限度を超えたゲスを見ると、許せんのですわ」


 棚主は少しの間緋田の顔を見つめ、やがて背を返した。

 玄関へ向かいながら、片手を上げ、別れを告げる。


「すまない……今度酒でも持ってくよ」


「高い酒はりまへんで。その代わり銀座の美味いモン、さかなにつけてください」


 笑う緋田の声を後に、棚主はその場を後にした。



        



 銀座のびるぢんぐへ帰る道中、棚主は屋台で肉を買って食い、水を飲み、金物屋の主人を起こして包丁と針金を一本ずつ買った。包丁は懐に忍ばせ、針金は多少苦労して歯の隙間に隠す。


 道中誰とすれ違っても声を出さず、ひたすら前を睨んで歩いた。

 雨音がさらわれた以上、次の展開は予想がついていた。



 びるぢんぐの前に、自動車が止まっている。輸入車のフォードが、二台。

 車の外に四人の男が立ち、歩いて来る棚主に体を向けている。


 棚主は彼らの前まで来ると、無言で先頭の男を見た。髪をきっちりと切りそろえた、眼鏡をかけた男。

 酷薄こくはくな笑みを浮かべた男はゆっくりと一礼し、棚主に告げた。


「一度しか申し上げません。天道雨音と会う機会は、今日この時を逃せば二度と訪れません」


「……」


「彼女は、体中の皮を剥かれて塩辛い海に浮かぶことになるでしょう」


 男達が車のドアを開ける。眼鏡の男が、一礼した時にずれた眼鏡を中指で押し上げる。


「懐の武器をお預かりします。あなたが天道雨音と親しくお食事をしていたことは、店の主人から聞いております……いかがでしょう?」


「俺はあの夜、鴨山組の監視を気にしていたよ」


 包丁の柄を差し出し、棚主は天を仰いだ。


「だが、無駄だったんだな……監視されていたのは俺ではなく、雨音の方だった」


「そのとおりです。お二人で仲よく歩いておられたのも、季節外れの桜を見ておられたのも、全部監視しておりました……あの時、絵描きがスケッチをしていたでしょう? あれ、私なんですよ」


 にこりと微笑む眼鏡の男を無視して、棚主は車に乗り込む。

 座席に座るとハットを取られ、白い布で目隠しをされた。

 闇の中、両手に重い金属が触れ、がちりと音が鳴る。手錠をかけられたらしかった。


 やがて車が動き出し、闇の中を走る。

 棚主は歯に隠した針金を舐めながら、一秒、二秒と、時間を数えだした……

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