脱出(3)
地下室は騒然としていた。燃えさかる炎を目の当たりにして、人質は誰もがパニックに陥っていた。彼らは自由にならない身体を互いに寄せ合うようにして、口を金魚のように動かすで精一杯であった。どうやらそれは「助けてくれ」と必死に伝えようとしているのであった。
「みなさん、落ち着いてください。すぐに助けがやって来ます」
叶美が努めて冷静に一人ひとりに声を掛けた。中には身体を震わせて泣き出す者さえいた。
一方、沢渕は箒を両腕で挟むようにして、柄で天井を叩き続けた。上階の人間にこの空間の存在を知らせるためである。彼は一瞬手を止めた。天井の隙間から水がぽたぽたと落ち始めたからである。
叶美たちの方を向いて、
「上で放水が始まったようです」
と叫んだ。
その言葉は人質たちにはまるで響かなかったが、叶美は安堵の表情を浮かべた。
「もう少しの辛抱ですよ」
しばらくして水の滴は流れに変わった。途切れることなく水が流れ込んでくる。
「先輩、みんなの身体を起こしてください」
沢渕は次の事態に備えた。
水は凄い勢いで流入してくる。しぶきが人質の顔にかかった。しばらくすると床に水が溜まり始めた。
人質はみんな床に伏せていたため、突然襲ってくる水には驚いたようだった。沢渕も彼らの上体を起こすのを手伝った。
放水は地下室の火災を鎮火するには役立たなかった。上階で溢れた水は天井を伝って流れてはくるものの、詰所の炎には直接当っていないからである。
煙と炎、そして水とが入り交じり、地下に居る人々を苦しめていた。
直貴は救急隊員に肩を担がれて病院の外に出ていった。一方、雅美は制止を振り切り、院長室に戻ってきた。慌てて追い掛けるようにして消防士がやって来た。
「この下に人がいるんです!」
「何だって?」
相変わらず外からの放水は続けられている。その轟音で、雅美は自分の声を届けることができなかった。ずぶ濡れになりながら、しゃがんで床を叩き始めた。
消防士もそれ倣って床に膝をついた。そして床下から振動を感じ取った。下の階から誰かが呼び掛けているのだ。その声は騒音によってかき消されているが、確かに振動だけは伝わってくる。
「下に生存者がいるぞ」
一人の消防士が切り込みの入った板を持ち上げようとしたがびくともしない。鍵が掛かっているのだ。すぐに無線で連絡を取った。
「地下に生存者がいる。だが施錠されていて先へ進めない。ドリルを用意してくれ」
それから消防士は、
「君は避難しなさい!」
と強い調子で言った。
雅美は窓を突き破ってくる水に身体をよろめかせながら、
「仲間がいるんです」
と叫び返した。その声も轟音にかき消され気味だった。
すぐに消防士が数名姿を見せた。雅美の存在に驚きながらも、電動ドリルを手渡した。受け取った消防士はすぐに作業を開始した。回転するドリルの刃先を鍵穴に当て、見事に破壊した。
雅美の細い身体は別の消防士によって現場から遠ざけられた。
沢渕の頭上で、四角い天井が持ち上がった。新たに酸素が流入して、一瞬炎の勢いが激しくなった。続いて縄ばしごが下ろされた。
「みんな無事か?」
消防士の声が地下室に響き渡った。次々と隊員が降りてくる。直ぐさま消火活動に入った。
「寝たきりの人が十人と、もう一人女性がいます」
沢渕は縛られた両手を廊下の奥へ向けた。それに気づいた消防士がカッターナイフで結束バンドを切ってくれた。おかげで手が自由になった。彼の身体はすぐに引っ張り上げられた。続いて叶美が上げられた。逆に消防士が数人降りていくのを見届けて、二人は院長室を出た。
病院内は電気が消えて暗かった。外からの投光器によって、所々で眩しい光が室内を照らしている。一階はほとんど鎮火したようだった。しかしこれでもかと言うほど放水は続いている。
叶美の手を取ると、
「先輩は逃げてください」
「沢渕くんは?」
「僕にはまだ、やることが残ってます」
「私も行くわ」
彼女の意志は強そうだった。沢渕は何も言わずに階段へ向かった。途中、入院患者を背負った消防士とぶつかった。
「君たち、どこへ行くんだ? 戻りなさい」
その声を背に階段を上がっていった。
二階は静かだった。どうやらここまで火は回らなかったと見える。
沢渕のやるべきことは、残された人質全員の解放である。あと七人の命が掛かっている。犯人たちは十七人の人質を二つに分けた。恐らく動ける者はこの後も利用するつもりで、別の場所に移そうとしたのである。彼らはまだ病院内に居るに違いない。
二階の廊下は、不安を隠せない入院患者たちで溢れかえっていた。
「ここじゃない」
沢渕はそう言って、すぐに次の階へ上がった。
「もしかして、もう別の場所に移されたってことはないでしょうね?」
階段を上がりながら、叶美が言った。
「とりあえず順番に見ていきましょう」
三階も患者が病室から抜け出して、廊下は騒がしかった。
次は四階である。
沢渕は慎重に階段を上がった。これまでとはうって変わって静かだった。廊下には誰一人患者はいない。
足を踏み入れると、床が月夜に照らされてちかっと光った。廊下一面が何故か濡れているのだ。沢渕は次の瞬間、これから何が起こるのかに思い至った。
「先輩、走って!」
叶美の手を引いて真っ直ぐに駆け出した。間髪入れず、後方から炎が立ち上った。同時に防火扉が閉められた。何者かが床に撒かれたアルコールに火を放ったのだ。
あっという間に廊下は炎に包まれた。奥で女性の悲鳴が上がった。二人の靴には火が燃え移っていた。しかし停まることはできない。そのまま扉の開いている奥の病室を目指した。沢渕は叶美の身体を先に入れて、後から部屋の中へ飛び込んだ。と同時に扉を閉めた。シャツを脱いで、叶美の足に覆い被せた。一瞬で炎は消え去った。それから自分の足もシャツで叩いた。
部屋は闇に支配されていた。それでも人の居る気配があった。誰もが突如現れた二人を凝視しているに違いなかった。しかし状況を説明をしている暇はない。
「この中に、辺倉祥子さんはいますか?」
叶美が暗闇に向かって声を発した。それはまさに沢渕が尋ねようとしていたことだった。
「はい」
意外にもはっきりとした声がした。彼女は二人の前に踏み出した。
「辺倉さん、無事でよかった」
叶美は思わず抱きしめた。
「もしかして、あのメッセージを読んで、助けに来てくれたのですか?」
彼女も感慨深い声を出した。
「はい」
沢渕はそんな二人のやり取りには関せず、
「ここに七人全員揃っていますか?」
と訊いた。
「はい」
と声が重なった。
「安心してください。他の十人の方々は全員救助されました」
全員が歓喜の声を上げた。拍手をする者もいた。
「次は我々が脱出する番です」
問題はその方法である。今廊下は炎に包まれている。階下には消防車が来ているとはいえ、この階の火災に気づいているだろうか。
廊下で何かが弾ける音がした。おそらく消火器が吹き飛んだのだろう。時間がない。沢渕は考えた。通路は塞がれて避難できない。さらに四階の高さでは飛び降りる訳にもいかない。では、どうするか?
沢渕は窓を開け、真下を見た。裏は駐車場になっている。月明かりに反射する車の屋根が整然と並んでいた。
ふとこちらを見上げる女性の姿があった。目を凝らすと、それは橘雅美だった。
「四階が火事だ。消防士にそう伝えてくれ!」
「オッケー」
すぐに雅美の姿が消えた。
しかし消防士の救助まで持ちこたえられるだろうか。不安が押し寄せる。
炎は廊下だけには留まっていなかった。いよいよ病室の扉にも引火し、上端部を溶かし始めた。ダメだ、救助を待っている訳にはいかない。
沢渕は左右のカーテンを引きちぎると、叶美に固く縛るように指示した。辺倉祥子をはじめ、みんなが協力して一本の綱ができあがった。それをベッドの足にくくりつけた。それから下の階の部屋のベランダ付近に垂らした。
「これで下の階へ下りましょう」
沢渕は人質七人を並べて言った。
「慌てないで。まだ時間はあります」
そうは言うものの、火はすぐ傍に迫っている。一人ひとりが順番に降りていくのを見ながら、恐らく時間が足りない気がした。それまでに消防士が辿り着ければよいが、どうやら間に合いそうにない。最悪のシナリオが頭に浮かんだ。
それでも人質たちは互いに手助けしながら次々と下りていく。しかし時間が掛かっている。火はもう扉を完全に溶かし切って、部屋の中へと勢力を伸ばしていた。人質の最後は辺倉祥子だった。
「本当にありがとう。後できっと会いましょうね」
そう言い残すと、姿が見えなくなった。もう部屋の壁まで炎は迫っていた。煙が充満して、意識が遠のき始める。何とか叶美だけでも助けられないだろうか。沢渕は朦朧とした頭で考えた。
いよいよ炎はベッドにまで迫った。端の方に火がついた。もう時間である。
「森崎先輩!」
炎のうなり声に負けじと大声で呼んだ。
「沢渕くん」
叶美も応える。
「もう時間がない。このままではどちらかが焼け死んでしまう。一緒に飛び降りましょう」
「分かったわ」
もはや叶美は何も恐れてはいなかった。
沢渕はマットレスの火の粉を振り払い、ベランダに担ぎ出した。エアコンの動力部に足を掛けて、マットレスを手すりの上に置いた。
叶美と外に向かって並ぶと、
「端をしっかり持って。マットに身体を押しつけるようにして」
「はい」
こんな状況下で、叶美は口元に笑みさえ浮かべていた。燃えさかる炎を背に、美しい横顔を見せていた。おかげで沢渕にも自信が湧いた。
「このまま車の屋根に落ちます。いいですか」
「いつでもいいわ。あなたについて行く」
二人はマットレスの中央で手を繋ぐと、そのまま体重を預けるようにして身を投げた。沢渕には不思議と恐怖感はなかった。いつか二人はこんな目に遭うのではないかとおぼろげに考えていたからだ。
二人は宙に舞い、ほぼ垂直に落下した。ほんの一瞬、世界が無音になったようだった。それから耳をつんざく音と、同時に身体が引き裂かれるほどの衝撃を受けて、車の屋根に受け止められた。
勢い余って沢渕は芝生の上に転がった。痛みが全身を襲っていたが、叶美の姿を確認することだけは忘れなかった。目を遣ると、彼女は車のフロントガラスの上に静かに横たわっていた。どうやら気絶しているようだが、命に別状はないだろう。
上空を見上げると、病院の四階は真っ赤な炎に包まれていた。窓には夜空に向けた炎の咆哮を見た。どうやら飛び降りて正解だった。
雅美が直貴を連れてやって来た。
「沢渕くん、大丈夫?」
「森崎はどうなった?」
二人が別々のことを言った。
沢渕は声が出せず、指だけを叶美の方に向けた。
「橘、すぐに救急隊員を呼んでこい」
そんな直貴の指示に、
「分かったわ」
と雅美のフットワークは軽かった。
沢渕は何とか声を捻り出して、
「院長たちが避難を装って逃げる可能性があります。急いで病院の周りを固めてくださいい」
「その心配は要らないよ。鍵谷先生が警察に事情を説明して、すでに身柄は確保された」 直貴は優しく沢渕の肩に触れた。
「そうですか。人質も全員無事ですか?」
「ああ、さっき訊いたら、十七人全員の無事が確認された。ただ衰弱しきっている人も多くて、すぐに救急車で運ばれていったよ」
「よかった」
沢渕は芝生の上で大の字になった。
「探偵部が事件を解決したんだよ」
直貴は高らかに言ったが、それは沢渕の耳には届いていなかった。彼は目を閉じて動かなくなった。
「おい、沢渕くん。しっかりしろ!」
直貴の叫び声は闇夜に吸い込まれていった。




