脱出(2)
堀元直貴と橘雅美は電柱の陰に身を潜め、佐伯医院を見張っていた。
時刻は午後十時を回ったところである。どうやら九時半が消灯時間らしく、先ほど一斉に病室の明かりが消された。今は一階の一部がカーテン越しに黄色い光を放っている。
もし沢渕が何らかの行動を起こしたら、直ちに後方支援をするつもりだった。内部の動きにはどうしても制約が掛かる。そのため外部からの助けが極めて重要となるのだ。直貴はいつになく緊張していた。
しかし病院には何の変化もない。日常の穏やかな風景がそこにあった。
「君は以前、あの病院に潜入したと言ったね?」
直貴は少しも視線を逸らずに訊いた。
「ええ、沢渕クンと一緒にね」
雅美が答える。
「ということは、内部構造も把握できている訳だ」
「まあ、一応」
彼女が言葉を濁したのには訳がある。確かに病院内を歩き回ってはみたが、人質を収容している隠し部屋を発見することはできなかった。普通の病院が普通の業務を行っているという印象しかない。だが、そこに未知の空間があるとすれば、それは雅美の知らない場所ということになる。これでは内部を把握しているとは言い難い。
直貴は腕時計を見た。時間だけが虚しく去っていく。悠長に構えていて大丈夫なのだろうか。どこからか言いしれぬ不安が湧いてくる。
「一階には待合室や診察室、二階以上は全て病室だったね」
「そうよ。だけどその病室には人質はいなかった」
「なるほど」
直貴は顎に手を当てて考えた。人質が上階に居ないのであれば、あとは一階しか考えられない。しかし人の出入りが多い場所に収容するスペースはない。とすれば、あとは地下か離れの建物しか考えられない。
「病院の出入口はここだけじゃなかったよね?」
「ええ、建物の裏側にも職員専用の出入口があるのよ」
「よし、それじゃあ、二手に分かれよう。僕はこのまま正面玄関を見張るから、君は裏へ回って出入口を見張ってくれ。もし何か動きがあったら、すぐに連絡をくれ」
「オッケー」
雅美は陰から飛び出して、外灯の下を跳躍するとそのまま闇に消えた。
時間だけが経っていく。直貴は焦り始めた。沢渕の携帯に何度電話を掛けても連絡はつかない。そもそも彼がこの病院内にいるかどうかも怪しくなってきた。
いよいよ十一時になった。一階の電気が消えた。どうやら病院は一日の仕事を終え、眠りにつくようだ。私服の職員たちが次々と玄関から出てきた。たわいもない話声が闇夜に響く。そこには犯罪を臭わせる雰囲気は一欠片もなかった。直貴は身体を低くして隠れた。
突如携帯が震えた。雅美からである。すぐに応じた。
「どうした?」
「裏に停めてあるバスが動き出したわ」
「何だって? 出入口はどうなってる?」
「まだ閉じたままよ。一人職員が出てきて、バスを出入口に着けているところ」
常識的に考えれば、この時間、患者の送迎がある筈もない。緊急の用件ならば、それこそ救急車が入ってくるだろう。
どうしようか、直貴に迷いが生じた。バスの用意を始めたのは、人質をどこかへ移送するつもりだからではないか。沢渕に追い詰められて、犯人はいよいよ人質を処分することにしたのだろうか。
「あら?」
直貴の思考を遮断するかのように、雅美が小さく声を上げた。
「どうした?」
今は些細な情報でも欲しかった。
「おかしいのよ」
「何が?」
自然と苛つく声になった。
「何だか焦げ臭い」
「えっ?」
直貴は思わず身構えた。
「火事か?」
「ちょっと待って」
そう言うと、雅美はどこかに移動を開始したようだった。
直貴も慌てて正面玄関に近づいた。
「こちらには何の変化もないが」
心臓が高鳴る。果たして自分は正しい判断をしているのか、一つ間違えれば、大変な結果を招くことになる。これは重要な局面だった。
「地面から煙が」
「煙?」
火事だ、そうに違いない。ついに沢渕が動き出した。彼は計画通り、地下に火を点けたのである。ぐずぐずしている暇はない。直貴はすぐに立ち上がった。
「やっぱり火事よ!」
雅美が叫んだ。
「よし、橘。よく聞いてくれ。そこから病院の中へ入れるか?」
「出入口に鍵が掛かっていたら無理だけど、調べてみる」
「いや、そんな暇はない。窓を割って中に入れ」
「ええっ!?」
雅美は柄にもなく戸惑っている。
「部屋の中に入ったら、燃えやすい物を集めて火を点けろ」
「何ですって?」
「いいから放火しろ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。消火じゃなくて、放火するの?」
「そうだ」
「もう一度確認するけど、放火って火を点けるのよね?」
「そうだ、早くしろ。さっきライターを渡しただろう」
「えっ、このための物だったの? 何だか気乗りしないけど、やれと言うなら、やってやるわよ」
「頼む」
「僕もすぐに合流する」
直貴は正面玄関のガラス扉に張り付いていた。カーテンに遮られて中を窺うことはできないが、奥で女性の悲鳴が聞こえた。職員が慌てて廊下を駆ける音。扉は施錠されていて、中に入ることはできない。ここは諦めて裏へと回った。
庭木を踏みつけて最短距離で送迎バスまで辿り着いた。周りには誰もいなかった。ドアを開けると、運転台にはキーが差し込まれたままだった。すぐにエンジンを掛けた。アクセルを床まで踏み込むと、タイヤが悲鳴を上げてバスは急加速をした。そのまま真っ直ぐ門扉に激突させた。派手な衝突音とともにフロントガラスが粉々に飛び散った。
今度はバックギアに入れて、アクセルを吹かした。一斉に景色が反対に動き出すと、そのまま裏出入口に突き刺った。直貴の身体はあやうく外に飛び出しそうになったが、何とかハンドルを握りしめて回避した。両手にはいつまでも衝撃の余韻が残された。
キーを抜くと、変形したドアから転げるように外へ出た。遠くに目を遣ると、鉄の門扉がだらしなく壊れて外の道路が覗いていた。近所の住人だろうか、数人が何事かと見守っていた。
直貴はよろめきながら建物へと向かった。ガラス瓶が次々に割れる音。目を向けると、雅美が窓枠の中でカーテンを引きちぎっている姿が飛び込んできた。あれに火を点けるつもりか、直貴は瞬時に理解した。自分も開け放たれた窓から部屋に身を投じた。
直後、部屋の中央に盛られたカーテンの表面を黄色い炎が駆け巡った。薬品が染み込んでいるからか、山は激しく燃え出した。
雅美の頬が真っ赤に染まっていた。肩で大きく息をしている。興奮冷めやらぬ様子であった。
直貴も負けじと、棚にあった書類を次々と投入した。
仲間の合流に気づいた雅美は、
「本当にこれでよかったの?」
と訊いた。
「ああ、上出来だ」
直貴はそう返した。
炎は早くも天井まで到達した。二人は熱気に包まれながら、しばらくその様子を見守っていた。真っ赤な炎は威勢のよい竜のように壁面をうごめいた。
「よし、これでいい。橘は病院の外へ逃げてくれ。それから一一九番に通報して、消防車を呼ぶんだ。それから鍵谷先生に連絡を取って、僕らが今したことを全て報告してくれ」
「分かった。直貴は?」
「僕は隠し部屋を探す。恐らく床から煙が出ている場所がある筈だ」
「じゃあ、気をつけて」
雅美とはそこで別れた。病院内には火災報知器が鳴り響いていた。
廊下は上を下への大騒ぎだった。火災報知器のけたたましい音も、耳がすっかり慣れてしまって不思議とうるさくは感じられなかった。
「おい、君!」
威圧的な声が浴びせられた。それに応えることなく正面玄関を目指した。
火災とは別の白い煙が一階全体に充満している。その発生源を突き止めなければならない。遠くで何かが破裂する音がして、併せて悲鳴がした。廊下は騒然としていて、もはや直貴の存在に誰も気を止める者はいなかった。
待合室、ナースステーションと煙を辿っていった。すぐ目の前で当直の看護師たちがパニックを起こし、右往左往していた。
「早く玄関から逃げて」
直貴はそう指示して、先を急いだ。
「おい、ここで何をしている!」
男性看護師に進路を塞がれたが、体当たりして突破した。さらに奥へと向う。その先は「院長室」である。扉を開けると、煙が充満していた。
ここだ!
部屋には誰もいなかった。すでに避難したのであろう。直貴はむせながら、大きなガラス窓を全開にした。煙が一気に闇夜に吸い取られていく。
それでも視界の確保は難しかった。思わず床に伏せた。じゅうたんの表面から煙がとめどなく滲み出している箇所を見つけた。発生源はこの真下だ!
「直貴、どこに居るの?」
背後から雅美の声がした。
「消防署に通報したわ。鍵谷先生にも連絡した」
直貴はむせながら、
「橘、このじゅうたんを一緒に引っ張ってくれ」
「オッケー」
「せーの」
床に正方形の蓋が出現した。目指すはこの下だが鍵が掛かっているのか、どうしても開けることができない。
「しー、何か音が聞こえるわ」
雅美が気づいた。病院内は報知器の音が鳴り響いているため、小さな音を聞き分けるのは困難だった。しかし確かに床を叩く振動は伝わってくる。
「誰か下に居るのよ」
「沢渕くんだ」
直貴は必死で床を叩き返した。彼にサインを送りたかった。もう少しの辛抱だ。
いつの間にか消防車のサイレンが近くに聞こえていた。道路に面する窓ガラスが次々に割られたかと思うと、一斉放水が始まった。
直貴は煙を大量に吸ったためか、意識が遠のきかけていた。それでも何とか立ち上がった。まだやることが残っている。
「橘、君は避難してくれ」
雅美の手を取ってそう伝えた。
「直貴は?」
「消防士を呼んでくる。この蓋を開けてもらうんだ」
そう言葉にしたつもりだったが、身体がずるりと崩れ落ちた。雅美はそんな直貴の身体を引きずって部屋の外に出た。
廊下には消防士数人の姿があった。
雅美はぐったりとした直貴を先に引き渡してから、
「まだ生存者がいます。こちらに来てください」
と消防士を先導した。




