狙われた森崎叶美(1)
午後になって雨は一段と激しさを増していた。車のワイパーはせわしなく動いてはいるものの、視界が開けることはない。鉛色の空は時折、雷鳴を轟かせていた。
タクシーが信号で止まる度、沢渕は心臓が掻きむしられるようだった。時間がない。連中は佐々峰姉妹、久万秋進士だけでは飽き足らず、次は森崎叶美を毒牙にかけようとしている。
先日、佐伯と対峙した時、どうして彼を窮地に追い込むことができなかったのだろうか。連中が一斉に逃げ出すほどの決定的な証拠を突きつけられなかったことに、後悔の念が湧いた。
叶美は今、祖父の喫茶店で店番をしている。一人無防備な彼女は、犯人にとって絶好の標的に違いなかった。
悪天候で遅々として進まないタクシーのドアを開けて、すぐにでも走っていきたい衝動に駆られる。そうしたところで、彼女の元へ早く到着できる道理はないと分かっていながら、気持ちだけが空回りを続けた。
叶美には電話を掛け続けているのだが、あれ以来一向に繋がらない。彼女の身に何か起きたというのだろうか。知らず身体が震えた。
商店街のアーケード手前でタクシーを降りた。この先は道が狭いため、車で入るには時間が掛かる。それに道案内を的確にする自信もなかった。料金を払うのももどかしく外へ飛び出した。
昼間のアーケード街は人の往来も少なく、ひっそりとしていた。アスファルトの路面に沢渕の靴音だけが響く。途中若者の集団とぶつかりそうになった。謝っている暇などない。遠くに罵声を聞きながら、ひたすら叶美の喫茶店へと急いだ。
アーケードを脇に逸れ、強い雨に打たれながら路地を分け入った。いよいよ古びた喫茶店が見えてきた。普段なら迷ってしまう筈の複雑な裏通りも、今は最短距離で駆け抜けた。
喫茶店の正面に立ち、木製扉に手を掛けた。あれから実に二十分、心臓が飛び出すのではないかと思うほど、鼓動は激しかった。
身体を少しでも休ませるように、沢渕は身を屈めて扉に耳をつけてみた。店内で何か事態が進行しているのであれば、策もなく飛び込むのは危険である。一刻も早く叶美の顔を見たいのは山々だが、まずは落ち着かなければならない。
しかし何も考えてはいられなかった。本能のまま扉を開けた。
濡れた床に足を取られて、身体のバランスを失った。転げるように店内に突入した。
辺りは静まりかえっていた。外の雨が激しくガラス窓を叩いている。人の気配はなかった。
「森崎先輩!」
狭い店内である。何度か呼び掛けてみたものの返事はなかった。まさか手遅れだったというのだろうか。
ひょっとして、変わり果てた叶美の姿を目の当たりにするのではないか、そんな恐怖に怯えながらも厨房やトイレを探した。しかし誰の姿もなかった。この店はまるで時間が停まっているかのようだった。
念のため、もう一度叶美の電話に掛けてみる。やはり応答はない。
叶美はどこへ消えたのだろうか。
彼女はどこかにヒントを残していないだろうか。沢渕はすっかり呼吸を整えて立ち上がった。
先の電話で、叶美は確かに店に居ると言った。そう考えるとやはり誰かがここへ来たと考えるべきだろう。問題はその後である。
店番をしていた彼女は、厨房内からカウンターを望む格好だった筈である。
そこで厨房に廻ってみた。
ここに立っていたなら、誰かが来た時、カウンター越しに話をすることになる。何かメモを残していないだろうか。しかし火を扱う場所ということもあって、紙の類いは置いていない。シンクの底に水滴を広げて文字を残すことも可能だが、急いでいてはそれも思うようには書けないだろう。実際に覗き込むと確かに水滴は散らばっていたが、その配置に特に意味があるとは思えなかった。
いや、叶美は探偵部の部長として、きっと何かを残している筈だ。今はどんな手掛かりでも欲しい。
沢渕は彼女が立っていたと思われる場所に直立してみた。そこをコンパスの中心にしてゆっくり身体を回転させてみた。後ろを向くまでもなかった。答えはすぐそこにあったのだ。
シンクの垂直面が水垢で汚れていた。たわしで擦らないと取れない頑固な汚れである。そこには指に力を入れて、垢をこそぎ落とした部分があった。
「イチカワ×2」
そう読めた。
叶美はうまい場所にメッセージを残したものである。この垂直に切り立った部分は、特定の位置からしか見ることができない。犯人がたとえ厨房に入ってきたとしても、叶美の身体が邪魔をして発見できなかったであろう。
沢渕は悲壮感にさいなまれる中、一筋の光が差し込んできたように思われた。叶美は危険を承知で何かを伝えようとした。彼女はきっと無事であるような気がした。
さて、問題はその文面である。
市川というのは、容疑者と思われる人物を指していると思われるのだが、「×2」とはどういう意味であろう。
一般的に考えて、市川という人物が二人いたことになろう。つまりこの店に現れて、叶美を連れ去った実動部隊は二人の市川ということになる。
これはどういうことなのか。まさか彼らが名札をつけている筈もなく、おそらくは自らそう名乗ったのだろう。名前が重なったのは偶然ではあるまい。つまり二人には血縁関係があるということにならないか。
以前、叶美が推理したことがあった。犯人グループの中には、親子関係の者がいるのではないかというのである。なるほど、ここからはすらすらと思考を進められた。
叶美が廃ボーリング場で襲われた際、後頭部を殴った男が父親で、能面を被ってどこか落ち着かない様子をしていたのがその息子ということではないか。
佐伯病院に潜入した際、見掛けた大男というのは、調理場にいた責任者しかいない。叶美の後頭部の傷は上から叩きつけられてできていた。彼女の身長を考えると、かなりの上背を持つ人物と考えられる。市川は自分の息子を巻き込んで、佐伯の犯罪に加担しているに違いない。
厨房を出て入口の方を向いてみた。レジの後ろにはカレンダー、その隣にコルクボードが貼り付けてある。そのボードには横長の短冊が真ん中で破れて、左右からだらりと垂れ下がっていた。それは何とも不自然な光景であった。裏返しになっている紙を両手で元に戻すと、「ランチ」という文字が復元された。
沢渕はそれらの文字をしばらく眺めていた。それからふと笑みをもらした。
短冊は真ん中付近で破られているのだが、その場所はちょうど「ン」の辺りである。叶美は「ン」の文字を取り去って、「ラチ」すなわち拉致されたと伝えたかったのではないか。
人間そんなことを咄嗟に思いつける筈がない。叶美は日頃店番で暇を持て余してる時に、そんな言葉遊びを考えていたのだろう。あるいは、沢渕がいつかカレンダーの印で叶美の店番の日を当てたことがあったので、お返しにクイズでも出そうと練っていたのかもしれない。
(先輩らしいな)
心に立ち籠めた暗雲が少しは晴れた気がした。
(先輩無事でいてください。きっと助けてみせます)
沢渕は誓った。




