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狙われた佐々峰姉妹(2)

 奈帆子はゆっくりと店内を見回した。昼のレストランは大勢の客で賑わっている。どのテーブルも笑顔が咲いていた。そんな中、心中穏やかではないのは、奈帆子ただ一人に違いなかった。

 妹の多喜子が店内から拉致され、そして今、姉の自分も静かに席を立つように命じられた。この後、二人の身に何が待ち受けているのだろうか。命の保証だってないかもしれない。

 何か行動を起こさなくては。これが最後のチャンスだ、奈帆子には焦りだけが募っていた。

「早くしろ」

 男の声が、恐怖を増幅させる。駄目だ、考えがまとまらない。

 仕方なく奈帆子は席を立った。妹が人質に取られているのだ。従わない訳にはいかなかった。

 ちょうどその時だった。注文した食事を盆に載せて、ウェイトレスがやって来た。

「お待たせしました」

 この状況をまるで知らない彼女は悠長に言った。

 せっかく注文の品を持ってきたというのに、席を立とうとする二人を見て、不思議そうな表情を浮かべた。

 果たして多喜子は無事だろうか。このまま外へ出てしまったら、二人とも自由を奪われるだろう。それでは一巻の終わりである。ついに結論に至った。

 奈帆子はウェイトレスのお盆にわざと身体をぶつけた。その衝撃で茶碗が宙を舞った。

 次の瞬間、床に落ちた茶碗は、不快な音を立てて見事に砕け散った。賑やかな店内は一瞬で凍りついた。どのテーブルの客も、この一大事に目が釘付けになっていた。誰もが奈帆子の次なる行動を興味深く見守ることになった。

「ごめんなさい」

 奈帆子は大袈裟な声を上げると、床に膝を落として散らばった茶碗の破片を一つひとつ拾い上げた。

 ウェイトレスは慌てて、

「お客様、気にしなくても大丈夫です。私が片付けますので」

と、奈帆子の身体を床から剥がそうとした。

 奈帆子はそれには応じず、男の方へ憎悪の目を向けた。彼はポカンと口を開いたままだった。

「何やってるの。あなたがしっかりしないから、こういうことになるのよ。とっとと拾うのを手伝いなさい」

 奈帆子は物凄い剣幕で、一気にまくし立てた。

 店内は不穏な空気に包まれた。さっきのまでの賑わしさが嘘のようだった。奈帆子の気迫に圧倒されて、誰もが口を利けずにいた。

 ウェイトレスだけが困惑しながらも、

「お客様、あとは私がやりますので」

「いいえ、私に任せてください。いや、この男にやらせますから」

 奈帆子は市川を睨むと、

「早く手伝いなさい」

と声を張り上げた。

 市川も周りの視線に耐えられなくなったのか、傍に寄って腰を落した。

「お前、相棒がどうなってもいいのか?」

 耳元で囁いた。

「何を言っているの? 全然聞こえないわ。男ならはっきりと大きな声で言ったらどうなの」

 奈帆子は怒りを露わにした。

 それからウェイトレスの方を向いて、

「お姉さん、代わりのスープを持ってきてくださらない。その分のお代は支払いますので」

「はい、今すぐにお持ちします」

 彼女は駆け足で厨房に消えていった。

 床が片付くと、奈帆子はテーブルについた。まだ大勢の目が彼女に向けられている。市川も渋々席についた。

 これで多少時間を稼ぐことができた。次にどうすればいいのか、奈帆子は呼吸を整えて考えた。

「仕方ない。少しだけ食べて、それから店を出るぞ。今度小細工したら承知しないぞ」

 市川は周りの目を意識してか、普通に食事をしながら言った。

 代わりのスープがやって来た。

「ご迷惑をお掛けしました」

 奈帆子は丁寧に頭を下げた。

 そして自分もランチを口に運んだ。それは何とか心を落ち着かせようとしての行動だった。

 しばらくすると、正常な判断ができるようになってきた。そう言えば、最初から少々気になることがあったのだ。それをすっかり忘れていた。本当にこの男は探偵部の追い求めている誘拐犯なのだろうか。年齢も自分とさほど変わらなければ、屈強というほどでもない。あんな大きな事件に関係する人物にはとても見えないのだ。

「あの、一つ訊いてもいいかしら?」

 奈帆子は切り出した。

「何だ?」

 市川は面倒臭そうに答えた。

「人質はみんな無事なの?」

 それには彼の手が止まった。そして奈帆子の顔を下から覗き込むようにした。

「何のことだ?」

「とぼけないで、十七人の安否よ」

 市川は持っていた箸を下に置いた。

「お前、何か勘違いしてないか?」

 二人は食事の手を止め、見つめ合った。

「お前たちが脅迫状を出すから、こういうことになったんだぞ」

「脅迫状?」

 思わずオウム返しになった。

「ああ、そうだ。うちの大学の学園祭実行委員会に宛てた手紙だよ」

 まったく訳が分からなかった。

「そんなの、出してないわよ」

 その言葉に市川は黙ってしまった。初めて困惑した顔を見せた。

「今、その脅迫状とやらを持ってる?」

 奈帆子は畳みかけるように訊いた。

 市川はジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出した。

「これだよ」

「ちょっと見せて」

 奈帆子のただならぬ雰囲気に圧倒されたのか、市川は従順になっていた。

 折り畳まれた紙を広げると、そこにはワープロの文字が整然と並んでいた。内容は、大学に恨みがあるらしく、今度の学園祭の中止を要求するものだった。もし強行すれば、学園祭で人が死ぬことになる、という脅し文句が並べられていた。

「何よ、これ?」

「ちょっと待ってくれよ。これは君たちが出したものじゃないのかい?」

「ええ、まったく知らないわ」

「じゃあ訊くが、どうして大学内を調べ廻っていたんだ?」

「それは詳しくは言えないけど、ある事件の調査よ」

「調査?」

「そう」

「さっき言ってた、十七人の人質とやらか?」

「そうね」

 市川は腕を組んで天井を仰いだ。

「ねえ、どうやらお互い勘違いしているみたいね。とりあえず、うちの妹を解放してよ」

 奈帆子は、これだけは譲れないという調子で言った。

「分かったよ」

 市川は携帯電話で仲間に連絡を取った。

「安心してくれ。今、こちらに戻ってくるよ」

 しばらくして、玄関から駆けてくる足音が聞こえた。振り返ると妹の無事な姿があった。

「お姉ちゃん!」

 多喜子がすがるようにして言った。後ろから二人の男がついてきた。

「大丈夫? 怪我はない?」

「うん、ワゴン車に押し込まれただけ」

 奈帆子は男たちを等分に睨んだ。二人はばつの悪そうな顔して立っている。どちらからともなく、

「すみませんでした」

と頭を下げた。

 次に市川に鋭い視線を向けた。

「な、何だよ?」

「謂われの無い罪で、可愛い妹に恐怖を与えたんだから、謝罪しなさいよ」

「乱暴して済まなかった」

「それだけ?」

 市川は固まった。

「妹にもランチぐらい奢ったらどうなの? 一番高いやつね」

「お姉ちゃんったら」

 多喜子はそう言ったが、奈帆子は毅然とした態度を崩さなかった。

 追加注文を済ませてから、

「脅迫状のこと、もう少し詳しく聞かせてほしいわね」

と市川に言った。

「その手紙はどうやって届いたの?」

「茶封筒の中に入れられて、実行委員会の会議室のドアの隙間から差し込んであった」

「その封筒はどうした?」

「捨てちまったよ」

「もう、ちゃんと取っておいてくれればよかったのに」

「どうして?」

 市川が訊くと、

 多喜子が横から、

「指紋を採取するんです」

と口を挟んだ。

 驚いた顔をしている市川に、

「私たちが大学内を調べているって、どうやって知ったの?」

 その質問には多喜子を連れ去った男の一人が答える。

「実はどこからともなく噂が流れていたんですよ」

「どんな噂?」

「学園祭を妨害するという目的で、女二人が車でやって来て、委員会のメンバーについて調べてるって」

「それで偽の名簿で私たちを罠に掛けた、って訳?」

「そうなんです」

「でも私たちはその脅迫状を出した覚えはないし、学園祭の中止も望んでなんかいないわ」

「どうやら、そのようですね」

 市川も理解してくれたらしい。

「そういう訳で、あなたたちも捜査に協力してもらうわ」

 奈帆子はそう言い出した。

「大学に他にも市川って人がいる筈なの。恐らくあなたよりも年上の男性」

 市川は少し考えていたが、

「さあ、いるかもしれませんが、ちょっと分かりませんね」

 他の二人も首をかしげている。

「それじゃあ、進藤真矢って人はどう?」

「ああ、進藤さんなら知ってますよ。薬学部の先輩ですから」

 市川は事も無げに答えた。

「お姉ちゃん!」

 その瞬間、多喜子が声を上げた。

「何回生?」

 奈帆子は落ち着いて訊いた。

「もう卒業してますが、院生として大学に通ってますよ」

「その人に今すぐ会えるかしら?」

「どうでしょうか。でも、会えるかもしれません」

「じゃ、すぐ行きましょう」

 奈帆子が立ち上がると、先程のウェイトレスが多喜子のランチを持って来た。

「お姉ちゃん、これどうしょう?」

「そうね、さっさと食べて頂戴。それから出掛けましょう」

(いよいよ、犯人と顔を合わせることができるわ)

 奈帆子は今すぐにでも飛んでいきたい気分だった。

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