探偵部、海へ。(4)
二人はしばし無言になった。
寄せては返す波が遠くで一定のリズムを刻んでいる。すぐ近くでは子供たちの歓声が起こった。見ると多喜子は軽い寝息を立てていた。
叶美はゆっくりと背中を向けた。
沢渕の視界には今、叶美の水着姿だけがあった。心臓の鼓動が速くなったことを悟られないよう平静を装う。
「犯人のうち、私が遭遇したのは軟弱そうな学生と場慣れした武闘家。連中は一体どんな組織なのかしら?」
叶美は両腕を枕に仰向けになった。肘が沢渕の肩に触れて、少し身体を引っ込めた。
「あともう一人、車椅子の女がいます」
「そうだったわね。その女の年格好は不明だけど、ひょっとすると武闘家の妻かもしれないわ。そうなると、学生はその夫婦の実の息子ってことにならない?」
「家族全員がこの事件の犯人ということですね?」
それは、これまでにない着眼点だった。
四年以上尻尾を出さなかった組織である。メンバー同士には強い結束力が見て取れる。家族という血縁ならばそれも頷ける。
「あなたの推理では、犯人の数はせいぜい五人。だったら一家族が丸々犯人ってこともあり得るんじゃないかしら」
どうやら叶美には自信があるようだが、沢渕は素直に賛同できなかった。なぜならいくつかの疑問が生じるからである。
家族全員が犯罪に手を染める動機とは一体何であろうか。親が我が子に犯罪を強要するのである。それだけの強力な動機がそこになければならない。
もう一つ、家族として日常生活をどう送るかという問題がある。もしあの街のどこかに自宅を構えているのなら、近隣の目は絶えず意識しておかなければならないだろう。そんな状況下で、果たして長期に渡ってしかも大勢の人を監禁することができるだろうか。
それを説明するのが面倒に思われて、沢渕は敢えて反論はしなかった。
「犯人は家族経営の店を持ち、送迎バスを所有している。私にはそんな犯人像が浮かぶのだけれど、どうかしら?」
話していくうちに、彼女の自信は徐々に深まっていくようであった。
「その店は今も営業しているのでしょうか?」
沢渕はそんな質問を投げかけた。
「十七人を監禁しつつ、通常営業するのは困難じゃないかしら。客の目もある。だから今は廃業していると思うな。いやむしろ廃業したことで、この犯行を思いついたのかもしれない」
それなら、なおさら家族が犯人とするのには無理がある。廃業した店が突然送迎バスを動かしたり、敷地内で人の動きを活発にしたりすれば、近隣住民の目には異様に映る筈だからである。
沢渕が何気なく砂浜に目を遣ると、こちらへ一直線に駆けてくる人物がいた。少し先をサッカーボールが慌ただしく回転している。
橘雅希だった。
あっという間に目の前に到着した。
「ただいま」
短髪で上半身裸の青年が声を掛けた。小麦色に焼けた顔に白い歯が浮かび上がった。
「お帰りなさい」
突然のことで少し驚いた叶美の声が、多喜子を目覚めさせた。
「あっ、橘先輩」
多喜子は上体を起こすと、慌てて髪の毛を整えた。
「森崎さん、一緒に砂浜を歩きませんか?」
爽やかな笑顔がそう言った。
「そうね、タキちゃんも一緒に行きましょうよ」
雅希の表情が一瞬曇った。沢渕はそれを見逃さなかった。
「わあ、いいんですか?」
多喜子の黄色い声に雅希も頷かずにはいられない。
女子二人は同時に立ち上がった。
「それじゃあ、沢渕くん。ちょっと失礼するわね」
「荷物の番、お願いします」
叶美は敢えて多喜子を雅希の隣に立たせると、自分は少し距離を置いて並んだ。三人はゆっくりと小さくなっていった。沢渕の足下には砂まみれのサッカーボールだけが残された。
果たしてクマは叶美の姿をしっかり捕捉できているだろうか、そんなことを一人考えた。
しばらくぼんやりしていると、背後から素早くパラソルに潜り込んできた人物がいた。振り返るより先に冷たい手が頬を襲った。
「びっくりしたでしょ?」
半身を向けると、奈帆子の笑顔があった。今まで泳いでいたのか、髪は濡れ、自慢のビキニからは水が滴り落ちている。
「気持ちよさそうですね」
「うん、沢渕くんも泳いで来たら?」
「はい、後で行ってきます」
奈帆子は手を伸ばしてクーラーボックスからジュースを取り出した。
「沢渕くんも飲む?」
「いいえ、結構です」
「そう言えば、私たちこうやって二人っきりで話したことなかったわね」
奈帆子は沢渕の顔をまじまじと見つめた。
「そうですね」
「みんながいつも羨ましく思えるのよ。探偵部のメンバーは私を除いて、いつでも学校で会えるでしょ?」
「いや、僕はむしろお姉さんの方が羨ましいですよ。テストや補習に悩まされる心配がない」
「あら、そんなことないわよ。大学だって試験はあるし、単位も取らないといけないんだから」
奈帆子は口を尖らせた。
突然、強風が通り抜けた。
パラソルが変形するほどの勢いである。青いバケツが大袈裟に転がっていった。
奈帆子はその様子をじっと見ていたが、
「あなたには凄く感謝してる」
沢渕が不思議そうな顔をすると、
「多喜子のことよ」
と言った。
「あの子ってね、早くに母親を亡くしたでしょ。それが原因で性格が変わってしまったのよ。何と言うか、孤独な境遇にすっかり慣れてしまったの。でも、その原因は実は私にあるのよね。料理とか洗濯とか掃除とか、あの子が進んでやるものだから、それをいいことに全部押しつけちゃったの。これじゃあ姉失格ね」
沢渕は黙って聞いていた。
「だから、もっと人と付き合ってもらいたくて、無理矢理探偵部に引き込んだのよ。あんまり戦力にはならないけどね」
「そんなことありませんよ」
沢渕は頭を振った。
「今回の捜査だって、多喜子さんの雑誌がなければ始まらなかったでしょう。人質のメッセージが書かれた雑誌をもう一冊見つけてくれたじゃないですか」
「そう言ってもらえると助かるわ。あの子、人から頼られるのが凄く嬉しいのね。最近は休日に車を出せってうるさいのよ」
「捜査ですか?」
「ええ。ほら、例の市川探し」
市川とは、外車情報誌のはがきに残されていた名前である。事件と関係があるかどうかは不明だが、雑誌に関わった人物には違いない。ずばり犯人の名前である可能性もある。
「進行状況はどうですか?」
「あまり芳しいとは言えないわね。そこで私、あることを思いついたのよ」
「と言いますと?」
「あの辺りは学生向けのマンションが多く建ち並んでいるのよ。だから市川は大学生だと決めて捜査しようって考えたの」
沢渕はその続きが気になった。
「あの街には二つ大学があるの。一つは医科大学、もう一つは短期大学。何食わぬ顔して構内の駐車場を調べてみたら、医大の方には結構外車が停めてあるじゃない。だから市川は医大生じゃないかと仮定してみたの」
その考えには興味が湧いた。
「事務局へ出向いて、市川さんっていう学生を探しているって訊いてみたけど、教えられないの一点張り。だからキャンパスや校舎を歩いて『市川』の名前を探したのよ」
「それで、結果はどうでした?」
「四回生に一人見つけたわ。フルネームはまだ分からないけれど、もう少しこの線を追ってみることにするわ」
「佐々峰姉妹もなかなかやりますね」
沢渕は感心した。
「そうでしょう。何か分かったら真っ先にあなたに報告するわ」
「無茶はしないでくださいね」
「大丈夫よ、任せておいて」
奈帆子はビキニの胸辺りを手のひらで叩いた。
正午前に全員が海の家に集合した。混雑を避けて、早めに昼食を取ることになっていたのである。
八人は奥のテーブル一つを占拠した。
「あら、クマ先輩。随分と日焼けしたみたい」
多喜子がすぐに気がついた。
確かにクマは朝来た時より、顔が赤黒くなっていた。
「本当だ。何だか、いやらしいわね」
雅美が言う。
「おい、ちょっと待て。どうして日焼けするといやらしいんだよ?」
沢渕にもそれは論理の飛躍に思えた。
「だって、この浜辺に居る女性の水着をずっと観察していた、ってことじゃない?」
雅美は腰に手を当てて指摘した。
「あのなあ、俺は森崎をだな」
そこまで言ったところで直貴が一つ咳払いをした。
「えっ、森崎さんがどうかしたのかい?」
すかさず雅希の突っ込みが入る。
自然とみんなの視線は叶美に集まった。
叶美は恨めしそうにクマを見上げた。言葉の続きを待っている様子である。
「いや、だからその、俺も本物の熊みたいに真っ黒になったら、森崎に気に入ってもらえるかと思ってさ」
随分と苦しい言い訳である。何とかクマをフォローできないだろうか、沢渕は一生懸命言葉を探した。
「凄いわ、クマゴロウって結構いいヤツだったのね」
雅美が目を輝かせて言った。
「そ、そうだろ」
クマは頭を掻きむしった。
雅美が単純な性格で助かった。
海の家ならではの飾り気のない平凡な食事がテーブルに並んだ。それでも大人数の食事は楽しいものである。話も途切れることを知らない。
「ねえねえ、叶美先輩って凄いの。浜辺を歩いていたら、知らない人から何度も声を掛けられたのよ」
急に多喜子が思い出して言った。
「何だって!」
「えっ」
クマが大きな声を張り上げると、沢渕と直貴も顔を見合わせた。もしや犯人が彼女に接触してきたのではないだろうか。緊張が走る。
「森崎さんのことになると、どうしてそこの三人は極度に反応するの?」
雅美は不満を漏らした。
「タキちゃん、そんな報告しなくていいから」
当の叶美は慌てて話を逸らそうとする。
「それって、もしかしてナンパ?」
奈帆子が訊く。
「たぶん、そうよ」
多喜子が答える。
男三人に安堵が広がった。
「森崎さんは、そんな簡単にフラフラついていく人じゃありませんよね?」
なぜか雅希が締めくくった。
食事後、沢渕はパラソルの下で横になっていた。
「ねえねえ、沢渕くんってば」
雅美の呼び声がした。
どうやら少しうとうとしたようだ。周りを見ると、みんなはいつの間にか出払っていた。
すぐ横で、地味なスクール水着姿の雅美が寝そべっていた。
「ちょっと訊きたいんだけど、あなた、探偵部の中に好きな子いるの?」
「いきなり何の話ですか?」
沢渕は目を擦りながら言うと、
「仕方ない。私が推理してあげるわ」
と言い出した。
「いや、別にいいですよ」
「ダメよ、今度は私が推理する番」
雅美は勝手に盛り上がっている。
「そうねえ、部長の森崎叶美さん」
一瞬、ドキッとした。
「この線はないわね」
雅美は断言した。
「どうしてそう思うのですか?」
沢渕は理由を訊いた。
「だって、あなたは物静かなタイプだから、やんちゃ姫は好みじゃないと思うのよね」
「やんちゃ姫、ですか?」
「叶美さんは一人突っ走っていくタイプでしょ。あなたとは性格が真逆なのよね」
沢渕は苦笑した。
「では、奈帆子さんはどうか。この線もないのよね。歳上だし、女子大生から構ってもらえそうにないから、あなたは最初から諦めている筈よ」
随分とひどい言われようである。
「次の候補は、多喜子ちゃん。この線は濃厚ね。クラスも同じだし、物静かな彼女はあなたにピッタリ」
雅美は悪戯っ子のような目で、沢渕の顔を覗き込んだ。
「と、思わせておいて、実は彼女も違うのよね。毎日教室で一緒に居られるのにまるで進展がないんだもの。だから脈なし」
沢渕は思わず吹き出した。
「そして最後に残ったのは、この私、橘雅美」
彼女は顔を近づけてきた。
「実は大穴。もしかして大本命じゃない?」
「ど、どうしてですか?」
「ほら、今だってドキドキしてるじゃない。それに部員の猛反対を押し切って、私を探偵部に招き入れた。つまり他の誰より私を大事にしている証拠でしょう」
沢渕は反論しようにも、すぐに言葉が出てこなかった。
「ほら、白状しなさい」
「一体、何を白状するんだい?」
知らぬ間に直貴がパラソルに入ってきた。
「別に、何でもないわよ」
雅美はそう言うと、身体を翻して海の方へ駆けていった。
「橘って、本当に明るい性格だよね。おかげで探偵部も面白くなったよ」
そう言って冷えたジュースを寄越した。
「沢渕くん、今日は夏休み初日だよ。時間の心配はいらない。さあ、大いに事件のことを語ろうではないか」
直貴はまるで雅美の真似をするように、両手を大袈裟に広げて言った。
「そうしましょう」
沢渕も応じる。
「僕は、森崎から犯人と遭遇した時のことを聞いて以来、ずっと引っかかっている事があるんだ」
沢渕は黙って耳を傾けた。
「能面のことさ」
先輩はジュースを飲み干した。
「森崎は自警団とも言うべき老人たちから調査リストを貰って、偶然、あのボーリング場に一人で乗り込んだ」
「はい」
「つまり犯人は森崎が来ることを知らなかった筈なんだ。それなのに顔を隠すために能面を付けて現れた」
「随分と準備がいいですね」
「そうなんだ。まるで森崎を待ち伏せしていたような節がある」
「僕も気になって先輩に訊いたのですが、貰ったリストには全部で五件の怪しい物件が記されていた。その中で先輩自身がボーリング場を選んだらしいのです」
「植野がそこへ行くように指示した訳ではないんだね?」
「はい、そうです」
「それならいいんだ。僕は一瞬、植野老人らを疑ったんだ」
沢渕は老人たちの顔を思い出していた。到底犯罪に関与するようには見えないし、あの年齢では誘拐、監禁といった荒い仕事ができる筈もない。
「なぜ犯人たちは森崎が来ることを知っていたのか、その点がどうも腑に落ちないのさ」
「先輩はずっと尾行されていたのかもしれませんね」
沢渕はそう言った。
「なるほど、それで一応の説明はつく。彼女はどうやらボーリング場へ向かっているので、俺たちは先回りしよう、それから能面も忘れずに持っていこう、と犯人は考えた訳だ」
どうやら直貴は納得がいかないようだった。
二人はしばらく黙りこくった。互いがそれぞれ考えることがあった。
パラソルにビーチボールが転がってきた。転がる度に中の鈴が乾いた音を出した。
「どうもすみません」
父親らしき男性が拾いに来た。
その姿が消えるのを待って、直貴が口を開いた。
「武鼻自動車で見つかったあのバス二台は、結局何だったんだろうね?」
「犯人の仕組んだ罠かもしれません」
「武鼻社長によれば、賊が侵入したのはひと月前のことだそうです。その時元々停めてあった無関係のバスに、犯人が小細工をしたのかもしれません」
「我々探偵部の動きを察知して、証拠をねつ造し始めたという訳だ」
「はい」
「どうして僕らの動きが奴らにバレたのだろう?」
「やはり捜査活動が目に留まったということでしょう。目撃されたのは、探偵部員ではなく、クマ先輩の柔道仲間や植野老人たちかもしれません」
「逆に言えば、探偵部員あるいは仲間の誰かが、監禁場所に肉迫したということにならないかい?」
「確かにそうですね。僕らは知らない間に犯人らとすれ違っているのかもしれません」
「それなら、これ以上探索エリアは広げずに、これまで捜査したエリアを再度徹底的に調べてみてはどうだろう。そこに犯人は潜んでいるのだから」
「賛成です。ある程度ヤマを張ってみることも時には必要です」
二人はそうやって今後の捜査方法を話し合った。
「そろそろ帰る準備をしましょうか?」
奈帆子が提案した。
時刻は四時を回っている。今、メンバー全員はパラソルに勢揃いしていた。みんなすっかり疲れていて、てきぱき動こうとはしなかった。
「今日はとても楽しかったです」
雅希が言った。
ここに居る誰もが同じ感想を持っているに違いない。沢渕は明日からの捜査へ向けて、充電が完了したような気がしていた。
「ところで、森崎さん。今度二人っきりでデートしてくれませんか?」
雅希は叶美の前にひざまずいた。
「あのヤロー、みんなの前で堂々と誘いやがって」
クマの小声はよく通る。沢渕と折り畳んでいたシートが平行四辺形になった。
「ごめんなさい。私、色々と忙しくて」
叶美は申し訳なさそうに答えた。
部長はあくまでも捜査を優先しているのだった。事件の解決のため、今はうつつを抜かしている場合ではない。
「そうか、それは残念ですね」
雅希は立ち上がった。
その時持っていたポーチから小物がぱらぱらと落下した。どうやら蓋がきちんと閉まってなかったようだ。
財布、サングラス、ボールペンなどが砂の上に散乱した。
叶美は腰を落とすと、それらを拾い始めた。両手で一つひとつ砂を払ってから雅希に手渡す格好になった。。
その途中で叶美の動きがぴたりと止まった。拾い上げたボールペンを凝視している。
そこには不思議な刻印があったからである。
「新野工業株式会社」
彼女はしばらくその文字と睨み合った。
ピンクの水着は飛び上がると、
「先輩、このボールペン、どうしたのですか?」
「ああ、それかい? サッカーのコーチから貰ったんだ。何でもそこの社長がコーチの知り合いなんだって」
叶美は神に感謝していた。何と答えは簡単なところにあったのだ。思わず笑みがこぼれた。
「よかった。今日はあなたが来てくれて本当によかった。デートでも何でも喜んで行きます」
叶美は雅希の手を握った。
遠巻きに見ていたメンバーたちは一体何が起こったのか、理解できなかった。
いよいよ、探偵部に追い風が吹いてきた、そう叶美は感じた。犯人と裏取引をしたと思われる新野工業社長、新野慎一とこれで会うことができる。それは沢渕のかねてからの願いだった。
夏の砂浜で潮風を肌に感じながら、叶美の胸は踊っていた。




