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犯人との遭遇(2)

 叶美は頭部に痛みを覚えて、突然目を覚ました。

 相変わらず辺りは闇に覆われていた。だらしなくうつ伏せになっている自分の姿があった。すぐ目の前の床には小物が散乱している。

 どれだけ眠っていたのだろうか。

 意識を取り戻した途端、頭が朦朧としてきた。思考のピントが合わない。そのくせ後頭部の激痛だけは妙にはっきりとしている。

 迂闊だった。

 能面男と向き合うことに精一杯で、もう一人の存在をすっかり忘れていた。この部屋に足を踏み入れると、すぐに鉄の扉を閉めた者がいたのだ。

 そいつは密かに背後から近づいていたのだ。そして後頭部をいきなり拳で殴りつけた。

 さっきからずっと耳鳴りがしている。右の頬骨辺りに痺れを感じる。

 この鈍痛からすると頬は膨れ上がっているに違いない。腕が不思議な方向に曲がったまま動かせないので、その確認すらできない。

 起き上がろうと思っても、身体全体が床に張り付いてしまったようだ。力を入れることができない。今全身は倦怠感に覆われている。

 思えば制服姿のままであった。

 こんな埃まみれの場所で寝そべっていれば、白いブラウスはさぞかし真っ黒になっていることだろう。母親にはどう説明したらよいだろうか、そんなどうでもいいことが脳裏をよぎった。

 今、室内は静まりかえっている。人の気配はない。

 あの二人はここを出ていったのだろうか。

 身の危険は去ったということか。

 そもそも今は何時なのだろう。時計を確認しようにも、腕がまるで言うことをきかない。

 あの連中が舞い戻って来るとは考えられないか。もしそうなら、今すぐここを離れなければならない。

 身体を起こそうにも踏ん張りが利かない。まるで他人の身体のようだ。どこか骨が折れているのかもしれない。

 それでも叶美は、時間を掛けてゆっくりと身体を寝返らせた。

 天井が見えた。

 化粧板が外れ、ガスの配管や電気コードが剥きだしになっている。部屋の様子はかろうじて物の濃淡だけで窺うことができる。

 心なしか、さっきよりも楽に呼吸ができる。身体は新鮮な空気を欲しがっている。無心に大きく呼吸をした。

 部屋に流れる悪臭は相変わらずだが、慣れてしまったせいか、あまり気にはならない。

 おそらくすぐ傍に犬の死骸が転がっている筈である。気味が悪いが、身体が硬直している今どうにもならない。

 考えてみれば、大型犬を平気で惨殺するような連中である。私はよくこの程度で解放されたものだと思う。これは奇跡なのかもしれない。本来なら殺害されていても不思議はない。

 じわじわと身体が震えてくる。

 そう言えばあの時、能面男は私の言動にどこか驚いたようであった。たった一人の女子高生が制圧できなくて、焦っていたように見えた。それを隠そうと言葉を荒らげてはいたが、本当に襲う度胸は持っていなかったのかもしれない。あの男はとても殺人を犯すような人間ではなかった。

 逆に言えば、そう感じたからこそ、案外強気にいけると判断したのだ。

 沢渕によれば、犯人グループは数人で構成されているらしい。それが正しければ、私はその中の二人の人物と接触したことになる。

 あの能面は若い感じがした。ひょっとすると大学生かもしれない。一緒にいる仲間も同じ年齢だとしたら、そんな若造に十七人もの大量殺人ができる筈がない。やはり人質は皆無事でいる、そう確信した。

 突如頭痛が襲った。

 さっきから頭が締め付けられる痛みが断続的に襲っていた。それによって思考も余儀なく中断させられる。

 まるで死にかけの金魚のように口を動かした。しばらくすると随分と落ち着きを取り戻した。

 ゆっくりと力をみなぎらせて、上体を起こす。

 いつまでもここにいる訳にはいかない。こうしている間にも連中が仲間を連れて戻ってくるかもしれない。

 何とか立ち上がることができた。だが、すぐによろめいた。足が踏ん張れないのだ。もう一度この場にしゃがみ込むことができたらどんなに楽だろうか。

 しかしそうしたら最後、動けなくなるかもしれない。

 誘惑を振り切って、一歩、二歩と前に進み始めた。

 右の頬に手をやった。やはり異様に膨らんでいる。

 腕時計を目の前にかざした。針は午後八時を指していた。どうやら二、三時間眠っていたらしい。

 叶美は入ってきた扉の方へ向きを変えると、床の障害物を避けながら歩いた。歩幅が安定しない。常に何かに掴まっていないと、自立も難しい有様だった。

 それでもゆっくり時間を掛けて部屋の外に出ることができた。

 これで地獄から生還できるのだと実感が湧いた。自然と涙が溢れた。今生きていることを神に感謝した。

 廃墟から這うようにして外へ出た。月明かりの下、駐車場が遠くまでぼんやりと浮かび上がっている。民家の窓からは暖かい光が漏れていた。やっと人の住む世界に戻ってきたのだ。

 これ以上我慢できなかった。

 駐車場の真ん中辺りで身体を投げ出した。アスファルトが少し熱を帯びている。人目を気にすることもなく、少し吐いた。それから大の字になって寝転んだ。

 広大な駐車場は通りからは見通しが利かない。それにたとえ通行人に見られても、まるで恥ずかしいとは思わなかった。それよりも今は身体を休めたかった。

 自然と月を見上げる格好になった。

 額に手を当てると、熱が出ているようだ。

 知らず知らずに携帯電話に手が触れた。自宅に電話を掛けた。

 心配そうな母親の声が遠くに聞こえる。

 叶美はありったけの力を振り絞り、できるだけ普通の声を出した。今夜は行事の準備があるから学校に寝泊まりする、と伝えた。親には心配を掛けたくなかった。こんな格好で帰ったら親は半狂乱になるだろう。

 母親は、分かったと言った。それからもっと早めに連絡をしなさいと不満を漏らしたようだった。叶美にはほとんど聞き取れなかった。

 無事電話を切ると、次に沢渕の携帯に掛けた。

 しかし、電波の届かない所に居ますという定型句が流れるだけだった。

 また涙が溢れ出した。他の探偵部のメンバーに連絡を取ろうとしたが、そこで電池が切れてしまった。

 叶美は一人絶望の淵に立たされていた。

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