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犯人との遭遇(1)

 森崎叶美は今、薄暗い部屋に閉じ込められていた。足元からは異臭が漂い、大気の密度すら歪めてしまっている。とても人間の居られる場所ではない。精神が肉体から離れてしまいそうだ。

 これ以上、ここには一秒たりとも居たくない。すぐにでも逃げ出したい。そんな衝動が彼女の身体を支配していた。

 しかし、どうやらそれは叶わぬ夢のようだった。何者かの手によって部屋の扉は固く閉ざされてしまったからである。後戻りはできない。

 それなら先へ進むか。

 いや、それはもっと無理な相談なのである。

 目の前には人のシルエットが浮かび上がっていた。暗闇の中、徐々に目が慣らされて、今でははっきりとその人物の顔が窺える。

 能面を被った男。

 彼が息をする度、握られた鉄パイプが上下に波打った。

 気を狂わせるほどの異臭の原因は察しがついている。床には大型犬が見るも無惨な姿で横たわっているからである。この男が容赦なく鉄槌を下したに違いない。

 ああ、もう理性を保つことができない。

 自然と涙が浮いた。ここから消えてしまいたい。しかしそれは魔法でもない限り不可能だ。いくら妄想を重ねても現実を超えることはできやしない。

 頭が変になりそうだ。誰かに助けを求めることはできないのか。今この地球上で、私ほど孤独で惨めな人間はいないだろう。

 クマの顔が浮かんだ。普段意識したこともなかったが、彼は探偵部には欠かせない存在である。ここに居てくれたらどんなに心強いことだろう。

 沢渕晶也の顔も浮かんだ。彼ならこの修羅場をくぐり抜け、無事に生還する行動力を持ち合わせている筈だ。

 探偵部の部長でありながら、これほど無力な自分に嫌気が差した。許されるのなら、この場で泣き崩れてしまいたい。

 しかしそれでは事態は一向に変わらないではないか。今ここは自分の力を頼りに戦わなければならないのだ。

 能面と向き合う格好になった。

 それは一瞬のことなのか、それとも何時間のことなのか。叶美にはもはや判断がつかなかった。

 本当にここで一戦交えることになるのか。

 相手は鉄パイプを持っている。一方、こちらは武器となる物が何もないのだ。

 叶美は能面男の動きを目でけん制しつつ、ちらちらと辺りを見回した。何か戦う道具は落ちてないだろうか。

 ダメだ、正常な判断ができない。

 こうしている間にも、相手が襲いかかってきたら、一瞬で決着がついてしまうだろう。そう、事が始まったら最後、自分には何の抵抗もできない。

 突然、男が動き始めた。一歩ずつ叶美に近づいてくる。

 歩く度に鉄パイプが床に擦れて、甲高い悲鳴のような音を響かせた。

 いよいよ、戦いが始まるのか。

 死を意識した。

 何とか、時間を稼ぐことはできないか?

 叶美は朦朧とした頭で考えた。

 鉄パイプを振り上げるより先に、こちらから体当たりを食らわすことができれば、相手に隙が生まれるだろう。それを利用して部屋の奥へ駆け抜けてはどうだろう。とにかくまともに戦っては終わりだ。

 ここは一縷の望みに全てを託すことにしよう。

 こんな状況で、どうして逃げ出さずにいられるのか不思議でならない。いや、恐怖のあまり、足が床に張り付いてしまっただけのことかもしれない。

「随分と子供騙しね」

 叶美は落ち着いた声で言った。

 男は思いがけないその台詞に一瞬当惑したように見えた。

 そして足を止めた。

 また睨み合いになる。

「事件の捜査から手を引け」

 無表情の面からそんな声がした。意外と若々しかった。そのことが叶美にさらなる力を与えた。

「捜査って何のことかしら?」

「とぼけるな!」

 叫び声と同時に鉄パイプが床に振り下ろされた。金属が地面を叩き割る音が響いた。

 叶美は震え上がった。

 やはりこの相手とまともに戦っては勝ち目はない。それでも心の動揺を悟られないよう、小さく呼吸をした。

 この暗闇は自分に有利に働いている、そう考えた。

 相手からはこちらの表情が読めていない筈だ。恐怖に怯える自分の姿は目に映ってないだろう。それならハッタリをかませてやる。

「なるほどね、それで分かったわ。あなたが五年前の誘拐事件の犯人って訳ね」

 叶美の声はかすかに震えていた。しかしそれを相手に気づかれないように毅然と胸を張った。

 能面からの答えはなかった。何かを考えているようだった。

「今、人質はどうしているの? 全員無事なんでしょ?」

「うるさい、黙れ!」

 今にも男は飛びかかって来そうな勢いである。彼を刺激するのも程ほどにしないといけない。

「男って楽よね。都合が悪くなると、そうやって威勢だけ張ってればいいんだから」

 叶美は強気に出た。

「それ以上喋ると、お前の命はないぞ」

「面白いわね。私には覚悟ができているから、そんな脅しはちっとも怖くはないわ。どうせ死ぬなら、あんたも道連れにしてやる」

 どうしてそんな台詞がすらすら出てくるのだろう。叶美は不思議でならなかった。

 本当にこの場で死に絶えてもいいというのか。まだやり残したことは山ほどある。

 しかし今ここで死ぬ運命ならば逆らう気はない。神の思し召しに従おう。だけど無駄死にだけはしない、命と引き替えに絶対事件は進展させてやる。

 叶美はもはや恐怖を感じてはいなかった。足の震えも収まっていた。これまで十七人が受けた苦痛からすれば何でもない。

 叶美は意味もなく腕時計に目を遣った。だが実際には暗闇のせいで何も目には映っていなかった。それでも笑みを浮かべた。

「もうすぐ仲間たちがここへ駆けつけることになってる。私の役目は、それまでお前を引き留めておくこと。たとえ血まみれになっても放しはしないから」

 男がひるんだのが分かった。

 相手にとって、これはどうやら予想外の事態らしかった。実は叶美の方こそ、思いも寄らない展開なのだった。

「さあ、かかって来なさいよ」

 叶美は一歩前へ出た。この自信は一体どこから湧いてくるのか。まるで説明がつかない。今、身体の外から誰かが私の精神を操っているのだ。

 靴が何か棒状の物に触れた。角材のようだった。

 叶美は素早く拾い上げると、縦に構えた。

 こんなものでどこまで持ちこたえるだろうか。しかし、やるしかない。

 心のどこかで相手を倒せる希望が生まれた。そしてそれは徐々に自信へと変わっていく。

 もし相手に勝てば、犯人の身柄が確保できる。事件は一気に解決に向かうだろう。人質も全員解放できるではないか。

 叶美の心は躍った。

 その時である。

 彼女の背後に密かに近づいてくる人物がいた。扉を閉めた男である。すっかりその存在を忘れていた。

 そして今、叶美の後頭部を容赦ない一撃が襲った。

 水平線が左右に揺れて、一気に暗黒へと引きずり込まれた。

 やはり自分には無理だったのだ。大した力もないくせに、勢いだけで生きてきた人間の末路だ。そう考える間もなく、彼女の身体は不思議な形に折れ曲がり、地面に沈み込んでいった。

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