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叶美のピンチ(1)

 水曜日の朝は、普段と大きく異なっていた。

 いつも乗っている列車が架線事故の影響で二十分遅れたのである。そのため駅のホームは行き場を失った人たちで溢れかえっていた。どの顔も不安とやり場のない怒りに満ちている。この先どの駅でも、同じような光景が見られることだろう。

 沢渕は駅を出ると、ホッと胸を撫で下ろした。もう一本遅い列車を選択していたら、完全に遅刻するところであった。

 いよいよ生徒会選挙が今週末に控えていた。

 森崎叶美も選挙活動終盤を迎え、多忙な日々を送っているようだ。部長がそんな状況では、当然探偵部の活動はなく、捜査は一向に進まない日々が続いていた。

 ふと前を見ると、見覚えのある後ろ姿があった。

 堀元直貴である。

 彼とはこれまで一緒に登校したことはなかった。互いに利用している列車の到着時刻がかけ離れているからである。

「先輩、おはようございます」

「ああ、おはよう」

 直貴は少し驚いたようだった。

 しかしいつもの顔に戻って、

「なるほど。今日は列車が遅れたおかげで、ここで出会えたという訳だ」

 さすがに頭の回転が速い。

「土曜日の話は、森崎から聞いたよ。色々と大変だったね」

「ええ、まあ」

 学校に着くまでには十分時間がある。沢渕はその日の出来事をつぶさに語った。

 直貴は時に頷いて、聞き役に徹してくれた。

「不良連中に囲まれた時は、二人ともびっくりしただろう?」

「はい。何とか切り抜ける方法がないものかと考えましたよ。とっさに森崎先輩だけでも助かればいいと思いました」

「でも、森崎は一人では逃げなかった」

「はい」

「あいつらしいね」

 直貴はそう言うと口元を緩めた。

「どちらかと言えば、森崎は考えるより先に行動を起こすタイプの人間だ。よく言えば、行動力があるのだが、悪く言えば、猪突猛進なんだ。時と場合によっては、見境なく動いて痛い目に遭う」

 沢渕はその言葉の意味を考えた。

「しかしその不良達がクマの仲間とは、まだまだ神も捨てたものじゃないね」

 直貴は声に出して笑った。

「彼らもマイクロバスを探してくれていたんです」

「それはまた、クマにしては段取りがいい」

「確かにそうなんですが……」

 沢渕は言葉を濁した。

「何か、問題でも?」

「部長はこの件をさほど問題視していませんが、一般人に下手に動かれると、犯人にこちらの動きが察知される恐れがあります」

「なるほど。確かにそういう側面はあるね。犯人たちに警戒されて証拠隠滅を図られたり、あるいは人質に危害が加えられたりする心配も生じる」

「そうなんです。迷子の犬猫探しとは訳が違います。相手は凶暴な犯罪集団です。ひょっとすると、犯人と出くわした時、危険な目に遭う可能性だってあります」

「森崎はその点をあまり気にしていない、か」

 沢渕は黙っていた。

「けれど、公園に集まる老人やクマの仲間を捜査に活用できるのは実に有り難いことだよ。我々だけではどうしても限界があるからね」

「確かにそうですが」

「最近、君は部長に反発するまでになったんだねえ」

 直貴はおどけて言った。

「先輩、これは真面目な話です。変に茶化さないでください」

「ああ、すまない」

 二人に沈黙が生まれた。

 目の前の横断歩道を、黄色い帽子の児童が次々と渡っていく。

「だがね、広大な町を隅々まで調べるのは時間が掛かる。これは紛れもない事実だ。町に詳しいお年寄りや手伝ってくれる仲間がいるのは心強いじゃないか」

「それもそうですね。分かりました」

 沢渕は素直に認めた。

 確かに事件を早く解決するためには、ある程度の人員が必要だ。探偵部の捜査だけでは一向に解決できない恐れがある。

「それから、武鼻自動車にあったマイクロバスについてだが」

 直貴は話題を変えた。

「車内で見つかった片比良七菜のメモはどうした?」

「それは昨日、鍵谷先生に鑑定を依頼しました」

「どうやら今回のメモは、これまでのメッセージとは何だか違うみたいだね」

 これについては直貴の意見が聞いてみたかった。

「はい。何というか、落ち着き払って書いた文字のようなのです」

「森崎によると、メモは紙の一部を破ったものだが、そのやり方も実に落ち着いているらしいね。緊急事態ならもっとこう、斜めになったり、歪んだりする筈なんだが」

「そうなんです。それが彼女の自筆だとすると、問題はそれをいつ書いたかです。予め持っていたメモをとっさに思い出して、バスのシートの隙間に押し込んだのなら、それほど不自然ではないと思います。名前以外、何も情報がないのも説明がつきます」

「しかし犯人側が作為的に残したとも考えられる訳だ」

「はい。もしそうなら、あのマイクロバスはまったく関係がないことになります」

 直貴は小さくうなり声を上げて、

「しかし犯人たちは未だ警察の手が及んでないと、たかをくくっている筈なんだ。そんな連中がどうしてマイクロバスに小細工をして、捜査をかく乱させる必要があるのか、甚だ疑問なんだが」

「ということは、やはり片比良メモは本物で、あのバスが当夜犯行に使われたことになります」

「実際、鍵谷先生に車内に残された指紋を調べてもらいたいところだが」

「それは難しいですよ。なにしろ、あのメモを見つけたのも不法侵入によるものです。よって裁判では証拠能力はありません」

「だったら、武鼻自動車の社長と面会したいね。あのマイクロバスの入手経路をずばり訊くのさ」

「バスはやはり鏡見谷旅館のものだと思います。車体にも書いてありましたし、パンフレットの写真とそっくりでしたから」

「旅館が廃業したのが七年前。事件が起きたのがおよそ五年前。確かに時間的には無理なく符合するね」

「ぜひ鏡見谷旅館に行ってみたいですね。何か分かるかもしれませんから」

「ひょっとすると、人質がそこに監禁されているかもしれない、か」


 二人は学校の四方を囲むフェンスに沿って歩いていた。

 朝練でランニングをしている女子たちが掛け声とともに二人を追い抜いていく。

 突然、最後尾の女子が足を止めた。

「堀元くん、おはよう」

 爽やかな声だった。

 見覚えのある女子がこちらを向いていた。

 橘雅美(みやび)である。

 手足が長く、すらりと背が高い。髪はポニーテールにして、やや尖ったあごが精悍さを演出している。ここ一番勝負に強そうな印象である。

 直貴は挨拶を返したが、雅美の視線が催促しているのに気がついて、

「ああ、こちらは一年生の沢渕君。僕の友人だよ」

 と紹介した。

「沢渕くん、今度の生徒会選挙、一票よろしくお願いしまーす」

 そう笑顔で言うと、手を振って再び駆け出した。ポニーテールを左右に揺らしながら、曲がり角を折れていった。

「随分と明るい人ですね」

「そうだね、男子からも女子からも好かれる性格なんだよ」

 沢渕は急に心配になって、

「先輩はもちろん、森崎先輩を応援しているんですよね?」

「当たり前さ。同じクラスだから、表向きは橘を応援しているけどね」

 そこで携帯が鳴り出した。

「クマからだ」

 そう言うと、直貴は素早く電話に出た。

「何だって」

 そんな驚きの声を上げた。

「どうかしたのですか?」

「どうやら、森崎に大変なことが起きたらしい」

 直貴は渋い表情で答えた。

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