新たな証拠、発見(2)
沢渕は戦慄した。
その文字は彼にとって深い意味を持っていたからである。
あの夏の晩、何者かによって連れ去られた女子高生がいた。
辺倉祥子と片比良七菜。
二人はもう何度も、地獄の淵から沢渕に呼び掛けてきている。それに応えてやれないことが歯痒くて仕方がない。
早く私たちに気づいてくれ、あの日の女子高生がそう叫んでいるようだ。
「沢渕くん、どうしたの?」
叶美が異変に気づいたのか、そう言った。
「今、バスからメモが出てきました」
「メモ? 何て書いてあるの?」
「片比良七菜の名前があります」
「何ですって?」
携帯電話の向こうで叶美が驚きの声を上げた。
叶美はしばらく言葉を失っていた。
沢渕は考える。
スクラップ工場に停めてあったバスから、人質の名前を書いた紙が見つかった。これは一体何を意味するのだろうか。
断定するのはまだ早いが、これは片比良七菜がこのバスに乗っていた証拠ではないか。恐らく彼女は誘拐されてすぐ、いつもとは違う車内の雰囲気を察したのだ。そしてメモに名前を書き、犯人たちに悟られぬようシートの隙間に押し込んだ。彼女はこれから始まる恐るべき事態を予見して、何らかの手掛かりを残そうと考えた。
もしそうであるなら、このバスこそが犯行に使われたことになる。同時にそれは犯人の遺留品と見なすこともできる。
梶山は窓から這い出すと、沢渕にメモを手渡した。
沢渕は手にとってじっくりとメモを観察した。真四角な紙片は何かを丁寧に破ったものと考えられた。文字はしっかりした調子で真っ直ぐに書かれている。
沢渕は一目で違和感を覚えた。
薄暗いバスの車内で犯人の目を盗んで慌てて書いた割には、文字が綺麗過ぎる。彼女の置かれた状況から考えると、もっと粗雑でなければならない気がする。
これは明らかに平常な心理状態から生み出された文字である。とすれば、彼女はいつこれを書いたというのだろうか。
雑誌に書かれた文字のような、切羽詰まった雰囲気がまるで感じられないのだ。
「沢渕くん、聞こえる? 誰か来たみたい」
突然叶美の声が響いた。
四人の動きが一瞬にして止まった。全員が耳をそばだてた。
叶美も一時沈黙する。
「一旦電話を切るわね。状況を確認するから、そこで待機して頂戴」
一方的に通話が切れた。
何があったのだろうか。
「沢渕さん、どうしましょうか?」
梶山の不安げな声が響く。
沢渕は一瞬躊躇した。
しかし叶美を放っておく訳にはいかないのだ。そんなことは考えるまでもない。
「音を立てずに玄関まで戻りましょう」
「分かりました」
四人の男たちは身を屈めて、慎重に足を運んだ。
玄関まで辿り着いた。
門の外は静まりかえっている。人の気配はない。この付近には外灯がないため、全てが暗闇に支配されていた。
それでもしばらくすると目が慣れてくる。鉄柵の隙間から目を凝らすと、本来二人の居るべき場所にその姿はなかった。
「変だな、二人ともどこへ行ったんッスかね?」
梶山は鉄扉をよじ登った。
その時である。上空からドアの閉まる音が聞こえたかと思うと、一台の車が急発進していった。辺りには車の排気音だけが残された。
沢渕は血の気が引いた。
まさか叶美が連れ去られたのではないだろうか。
沢渕は門から飛び降りて道路に転げ落ちた。足をくじいたが痛みを感じている暇はない。
周りを見回した。道路にも堤防の斜面にも、どこにも叶美の姿はない。言い知れぬ不安が身体を襲う。
いや屈強な寺田も一緒にいたのだ。きっと叶美は無事である。そう言い聞かせた。
しかし時間だけが過ぎていく。暗闇で心臓の鼓動だけが一際大きく聞こえていた。
やはり叶美を残したのは間違いだったのか。後悔の念ばかりが募った。
すると携帯電話が鳴り出した。それは神からの知らせのように感じられた。
「沢渕くん、そっちは何ともない?」
瞬く間に緊張が解けていく。
「先輩、今どこですか?」
「堤防を上がったところ。寺田さんも一緒よ」
叶美は人の心配をよそに、のんびりした口調で応えた。
「何があったのですか?」
「今そっちに行くから、ちょっと待ってて」
すると草むらをかき分けて、二つの影が斜面に現れた。
「よいしょ」
叶美は地面に降り立つと、一つ大きくため息をついた。
「詳しい説明は後。とりあえずここを離れましょう」
その声で全員が一斉に駆け出した。
外灯が等間隔にどこまでも続く住宅街に出た。各家庭の四角く切り取られた明かりが道路を照らしている。一度は凍りついた身体が、徐々に温まっていく気がした。
「さっきはびっくりしましたよ。二人ともいなくなったから」
沢渕はすっかり落ち着きを取り戻して言った。
「堤防の上から誰かがこちらを窺っていたような気がしたのよ」
「それで?」
「確かめるために、寺田さんと密かに堤防を上っていたの」
「誰か居ましたか?」
「ううん。だけど少し先に車が停まっていたわ」
「俺たちの姿を見ると、急に立ち去っていきましたがね」
寺田が付け足した。
「ただの思い過ごしではないですか?」
「いや、近くで草をかき分けるような音がしましたからね」
「そうですか」
沢渕はそれ以上は逆らわずに言った。
「ところで、ちゃんとメモは持ってきた?」
「はい、ここに」
叶美はメモを外灯にかざして見た。
「なるほどね」
沢渕はバスの特徴や内部の様子など、自分の見たことをありのままに伝えた。
叶美は黙って聞いてから、携帯を取り出して耳に当てた。
「もしもし、直貴。今いいかしら?」
男たちは皆、紅一点叶美の行動を見守っている。
「ちょっと調べてほしいことがあるの。メモ取れる?」
叶美は「鏡見谷旅館」の所在地、規模、送迎バスの有無を調べるよう指示した。
「一番知りたいのは、その旅館が今も営業しているかどうかってこと。お願いね」
携帯を切ると、寺田の方を向いた。
「今日はどうもありがとうございました。そのお礼といってはなんですが、ご一緒にお食事でもいかがですか? もちろん、奢りますよ」
それには全員がどよめいた。
「いいんですか?」
寺田は嬉しそうに言った。
「できればこの近くのお店がいいんですけど」
「それなら、この先のラーメン屋はどうですか。安くて旨いッスよ」
梶山が割って入った。
「それじゃあ、そこへ行きましょ」
沢渕はすぐに叶美の真の意図をくみ取った。飲食店でスクラップ工場のことを聞き込むつもりなのだろう。
彼女の手際のよさと行動力には、いつも感心させられる。




