Episode32 いつかのキモチ
「あれ? まだ帰ってなかったの?」
委員会の仕事で遅くなった日の放課後。陽は既に落ちて、文芸部室は夕闇に薄青く染まっていた。そんな中で、電気も点けずに独り座る鈴音に私は驚いた。彼女はこちらを向いて、にこりと微笑む。
「先輩が来るのを待っていたんですよ」
その微笑みがあまりに美しくて、数秒間、視線を奪われた。ふと我に返って恥ずかしくなる。後輩に見惚れてしまうなんて……私には好きな人がいるというのに。
「ごめん遅くなって。何か用事でもあった?」
「はい。部誌のことで少し相談したくて」
鈴音はノートパソコンを広げて、キーボードを打ち始める。私は教室の電気を点けてから、彼女の隣に座る。パソコンには文章編集ソフトが表示されていた。
「レイアウトはこれで大丈夫ですか?」
「んー、もう少し行間開けたほうがいいかもね」
部誌というのはひと月後に控えた文化祭で、我ら文芸部が頒布する冊子のことだ。鈴音は一年生にしてその編集を行う役割についている。私も編集係なので彼女と共に仕事をしているのだ。
「そういえば楓は原稿出してくれた?」
「一時間くらい前までここで唸ってましたけど、明日は必ず出すって言って帰りましたよ」
「……ほんとあの子は」
まだ出してないのは楓くらいだ。私と明美があれほど早めに書きなと注意したのに。
「私からも念を押しておいたので、大丈夫だと思いますよ」
「……そっか、なら安心かな」
鈴音の笑顔がどこか怖い。普段は優しそうに見えるけれど、彼女からは時々、見えない圧のようなものを感じることがある。私を含めた先輩たちはそれを密かに恐れていた。
この子は頭が良く、真面目で、しっかり者だ。
だから私たちは本当は良くないと思いつつもつい、彼女に頼りがちになってしまう。今日も遅い時間まで残って仕事をしてくれていた。いつも嫌な顔ひとつせず引き受けてくれるけれど、本当は無理をしているんじゃないかと時々不安に思う。
「先輩? どうしたんですか?」
黙り込んだ私を不審に思ったのか、鈴音が顔を覗き込んでくる。
その頭に自然と右手が伸びていた。
「え?」
頭を撫でてあげると、鈴音は驚いたように目を見開く。
「ど、どうしたんですか先輩」
「鈴音は頑張りやさんだね」
撫で続けていると、鈴音の顔がみるみるうちに朱色に染まっていく。いつも冷静な彼女のこんな顔を見るのは初めてだ。不機嫌そうに唇を尖らせると、拗ねたように言った。
「子供扱いしないでください」
「ごめんごめん。でも無理してない? 大丈夫?」
「これくらい別に大丈夫ですよ。それに……」
鈴音は顔を上げると、しっかりと目を合わせて、
「先輩のためなら私、いくらでも頑張れますから」
昔のことを思い出していた。あれは一年ほど前のことか。
思えばあの頃から鈴音は私のことを好きでいてくれたのだろう。あの時鈴音が見せた表情は、彼女の素の表情だったように思う。少なくとも私はそう思いたい。
とはいえ、そんなことを考えていられる状況ではないのだけど。
私は屋上から飛び降りた鈴音の腕を掴み、右手だけで支えていた。左手ではフェンスを掴み、何とか支えようと必死になっている。少しでも力を抜けば、私も鈴音も地面に真っ逆さまだ。
紛れもなく命の危機。人間というものは真の窮地に立たされると、以外と冷静になってしまうのかもしれない。背中を冷や汗が伝っていくのが、はっきりと感じ取れた。
鈴音は気を失っているのか、ピクリとも動かない。彼女の体重を右腕だけで支えられているのは、奇跡に近いように思える。火事場の馬鹿力というやつだろうか。とはいえ彼女を引き上げるほどの力があるはずもなく、落ちないように耐えるだけで精一杯だった。
自分の意思とは無関係に涙が溢れてきた。涙は風に吹かれて飛ばされていく。
「…………鈴音」
彼女の名前を呼んだ。聞こえているはずもないのに。
たとえただの自己満足だとしても。
たとえただの偽善だとしても。
貴女の思いを踏みにじり、傷つけることになったとしても。
「絶対に、死なせないから」
しかし限界はやって来る。
もう腕の感覚がない。手汗で滑りそうになる。奥歯を食いしばって、必死で堪える。
鈴音。鈴音。鈴音。
頭の中で何度も名前を呼ぶ。
こんな私を好きでいてくれた後輩を、死なせていいわけがない。耐えろ。耐えろ。耐えろ。
涙で視界が塞がれている。風の音しか聞こえない。体中の感覚がなくなって、宙に溶けてしまっているようだった。でも私はまだ支えている。鈴音の確かな重みと温もりだけがその証拠だった。
「佳子!!」
幻聴だろうか。世界で一番愛しい人の声を聞いた気がした。
「佳子! 今助けるから!!」
いや気のせいじゃない。足音が駆け寄ってくる。
心の底から安堵して、小さく呟いた。
助かった。




