Episode25 いちばんのキモチ
逃げるしかない。
時間だけが悪戯に過ぎるにつれて、そんな思いばかりが強くなっていた。
今の鈴音は普通じゃない。きっと私が何を言ったところで、鈴音の耳には届いてくれないだろう。だから逃げるしかない。もう一度ちゃんと話し合う機会さえ得られればそれでいい。
「んっ……く」
でも手首と足の鎖はどんなに引っ張っても外れてくれる気配はなかった。背中側で留められているから見えないけど、手首なんて真っ赤に腫れ上がってしまっているだろう。目尻に滲んできた涙が落ちるのを必死で堪えた。
「無駄ですよ。先輩の力で壊せるはずがありませんから」
椅子に座って私を見下ろす鈴音は、悲痛そうに言う。
「だからもう止めてください。先輩が傷つくところは見たくないんです」
「……どの口がそれを言うの」
こんな場所に閉じ込めておいて。自由を奪っておいて。
でも鈴音は口元にふっと笑みを浮かべた。
その瞳に宿るのは、背筋が凍るほど冷たい光。
「私の条件を飲んでくれれば、今すぐにでも解放しますよ」
それは悪魔の囁き。
「……私は」
私はもう親友を裏切るわけにはいかない。
だから、その囁きには絶対に耳を傾けるもんか。
「……そうですか。なら仕方ありませんね」
沈黙を決め込む私に鈴音は心底残念そうに言って、椅子から立ち上がる。そのままドアを開いて部屋を出て行ってしまった。ドアの閉まる重い音が無機質な部屋に響く。
私はまた取り残される。
時計のない部屋は私の感覚を徐々に狂わせる。今が夜なのか昼なのかも私には分からない。
それを分かっているから、鈴音はあえて私を一人にするのだろう。私の判断を鈍らせるために。
正直に言うと、精神は今にも限界を迎えそうだ。
鈴音が私を追って高校に入ってきたという事実も、どこか現実味を帯びていない。
いや、今こうしていることすら夢のように思える。ちょっとでも気を抜いたら泣き叫びだしてしまいそうなほど、あまりにこの現実は非情だ。
「……っ! 外れてよっ!」
ムキになって手鎖から抜け出そうとするけど、何度やっても同じこと。
鈍い痛みに歯を食いしばって耐える。
いったいどこで間違えたのだろう。
思い当たる節が多すぎて今更どうすることもできない。
鈴音の気持ちを自分のために利用していたのは私だ。
あんなことをしなければ、今頃こうなっていることも無かったのかもしれない。
もしも過去に戻れるなら、過去の私を殴ってやりたい。
「先輩? 大丈夫ですか?」
少しの間、気を失っていたらしい。目が覚めると間近に鈴音の顔が迫っていた。
でも現実は何も変わっちゃいない。コンクリートむき出しの床と壁。天井で回る大きな換気扇。そして私を繋ぎ止める太い鎖。
手首と足首にさっきまでとは違う冷たい感触があった。足首を見てみると湿布が貼ってあるみたいだ。きっと鈴音が貼ってくれたのだろう。
「こんなになるまで……先輩はあの二人が本当に大事なんですね」
鈴音が呆れた調子で言った。黙って頷く。
「……妬いちゃいますよ本当に」
立ち上がった鈴音の表情がすっと消える。
その冷たい瞳に見下ろされても、私は決して視線を逸らさない。
「……もうこんなことは止めよう。こんなことしたって何の意味もない」
「意味? そんなのいくらでもあります」
鈴音はゆっくりと後ろに下がりながら。
「私はたとえどんな形であっても先輩の『一番』になりたいんです。でも先輩の中の『一番』はいつだって明美先輩……私が頑張って代わりになろうとしましたよ……でも結局無理でしたよね? なら、無理やりにでも奪い取るしかないでしょう……?」
私は、明美先輩の代わりになりたいんです。
いつか鈴音の言ったその言葉が頭の中に蘇ってくる。それはつまりこういう意味だったのだ。
でも、鈴音は決定的な部分で間違っている。
「こんな形で手に入れた『一番』なんて……所詮は偽物でしかないんだよ」
たとえ私が鈴音以外の子とは二度と深く関わらないことを誓ったとして、そんな『一番』は苦しみを伴うものでしかない。私とっても、鈴音にとっても。そんなものは私が明美に抱いているような『一番』とは程遠い。
鈴音は目を見開いた後、奥歯を噛みしめながら私を睨みつけた。
「……先輩に何が分かるんですか? 私が今までどんな思いで先輩と一緒にいたと思ってるんですか? 偽物? そんなの知ってますよ。でも私はもう、こうするしかないんです」
吐き捨てるように言って、私の目前まで顔を近付ける。
そして、そっと触れるようなキスをした。
唇を離した鈴音は、私の瞳をしっかりと見据える。
「先輩は私の全てなんです……お願いします。私を先輩の『一番』にしてください」




