Episode17 受け入れたキモチ
耐え難い後悔の念が、幾度となく繰り返し波のように押し寄せて来る。
本当にあの選択しか無かったのか。今更そんな問いが、私自身から投げかけられる。
明美は楓と付き合ってから私を気にかけてくれている。楓はそれを不満に思っている。だから二人は喧嘩をした。
なら私が二人の前からいなくなれば、全て解決。これ以外の選択肢なんて無い。そう思い込もうと、湧き上がった気持ちを押さえつける。
これでいい。
「……これでいいんだよ」
カーテンの締め切られた陰気な薄暗い自室。私はベッドに仰向けになって、右手に握られる電源の切られた携帯電話を見つめていた。
ここに二人からのメールは入っているだろうか。いや、きっと入ってなんかいない。
私は明美を裏切った。
楓から敵だと見なされた。
食べ物もろくに喉を通らない日がもう三日続いている。両親は昨日までは私を心配して色々声をかけてくれたけど、今日はもう「そっとしておこう」と扉を叩くことも無くなった。
部屋の外に出るのは風呂と用を足す時とドアの前に置かれた食事を取る時だけ。それ以外の時間は全てこの部屋でぼうっとしている。引き込もりとは正に今の私のような状態を指すのだろう。
何もやる気が起きない。
ただ喪失感が、私を包む。
明美を裏切った私には、彼女を愛する資格なんて、無い。
もう私には、何も残されていない。
体を傾けて、ベッドの反対側の壁を見据える。そこに下げられたコルクボードでは、写真の中で私達三人が笑っている。
どうしてこうなってしまったんだろう。
私と楓が明美を好きでなければ? 明美が楓を好きでなければ?
今更そんなことを言ったって、何も変わらない。
私はただの邪魔者。それだけだ。
「ん……うぅ……」
何時の間にか眠っていたらしい。時計は三時を指していて、カーテンの向こうではまだ太陽は高く登っているだろう。
両足を床に下ろして、ベッドに座る格好になる。
視線は自然と床に向く。絶え間ない苦しみは、私を責めたてる。また涙が滲んで、頬を濡らす。
明美への恋しさと、楓への恨みがまた募っていく。
やめてよ。これ以上明美を好きになりたく無い。楓を嫌いたくない。
だれか私を、助けて。
「……先輩? 私です」
その時、ノックの音と共に、呟くような声が私の耳に届いた。
「鈴音……!」
扉を開けた瞬間見えたその姿を、自分でも分からない間に私は抱きしめていた。肩に顔をうずめて、声を殺してまた泣いてしまう。
鈴音は何も言わずに私の背中を叩いてくれた。
この絶望の中で私に残された唯一の光。それが鈴音の存在だった。
私の気持ちを唯一知っている人物として、鈴音は心の支えで、こんな醜い私を受け入れてくれる。
最初は鈴音が寂しいんじゃないかと私が歩み寄ったはずなのに、何時の間にかその存在から離れられなくなってしまった。
鈴音にはあの日あったことを全て話してしまった。
鈴音は前と同じで、全て何も言わずに聞き入れてくれた。
そして、「私がいます」と何度も言ってくれた。
私の行動を咎める事も、否定する事も無く、ただ全て受け入れてくれた。
「ちゃんとご飯食べてますか?」
「……あんまり」
一瞬誤魔化そうとしたけれど、素直に答える。鈴音は微笑を浮かべて鞄の中から一つの包みを取り出した。
「ちゃんと食べなくちゃ駄目ですよ。体壊しちゃいます」
弁当を作って来てくれたのだろうか。私なんかの為に。
それをテーブルに置いて、鈴音はカーテンの閉められた窓へと向かう。カーテンを開け放つと、眩しい日光が部屋に差し込んだ。続けて窓を開き、淀んだ空気が新鮮な風によって澄んでいく。
鈴音の黒髪が風に吹かれて靡く。その後ろ姿が、ふと明美と重なる。
振り返った鈴音の笑顔に、私は確かに魅入られていた。
私の中で何かが狂っていく。
「美味しいですか?」
「うん、美味しいよ」
差し出された箸につままれた卵焼きを、少し照れながら食べる。それは相変わらずの美味しさで、自然と口元が緩んでしまう。何日もまともに食べていなかったのだから尚更だ。
「佳子先輩」
テーブルを挟んで正面に座った鈴音が、目線を伏せながらふいに私を呼んだ。
「ん?」
「あの、聞いて欲しい事があるんです」
いつもより輪をかけて真剣な表情だ。箸を弁当箱の上に置いて、じっと私を見つめて来る。
「何?」
「あの、その」
鈴音は一度深呼吸をして、
「私じゃ駄目ですか?」
風が強く吹き込んで、窓を揺らした。
「……どういう事?」
「あの、だから私じゃ駄目ですか……その先輩達……楓先輩や……明美先輩じゃ無くて」
鈴音の言っている意味が良く分からない。
つまり鈴音は自分が楓や明美の代わりになりたいと言っているのだろうか。
鈴音はもう私にとって、楓や明美と同じくらい大切な存在なのに。
理解していない私に気が付いたのか鈴音は一瞬寂しそうな表情になって、もう一度強く私を見つめ直した。
「……いえ、正直に言います。私は、明美先輩の代わりになりたいんです」
「……明美の代わり?」
楓の代わりになりたいと言うのだったら、それは鈴音が私の親友になりたいという意味だろう。
でも明美の代わりになりたいと言うのなら、
「……え?」
私にとって明美は、好きな人。
鈴音は明美の代わりになりたいと言っている。
つまり私にとっての好きな人になりたいと言っている。
それって、
「ちょ、ちょっと待って! 何を」
唐突にこの子は何を言い出すのだろうか。あまりの事態に顔が火照ってしまうのを感じる。しかし鈴音は真剣な表情のまま動じない。
「私が明美先輩の代わりになります」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
箸を置いた鈴音がテーブルの横を回って、私の隣までやって来る。私は後ろに手をつく形になって、徐々に近付いて来る鈴音を避けようとする。でも鈴音は躊躇無く迫って来る。
耐え切れず、背中から床に倒れる。そこに覆い被さるように、鈴音は更に顔を寄せて来る。
「先輩……私だけを見てみませんか?」
「そんなの……」
目の前まで鈴音の顔が迫っている。目線を逸らす。
鈴音が私を好きだなんて、信じられない。もう訳が分からない。
……いや、違う。私はきっとどこかで気がついていた。幾度となく感じていたその「兆候」。それにずっと気づかないフリをして、目を逸らしていただけなんだ。
鈴音は確かに私にとって大切な存在。
でもその大切さは、明美に対するそれとは違うはずだ。
でも。
私に明美を愛する資格はもう無い。楓との仲も決裂した。
ならここで鈴音を受け入れれば、この孤独からは解放され、鈴音の為にもなるんじゃないか。
そして、いつかは明美への思いも忘れていく。
もう、どうすればいいのかも分からない。
ごちゃごちゃになった頭の中が、判断を鈍らせていく。
「先輩……」
鈴音の黒髪が下りて私にかかる。床に手をついた鈴音が、更に距離を縮める。潤んだ瞳が私を見つめて、喉が勝手に唾を飲む。唇が、
拒否するなら今だ。鈴音を押し返して、気持ちに応えられないってきっぱり言わなくちゃ。
言わなくちゃ。
「……んっ」
しかし唇は重なった。
身体は動いてくれなかった。
私は救いを求めていた。
この叶わぬ恋から、二人の親友と縁を切った悲しみから、救い出して欲しかった。
私に残された最後の希望。それにすがってみたくなってしまったのだ。
このまま明美と楓のことを忘れさせて欲しい。
そう思って、しまったのだ。
「……嬉しいです」
私から顔を離した鈴音が、嬉しそうににっこりと微笑む。私はぼうっとした頭のままで、ただそれを見つめていた。
唇にまだ温もりが残っている。
初めてのキスは、明美としたかったな。
でもそれは叶わぬ夢。今はただ、鈴音の気持ちに答えよう。
これが最善の選択、だよね?




