Episode10 欲張りなキモチ
時計が机の上でカチカチと時を刻む。
エアコンが部屋の温度を感知して動きを止める。
窓から見える景色は今日も鼠色だった。
温まった部屋の中でシャープペンがノートの上を滑る。
高校生活最後のテストを明日に控えた平日の午後。私と楓は、私の部屋に集まって二人だけの勉強会を開いていた。
––––佳子も誘ったのだけど、例によって断られてしまった。用事があるって言っていたけど、本当のところは分からない。
床に置かれた小さなテーブルは私達のノートや教科書、皿に乗ったクッキーなどが埋め尽くし、少し窮屈だ。私達はそんなテーブルを前に向かい合って座り、黙々と勉強を続けていた。
「もう、分からん」
突然ドンと額をノートの上に乗せて、項垂れる楓。ノートには総理大臣の名前がずらずらと何回も繰り返し書かれていた。私は苦笑し、英語の教科書を閉じると正座していた足を崩す。
「ちょっと休憩しよっか」
「賛成!」
すぐに元気になって顔を上げる楓。こんなに元気なら休憩も必要ないかな、と思うけど私も丁度疲れてきたところだったのでまぁ、いいかな。
楓は立ち上がって、躊躇いもなく後ろにある私のベッドに座った。そのままドサリと身体を横に倒して枕に顔を埋める。幸せそうにその口元が緩んだ。
「……明美の匂いがする」
何だかよく分からないけど恥ずかしい。私も慌てて立ち上がり、横になっている楓の隣に座る。
そうして見下ろしていると、楓も顔をこちらに向けた。恥ずかしそうに笑ってから、また顔を枕に埋めて頬をすりすり擦り付ける。
––––ここに本人がいるんだから、私にすればいいのに。
なんてね。
「明美の匂いって何だか安心するんだ」
緩み切った表情で、子が母親に甘えるような声で言う楓。私は嬉しさと同時に生まれた羞恥に体が火照るのを感じた。
時計の音がカチカチと大きく聞こえてくる。
よくよく考えると、この状況は結構どきどきだ。
ベッドに横になる楓と、その隣に座ってそれを見下ろす私。
楓から視線を外す事が出来ない。楓も離れない私の視線に気が付いたのか、そわそわと身体を動かして顔をこちらに向け、私と目線を合わせた。
黙ったまま見つめ合う私達。
楓に聞こえちゃうんじゃないかって位に、心臓が鼓動を強めた。
「……明美?」
楓が、いつもとは違う小さく囁くような声で私を呼んだ。でも私は返事が出来ないままに、楓の潤んだ目に吸いこまれている。
私達はもう恋人。
ずっとしたかったのに、出来なかった事が出来る。
そう、例えば。
「っちょ」
楓に覆い被さるように、身体を倒す。
仰向けになって私を驚いたように見上げる楓に、私は顔を急接近させる。
吐息がすぐ近くで聞こえた。
「……楓」
手を重ね、指を絡ませる。そこで漸くこれから何をされるのか気が付いたのか、楓は大きく目を見開いた後に頬を朱色に染めて、瞼を閉じた。
夢にまでみたこの状況。
いつもと同じ自分の部屋が、全く違う場所に見える。
目を閉じたって事は、いいって事だよね?
するなら、今しか無い。
「んっ……」
楓の唇に私の唇を押し付ける。
溶けてしまうような柔らかさ。
幸せで、温かくて、頭がどうにかなってしまいそうだ。
顔を離すと、先程とは比べ物にならない程に真っ赤に染まった楓の顔が見えた。
「い、いきなりすぎ……」
顔を横に逸らしてしまう楓。きっと今、私の顔も同じくらい紅潮しているのだろう。でも恥ずかしがる楓が可愛くて、思わず意地悪したくなってしまう。
「明美なんでまた顔近っ……んむっ」
今度はさっきよりも強く押し付けた。
ぎゅっと楓の指の力が強まって、私の指と絡み合う。
もっと深く、
「んんっ」
声を漏らしたのはどっちだろうか。
さっきまで食べていたクッキーのせいか楓の舌は驚く程に甘くて、
本当に、頭おかしくなっちゃいそう。
「ぷはっ」
一体どれくらいの間そうしていたのだろうか。息が苦しくなって唇を離すと、私達の唾液が糸を引くのが見えた。
茫然自失の状態で私を見上げる楓。潤んだ目をぱちくりさせて、ぱくぱくと濡れた唇を動かす。
私も急に恥ずかしさが増し、身体を起こして楓から顔を離した。
「や、やばすぎ……」
指を唇に当て、震えた声で呟く楓。
確かに、やばい。女の子同士でこんな事をしちゃうだなんて。
でも私達は恋人だし、問題ないよね?
「……佳子には内緒にしようね」
あははと笑いながら、そんな事を口に出してみる。
すると軽いノリで言ったつもりだったのに、楓の表情が急に少し曇った。
「……どうしたの?」
「いや……」
露骨に目を逸らして、不機嫌そうに頬を少し膨らませる楓。何か、気に障るような事を言っただろうか。
楓は倒していた身体を起こし、私と隣り合って座る形となる。
紅潮した頬を横から眺める。何だかいつもより色っぽく見えた。まぁ、さっきまであんな事やってたんだし、当たり前かな。
暫くの沈黙の後、楓は漸く口を開いた。
「佳子はさ、親友だよな」
「……そうだよ?」
何でいきなりそんな事を聞くんだろう。楓は黙ったままで指を布団の上に滑らせる。
動きを止めていたエアコンがまた動きを開始して、起動音と共に温風を送り始めた。
「私だって佳子は親友で、一緒にいれば楽しいし、これからもずっと一緒にいたいと思ってるけどさ……その……」
言いづらそうに頭を振って、
「二人きりになった時は私だけを見て欲しいというか何と言うか……って今の無し! 無し!」
また横にドサリと倒れ、「うううう」などと呻きながら私の枕に顔を埋める楓。
そっか、もしかして他の女の子の名前を出した事に拗ねてるの?
でも佳子は私達二人の親友だし別にいいような気もするんだけど。楓だって邪魔になんて思わないって言ってたのに。
思わずここで、この前の事が思い出されてしまう。
楓とは恋人という関係になったけど、私は佳子という親友は失いたくない。だから佳子が私達に気を遣って離れようとしているのが、堪らなく辛く感じた。
このまま私達の代わりに、鈴音ちゃんとずっといるようになるんじゃないか。そんな気さえしてきてしまって、思わず変な質問もしてしまった。
私はきっと欲張りなのだろう。もう何も望む事なんて無い筈だったのに。
だって佳子は、大切な「親友」だから。
でも、楓が私の中で「特別」な事は変わらない。
楓は特別だって事を、分かってもらわなくちゃ。
「楓」
名前を呼ぶと、楓は枕から離れて、その真っ赤で泣きそうな顔を見せた。
その瞬間、私はベッドに手を付いて再び楓に覆いかぶさる。そして躊躇いもなくその唇を奪った。
私の唇に当たるマシュマロのように柔らかい感触。
「んっ、んっー」
突然の出来事に慌てて離れようとする楓。でも私はその震える肩を掴んで離れまいとする。
一瞬、空気を求めて唇が離れる。しかし今度は楓の方から顔を寄せて来た。また唇がお互いに引きつけ合うように重なる。
まるで新しい遊びを覚えた子供のように、私達は何度も何度も繰り返し唇を重ねた。
漸く唇を離して時計を見た時には、休憩を開始してから既に一時間近くが経過していた。
「あ、明美ぃ」
楓は真っ赤な顔で、はぁはぁと荒く呼吸をして私をぼんやりと見つめていた。
可愛い。
––––じゃなくて、少しやり過ぎたかもしれない。
「……」
楓と目を合わせる事が出来ずに、顔を逸らす。すると部屋の鏡に私の顔が映った。
私の顔も今まで見た事が無いくらいに朱色に染まっていた。
「や、やりすぎ……」
私の下で、そんな声がする。
私だって恥ずかしいんだよ。
「……ごめんね」
体重を預けて、楓に倒れ込む。その身体を横になったまま私の胸に抱き寄せる。
楓は幸せそうに微笑んで、瞼を閉じた。
本当に、こんな私でごめんね。
楓は「特別」。だけど、私は楓と二人でいる時にもつい「親友」の事を気にしてしまう。
私は、欲張りだ。




