夜は明けなくて。
今すぐに駆け出したい衝動を押さえ込み、落ち着くために深呼吸をひとつ。少し冷静になった頭でどうすべきかを考える。
まずは警察に連絡して応援を求めるしかないよな。性転換前ならともかく、今の俺では成人男性の腕力に対抗できないし、それを補えそうな物は周りを見渡しても見つからない。そう判断して再度スマホを操作する俺であったが、事態は思わぬ方向に進んだ。その男が倒れ伏した相場を引き摺るようにして、近くに駐車してあったワゴン車へと押し込み始めたのだ。
「おい! 電話してる暇ねーじゃねーか!」
とにかく、一一〇番をタッチしつつ、曲がり角から飛び出す。くそ! ほとんどノープランの出たとこ勝負だ!
「おい! あんた! その子を離せ! もう警察に連絡してるからな!」
急に現れた俺に驚いた表情を浮かべる男。その男を素早く観察してみる。背は余り高くなく、体格も貧相。髪は金に染め上げられており、噴水のような髪型。まるで売れないホストのような外見だ。見た目は弱そうだな……。こいつなら俺でもどうにかなるか……?
「あ?! 誰だ? ってうおおおお! こっちも超美少女じゃん!」
男が何か喚いているが、無視して電話を続ける。数コールの後に警察へと電話が繋がった。早く、早く助けを呼ばないと!
『はい。こちら警察です。何かありましたか?』
「あ、もしもし! すみません! 助けてください! 今、女の子が――」
「残念だったな」
突如、俺の背後から別の男の声が聞こえた瞬間、手にしていたスマホが取り上げられる。いつの間に現れたんだ?! 瞬時にどうすべきかを考えるが、状況は非常に不味い。外部への連絡手段を失い助けを求めることができなくなった。おまけに周囲に人の気配も民家も全くない。
この状況をどうにかするには俺が行動するしかないと判断し、背後にいるであろう男の顔面を狙い、振り向いた勢いを利用して手に持った鞄を投げつける! ――が、あっさりと手で受け止められてしまう。不意打ち失敗とか嘘だろ!?
「手癖のわりー女だな。もうちょっとお淑やかになった方がいいぜ?」
「誰か――、っぐぇ」
とにかく誰かに助けを求めるしかないと思い、大声を上げようとした俺だったが、直後に男の拳が俺の腹部に突き刺さっていた。余りの痛みに蹲る。目からは涙が零れ落ち、口からは涎が垂れるが、そんなことを気にしていられないくらいに痛い。痛すぎる。喧嘩なんて全く無縁な生活を送っていた俺は圧倒的な暴力を前に抵抗する気力を根こそぎ奪われた……。
「余計な手間を取らせるんじゃねーよ」
服の上からでも容易に分かる程に筋肉質な体つきであるスキンヘッドの男は、俺の髪を掴んで顔を上げさせると、威嚇するように細く剃った眉を吊り上げ、鼻と鼻がぶつかる程の至近距離で睨み付けてきた。頭からブチブチと髪の抜ける嫌な音が聞こえるが、その痛みさえ遠くのことのように感じるくらいに恐怖で何も考えられない。
「んじゃ、行くか。てめぇ、また抵抗しようとしたら次はこんなもんじゃ済まねーぞ」
男は俺に念を押すように俺から奪ったスマホを地面に叩き付けた後、思い切り足で踏みつけて破壊した。
「あー、連絡されたら厄介だしな。こっちのやつのも壊しとくか。ほいっと。同じようにやっちゃって」
「了解っと」
ホストの男が相場の鞄からスマホを取り出すとスキンヘッドの男へと投げ渡す。受け取ったスキンヘッドは俺のスマホと同様に相場のそれを粉々にするのだった。その際に相場がスマホに取り付けていたしろくまもんのストラップもスマホの部品と一緒に砕けて地面へと散乱し、その光景は今の今までそこにあったはずの日常が壊れてしまったかのように見えた――。
痛みと恐怖で抵抗する気力さえなく、男に促されるがままに車に押し込まれる俺達。何で、何でこうなったんだろう? どうしてこんな目に遭わないといけないのだろう? 俺は、相場は、本当に、本当にこれからどうなるのだろうか? 怖い、怖い、怖い!
――車内に連れ込まれた後、男達によって俺と相場はガムテープで手と足を固定され、口にもガムテープを貼られて声も出せないようにされた。流石にこれはヤバいと思い勇気を振り絞り僅かな抵抗を試みたが、スキンヘッドの男が大げさに腕を振り上げただけで体が固まってしまった。先程の痛みが、恐怖が、俺を動けなくしたのだ。相場は何もかも諦めてしまったかのように無表情で目も虚ろなまま、されるがままにただ男達のする作業を眺めているだけだった……。
「準備オッケーだな。行こうぜ」
「よっしゃー! 久しぶりの女だな! しかも超レベル高い!」
男達は楽しそうに会話をしながら、俺と相場を拘束しているガムテープをもう一度確認すると、ホストは運転席へスキンヘッドは俺達が寝かされている後部座席へと残った。
程なくして動き出す車。息苦しく身動きもできない状態で車内を確認する。車のガラスは全てフルスモークフィルムが貼られており、車外から内部の様子を伺うことは難しいだろう。しかも、同じ後部座席にはスキンヘッドが残っている。下手な動きをすればすぐに暴力が振るわれるに違いない。こんなのどうしろって言うんだ……。
男達が俺と相場に何をしようとしているのか。それは先程の会話から容易に想像できた。俺は相場がターゲットにされ、連れ去られる瞬間に偶然出くわしてしまったらしい。これから訪れるであろう未来を想像した瞬間、あまりのおぞましさに全身の毛が総毛立ち、抑えていた涙が再び溢れ始める。嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 何で、何で俺はあの時、真っ直ぐに家に帰らなかったんだ! 何で相場なんか助けようと思ったんだ! 馬鹿、俺の馬鹿野郎……。
俺が今更どうにもできないと分かってるのに、それを選んだのは俺なのに、やり場の無い怒りや後悔が頭の中を掻き乱す。
「そういえば、お前ら。ガムテープする時に邪魔だから千切ったけどよ、お揃いのアクセサリを持ってたってことは、もしかして知り合いだったりするのか?」
そういったやり場のない気持ちや恐怖で混乱している俺へとスキンヘッドが質問してきた。その手には無残に引き千切られた栞奈さんが作ってくれたミサンガ。それを見た俺は更なるショックを受け呆然としてしまう。一方、相場は男の声に反応さえ示さない。
「俺が質問してるんだろーが!」
中々返事をしない俺達にイラついたスキンヘッドが座席を叩いたことで我に返った俺は、必死に首を立てに振ることで肯定の意を示す。
「ちっ、さっさと答えろや! おい、こいつらやっぱ知り合いみたいだぞ!」
「マジかー! すげぇ偶然だな? いや、偶然なのか? とにかく、仲良く面倒見てあげるからねー? 俺らも二人だし! ちょうど良かったな!」
「だな! 一人だけじゃ物足りなかったしな! しかし、いつまでもこのゴミ持ったままじゃ邪魔だな。捨てるか」
スキンヘッドは後部座席の窓を自身の手が出るくらい開けると、ミサンガを手にしたまま走行中の車から手を出した。風に乗って流れていくミサンガ。込められた願いは叶うことなく、消えていくのだった――。
どれくらいの時間が経過したか分からない。もう涙も涸れ果てた頃に車は止まった。
「到着!」
「見つからないためとはいえ、遠いよなここ」
「あー、場所がばれたらやべーし、こいつらに目隠しした方がよくね?」
「確かに! このタオルでいっか!」
ホストは車のエンジンを切り、ダッシュボードからタオルを取り出すと、後部座席にいるスキンヘッドへとそれを受け渡す。
「つーことで目隠しさせて貰うわ。代わりに足のテープは外してやる。これから少し歩いて貰うからな」
うつ伏せにさせられ、顔にタオルを巻かれたことで視界が遮られる。その後に乱暴に足のテープが剥がされた。
「準備オッケー! さあ、行くぞ!」
はしゃぐ男達にぐいっと強い力で手を引かれ、車外へと連れ出される。視界が遮られていながらも周囲を把握しようと努める。虫の声以外は何も聞こえないし、湿気を含んだひんやりとした空気を感じるため山奥だろうか? かなり遠くまで連れて来られたようだ……。
そのまま促されるままに連れて行かれる。しばらくジャリジャリとアスファルトを踏む音が聞こえていたが、足元の感覚が変わると同時に足音もコツコツとリノリウムの床を歩いているような音へと変化した。何かの建物に入ったようだ。一体どこへ連れて行かれてるんだ……。
そのまま室内を歩き続ける中で、階段を昇らされることもあった。どうやら相当大きな建物らしい。不意に男達が立ち止まったことで足音が止み、続けてガラガラと扉を開けるような音が聞こえた。目的地に到着してしまったようだ……。
「到着! ここならいくら声出しても見つからないし、手のガムテープだけ残して後は外してやる」
まず始めに目隠しが外されたことで室内の様子が見えた。床も壁も天井も白く、簡易ベッドが二つ並びに置かれている。病室なのだろうか? 窓はカーテンで覆われており室内は暗い。加えて蛍光灯はひび割れているため、唯一の光源は男達が手に持っている電気ランタンのみだった。俺と相場の口のガムテープが乱暴に剥がされる。痛みに顔をしかめるが、男達は俺達の顔なんて見ておらず、不躾で不快な視線を俺達の体に向けていた。
「俺はこっちを貰う」
「わーたよ」
ホストは俺へスキンヘッドは相場へと近付くと勢いよく覆いかぶさってきた。足は自由になっているとはいえ、両手を奪われたままなのでバランスが取れず、簡易ベッドへと押し倒される。興奮で顔を上気させた男の口から生ぬるく、タバコ臭い息が顔に掛かり、体を男の手が無遠慮に弄る。ナメクジが肌の上を這っているのではないかと思うほどに嫌な感触。気持ち悪さで全身が粟立つ。やだ……。やだやだやだ!
「いやああああああ!!」
「いいねぇ! もっと鳴いてくれ! そっちのが盛り上がる!」」
不快感に耐え切れず叫ぶ俺とは裏腹にホストは更に興奮していく。助けなんてこない。分かってる。けど、何かしないと耐えられない。心が。
思わず叫んだ俺の声に反応した相場がこちらにぼんやりとした目を向けた。俺と目が合った瞬間、ずっと声も出さず無表情だった顔から涙が流れた。そんな相場の変化に驚いていると、緩慢とした動作だが、ゆっくりと口が動いているのに気付く。何かを伝えようとしているようだ。今更何を伝えようとしているのか。こんな状況で何を考えてるのだろうか。だが、何故か目が逸らせなかった。
全部で四文字。それを俺に伝えきった相場はゆっくりと目を綴じる。しばらくして目を開いた相場の表情は何かを決意したかのようで、先程までの何もかも諦めていた表情が嘘のようだった。
「そ、その子に手を、手を出さないで!!」
突如、今までずっと何の反応も示さなかった相場が大きな声を上げた。
「大人しくしてたかと思ったら急になんだこいつ!」
スキンヘッドが急に声を上げた相場に驚いたのか平手打ちを行った。頬を打つ音が室内にこだまする。しかし、相場は怯まない。赤く腫らした頬のまま叫ぶ!
「その子に手を出したら許さない! 絶対に許さない!」
「どうしたんだそいつ。急にこいつを庇いだしたぞ」
「わかんねー。ま、生意気な女も嫌いじゃない」
「おいおい、あんまりぼこぼにすんなよ。萎えるから」
ホストは俺に近付けていた顔を離し、スキンヘッドへと呆れた表情を向けてため息をついている。ホストの気持ち悪い顔が遠ざかりほんの少しだけ冷静さを取り戻した俺は相場が急に起こした行動について驚きを隠せない。何だよ……。何で今更そんなこと言うんだよ……。俺を庇おうとするんだよ! さっきまでのあいつだったら、何もかも諦めていたあいつだったら、俺もこんなことしようなんて思わなかった! けど、俺が、男の俺が女の子に庇われるなんてされたら、俺も意地をみせるしかないじゃねーか! 最後まで諦めたくなくなるじゃないか……。
「あ、あ、あああああぁぁ! お前ら! その子に手を出すんじゃねえええぇぇ!」
「おいおい、お互いで庇いあいか。美しい友情だねぇ。どっちも同じ目に遭うんだし。意味無いけどな!」
「かわいいじゃねーか。こいつらの望み通り、どっちかから先に相手してやろうぜ?」
「確かに。お友達が楽しんでる所を見せ付けるのもいいかもな」
ホストがニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら提案すると、その提案に同じ笑みを浮かべたスキンヘッドが同意する。
「言い出しっぺが最初になるべきじゃね?」
「そうだな。かわいそうだから巻き込まれたお前は次にしてやるよ。逃げようなんてすんなよ? そんなことしたらこいつがもっとひどい目に遭うからなぁ」
捨て台詞を残したホストが俺の元から離れ、スキンヘッドと相場がいるベッドの方へ移動する。男二人がかりで相場が組み伏せられる。最後まで相場は何か声を上げようとしていたが、ホストが口を押さえるとくぐもった声しか出せなくなり、しだいにそれさえ聞こえなくなった。相場は苦しそうに眉根を寄せ、耐えるように目をきつく瞑っている。このまま相場が襲われるのを見ているしかないのか? 俺はそれでいいのか? いや、それじゃ駄目だ! 声の出し過ぎで喉が痛い。声も掠れている。だが、恐らくもうこれで最後。だから、なりふり構ってなんていられない。
「誰か、誰か助けてええええぇぇぇ!!!!」
最後の力と勇気を振り絞り、誰かに届くと信じて、誰かが助けに来てくれると信じて叫んだ。暗い室内に俺の声が響く。しかし、誰からの反応もなく、誰かが室内に入ってくることもなかった。それはもう救いの手が訪れることが無いことを示していた――。




