【22】 荒魂と和魂 4
リビングのソファに寝かせるために、ボスは膝の上で泣き疲れて寝入ってしまった望ちゃんを抱えあげた。そのボスの前に「すこしいいですか?」と、夜須さんは立つ。
望ちゃんの小さな背中に勾玉のようなものをかざした。手首にブレスレットのようにして巻いていたものだ。見覚えがある。たしか新名さんも同じようなものを握りしめていた。
「神火清明、神水清明、神風清明 ──」
リビングに流れるのは、独特のリズムをもった呪文のような言葉 ── いや、これはようなではなくて、なにかの呪文なのだろう ── を唱える夜須さんの耳当たりのよい声。
その文言を三回繰り返したあとに、柏手を一回だけ叩いた。高く乾いた柏手の音は、周囲の空間を震わせて天井へと抜けるようにパンっと響く。
リビングは南向きだった。今日のような雨が降る寸前の空模様ではなく、さんさんとした陽光が降り注ぐ晴天ならば、部屋の中は明るくあたたかな光に満たされるのだろう。だが、ボスの家に招き入れられたときから、空気はどことなく停滞しているように思われた。それは今日の天気のせいではない。
リビングはカーテンやラグなどで早春らしい色調に演出されてはいるが、流れのない水の底には淀みが沈む。皮膚はそんな感覚を覚えていた。
夜須さんの放った柏手は、その淀みをすっと消し去ってしまった。空気が軽くなったというか、澄んだというか……たんなる気のせいなのかもしれないが。
「今のは……?」
不思議そうにボスが尋ねる。ボスもなにかを感じたのだろうか。
「邪気祓いです」
愛想よく微笑む夜須さん。もともとが中性的な顔立ちをしているために、やわらかな笑顔になる。これはボスを落ち着かせて、安心させるために創られた笑顔だ。それと営業用も兼ねているのだろう。だが、わたしにはなぜだか適用されない。そんな「営業スマイル」を理不尽に思った。
「れるちゃん」が現れるという例の押し入れがある部屋は、リビングの隣だった。
本来ならばリビングとは引戸で隔てられているはずだ。今は引戸は外されている。
「望の姿が見えなくなってしまうので……」ボスは小さな声でそう言った。
夜須さんと押し入れの前に立つ。
望ちゃんはここに、望ちゃんにしか見えないお友だちの「れる」ちゃんがいると云う。
「れるちゃん」とは一体……。
手のひらに汗がにじむ。わたしも緊張している。
夜須さんはジャケットの前釦をはずした。その裾を掴むと、いきなりこちらに寄越す。
「ちょっとさ、ここを持っておいて」
夜でもない。ここは照明のない真っ暗な加曽蔵神社の境内でもない。手首を引いてくれなくても、コートやそのジャケットを握っていなくても、もう、わたしは迷子になる心配はないように思う。
「ありがとうございます……でも、大丈夫だと思います」
受けとることを躊躇しながらそう答える。すると返ってきたのは「きみはなにを言ってるの?」と、問い返すような胡乱な視線だった。
「僕が迷子になったら困る」
はい、いいから、持って。わたしの返事は関係ないとばかりに、そんなふうに急かされる。半ば無理矢理にジャケットの裾を手の中に握らされた。
『迷子にならないようにね』
加曽蔵神社の石階段を、懐中電灯の小さな円い光だけを頼りにのぼったとき。あのときにそう言って手首を掴んでくれたのは……。もしかしたらわたしのためではなく、どういう理由だかは分からないが、夜須さん自身が迷子にならないためだった……のかもしれない。
緊張しているために手のひらは汗で湿っている。言われるままにその手で、ジャケットの裾をおもいっきり握った。スーツがしわくちゃのシワシワになってしまってもかまうものか。
ボスは床に座り込み、ソファで眠っている望ちゃんの額にかかった髪の毛をはらっている。ボスに夜須さんが訊いた。
「開けてもいいですか?」
こちらを振り向いて「はい」と頷くボス。押し入れの襖は、その返事と同時に、すっと夜須さんに引かれた。心の準備をする間もなかった。
押し入れの上段には、衣類の入ったプラスチックの透明な衣装ケースが並んで置かれている。それと扇風機などと書かれた電化製品類の化粧箱や段ボールも重ねられていた。
下段には望ちゃんのオモチャ。ブロックのような知育玩具、お人形、人気の幼女アニメに登場する変身アイテムやおままごと用のキッチンなど。とてもとてもひとりでは遊びきれないようなたくさんのオモチャは、下段いっぱいに収納されていた。
「主人もわたしのほうも、望が初孫だから……」
両家の祖父母は、ことあるごとに望ちゃんに贈ってくれるらしい。
押し入れには特に変わった様子はなかった。極々普通の押し入れだ。押し入れを開けると、その中からは別の世界につながっている……というわけでもなさそうだった。
もし、「れるちゃん」を視てしまったら……そんなことを思うと、内心では恐ろしくもあった。望ちゃんを神社へと誘う「れるちゃん」。何のために? 本当に遊ぶためだけに?
もしも……もしも。ボスの云うように「れるちゃん」が……。
そんなはずは絶対にないと頭では解っている。否定もしている。それでも感情は別だと知った。
たとえばなみなみと水を張った二十五メートルプールがあるとして、その中に目薬一滴の分量を垂らしても作用すると云うホルモン。そんなもののように混ざり込んでしまう一抹の不安。物事に「絶対」なんていうことはない。それを経験上、理解してしまうくらいには歳を重ねてきたからなのか。
「ふむ」
隣の夜須さんは顎に親指をおいてなにかを考えていた。




