【21】 荒魂と和魂 3
ボスの口から李依瑠ちゃんの名前を出されると、気持ちはざわりと波立つ。
──深呼吸をする。
深く息を吸って、ゆっくりと息を吐く。
アンガーマネジメントだ。怒りの感情は六秒の間がピークらしい。
なぜだか夜須さんがわたしの様子を窺う気配がした。
ボスの立場で考えてみる。
愛しい我が子に忍び寄る、理解の及ばないわけのわからないモノ。常識の範疇を越えていくもの。そんなものには怒りと恐怖の感情しか湧いてこないに決まっている。愛する者の生命と安全を危険にさらして、幸せを破壊しようとするモノ。愛しい者を自分から奪っていこうとするモノ。そんなものは厭わしい脅威でしかない。
その感情は痛いほどに理解できる。樹とゆうちゃんを見ていたからだ。伯母のわたしでさえ、さっちゃんのことはとても愛おしい。親のそれはわたしの比ではないはずだ。
もしも、我が子を害するモノがいるとするのなら、親ならば全身全霊をかけてでも阻止しようとする。それは当たり前のことなのだろう。
それでも……それでも李依瑠ちゃんはそんなことはしない。そんな子じゃない。
忘れることは決してない、李依瑠ちゃんの穏やかな笑顔が思い浮かぶ。
黒板を消す係のときには、なにも言わずに一緒に消してくれた。教室で飼っていたメダカに餌をあげるときにも、その眼差しは優しかった。そして、今でも……『泥』に憑かれたわたしのことも心配してくれていた。
それを伝えようとしたときに ──
「西脇さん。なんとかしてほしいというのは、具体的にはどういうことでしょうか?」
夜須さんの言葉が先んじた。
目の前の紅茶のカップを脇に除けて、テーブルに両ひじをつき、祈るように両手を合わせている。
あの瞳でじっとボスを覗き込んでいた。
「え……?」
ボスは戸惑う表情を見せた。夜須さんに云われた言葉の意味を探しているようだった。
「ですから……徐霊っていうんですか? 望に取り憑いているなら……李依瑠ちゃんの呪いや祟りなら……祓ってください」
「あなたは望ちゃんが取り憑かれていると、祟られていると思っているのですね?」
震えるボスの声とは対称的な夜須さんの声。穏やかな抑揚で語る。
「だって……そうとしか考えられないでしょう? 凛花ちゃんから聞いているんですよね? 全部、あの同窓会の後からなんですよ? 中野君は事故から未だに意識がもどらないし、望は神社に連れて行かれそうになっているし……。動画にも何か映ったって聞きました。これが祟りじゃなくてなんだっていうんですか?」
ボスは充血して赤くなった目に涙を溜めて訴えた。
「そうですか。わかりました。あなたがそう考えているのなら。これは呪いであり、祟りです」
その言葉に思わず夜須さんを見返す。
なにを言っているの?
口を開きかけたわたしの唇の前に、夜須さんは素早く人差し指を立てる。わたしを制すると、首をわずかに左右に振った。口を挟むなと、その瞳が言っている。
「だったら……! お願いします! 早く、一刻も早く祓ってください!」
テーブルに額がついてしまうくらいにボスは頭を下げた。
「ママぁ。のぞみ、ようちえんにいきたい」
ボスを見上げていた望ちゃんは、テーブルの下で足をブラブラとさせ、身体を揺らしている。
「ようちえんにいきたぁい。ママぁ。ママぁ。ママぁ。ママぁ。ママぁ。ママぁ。ママぁ。マ……」
「うるさいっ!」
勢いよく顔を上げたボスは望ちゃんを怒鳴りつけた。その怒声と睨み付ける仄暗い眼と、乱れた髪の毛に望ちゃんの表情は見る間に歪んでいく。
目から大粒の涙をこぼしながら大きな声をあげて泣き始めた。
無理もない。ボスの顔はまるで能の般若の面のようだった。わたしも驚いた。
「……ごめんっ! 望、ごめんね!」
はっとして我に返ったようにボスは望ちゃんを抱きしめた。
ひとしきり泣くと、望ちゃんはそのままボスの膝に抱えられたまま眠ってしまった。泣いて赤くなった望ちゃんの瞼と頬に残る涙を、ボスはテーブルの上のティッシュぺーパーを手繰り寄せて丁寧にぬぐう。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません……」
うつむいているボスの声は鼻声だった。
「いいえ。西脇さんもあまり眠れていないのではありませんか?」
夜須さんの問いに、鼻を啜りながら無言で頷く。
「主人は……こういったことには無頓着な人で……。呪いだとか祟りだとか……そんな非現実的な話はバカバカしいと。ただの偶然だと……。ですから……望は私が守らなきゃ……」
顔を上げたボスの頬に、涙が伝っていた。
諸事情と区切りの関係で今回は短めになります。
<(__)>




