【20】 荒魂と和魂 2
時刻を確認した。十時二十七分。車は下林市へとつながる狭い国道の山道を走っている。
左右の斜面には鬱蒼と木々が生い茂っていた。晴天ならば陽の光を葉に受けて、爽やかな早春の山の道を演出するはずの常緑樹たち。生憎のこの曇天の下では、古い国道のなんともいえない仄暗さを一層と際立たせているにすぎなかった。
この山をひとつ越えると下林市だ。
「あのさ、それ、大丈夫?」
下り坂に入ると運転席の横から、後部座席に座っていた夜須さんがにゅっと顔を出した。
「なにがですか?」と聞き返すも、今は運転に集中したい。できれば話しかけないでほしい。坂道はただでさえ速度が出てしまう上に、道は緩いカーブになっているのだから。
スマートフォンのナビゲーション画面の矢印は、もうすこし先で左折することを指示していた。あと何メートルと表示されている数字は、カウントダウンをされて減っていく。だが、その左折する場所がよくわからない。道はカーブしているうえに、茂った枝葉の陰になってしまって見通しもよくない。目印になる信号も標識もない。
「いや、あの……そんなにハンドルにかじりつかなくてもさ……もうちょっと離れたほうが……」
「あっ!」
「なにっ?! びっくりするじゃん!」
「ああぁもう……夜須さんが話しかけたりするからですよ。左折するところを通りすぎました」
「えぇぇ……それ、僕のせいなの?」
「あ、でも次で曲がれば大丈夫かも」
ナビゲーションの矢印は、またしばらくは直進を示していた。それから左折。
ボスの家に到着する予定時刻は五分ほど伸びていた。それでもまだ約束の十一時前にはぎりぎりで着く……はずだ。
「気が散るので話しかけないでもらってもいいですか」
「はい……」
夜須さんはそれ以上うるさく言うこともなく、おとなしく後部座席へと引っ込んでくれた。
右折にてこずったり、細い三叉路のどこを曲がるのか迷ったりしながらも、なんとか約束の時間前にはボスの家へとたどり着くことができた。
下林市へ入ってからは比較的に道路も広くなり、道なりに進めばよかったことも助かった。
ボスの家は新興住宅街の中の一軒家だった。同じような今風のデザインの家が建ち並び、仕切られた区画はまるで迷路のようだ。おそらくはナビゲーションがなければたどり着けなかったことだろう。
門に備え付けてある郵便受けの上の表札を確認する。西脇とあった。ボスは西脇さんと結婚して、鈴木から西脇へと名字は変わった。
玄関横のカーポートに車を停めるべく、緊張しながらも慎重に、何回かハンドルを切り返しながら車をバックさせる。
横にはもう一台の車が停まっている。ボスの車だ。「主人の車の駐車スペースが空いているから、私の車の横に停めてほしい」と云われていた。
モニターには後部の映像が映っている。いろいろな線も出てはいるが……見方はよくわからない。
「ちょっと、ちょっと待って。僕と代わって」
何回もハンドルを切り返す様子を見かねたのか、夜須さんが再び後部座席から身を乗り出した。
「運転……できるんですか?」
意外な気がして思わず聞いてしまった。仕事がらのイメージからか、ネットは苦手ということからか。見かけは派手でも、現代的な事柄──車の運転や、流行りのゲームで遊んでいるとか、ヘッドフォンで音楽を聴いているなど──と夜須さんは結び付いていなかった。
「少なくとも、きみよりはね」
口角をひきつらせたようにして、夜須さんは少しだけ唇を上げた。
運転を代わりハンドルを握ると、器用にも後ろを振り返りつつ、片手でハンドルを回して一回で車をカーポートに入れてしまった。
「すごい。ありがとうございます」
普段は運転をしないのでバックでの駐車は本当に苦手だ。隣に別の車があるなどなおさらだ。
素直に礼を述べたのにもかかわらず、夜須さんは盛大にため息をついた。
「あのさ、帰りは僕が運転してもいい?」
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「はじめまして。『夜須清掃サービス』代表の夜須七星です」
「西脇恵です。このたびは凛花ちゃん……一倉さんと遠い所をいらしてくださってありがとうございます。よろしくお願いいたします」
夜須さんの名刺を受け取ったボスは、緊張した面持ちで名刺と夜須さんを見比べてから深々と頭を下げた。心なしか一月の同窓会で見かけた時よりも、頬が痩けているような気がする。声にも張りはなく、なんだか弱々しい印象を受けた。……夢に出てきたボスとはまったく違う。
望ちゃんはボスの背中に隠れていた。恥ずかしいのだろう。それでも興味があるように、わたしと夜須さんを交互に見ている。
「ほら、望もご挨拶して?」
ボスに促されると「こんにちは」とはにかんだ笑顔を覗かせて、すぐにまたボスの背中に隠れてしまった。
案内をされたリビングはきれいに整頓されて調えられていた。明るい色のカーテンが掛けられ、フローリングの床には早春にふさわしい色のボタニカル柄のラグが敷かれている。棚には仲のよさそうな家族写真も額に入れられて、いくつも飾られていた。
紅茶かコーヒーか、と訊かれた。夜須さんは「おかまいなく」と返事をする。わたしもそれに頷く。
ボスはわたしたちに紅茶を淹れてくれた。
「それでは早速なのですが、最近は望ちゃんの様子はいかがですか?」
ボスは隣の椅子に座った望ちゃんをちらりと見てから、わたしに確認を取るように視線を向けた。
「夜須さんにはお話をしてあります」
そう伝えると、ボスは視線を落とした。何度か口を開きかけてから、思いきったように話し出す。
「あのあと……望が幼稚園の門を乗り越えて神社へ行こうとしたあとですが、何回か同じことがあって……。幼稚園の先生たちにもくれぐれも目を離さないようにとお願いをしました。幸いにも先生たちが途中で止めてくれるので、神社へ行ったりとかはないのですが……。今は幼稚園を休ませています」
望ちゃんはそんなボスの顔を不思議そうに見上げている。
「うちにいても望から目を離せなくて……。ちょっとでも目を離したら……連れていかれてしまいそうで」
ボスは疲れきっているように見えた。
「だから……お願いします。李依瑠ちゃんが望に憑いているのなら、なんとかしてください」




