【16】 カミの名 2
「わたし……どうなったんでしょうか?」
ゆらゆらと揺れる懐中電灯の丸い光は、苔の蒸した石階段を照らす。あんなにしていた笹鳴りも今はぴたりと止んでしまった。すんとした冷たい夜気には、枯れて朽ちたような匂いはもう混ざってはいない。ただ両脇に生い繁る笹から流れてくる特有の香気を感じる。
小走りに夜須さんに追いつくと、さっきの不可解な現象のことを訊ねた。
『思った以上だったね』
それはある程度はわたしの状態を予想していたということだ。わたしの身体に一体なにが起こったのか。夜須さんは理解している。
「ああ、あれね。感応神呪」
「カンノウシンジュ?」
「そう。きみは神気に充てられちゃったんだ」
ちょっとコンビニに行ってくる。そんな日常のなんでもない一コマのように、夜須さんはごくごく普通の口調で答えた。
「神気って……」
「カミ様の力とか気配」
「……」
「一倉さんがこの神社に来たのってどのくらいぶり? 二十年くらい? 一種の過剰反応みたいなもんだね」
「……李依瑠ちゃんとよく遊びにきていました。だけど、あんな風になったことなんてありませんでした。それに……『オカエリ』って聞こえたような……」
夜須さんはぴゅうと短く口笛を吹いた。
「大歓迎だ」
歓迎? あれが?
皮肉なのかジョークなのかわからない。
頭の中で形になったあの唸るような音は李依瑠ちゃんの気配ですらなかった。あれは……カミ様の気配なのか。
「夜須さんにはわかっていたんですよね?」
「なにが?」
「わたしがああいった状態になることです」
「うん? まあ、ね。だけどさっきも言ったように予想以上だった……」
「それを先に教えておいてくれてもいいんじゃありませんか?」
足を止めて言葉を遮る。
どこまでも飄々とした返答に、思わず感情が昂ってしまった。大人げないとは思いつつも、声に若干の険が混じる。語気も鋭くなってしまった。
「とても……怖かったんです」
自分の身体なのに。自分ではないナニかに操られるような感覚。意思に反して喉からは勝手に音があふれ出して、わけのわからない他の感情に埋めつくされる。異質のものに侵食されて身の内から支配される──。
あんなにも恐ろしい体験などしたこともない。二度と、これから先も金輪際、絶対にご免こうむりたい経験だった。
夜須さんからほんの一言でも注意を促してくれていたのなら。少しはカンノウシンジュとやらの心構えができていたのかもしれない。情報もなく放り出されるよりかは、幾分かはマシだったかもしれない。
あの状態から助けてくれたのも確かに夜須さんだった。だが……。そう思ってしまうのは、自分勝手な八つ当たりなのだろうか。
一歩先の石階段を降りていた夜須さんは足を止めて振り返る。
「ああ……それは申し訳ない」
感情のこもらない謝罪の言葉。これっぽっちも申し訳ないとは思っていないようだった。
口を「へ」の字に曲げていた矢井田さんの顔が浮かんだ。その気持ちをわかってしまった。頼りにはなる。だけど……。
「あのさ、一倉さんって自覚がないの?」
夜須さんは少し首をかしげてから、頬にかかった髪を左手で耳にかけた。
「自覚……ですか? なんの自覚ですか?」
「……ないんだ?」
「なんのことですか?」
気持ちを落ち着けるために、ふぅと深く息を吸って、吐いた。焦らすつもりはないのだろう。おそらくこれは夜須さんの性格なのだ。
「きみさ、巫なんだよ」
夜須さんから告げられたことは、唐突すぎるまったくの理解不能なことだった。
✾✾✾
第一ホテルの狭いラウンジは、エントランスを入った左奥の隅に位置している。
深い色の木目調のローテーブルが三卓。二人掛けのソファがそのローテーブルを挟んで三組ずつ。昔はバーカウンターが存在していたであろう壁の跡地には、アルコールとソフトドリンク、つまみとお菓子、惣菜パンや菓子パンの自動販売機が並んで置かれていた。
傍には背の高い観葉植物があり、壁にはくすんだ金縁の額に入れられた大きな油絵が飾ってある。地元の作家が描いたものだろうか。重厚な色彩から広がる山並みには見覚えがある。
夜須さんはフロントでチェックインを済ませていた。それから部屋に荷物を置きに行く。
その間にレストルームで化粧を直した。
アイメイクはそこまでの大惨事にはなっていなかった。花粉の季節は目薬は必須だ。そのために使っていたウォータープルーフのマスカラは優秀だった。
樹には急な用事ができたことを伝えて先に帰ってもらっていた。
「母さんが飯を作って待ってるよ。ゆうとさつきを連れて俺もあとから行くし。駐車場で待ってようか?」
腑に落ちない様子ながらもそう言ってはくれたが、どのくらいで話が終わるのかもわからない。神社に続いてまた待たせるのも心苦しい。それに、気持ちや考えをひとりで整理する時間もほしかった。「タクシーで帰るから大丈夫よ。なるべく遅くはならないようにするから」。そう伝えると、渋々ながらも納得してくれた。
「おまたせ」
ほどなくして夜須さんはもどってきた。コートは脱いで部屋に置いてきたらしい。ジャケットは着ていたが、ネクタイは外していた。シャツの台衿ボタンもくつろげられている。
飲料の自動販売機の前に立つと、暖かいカフェ・オレのボタンを押した。
「同じのでいい?」
答える間もなく、押されるボタン。「はい」とテーブルの上に置かれたペットボトルのカフェ・オレに「ありがとうございます」と礼をする。
目の前のソファにどさっと深く座るとさっそく脚を組む。
「さてと。それでなにから訊きたいの?」
なにからと云われても……とにかくすべてだ。わたしの今までの常識では理解できないことだらけだった。いや、もう今までの常識は一旦、端に避けておいたほうがよさそうだ。
「あの、わたしが巫って……」
取りあえずはそれから訊いてみる。
幸いにもなのか、いつものことなのか。ラウンジにはほかの宿泊客はいなかった。話を聞かれてしまう心配もない。
「巫って巫女のことですよね? うちは神社の家系でもないですし、母はクリスチャンなんですが……」
「ふうん、そうなんだ」
ペットボトルの蓋を開けてカフェ・オレを飲みながら、興味のなさそうな返答をする。以前にもチョコレートパフェを美味しそうに食べていた。……甘いものが好きらしい。
「まあ、ほとんどは一倉さんの体質だよ」
「体質、ですか?」
「感応力が高いみたい。とは云っても……」
またあの瞳だ。じっとわたしを覗き込む。
「ムラがあるみたいだね。ま、特にそういった仕事を生業としないのであれば、それはあっても別に関係ないかな」
生業? 巫女を職業にするということか。いくら体質だと云われても、それは絶対にないと断言できる。感応神呪なんて──あんな恐ろしい思いをするなんて冗談じゃない。
夜須さんはペットボトルをテーブルに置いた。
「きみの家系は関係ないって言ってたけど。あながちそうとも云えないかもね」
「どういうことですか?」
「『一倉』と『加曽蔵』。『くら』の字は違うけど、元は同じものを指していたかもしれない。あくまでも可能性の話だけどね。どうする? 聴く?」
「お願いします」
ここまできて聴かないという選択肢はない。
もう、知らないままでいることはできない。
「そう。じゃあね……まずは加曽蔵神社に祀られているカミ様のことから話そうか──」
上ヶ丘は古い土地だ。
山に向かってなだらかな丘が続いている山間の土地は、山の恵みだけではなく、作物を育てる田畑にも向いていた。山の湧水は川の源流となり、水にも困らない。
もともとの土着の勢力が住み着いていたのかもしれない。もしくは、豊かな土地を求めて流れてきた一族が住み着いたのかもしれない。
何世代にも渡り、その時代時代の時の権力者の下で集落を維持しながら暮らしてきた。
豊かな土地とはいっても、実りは天候や火山の噴火、地震、虫や植物の病気などの自然に左右される。歴史的に大きな飢饉は有名だが、地方の地域ごとでも、たびたび凶作は人々を苦しめた。
上ヶ丘でもそれは例外ではなかった。
★「感応神呪」は『誰そがれかくし』のためにつくった言葉です。




