第7話
アリアの視界に、新たな敵の一団が現れた。
彼女もモウブレーも、チェンバースもほかの団員たちも、皆傷付き、疲弊し切っていた。
しかしなおも、モウブレーは先頭に立ち、声を振り絞る。
「俺に、続けェ!!!」
戦槌の傭兵団が、一つの声、一つの塊となって走り出す。
そして衝突のときを迎えようとした、その寸前――突如として異変が起こった。
敵の騎兵が、騎馬が、一斉に倒れたのである。
「なっ……」
モウブレーたちは慌てて馬を止め、倒れた敵を見下ろす。
灰燼と化し、風に攫われ消えゆく兵と馬たち。すると、柔らかな陽の光が差し込んできた。
空を見上げると、黒雲は徐々に姿を消し、太陽が姿を現し始めた。
吹きすさぶ風も、胸にかかる重圧も、道々に立ち込める瘴気も、いつの間にか消え失せ、通りは急速に穏やかさを取り戻しつつあった。
「こいつは、いったい……」
騒めく一同の中で、アリアだけが確信に満ちた笑みを浮かべていた。
「やった……やったのね、スコール! ユダ!」
戦槌が、大音を立てて地面に突き付けられた。
シーナと対峙していた魔王が、戦槌を支えにしてよろめいた。
「やりやがった、あいつら……! やりやがったぞ、シーナ! マクスウェル!」
倒れゆく亡者たちを見下ろしながら、ブルータスが叫ぶ。
「ああ。やった、やったんだ……」
荒い呼吸で身体を大きく揺らしながら、マックスも呟いた。
すると、シーナの身体がぐらりと倒れ、膝を付く。
――そうか。絶界が消えた所為で、シーナも……
慌てたマックスが、シーナに走り寄ろうとしたそのとき――頭上に一縷の雷光が煌き、彼は自分が未だ、覚めない悪夢の中にいることを思い知らされた。
聞こえてきたのは、混じりけのない、どこまでも純粋な憤怒の呻きであった。
声の主は、戦槌の魔王。
絶界が消え魑魅魍魎が灰塵と化していく中、柱たる魔王だけが、凄みを増した怒気を放ちながら、そこに君臨していた。
シーナは剣を杖にしてなんとか立ち上がりながら、食い入るように魔王を見据える。その脳裏に、アリアの言葉が蘇っていた。
――戦槌の魔王……偉大な武人であり王だった彼は自らの老いを許せず、自身の民を生贄に捧げることによって不老の悪霊となり、絶界と化した都を彷徨い続けたと言われているわ……
目の前にいるのは、そういう存在なのだと、シーナはようやく理解した。
己が存在を地上につなぎとめるためならば、喜んで無垢の民を殺す。都一つ差し出そうが、悪霊になろうが、まったく一向に知ったことではない。そんな男が、絶界という唯一無二の領土を奪われ、再び永劫の眠りに就こうとしている。
許せる筈がない。怒り叫ばぬ理由がないシーナもマックスもブルータスも、その狂った道理を理解し、そして想像し、戦慄した。
奴は今、あの兜の下に、どんな形相を浮かべているのか、と。
刹那、戦槌の突きがシーナを捉えた。
くの字に折れ曲がった彼の身体は、マックスとブルータスの間を駆けぬけ、瓦礫を突き破り地面に転がった。
地面を割りながら歩を進める魔王に、マックスが必死の形相で呪文を唱える。しかし魔王は、氷柱の雨に身を撃たれながらも、一歩一歩、確実に近付いてくる。
「……くっ! ブルータス!」
マックスは叫ぶと、今までとは異なる魔法を展開し始めた。彼の足元に魔法陣が現れ、眩い光を放ち始める。
「ああ、任せろ」
「……すまない」
ブルータスは万事心得た様子で、雄叫びを上げながら魔王に向かって駆け出した。
魔王も拳で甲冑を打ち鳴らし、歩みを早める。
初手、戦槌の一撃が顔を掠めたが、ブルータスは怯まず剣と斧を振るう。
その攻撃を柄で防いだ魔王は、そのままブルータスを押し退けた。
危うく身体が宙を舞おうとしたが、なんとか堪え、地面を踏みしめる。
反撃に振るった剣は、魔王の右拳に迎え撃たれ、あえなく吹き飛ばされた。
しかし続けて放った斧が、魔王の兜を正確に捉えた。
体勢を崩し、後退る魔王。追撃を仕掛けようと踏み出したとき、戦槌が右脇腹にめり込んだ。
斧が手から零れ落ち、肋骨が砕け、口から血が吹き出す。
一瞬、意識が飛びかけたが、それでもブルータスは踏み止まった。
右手で戦槌を抱え込み、左拳を魔王の顔面に打ち付ける。
二発、三発と殴ったところで、魔王の裏拳がブルータスの顔面を直撃し、そのまま真横に吹き飛んだ。
魔王は、倒れたまま動かないブルータスを一瞥し、マックスに向きなおる。
そのとき、足元に魔法陣が現れた。
魔法陣から放たれる光が、魔王の身体を包み込む。すると魔王は断末魔のような悲鳴を上げながら片膝をついた。
「そのまま、眠れ……!」
マックスは杖を構えたまま微動だにせず、目を血走らせ、鼻血を流し、歯を食いしばっている。さらに呪文を唱えると、幾重もの魔法陣が、魔王を取り囲むように現れた。
魔法陣が輝きを増すにつれ、魔王の身体も眩い光に包まれ始める。
「そのまま……その、まま……!」
瞬き一つせず、魔王を睨んで杖を構えるマックス。その耳に、異質な音が届いた。
地を這い、足元にまとわり、身体を駆け上がり、やがて命にまで到達するのではと想像させるような、そんな音が。
それは、魔王の唸り声であった。
――魔法……いや、そんな生易しいものじゃない
マックスはそこで初めて、『殺意』というものの真の恐ろしさを痛感し、戦慄した。
そして魔王の殺意は黒い影となって形を成し、やがて数体の騎士を形づくる。
――馬鹿な! これは、超小規模の絶界……!?
黒い霧のようなそれらは恐ろしい雄叫びを上げ、一斉にマックスに襲い掛かる。
「ふざけろ……!」
マックスは涙を目に浮かべながら、唇を噛む。そして騎士たちの剣がその身体を捉えようとした寸前、杖が振るわれ、黒い霧たちは突風によって消し飛んだ。
間髪入れず、薄い氷の割れるような音が轟いた。
次々と砕け散る魔法陣。その中でゆっくりと立ち上がる魔王。
マックスは、絶望とともにその光景を傍観し、がくりと膝をついた。
茫然自失の表情でうなだれて、浅く呼吸を漏らすだけのマックスに、重い足音と、戦槌を引きずる音が近付いていく。
やがて足音が止まり、戦槌が持ち上げられる。しかし、マックスの前に飛び出す影があった。
戦槌と剣が衝突し、衝撃波が巻き起こる。
「がはっ……!」
短い悲鳴と血を吐いたのは、シーナである。
圧し掛かる重圧に、全身が悲鳴を上げる。再生の追いついていない傷口から、大量の血が噴き出した。
全身の感覚は朧げで、立って戦っていられるのが、自分でも不思議なほどであった。
「シィ……ナ……」
マックスの声は最早届いていない。ただそれでも彼を守るという使命だけが、途切れかけのシーナの意識を辛うじてつなぎ止めていた。
だがそれもやがて、限界の兆しが訪れる。
重圧に耐えきれず、膝が裂け、ゆっくりと折れ始めた。
そしてついに剣に亀裂が入った、そのとき――
魔王の身体が、大きく揺らめいた。
魔王の背に、翡翠に輝く矢が突き立ったこと。その遥か後方で、弓を構えていたアリアが倒れ伏したことを、シーナが知る由もない。
だがこの機を逃すほど、彼も愚かではなかった。
「あああああッッッ!!!」
文字どおり全身全霊の力を込めて、戦槌を跳ね上げる。
大きく後退った魔王に向かって、一歩踏み込む。
魔王も踏み止まり、戦槌を振りかぶった。
左から右に、渾身の横一閃を振りぬくシーナ。その一撃は戦槌と衝突し、高らかな金属音が響く。
一瞬の静寂の後、鮮血が舞った。
割れたシーナの額から血が噴き出し、折れた刃が地面に転がった。
廻天する視界。急速に接近する地面。
倒れ掛かるその寸前、シーナは踏み止まり、折れた剣を低く構えた。
魔王は高らかに戦槌を掲げ、次の一撃の力を込める――しぶとい虫ケラを、確実に潰せるだけの力を。
戦槌が漆黒の光を湛え始めたとき、シーナの剣もまた、異なる光に輝き始めた。
蒼炎の如き魔力が、失われた刃を形づくる。
額から滴る血が視界を覆ったが、傷の再生に回せる力など、残ってはなかった。
剣と戦槌、それぞれの輝きが最高潮に達したその瞬間、両者は動いた。
二つの光が衝突し、一陣の風となって大地を駆けぬけた。
シーナの身体が、ばたりと地面に倒れる。
それと同時に、真っ二つに斬られた戦槌が、音を立てて地面に落ちた。
魔王の胴からは、血の如き黒い霧が噴き出していた。
魔王は無気力に膝を付き、その全身を霧へと変えていく。霧は風の中へと消えることなく、高らかに、ただ高らかに天へと昇っていった。
「終わっ……た……」
マックスは微かに呟くと、その身をゆっくりと地面に預けた。
辺りは静けさに包まれ、あとはただ暖かな陽が、アリアに、シーナに、マックスに、ブルータスに――勇者たちに降り注いでいた。




