第1話
「この、感覚は……」
アリアが首筋に手を当て、苦しげな表情で呻いた。
「絶界のようですが……これは……」
「ああ。監獄島とは比べものにならんプレッシャーだ」
ブルータスが窓を開け放つ。
快晴だった空には暗雲が立ち込めている。雷鳴が轟き、荒々しい風が吹き荒れていた。
あちこちから阿鼻叫喚の悲鳴がこだまする。いつの間にか、街には亡者の群れが跋扈し、騎兵の集団が市民を狩り立てていた。
その光景は、混沌と殺伐としていながら、心に穴の開くような寂寥感にさえ満ちている。絶望という名の広大な無が、そこにはあった。
煌びやかな都はわずか一瞬にして、人の身も心も喰らう、虚無の辺獄へと変貌していた。
「戦槌の魔王が、復活してしまった……」
青ざめた顔でマックスが呟く。
「このミュール全土が、絶界と化してしまったんだ」
この世の終わりかのように項垂れるマックスに、皆が息を飲む。
すると、そんな彼に声をかける者がいた。
「――どうすればいい、先生」
「……ッ! シーナぁ!」
ベッドから起き上がるシーナに、アリアが涙ながらに抱きついた。
「わかってはいましたが、本当にしぶといお隣さんだ」
ユダもブルータスも、笑みを浮かべた。スコールも嬉しそうに尻尾を振っている。マックスのみ、我が眼を疑うような驚愕の表情をしていた。
「シーナ、もう大丈夫なの!?」
「ああ。腹が燃えるようにクソ熱いけど、大丈夫」
ボロボロと大粒の涙をこぼすアリアの頭を撫でながら、シーナは苦笑して立ち上がる。血が滲んだままのシャツの上から、ダスターコートをばさりと羽織った。
すると聞こえたのは、階下から響くけたたましい騒音である。
ブルータスが窓から見下ろすと、鎧姿の亡者たちが戸を打ち破り、隠れ家に雪崩れ込んでくるところであった。
彼はにやりと笑い、振りかえって檄を飛ばす。
「さあ客が来たぞ、丁重に出迎えてやれ!」
亡者の身体が、玄関から勢いよく投げ出された。
そのあとから、五人と一匹が姿を現す。
隠れ家のあちこちに四散した亡者たちはもはや動かず、土塊へと姿を変えていた。
投げ出された最後の亡者が立ち上がり、果敢にも一向に斬りかかった――がしかし、先頭を行くシーナの剣が、鎧ごと胴を斬り裂いた。
吹きすさぶ風の中、崩れ落ちる相手を見下ろしつつ、深い息を吐くシーナ。
その横顔を、マックスが見上げていた。
「お前は……」
何か言いかけたが、言葉を飲み込む。
すると幾つもの、地面を揺らす蹄の音が聞こえてきた。音のほうを見ると、市民が黒鎧の騎馬隊に追われている。
「戦槌の、騎士団……」
マックスが我が眼を疑ったとき、先頭の騎兵の胸あたりに、アリアの矢が突き立った。
続けて頭部を射ぬかれた騎兵はぐらりと倒れ、後続の隊列が乱れる。
すかさず斬き込むユダとブルータス。荒ぶる刃が、残る騎兵隊を斬り裂いた。
「真っ直ぐに都の外を目指すんだ、いいな」
マックスは恐慌状態の市民に強く言い聞かせ、急いで立ち去らせる。
「おい、追加の客がお出ましだ」
ブルータスの声につられて顔を上げると、亡者の群れが目に入った。
「ウォフッ!」
今度はスコールが雄叫びを轟かせ、先陣を切る。
ほかの面々も騎士狼を追い、辺りは戦闘状態に突入した。
「――アーネストの封印ってのは、そんな簡単に解けるものなのか!?」
次々と迫りくる亡者を斬り伏せながら、ブルータスが叫んだ。
「太古のエルフがアーネストに授けた封印術は完璧だ。解呪法など、あろうはずもない!」
杖を振るい冷気を操りながら、マックスが答える。
「だが、現にこうして――」
「ああ! 僕もついさっき知ったが、アーネストが封印したのは柱ではなく、絶界のほうだったんだ! 絶界という土台を失った柱は瓦解し、力を失い、そして眠りについたはずだった!」
しばらくして敵の一団を退けた一行は、各々息を切らしている。それでも耳は、マックスの次の言葉を待っていたが、待ち切れずにブルータスがたずねた。
「それじゃあ何か。どこかの馬鹿が、わざわざ新しい土台を用意しやがったと?」
「ああ、邪教徒共の秘術だろう。絶界を人為的に発動するなんて、ふざけた術が存在するとはな……だとしてもこの都ごと覆うほどの術式を発動させるなど、常識的に考えれば不可能だが、それを可能たらしめるものを僕たちは知っている」
「賢者の石、ですね」
アリアの答えに、マックスが頷く。
「ええ。何百、何千という人間の恐怖や苦痛、憎悪の結晶です。これを媒介にして術式を発動させれば、柱を目覚めさせるのに十分な出力を得られることでしょう」
戦闘の気配を感じ取ったのか、次から次へと亡者たちが現れた。
敵を倒してつつ、時おり遭遇する市民を助けるうち、一行はミュールの中腹付近まで来ていた。
辺り一帯、蹄の音と悲鳴が鳴りやまない。
状況は正しく、混迷を極めていた。
「それじゃあ先生、今もその術式は発動し続けているってことですか?」
弦を引き絞りながら、アリアが問う。
「ええ。間違いなく」
「では術者を倒すか、賢者の石を奪えば――」
「絶界は消え、土台を失った魔王は再び眠りにつく……確証はありませんが」
口ごもるマックスに、アリアは力強い眼差しで答えた。
「賭ける価値は十二分にあります。儀式を行っている場所に、心当たりは?」
「王都のどこか、広い空間。それも誰の邪魔も入らず、なおかつ魔王に縁のある――」
「あそこ以外、あり得ません」
マックスの言葉を遮って、ユダが断言した。
目配せすると、ブルータスも頷いた。
「ああ、地下墓所だな。あそこを追い出された、本当の理由がわかったぜ」
「ですが知ってのとおり、入口はいくつもありますし、墓所は非常に広大ですよ」
すると、ユダの言葉に答える声があった。
声の主はスコールである。
「もしかして匂いを追えるの?」
アリアの問いにスコールが吠えて返すと、ブルータスが翻訳してくれた。
「主人の仇……ハモンドの匂いを覚えているとよ」
「スコール……」
アリアが見つめると、スコールもまた、使命に燃える眼差しを返す。
「それは素晴らしい。邪教徒狩りと行きましょう。では早速、近くの入口に――」
とユダが言いかけたとき、鬨の声が伝わってきた。
王宮へと一直線に続く大通りを、少し進んだ先の大広場。
普段は市場が設けられたリ、催しもので賑わったりと、市民の憩いの場である。
しかし今この瞬間だけは、『王都の盾』と呼ばれる金鎧の守備隊と、戦槌の騎士団による決戦の舞台と成り果てていた。
必死の掛け声とともに、騎士団に突っ込んでいく守備隊を、アリアは翡翠の瞳で食い入るように見つめていた。。
しかし次の瞬間、悪寒が足元から背筋を這いあがった。
その直後のことを、アリアははっきりと思い出すことができない。
覚えているのは黒い閃光と、鼓膜を破らんばかりの衝撃音。それから、身体が浮くほどの地面の揺れだけである。
「――よけろォッ!!!」
ブルータスの叫び声が聞こえ、シーナに手を引かれる。
直ぐ近くに大きな何かが落ちてきて、ぐしゃりと潰れた。
さらにいくつも落ちきたそれが、守備隊の兵士だと気付くまで、そう時間はいらなかった。
「あれは、まさか……」
マックスが、震える声で呟いた。
人間の雨が降りしきる中――その者は静かに、ただ静かに、無限の憤怒とともに佇んでいた。
「せん、つい、の……」
マックスの声は、もはや声になっていなかったが、皆が直感していた。
――『戦槌の魔王』だ
二メートルはあろうかという巨体を漆黒の鎧でまとい、背中にマントをたなびかせている。
闘牛のような二本角の兜は、顔全体を覆っているため、顔立ちは定かではない。
手にはその名が示すとおり、黒の戦槌を携えている。身の丈ほどもある長柄の先に、直方体の巨大な槌頭がそびえており、常人には構えることすらままならぬ代物である。
衣装、防具、武器のすべてが、凍て付くような冷気を発していた。
そしてそれらを身にまとう者は、煮え滾るような怒気を放っている。
魔王がただ、そこに君臨しているだけで空気がガタガタと震えていた。
――『死』が、そこにいる
死という概念の結晶が、そこにはあった。
何もされずとも、その殺気に触れただけで死んでしまう。アリアは肌で直感する。
息を吸うことさえままならない。恐れをなした大気が、魔王に命じられ喉元を絞め上げているのでは――そんな馬鹿げた妄想さえしてしまう。
アリアだけではない。魔王の放つ気迫の前に、一同の身体は硬直する。
しかし、一歩踏み出す者がいた。
「アレは、俺が引き受けた」
「シ……シーナッ!」
恐怖に引きつる顔を覚悟で固め、見たくもない魔王を見据えるシーナ。
「放っておいたら、王都の人間を片っ端から殺して回るだろうからな。奴には、不死身野郎がお似合いだ」
すると、彼の頭を叩く手があった。
振りむくと、珍しく緊張気味のブルータスが隣に立っていた。
「オッサン……」
「お前にばかり美味しい思いさせるかよ」
「……いいのか?」
「舐めんじゃねえ。魔王と戦うのは、長年の夢だったんだ」
フンと鼻を鳴らすブルータスに、ユダが皮肉っぽく笑いかける。
「骨は拾いませんよ、兄弟」
「こっちの台詞だ、兄弟。死んでもお嬢を守れよ」
続けてマックスが、黙って二人に並び立った。
「先生……」
「お前たちだけじゃ、数秒と持たないだろうからな」
今にも泣きだしそうな顔で、強がりを吐く。
「お嬢様、よろしいですね。とにかく術者から石を奪うか、壊したって構いません。術式から離せれば何だっていい。頼みましたよ」
「は……はいっ!」
アリアは、努めて明るく答える。マックスの小さな背中を、これほど頼もしく感じたことはなかった。
「皆生きて……いえ、勝ってまた会いましょう」
珍しく勝気なアリアの言葉に、一同は思わず口角を上げる。
「さあ、魔王退治のお時間だ!」
シーナの掛け声を合図にして、五人と一匹はそれぞれ駆け出した。




