最後のイルミネーション
「君たちが作れる電気はそれでおしまい。電気の世紀、なかなか面白かったよ。あとは君たちにおまかせ」
神様の声が、世界中の人々の脳内に響き渡った。
202X年4月1日。
神様は突然、電気の世紀の終わりを告げた。
そこから、どんな手段を用いても『電気を生み出す』ということだけは、できなくなった。
回した磁石が誘起したはずの起電力は、発電機から出てくる銅線の中の電子を動かさなくなった。
はるか太陽から旅してきた光子の一撃が叩きだした電子は、太陽光パネルの出口でぴたりと歩を止めた。
その他ありとあらゆる、電気を生み出そうとする仕組みが、止まった。
キャパシタ(コンデンサ)にわずかに残された電位差が、人類が最後に手元に残した電気エネルギーのすべてだった。
神様の言葉は真実だった。
同時に、その言葉が真実だと強制的に理解させられた。それも、神様の奇跡の一つだった。
世界は暗闇に包まれる。
***
朔は、3月に学生生活を終えた、ごく普通の新社会人。入社に向けてきれいに整えた髪、ピカピカのスーツ、傷一つない革靴――すべて、闇の中に沈んでいる。
神様の宣告の日、強制的に理解させられた日の二十一時。暗闇が始まった。それはおそらく、標準時の正午に合わせた宣告だったのだろう。
だから、それが世界中で起こっていると、サクは確信していた。
彼の心にあるのは、先週最後に会った、恋人・アカリのことだった。
今日のついさっきまで、新たな社会人生活の初日の他愛ない話を、SNSメッセージで伝えあっていた。
そして、今、スマホは、沈黙している。
あらゆる通信手段が途絶え、もはや、暗闇を照らす照明以外の役割を果たさなくなっている。
SNSアプリを起動しても、最終メッセージ履歴、二十時四十七分の文字だけがむなしい。
同じ高校で出会い、同じ大学に進み、東京で就職したサクと、愛知で就職したアカリは、いわば、遠距離恋愛の関係となった。
連絡を取り合って、時には会って愛を確かめ合い、ゆっくりと絆を育んでいく――そう思っていた。
それが絶たれた。
神様の一方的な宣告で、未来も、希望も、何もかもが無くなってしまった。
約束は、何もしていなかった。残っているのは、思い出だけ。
世界はこれから混乱する。車も電車も飛行機も、すべて止まってしまい、医療は崩壊し何万人という死者が出るだろうし、電気文明を失った世界は何億人という犠牲者を生むだろう。
けれど、サクにとっては、アカリを失ったことが、すべてだった。
***
色とりどりのイルミネーションがあらゆる辻を飾り立て、光の大河が街を飲み込もうとしている、クリスマスイブ。
サクとアカリは、表参道ヒルズ前の歩道橋にいた。
ごった返す人ごみの中、二人は白い息を吐きながら、体を小刻みに揺らし、ゆっくり進む人並みを何とか潜り抜けて、そこに立った。
そこは、表参道のイルミネーションが一望できる、恋人たちのスポット。
遥か彼方まで続く煌めきの道は、二人を永遠の未来へ導く、希望の階段に見えた。
また来年もここにきて、一歩階段を上がった二人を祝おうね。
アカリはそんなことを言った。
サクは、なんだか気恥ずかしくて、何も答えなかった、ような気がする。
――目を開けると、そこには、漆黒の闇。
あまりに暗くて、音さえも吸い込まれそうだった。
何度目だろうか。サクはアカリのあの言葉を思い出して、一人、暗闇を歩いて、歩道橋に立ち、暗闇を見つめている。
目の前の手すりさえ、あるのか分からないほどの闇。その向こうに、かつての明るい世界を幻視し、そしてそのまぶしさが、さらに、通りの暗さを際立てている。
わずかな星明りでここまで歩いてきたが、やはりこの日も、世界が闇の底にあることを確かめただけだった。
――アカリは覚えているだろうか。
あれ以来、アカリと連絡できる手段がない。
スマホがあるからと、住所さえ聞いていない。
もしかすると、と、アカリが学生時代に住んでいたワンルームマンションを何度か訪ねてみたこともあるが、そこにも手掛かりはなかった。もちろん、サクが住んでいたマンションに置手紙があるようなこともなく。
徐々に、アカリの笑顔が思い出せなくなっている。
彼女の写真はすべてスマホの中で、そのバッテリーが空になってから、もう半年に近い。
手回し発電機が飛ぶように売れていたが、神様はそんなヘマはしなかった。電気を生み出すことは、徹底的に禁止されていた。
もちろん、化学反応で電気を生み出す仕組みである乾電池も、例外ではなかった。
だから、サクのスマホは沈黙したままだ。
世界で何が起こっているのか、知る手段もない。ただ、毎日何とか会社に行って、今できることをしている。商社だった就職先は、デジタルで商材を左右する会社から、自転車とリヤカーで必死で物資を運ぶ行商集団に変貌していた。どこまで救えるかわからない、でも、できることがあるなら、と、必死で食べ物を動かし続けた。その甲斐あって、徐々に、人々はそれなりの生活を取り戻しつつある。
肥料の備蓄が無くなったら、という危機感から、有機肥料の生産を始めようと言い出した人たち。
通信のために自転車で手紙を運ぼうと言い出した人たち。
悪質な燃料でも動く外燃機関車の再発明に手を付けた人たち。
世界は、ゆっくりと、力強く、再生に向けて動き始めている。
けれど、サクの世界は、あの日に止まったままだった。
***
十二月、二十四日。クリスマスイブ。
ちょうど一年前、『次』を約束した、その日。
表参道は、やはり、暗闇の底だった。
けれど、そこに、人々の熱気があった。
上弦を少し過ぎた月明りは、通りをうごめく人々を、うっすらと照らし出していた。
きっと彼らも、一年後の今日の約束をかすかなよすがに、ここに来たのだろう。
あちこちで、会話する声や、ときに人の名を呼ぶ怒号が聞こえる。
会いたい人に会えなくて気が立っているのかもしれないな。
立ち止まって通りをぼんやりと眺めながら、サクはそんなことを考える。
何かをごろごろと転がしたりガサガサとまさぐったりする音が、耳につく。
いろいろなものを背負ってここに来たのだろうと思う。
暦の上から決して動かない、恋人たちの邂逅の日。
そのためだけに、いろんなものを投げ出してここに集まった人たちがいる。
――アカリが、きっとそうしてくれないか、と思った。
そのためにここに来るはずだ、と信じて、サクはここに来た。
同じような人たちが、千の単位でひしめいている。
僕は、凡人だな。
サクはそんなことを考える。
結局、僕にできることは何もなくて、思いついたことは、ここにいる人たちと同じ。
特別になんてなれない。
きっと、アカリにとっての特別だったのも、せいぜいあの数年の、熱病のような刹那のことに過ぎないんだ。
それでも。
彼にとって、特別な人の名を。
「アカリ!」
わずかな望みにかけて、叫んだ。
「――アカリ!!」
サクの大声は、同じように恋人を呼ぶ声に、かき消された。
暗闇に沈むその世界に、もう、アカリは帰ってこない。
そんな、確信めいた思いが、泥のように胸の奥から湧き出て、サクの声帯を圧し潰した。
アカリはきっと、もう、誰かほかの人と生きることを決断しているんだと思う。
電気のない世界で、愛知と東京は、あまりに遠い。
約束もない僕のために、何百キロを歩いてくる? あり得ない。
そんな不毛な人生を送るくらいなら、いっそすべてを悪夢だったと再定義して、新しい人生を踏み出す。
いや、そうすべきなんだ。
いつまでもそれを踏み出せない僕が、意気地なしなだけで。
――そうだな。ここに彼女がいないことを、祝おう。人生の新たな階段を上り始めたアカリを、祝福しよう。
ふと自嘲的な笑いが洩れ、うつむいた。
その次の瞬間。
街は、煌めきに包まれた。
***
二度と生み出せない電気。そのごくごく一部は、キャパシタに蓄えられた。
発電を伴わず、電気の動く力だけを蓄える、最後のよすが。
自然に消えてしまうそれを、気が狂ったような努力で留めおいても、世界を救うにはあまりに少ない雫に過ぎなかった。
それを何に使うか――。
『みなさん』
突然、大きな声が響き渡る。
それは久しく聞かれなかった、『拡声器』による声。
『私たちは、電気の最後の一滴を、今日、使うことに決めた。これが、私たちの最後の電気だ』
強く、毅然とした声。きっと、何度も練習したであろう、威厳と慈愛に満ちた、決断者の声。
『我々が、光の中で愛を語り、夢を見た生き物であったことを、神に、そして自分たちに証明するために』
ざわめきも怒号も止み、世界中が静まり返った。
『我々がいかに愚かで愛おしい生き物であったか、証明しよう!』
ぽつり、ぽつり、と、街灯が灯りはじめていた。
『さあ、最後のクリスマスだ。笑おう。祈ろう。夢を語ろう。抱きしめ合おう!』
最後の一滴のその命数を削り取りながら届けられた声が終わると同時に、銀杏並木が、黄金の奔流となった。
そのまぶしさに、月が、星が、悲鳴を上げた。
鏡のようなショーウィンドウたちは、ストリートを万華鏡に変えた。
一抱えもあるキャパシタのそばに座って汗を拭う男性の顔に、笑顔があった。
埃だらけの髪もそのままに恋人たちにサムズアップを送る女性の顔に、祈りがあった。
最後まで電球の位置を調整していたらしきハシゴの上の少女の顔に、希望があった。
光の中に浮かび上がる人々が、次々に抱き合うのが見えた。
灯りが、そこにも、ここにも、どこにでも、あった。
――そして、そのまぶしさにあらがってサクが歩道橋を見上げると――
「サク!」
光の粒を背に背負い、女神のように世界を光に包む、世界で一番遠かったあの人の姿が、浮かび上がった。
「アカリ!」
駆けだしたサク。
歩道橋のたもとで、同じように走ってきたアカリと鉢合わせし、勢いで抱き合った。アカリの背負ってきた大きなリュックが音を立てて落ちる。
「会いたかった」
「僕も」
服は薄汚れ、靴はボロボロだ。三百キロ以上の距離を一人で歩いてきた、アカリ。電気もない世界ではきっと一か月はかかっただろうに。
それがこの上なく愛おしく、サクはさらに抱きしめる腕に力をこめる。
すっかり痩せて細ったアカリの頬を涙が伝う。サクはその両腕の中に確かな鼓動を感じる。
その時間は、何時間も続くようで、やがて終わりが訪れた。
わずか数分の最後のイルミネーションのために電気は放出しつくされ、明滅しながら、街はゆっくりと暗闇に沈み始める。
けれどもう彼らに、光はいらない。
彼らの心から生じる光が、これから、彼らの道を照らすのだから。




