アルムの旅4 -三年目その2-
その人は夜みたいな髪と瞳をしていた。
ああ、この人は悪い人だ。私は直観的にそう思った。
私はミケルトという港町の食堂で働いている。
港町だけあってお客さんは多い。この町で働く漁師のおじさん達に加えて最近常世ノ国という国との貿易が解禁されたのもあって、この町はさらに賑わった。
忙しいのはいい事だと思う。でも忙しいだけでは枯れてしまう。
私は今年で二十歳、働き盛りでもあるが恋盛り。
でもここに来るのは漁師のおじさん達ばかりでそんな予感は何一つとして無かった。
「こんにちは」
「い、いらっしゃいませ……」
忙しいとは言ってもピークではない時間はある。
漁師のおじさん達が来る時間はいつも一緒だからピークの時間も大体同じで、父はその時間が過ぎたら休憩で店を出る。
その間は私だけで仕事をするのだが基本的にお客さんは来ない時間帯……いつも通り気楽なものだと思っていたその人は来た。
珍しい黒髪と黒い瞳に驚いて少し歯切れが悪くなってしまった。
「大丈夫か?」
「は、はい!」
「もしかして、休憩の時間だっただろうか? 都合が悪ければ出ていくが……」
「いえ、大丈夫です!」
珍しいお客さんを観察したい衝動を抑えて笑顔を浮かべる。
ここの看板娘としてしっかりお客さんをおもてなししなくては。
「ご注文は?」
「少ししたら出なきゃいけなくて……スープのようなものはあるだろうか?」
「はい、少々お待ちください」
黒髪のその人はカウンター席に座った。
何故か私は自分の髪を手櫛で整えたり、窓に映った自分を見て笑顔になってみたり。
ちらっと具材を切りながら黒髪のその人を見てみたり。
(この辺の人じゃ……ないよね……?)
どこから来たんだろう。首都のほうだろうか、
ルルカトンからの旅行客? はたまた常世ノ国から来た商人さん?
何となくミステリアスな空気を纏うその人がやけに気になった。
「あ、あのどこからいらっしゃったんですか?」
「マナリルです」
「ま、マナリル!? 海の向こうの魔法大国、ですか!?」
「ああ、ここ何年か旅をしていて……そうだ自己紹介がまだだった。アルムです」
「え? え、えっと……マルファです……」
お客さんに自己紹介されるのは珍しい。お酒の入った人がからかい混じりにお嬢ちゃんなんて言うんだい? とか聞いてくる事はあるけれど、こんな風に真摯に自己紹介をしてくる人に至っては初めてではないだろうか。
アルムさんは名乗ったかと思うと少し頭を下げて、釣られて私もアルムさんのほうを向いて頭を下げた。
礼儀正しい人だな、と思った。
見た目で悪い人かもだなんて失礼だた。もしかしたらいい人なのかもしれない。
「お待たせしました。おみおつけです」
少しして、アルムさんの希望通り簡単なスープを出した。
スープだけ頼むお客さんなんて初めてだから新鮮だ。出てきた料理を見てアルムさんは不思議そうな目をしていた。
そうだよね。外国の人にはちょっと珍しいかもしれない。
「おみおつけ……?」
「お味噌汁とも言うスープで……なんというかほっとする味ですよ」
「へぇ……初めて見たな」
不思議そうにしながらも警戒はしていないようですぐに口を付けてくれた。
お椀を持って口に運ぶ姿は普通のはずなのにどこか優雅さで、まるで紅茶を飲んでいるかのような所作だった。
「……はぁー……おいしいな」
「――っ!」
味噌汁を一口飲んで、アルムさんが不意に浮かべた微笑みにどきっとする。
何て、柔らかく笑う人なんだろう。入ってきた時は恐いくらい無表情だったのに。
ミステリアスな人かと思えば料理の味一つで笑顔を見せる子供みたいに無邪気な面を見せてくるのは反則だ。
「これは……?」
「豆腐、です」
「うまいな……優しい味だ。これは、ねぎ……こっちは海藻、か?」
「わかめって言います……おいしい、ですよ」
「へぇ……ほんとだ。おいしいな」
アルムさんは味噌汁を気に入ったようだった。
一口。また一口。豆腐の柔らかさもわかめとねぎの食感も味噌汁に溶けた美味しさを全部全部、ゆっくりと味わうように飲んでくれた。
何というか……料理を提供してむず痒くなるのは初めてだった。
味噌汁なんてここじゃ安くて毎日飲めるものだというのに、まるで具材一つを見つける度に宝物のように扱ってくれている。
父ではなくて私の料理をしっかり味わってくれるその姿を、私はじっと見てしまった。
こんなの失礼なのに。
食べているお客さんをじっと見るのなんて失礼なのに。
でも私はアルムさんから目が離せなかった。
気付けば私の頬をゆるゆるに緩んでいて、アルムさんと同じように微笑んでいた。
「はぁ……ご馳走様でした」
あ……終わっちゃった。
そりゃそうだ。アルムさんがいくらゆっくり食べても味噌汁一品。
すぐに終わるのは当たり前なのに、何故かそれが残念でならなかった。
「あなたのおみおつけ? 味噌汁? だったか。初めて飲んだがとても気に入った」
「あ、ありがとうございます!」
アルムさんは飲み終わると立ち上がってお金を私の前に出す。
外国の人だと言っていたが、ちゃんとこの国の通貨だ。
お金を受け取って、お釣りを渡したらきっとさよならなのだろう。
何故かそれが名残惜しくて、いつもよりもお釣りを出すのに時間をかけた気がする。
アルムさんにお釣りを渡すために手を伸ばすと、
「あんなに美味しいのなら毎日作ってもらいたいくらいだ」
先程見せていたような柔らかい微笑みを浮かべてとんでもない事を言い出した。
「へ……? ん!? へ!? うえええええ!?」
「……ん? 何か変な事を言ったか?」
「だ、だって今……! 今……! はれぇ!?」
「……? 変な事を言った覚えはないんだが……」
顔が信じられないくらいあっつい。真っ赤になっていくのがわかる。
私だけ慌てふためいているのにアルムさんは首なんて傾げちゃって平気な顔をしている。
毎日味噌汁を作ってもらいたい、って言葉はつまりそういう事だなんてここら辺の地域じゃ常識。
だけどアルムさんは外国の人だ。
こ、この人……この人……!
自分が言ってる意味絶対わかってない!!
「何か気に障ったのならすまん。だが美味しかったって事を伝えたかっただけなんだ」
「は、はひ……」
申し訳なさそうに弱った顔をするのもどこか魅力的に映る。
ずるい。ずるいずるいずるい。
素面でそんな事言われちゃったらもう平静なんて保っていられるわけがない。
お釣りを渡そうとする手が震える。お釣りを渡す時にちょんと私の指とアルムさんの指が触れて、その部分がびっくりするくらい熱くなった。
「本当に美味しかった。ありがとう」
お釣りを受け取ると爽やかに笑ってアルムさんは店を出て行った。
こちらを振り返ることもなく、どこか目指す場所があるかのように。
静まり返った店の中で私はずり落ちるように床に座り込む。
どくん。どくん。
心臓が鳴っている。聞こえてくるカモメの鳴き声なんてかき消すくらい大きい。
指が触れた部分はまだ熱い。
「あんな事、素で言えちゃうのずるいってばぁ……!」
マナリルからの旅人はとんでもない天然たらしだった。本人にその気は無くてもだ。
おいしいという素直な感想。料理を作って貰った事に対する素直な感謝。
きっとあの人にとっては当たり前のことなんだろうけど、その素直な言葉の破壊力たるや私にとっては凄まじい爆弾だった。
ああ、私の直感は正しかった。
あの人は悪い人だ。旅の途中だと言いながらふらっと寄ってふらっと私の恋心だけを盗んでく極悪人……とんでもない大泥棒。
本当にとんでもない人だった。塩を撒け塩を。嘘です撒きません。撒きたくありません。
「またお越しくださいって、言えなかったぁ……」
気付けば私はきょろきょろと周りに誰もいない事を確認して……アルムさんが払ったお金をこっそり自分の財布のお金と入れ替えていた。自分でもちょっと気持ち悪いと思ったけど、多分恋ってそんなもの。鏡を見なくても自分がによによとにやけているのがわかる。
二度と会えないって事くらいわかってる。またお越しくださいって言えなかったのもきっと無意識にそれがわかっていたからだろう。
だったら……少しくらいいいと思わない?
私はただ、たった一杯の味噌汁をあの素敵な人に飲んで貰った証が欲しかっただけ。
この店の看板娘である私マルファちゃんはたった十分足らずで叶わぬ恋を抱き、そして失恋していったのであった。どっかーん。




