802.道化師は笑う
心の底に澱が溜まっていく。
どれだけの死地を生き延びても実力を示しても、聞こえてくるのは私を軽んじる声ばかり。妬み嫉みの声ならまだましなほうだった。一部の上級貴族にとって私のようなものは身の程を弁えないどぶねずみらしい。
何も成していない人間が生まれた家名だけで私や平民を見下して、権威を振りかざして好き勝手に吹聴する。
まるで領民の税を搾り取る事が仕事と言わんばかりに理不尽を強いて、権威の象徴とばかりに下品な数の貴金属を身につけて贅の限りを尽くす。
「僕がどぶねずみならば、どぶねずみより無能な豚ばかりじゃあないか」
これが魔法大国マナリルの実態かと、私は落胆した。
まるで別々の空気を吸っているかのように理解が出来ない。
何かを成し遂げた人間を馬鹿にするのに、自分は何も成そうとしない。
貴族の役目……"魔法使い"の役目はどうした?
何故、民を守らない? 何故魔法使いが民を軽んじる? 民を守る者を軽んじる?
弱者を守るために魔法使いになったのではないのか?
マナリルという国の強さに甘えて鍛錬も怠り、ただ何もしない日々を過ごすのが貴族なのか?
こんな状態でマナリルという国が強く在り続けられるとでも……本当に思っているのか?
「んふふふ……笑えない」
すれ違い様に向けられる視線と隠そうともしないアルコールの匂いが不快だった。
私が歩く方向を見て、唾を吐きかけてきそうなほど不快を露わにする者もいた。
五歳となったカルセシスの教育係となった私がよほど気に食わなかったのだろう。
いい加減気付かないものか。その家柄の権威を作ったのはお前ではなく、先祖だという事に。
他者への不満ほど無駄なものはないとわかっているが、それでももう少し……もう少し……もう少しだけ。
愛する祖国をより善いものにしたいと思う私の心は間違っているだろうか?
貴族が民を守り、民は国を作る――そんな魔法大国の名に相応しい形に進む事はできないだろうか。
心に溜まる澱はいつまでも積み重なって……私はこの国に絶望しかけていた。
「オウグス、何故この者はこんなに偉そうにしているのだ?」
そんな私のくだらない不満はとある子供の一声で吹き飛んだ。
カルセシス・アンブロシア・アルベール。
私が教育係として礼儀作法や魔法の基礎を教えている子であり、次期国王である王族……彼が七歳になった頃だった。
教育係として剣術の訓練に付き添った時の事、いつものように私を蔑むような言葉を投げかけてきた貴族に向かって、カルセシスは堂々と言い放った。
王族とはいえまだ子供だったカルセシスに言われて、その男は額に青筋を浮かべたのを今でも覚えている。
「カルセシス様。僭越ながら申し上げさせて頂きますが、私の家はこの者の家とは比べるべくもない名家でして……」
「それがどうした? 自己紹介は結構。何度も見た顔であるし貴殿の家の名は聞き及んでいるが……聞こえてくるのは先代の功績ばかりで当代では領民の不満のほうが多く届いていると聞く。名家の汚点になりかけているような者が何故這い上がってきた努力家であるオウグスを馬鹿にできるのだ?」
「お、おて……!?」
「もういい。どこかへ行く途中だったのだろう? 早く去ってくれ。酒臭くてたまらん」
ぴくぴくと怒りに肩を震わせるその男を見て私は笑いをこらえてた。
失礼致します、と去り際に言えただけまだましというものだろうか。
笑いをこらえて震える私を見て、カルセシスは近寄ってきた。
「オウグス、大丈夫か? 傷ついているだろう?」
「え? いえカルセシス様……私は傷ついてなどいませんよ。むしろカルセシス様の成長を見れて嬉しく思ったほどです」
「……待っていてくれオウグス」
「は、はい? 何をでしょうか?」
カルセシスは私を心配そうに見つめていた。
私はこの日から、子供であるというだけで子供を無条件で子供扱いするのをやめた。
「私が王になった暁にはきっと変えてみせる。父上の代で行った改革でもう少しの所まで来ているんだ……! 貴族も平民も関係なく、その働きが正しく……弱者の努力が正しく報われる国の王に、俺はきっとなるから……!」
その勇ましい宣言とは裏腹に、カルセシスはボロボロと涙を零していた。
思えばあの時が教育係として一番焦った瞬間だったかもしれない。
「だから嫌いにならないで……オウグス……! この国を嫌いにならないでくれ……!」
「あえええ!? カルセシス様! どうか泣くのだけは! あなたを泣かせたなんてばれたらオウグスは陛下に殺されちゃいますぞぉ!?」
「ないでなどいない! うええええん!!」
私の生き方はその涙を見て決まった。
この優しき子供は必ず、マナリルを変えた最も愛される王となる。
……そんな王を支える魔法使い達が堕落した老害であっていいはずがない。
変えなければ。
変えなければ!
この王を支える、次代の"魔法使い"が生まれる世界に変えなければ――!!
次の年、私は宮廷魔法使いを辞めてベラルタ魔法学院へと職場を移す。
その間、カルセシスを暗殺しようとする貴族達を皆殺しにしたりもしたがそれは些細な事。
私の目的は一つ――教育の方針を一新し、"魔法使い"となる者を見定める事。
立場に溺れず、才能を磨き、魔法使いとしての在り方を示せる者。
そんな原石が育つ姿を間近で実感できるベラルタ魔法学院は私にとって夢の世界そのものだったのだ。
「対象大蛇! ベラルタ城壁に接近!!」
「総員散開! 霊脈の位置はベラルタ魔法学院! 到達されればそこで終わりだ! 何としても食い止めるぞ!!」
攻防の末ベラルタを囲む城壁と大蛇の距離が縮み、討伐部隊が門からベラルタ内部へと入っていく。
城壁の外に残っているのは空中で行動できるミスティとエルミラ、そしてヴァルフトに乗るルクス、そしてベネッタを風で保護しているヴァンだけとなった。
サンベリーナとフラフィネは一足先にベラルタへと入り、討伐部隊と合流して配置に付き始めた。
「止まらない……!」
【死を予感して背を向けよ! 竦んだ足で跪け! 命を捧げて贄とせよ!
我等を前にして人が出来る最善など信仰と恐怖以外に無い!!】
落雷と共に鳴り響く大蛇の声。
壱の首は火炎をルクスの向かって放ち、弐の首は落雷を操作して、参の首が風でエルミラを吹き飛ばす。
その間にも大蛇の巨体は少しずつベラルタに近付いていき、首を伸ばせば城壁に届く距離まで接近された。
「『――凍れ』」
ミスティの一声で魔力が迸り、大蛇は瞬時に凍り付く。
唯一、大蛇の侵攻を止められるであろう力だが……その寿命は長くない。
数秒もすれば大蛇の"現実への影響力"によって凍結は解除されてしまうが、今欲しいのは立て直す余裕だ。
主力であるルクスとエルミラが一息つける時間と討伐部隊が配置につく余裕が欲しい。
氷の中で、大蛇の黄金の瞳が動く。時間はあまり残されていない。
「『っ……! 撤退の時間も稼げるかどうか――!!』」
「ヴァルフト! 魔力は!?」
「まだ余裕だ! なめんなボケナス!!」
「父上! 討伐部隊の配置までの時間は!?」
『まだかかる! 大蛇の魔力にあてられて全体の動きが鈍い!』
通信用魔石でクオルカから伝えられる討伐部隊の状況にルクスは焦りを見せる。
想定よりも魔力消費が多い。討伐部隊の動きで少しでも回復の時間が欲しいが、すでに討伐部隊の精神はかなり磨り減っている。
どうすれば、とルクスが迷っていると魔石から再び声が聞こえた。
『おいおい、通信を聞いていなかったのかい? 先陣は私が切ると言っただろう? 君達もベラルタ内部での戦闘に備えたまえよ』
「が、学院長!?」
「はぁ!?」
氷漬けの大蛇に血統魔法を放とうとしていたルクスとエルミラはオウグスの位置を見て驚愕を隠し切れない。
オウグスは城壁の上で似合わない仁王立ちをしていた。
「学院長……」
『元々防御は私達教師陣の仕事だったろう? しっかり時間を稼ぐから心配しなくて結構! やばくなったら逃げるとも!!』
「りょ、了解!」
ミスティ達がベラルタのほうへ撤退したのを見てオウグスは正面で氷漬けになっている大蛇に向かって手を広げる。
同時に、大蛇を止めていた氷は砕け散った。
【一人で城壁の上にいるとは……無駄死にしにきたか?】
「んふふふ! まさか! 私の世界を守るだけさ!!」
【そうか】
つまらなそうに、大蛇は落雷をオウグスに向かって落とす。
雷鳴が轟く中、重なった声が歴史を紡ぐ。
「【道化師の遊技場】!!」
どこからか笑い声がしたかと思うと、オウグスの世界改変によって落雷はオブジェのように停止する。
ラヴァーギュ家の血統魔法その覚醒――"現実への影響力"を停止する世界。
魔法使い相手に絶大な力を発揮する血統魔法だが、大蛇の能力も例外ではない。
【それで? どうにかできるつもりか?】
「するのが僕の役目だとも!」
【どれほど手品のような不可解な世界を作り出そうとも……"現実への影響力"に干渉しているという事は、我等の魔力に触れるという事。我等が進めばそれだけで使い手である貴様の精神は耐え切れないだろうが】
大蛇が鈍重な動きながら進み、オウグスの世界改変の領域内へと入った。
ベネッタの時のように自分に何かが触れているような感覚が伝わるが……それ以上の変化がオウグスに訪れる。
「あ……か――っ!」
【当然、そうなる】
オウグスの体中が裂けたかのように、血が噴き出す。
オウグスの血統魔法はその特性上、魔法に干渉しなければいけない。
ゆえに魔法生命は天敵。血統魔法によって改変された世界を通じて。大蛇の呪詛がオウグスの体中に走る。
眼だけで大蛇と捉えていたベネッタよりも呪詛の影響が早い。
「んふふふふ! 学院長だからだいじょーぶ!!」
【強がりだけは立派な事だ】
【がががが! いつまでもつかな】
大蛇の侵攻はオウグスの血統魔法によって止まっている。
永遠にも感じる呪詛の奔流がオウグスの体を蝕んでいく。
自分の魔力と一緒に呪詛が広がり、凄惨な記憶が再生されるとともに痛覚だけが刻まれる。
大蛇はただそこにいるだけでオウグスを殺す事が出来る。病原菌のように存在そのものがオウグスを蝕んでいく。
「知ってるがい……? ここはね、あの子がこの町を守った時と同じ場所……なんだ……」
【……?】
「わかるかい? 私がどれだけ、あの子に感謝しているのか……んふふふ。ヴァンほど入れ込んではいない……げど……ね……! これくらいの覚悟は、当……然さ……」
顔を上げてオウグスは大蛇に語り掛ける。
大蛇には何の事かわからない。
ただ城壁の上で人間が笑っている。
……笑っている? 何故?
【何故笑う?】
捌の首が問う。
理解できないものを見る目で。
笑うどころかオウグスはその場で踊り出していた。
「この街は私の世界そのもの! さあさあようこそベラルタへ! 通行証を受け取ってくれ! 受け取らなければ門前払い!」
【……何を言っている?】
体を揺らし、体中から流れ出る血を撒き散らしながらオウグスはステップを踏む。
社交の場で踊るようなものではなく、その踊りはどこかおどけているようで見ている誰かを楽しませるためのような。
【気でも触れたか?】
「いやね、昔から泣き止ませる時にはこの踊りがいいんだ」
【……?】
「きっと知ったら泣いてしまう。大人になってもいい奴なままなんでね」
血を吐きながらオウグスは踊る。笑顔はそのまま。
目元の泣きぼくろを隠すように、頭から流れる血が伝う。
怪物と血塗れで踊る道化師。異様な光景が数秒続いて、大蛇は動けるようになった。
オウグスの世界改変はまだ終わっていないが、使い手が限界だった。
【結局、何がしたかったのか】
【いかれたんだろう】
「んふふふふ! 時間潰しの余興としてはよかったろう!?」
【そうでもない。あまりにも、無駄な時間だった】
「お気に召さなかったようで何より……ようこそベラルタへ。歓迎はしないが、それ相応のおもてなしはさせてもらうよ」
オウグスが大袈裟な動きでお辞儀をすると、その上に巨大な影が出来る。
動けるようになった壱の首がオウグスごと城壁に自分の首を叩きつけた。
度重なる落雷ですでに脆くなっていた城壁はいとも簡単に砕け散り、壱の首の下からはぶちっ、と破裂したような音がする。
崩壊する瓦礫の中に肉塊がへばりついたような跡がついていた。
【結局……あの死にたがりはなんだったのだ?】
【呪詛に耐え切れなかっただけだとも。人間ならば壊れてもおかしくない】
【それもそうだ。我等に触れたのだからむしろああなるのが普通だとも】
大蛇にとってはたかが人間一人を殺しただけ。
城壁を破壊し、大蛇はそのまま侵攻する。
止められた時間で言えば先程のベネッタよりも遥かに少ない。なにより世界改変の領域に入ったのは首だけだったので後退しようと思えば抜け出せた。
たかが人間相手に後退など有り得ないが、拘束というにはあまりにも弱い。
時間稼ぎが目的だったのか、と大蛇はオウグスの存在を意識から捨てて進む。
大蛇の首は残りの城壁を薙ぎ倒すように払っていった。
【人間の町というのはごちゃごちゃと面倒だな。隠れるには最適というわけか】
【がががが! 猿知恵か! わずらわしければ全て破壊すればいいだけの事!】
【我等が欲するのは霊脈! 更地にするついでにここの人間くらいは殺してもいいだろう!】
大蛇は嗤う。ミスティとルクス、そしてエルミラの攻撃だけは警戒して。
げらげらと無駄な抵抗を見せる人間達に罰を与えるべく黒雲に魔力を送った。
【む……?】
一瞬、確かに訪れた静寂だった。
黒雲からは何も降ってこない。先程討伐部隊を恐怖に陥れた力が。
【どうした我等よ?】
【何も起きんぞ? 我等が炎で焼き払うか?】
【わからん……一体何が……?】
雷を司る弐の首は空を見上げる。
やはり何も降ってこない。
"んふふふふふ!"
再び訪れた静寂の中、誰かの笑い声が大蛇の耳元に聞こえた。
弐の首は城壁のほうを振り返るが、そこに命の気配はない。
さっきの人間は確かに死んでいる。
"んふふふふふふふふふふ!!"
だというのに、確かに聞こえてくる。ステップを踏む音と一緒に笑い声が。
あまりにも不愉快な声がずっと続いて――
"んふふふ! 考えてもみたまえよ。道化師の演目が一つなわけないだろう?"
道化師は笑う。
大蛇の異変を嘲笑うように、自分の死すらおどけるように。
……血統魔法は使い手の死後も残り続ける事がある。創始者達の血統魔法がそうだったように。
オウグス・ラヴァーギュの血統魔法【道化師の遊技場】は"自立した魔法"へと変貌した。
大蛇を妨害し、ベラルタという世界を守る魔法として。




