760.花の町パルダムで3
「逃げ回った糧を追い掛けて捕まえれば今度こそ……美味しい糧にありつけるかもしれませんね」
血塗れの女性が手を掲げ、空に展開される剣。剣。剣。
町の惨劇を作り上げた絶望の雨が再現される。
やはり先程の攻撃はこの女の仕業。
何かを唱えるでもなくこのような事が出来る理屈などフィンにはわからない。
そんな理屈よりも、恐怖のほうが勝る。
「あなたは生きたまま食べてさしあげましょう。新鮮なままならばお腹も満たされるかもしれません。ええ、ええ……新鮮であれば果実のように瑞々しいかもしれません」
本気だ、とフィンはぞっとする。
冗談で怯えさせるためでもなく、この女は本当にそうする生き物だ。
――生きたまま食われるってどれだけ恐いんだ。
どんだけ痛いんだ。どれだけ辛いんだ。
恐い……恐い。今すぐ逃げ出したい。
よだれでも鼻水でも、小便だろうがまき散らしながら、どれだけみっともなくてもいいから走り出したい。
その事を一生馬鹿にされながらでもいいから、ここから逃げたい。
……生きたい。
恐い。まだ生きていたい。
こんなとこで死にたくない。こんな化け物に食われるなんて絶対嫌だ。
やりたい事がいっぱいある。夢なら今すぐ覚めて欲しい。
覚めてくれよ。まだここは寮のベッドなんだって安心させてくれ。
「でも……これは現実なんだ……!」
心の中で弱音を全部吐き切ってフィンは覚悟を決めたように息を吐く。
女の形をしたこの怪物はその気になればこちらを瞬殺できる生き物だ。
なら一秒でもいいから稼げ。
一秒あれば逃げた二人が二歩先に。二秒稼げば四歩先に行けるかもしれない。
土の人形が運んでるんだから普通に走るよりは速いはず。
一秒ここにひきつけるだけで二人の命を逃がせる可能性はぐんと上がる。
自分の命で二人を逃がせるなら――こんな事を考えてても恐いのは変わらない。
覚悟を決めても内臓を撫でるような殺気に晒されすぎて恐怖がいくらでも湧いてくる。
今すぐ逃げ出したい。だが同じくらい逃げたくもない。
ここで逃げたら命は助かっても心は死ぬ。
助けなんて期待するな。期待したらもっと恐くなる。
……自分でやるんだ。俺が、やるんだ。
「それでは、狩りましょうか」
女性の一声で空に浮かんでいた剣がフィンに向けて降り注ぐ。
町へではなく一人の人間に向けられる殺意と食欲。
竦む足を情けなく思う間もなく、フィンは最初から自分の持つ最強の手札を披露せざるを得ない。
「【魂食らう竜の沼】!!」
歴史を象徴すべき重なる声は震えていた。
重苦しい湿地の空気が血生臭さを多少和らげ、使い手を中心として展開される黒い泥沼がフィンを包み、降り注ぐ剣を全て受け止める。
「まぁ」
「よ、よし……!」
フィンが唱えたのは血統魔法。ならばただの人間を殺すように剣で破壊することなどできはしない。
地属性の中でも珍しい泥の魔法は完全に剣の勢いを殺しきった。
自分の血統魔法が町を襲った災害のごとき術を防いだのを見てフィンは引きつりながらも笑みを浮かべた。
「いける……!」
防いだ勢いのまま、好機とばかりにフィンは血統魔法を操る。
泥はその不定形の形を竜の姿へと変えて元凶へと襲い掛かった。
泥は形を成し、牙や爪を立てて食らいつく……が、フィンの表情に笑みがあったのはそこまでだった。
「……は?」
血統魔法は女性に食らいつくが、その泥の牙や爪が肉を裂くことはない。
まるで鋼鉄に攻撃しているかのように……フィンの血統魔法は女性をどうすることもできなかった。
「これは、じゃれているのですか?」
「あ……あ……」
女性が泥の竜の爪を握るとその部分が破壊される。
今度は顔を殴ったかと思うとまた破壊される。
……それはあまりにも圧倒的な"現実への影響力"の差ゆえ。
今のフィンの血統魔法では女性に傷一つつけることはできないという現実だった。
やがて泥の竜は崩壊し、ただの泥となって女性の周囲に散らばった。
希望が見えたのは一瞬。むしろ自身の最大の手札を次の瞬間には破壊されて……先程よりも絶望的になっただけだった。
「……ここが肥沃な土地だという事のアピールでしょうか?」
女性には攻撃とすら認識されていない。
女性が一歩……歩を進める。
フィンは片手を中空に掲げるも、何をしたらいいのかがわからない。
「えと……っ……。う……ぁ……!」
血統魔法が通用しなかったという事は、自分がどの魔法を唱えた所でこの女には効かないという事だ。
では自分は何をしたらいいのか。どうすればいいのか。
立ち塞がって、それだけで終わりなのか。それで何かをやりきったつもりでこのまま死ぬのか。
……やはり自分みたいな人間が何かをしようとしても何もできないのだろうか。
「それで……あなたは何をしたかったんですか?」
黒い魔力光を纏った瞳と残酷な言葉がフィンの精神を射抜いた。
限界だった精神が追い詰められ、口からは震えて歯が鳴る音とよだれが漏れる。その顔色は今にも口から泡を吹いて倒れそうなほど青白かった。
(ほんとに……何がしたかったんだろう……?)
お前の才能なら当たり前だ。
いつからか、何を出来るようになってもそう言われるようになった。
長年下級貴族に甘んじてきたランジェロスタ家をさらに上へ引き上げる才能を持っていると言われて、六歳の時に褒められたのが家族に褒められた最後の記憶だった。
中位の魔法をいくら習得しても。
上位の魔法を見てくれだけとはいえ使っても。
血統魔法を継いだ時も。
お前の才能なら当たり前だと言われて終わった。
才能があるなら、俺の努力はなかった事にされるのか?
誰にもそう聞くことは出来なかった。だって嫌味みたいだから。
ベラルタ魔法学院に合格した時もそれは同じだった。
お前の才能なら当たり前だ。
……当たり前だなんて、片付けないでくれよ。
よくやった、って。頑張ったな、って。
たったそれだけでよかった。
ああ、リコミットの言う通り……俺は褒められたがりだ。図星だから悪態をついただけ。
だけど、褒められたいって期待したところで俺はこんなもんだから。
でも今回は違うんだよ。
誰に褒められたいとか認められたいとかじゃなくて、まずは自分のために動かなきゃいけないんだってようやく気付けたんだよ。
(ああ、でも……)
恐怖に晒され、走馬灯のように蘇る過去の記憶と自分が無意識に抱いていた願望が浮かび上がる中……フィンはとある記憶を思い出す。
(あの平民は褒めてくれたよなあ……)
それは遠くもない記憶。学院に入ってからの出来事。
帰郷期間が始まる前までもう恒例になっていた……放課後一年生が集まってアルムに練習を見てもらうあの時間だった。
「流石だな」
「え?」
夕焼けが差し込む実技棟。
フィンが基礎練習の成果を実感できずに何度も魔法を繰り返している中、練習している一年生を見て回っているアルムが来てそう言った。
「フィンは一年の中でもセンスがよかったが、"変換"の精密さと魔法の持続性がよくなってる。五日でもう変化がわかるくらいよくなるなんて流石だな。凄いと思う」
「え? は? お、俺か?」
「そうだ」
フィンは何を言われているのか一瞬わからなかった。
褒められるなんて事が家にいた時は本当になかったから。
アルムはいつものように無表情で、飾らない本心からの言葉をフィンへと贈る。
その言葉は疑う余地もないほどに世辞からは遠く、それが一年生達をさらにやる気にさせる要因でもあった。
「うん、やっぱりお前にあの戦い方は合わないと思うな」
「は? な、なんだよ戦い方って……」
「ほらエルミラと魔法儀式した時……血統魔法でごり押ししようとしただろ? エルミラに反応させないように速度重視というか……そんな色気は二度と出さないほうがいい。お前の持ち味はそういうのじゃない」
「へ、平民が何を偉そうに……!」
褒められたかと思えば次には批判めいた事を言われてフィンの頭に血が昇りかける。
「偉そうに聞こえたのなら悪い。謝罪しろと言われれば謝罪もする。でもせっかくなら……自分の使える手札を活かして使ってやりたいと思わないか?」
アルムは謝って自分の発言の意図を話す。
その姿勢もあいまって、フィンの血が昇りかけた頭でもさっきの批判ではなく助言なのだと理解できた。
「フィンの手札は泥っていう固体か液体かわからない不定形をきっちり"変換"できる精度と魔力効率の高い持続性だ。だから相手が自分より上だろうと下だろうと速度重視で圧倒しようなんて考えは捨てたほうがいい。丁寧に、そしてじっくりと相手を絡めとれ」
「じっくりとって……」
「確かに相手を圧倒するのは見栄えはいいし、知らない人間にも凄く映るかもしれない。だけどお前の手札が悪い理由には決してならない。色気を捨てろフィン。周りがどうであれ、お前が持っている手札がどれだけ素晴らしいものなのか……少なくとも俺だけは覚えてるって約束するよ」
「……け、けっ! 平民なんかに覚えられても嬉しくねえだろ……!」
「それもそうか。悪い、俺がもっと凄い人間だったらよかったな」
助言が終わるとアルムは謝って他の一年生のほうへと向かっていった。
悪態をつきながらも何故か満足したような温かいような。
きっと差し込む夕日の日差しのせいだろう、とフィンは練習に戻った。
いつの間にか足の震えは止まっていた。
自分がやるべき事だと思って死の前に立ち塞がった。
そして、今度は自分ができる事を思い出して集中する。
脳裏に走った記憶が最後に奮い立たせる。
やるべき事だけで動いていた心ができる事を思い出して重なった。
迷いで立ち尽くしていたフィンを動かしたのは幼馴染との温かい記憶でもなく、家族との苦い記憶でもなく、自分が見下している平民に助けられた時の鮮烈な記憶でもなく……あろう事かなんでもない放課後の時間の記憶だった。
「丁寧に……! 【魂食らう泥の竜】!!」
紺色の髪を掻き上げて、自分の魔力に集中する。
唱える声は今度は震えていなかった。
黒い泥沼は地属性の魔力光を灯らせながら、再び血塗れの女性へと向かっていく。
「また……?」
女性は首を傾げて泥の到達を見届ける。
どうせ一度跳ねのけた泥。もう敵とすら見ていない。
「活かせ……! 自分の魔法を……!」
「!?」
しかし先程とは違う様子に女性は表情を変える。
先程のように、牙や爪を使った攻撃が来ない。
黒い泥は竜の形に変わるわけでもなく、ただ女性を囲み、そして纏わりつく。
足に絡み、腕に張り付き、人を喰らおうとする怪物の歩みを緩やかに。
「倒せねえなら……最後まで付き合ってもらえばいいってわけだよなぁ!」
一度攻撃を防げたからと倒そうなどと思うのが間違いだった。
自分がやるべき事は最初から時間稼ぎ。そして自分が出来ることはそれに適している。
なら残り魔力がどうとか攻撃がどうとか言わず……魔力切れまで纏わりつけ――!
「泥が……纏わりついて……!?」
「魔力切れまで付き合ってもらうぜ化け物……!」
初めて忌々しそうな表情を浮かべる魔法生命。
先程のように明確な形を持っていないからか殴っても掴んでもフィンの魔法は崩壊しない。
しかし振り払うように動くたびに確実に、纏わりつく泥はその"現実への影響力"に弾かれて拘束力を失っていく。
「またか……!」
だが振り払った泥は再び纏わりつく泥と共に女性へと絡みつく。
それこそ底なし沼の如く。その"現実への影響力"によって泥の拘束を弾いてもフィンの魔力がそれを許さない。
当然、反動は使い手であるフィンへと向かう。
怪物を拘束するのに必要な魔力が急激に消費されていく。
どれだけ自分の手札を使った最善を見出しても、"現実への影響力"の差は変わらない。
加えてまだフィンは自分の血統魔法を完全に扱いきれていない。
「わかってる……! 不甲斐無いガキだなんて自分が一番わかってる……!」
魔力もプライドも投げ捨ててフィンは叫ぶ。
「けど……今だけは力を貸してくれ! 俺が継いだ歴史の結晶よ!! こいつを行かせない! 行かせたくない!! たとえ無意味だったとしても!!」
咆哮が空に響く。泥の竜が呼応する。
数世代を経て現れた真の主に相応しい叫びに。
女性に纏わりつく黒い泥は蠢き、主の敵を飲み込まんと雄叫びを上げた。
主の魔力を代償に圧倒的に格上な"現実への影響力"を持つ怪物をその場に留め続ける。
「しつこい泥ですね」
泥の中をかきわけるように女性の腕が泥を裂く。
術でも能力でもない、ただ存在の格差による蹂躙。
それに応じてフィンは泥をコントロールしてかきわけたそばから再び纏わりつかせる。
(苦しくても絶対退くな――!!)
魔力を通じて伝わる反動の中、フィンはただ必死に血統魔法をコントロールし続ける。
あまりにも大きい"現実への影響力"の差から、少しでも気を抜けば終わると苦痛の海を漂い続けた。
歯を喰いしばる口の中で血の味がする。
呼吸を忘れて白んでいく視界の中、全ての魔力を振り絞って。
退いた瞬間、自分の命は怪物の腹の中に収まって、何もできないまま死ぬのだと魔力の流れを緩めない。
勝てなくても情けなくても、泥臭くてもいい。
それがフィン・ランジェロスタの持ち味なのだと信じたい――その一心で食らいつく。
「ぜん、ぶ……持っ……でげええええ!!」
自身の持つ魔力を全て注ぎ、程なくして泥は全てただの魔力となって霧散する。
そして泥の中からは解放された無傷の怪物が現れた。
「ひどい目にあいました……もう終わりですね?」
「ゅー……。ひゅー……」
フィンが生存用の魔力まで削って作った時間はたったの二分だった。
自分が生きたであろう人生を今この場に賭けて作り出した時間としてはあまりにも短い。
流れ込む鬼胎属性の魔力による精神への攻撃、そして無理に絞り出した魔力と実力以上の血統魔法のコントロールの反動によって体内は傷つき、呼吸器にダメージがあるのか呼吸音も少しおかしくなっている。
「ごぶっ……」
文字通りの血反吐を吐いて、フィンは今度こそ体力を使い切った。
後はもう倒れるだけの命となっていて……今ならたとえ子犬だろうとフィンを餌に変えることができるだろう。それほどにフィンは全てを出しきった。
魔力は枯渇し、体力まで搾り切った代償を払って稼いだ時間で何が変わったのか。何を変えられたのか……本人にはわからない。
(リコミットもセムーラも……もう結構逃げられたよな……)
貴族としての使命感でもなければ崇高な理念も無い行い。
自分の心が地べたに落ちないよう、必死に抱き締めてしがみついただけの結果だとフィンは自分でわかっていた。
「かなり傷ついてしまいましたが、今度こそ味がするのかどうか……楽しみです」
女の形をした怪物がフィンへと歩みを進める。
もう彼女を拘束していた泥は無い。その歩みは緩慢さも窮屈さもなく、食事に向かう足取りの軽さに喜びすら感じているようだった。
(結局……あの平民みたいにはなれなかったなぁ……)
最後に自分は本当に"魔法使い"になりたかったのだと気付いて少し嬉しくなる。
自分の行いは無意味だったけど、無駄だったけど……後悔はなかった。
自分は自分が目指したものに相応しい行動ができたのだと、フィンはようやく自分自身を誇りながら――怪物の口が開く瞬間を見る。
そこにあるのは自分の死。受け入れて、フィンは目を閉じようとした。
「『炎竜の息』!!」
瞬間、目の前で起きた爆発によってフィンの体はふらつく。
爆発を直接受けた怪物は後退り、フィンの体は誰かに優しく受け止められた。
「まだ生きてるー!」
「よし!」
まるでどこからか降ってきたように声は二つ現れた。
ぼやける視界の中、心配そうにのぞき込む翡翠の髪を持った少女と赤みがかった茶髪を靡かせる少女が。
「よくやったわ! よく持ちこたえた!!」
はっきりと聞こえてくる自分への報酬にフィンは涙を浮かべる。
必死に守った自分の心にとってもっとも嬉しい言葉をその少女は口にしてくれた。
「あんたの勝ちよ後輩! 後は私達に任せなさい!!」
「頑張ったね、よく頑張った」
どこからか現れたのはエルミラ・ロードピスとベネッタ・ニードロス。
怪物の体には傷一つ無く、無力にも立ち塞がった自分の行いは無駄だったのかもしれない。
それでも……決して無意味ではなかったのだと二人の言葉は教えてくれていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
後輩のお話でした。




