259.天泣の雷光7
『次の手はあるか? 迷いし者』
足下で魔法の形を完全に砕かれる雷の巨人。
それは数秒後に訪れるであろう使い手の結末。ルクスに向かってミノタウロスが殺意を向ける。
鬼胎属性の圧力が敗北を予感したルクスの体に突き刺さる。
ここ数日自分の在り方に迷い、精神が疲弊していたルクスは鬼胎属性の魔力に飲み込まれ始め、ミノタウロスをただ見つめることしかできていない。
答えの出ない自問に蝕まれる精神。迷うことが恐くて動かない体。
立ち尽くしたまま、時間が過ぎていく。
『……無いだろうな』
見限ったような呟き。
面倒な事後処理に向かうような足取りでミノタウロスは重厚な足音をさせてルクスに向かってくる。
英傑に相応しい輝きもなく、英雄と呼ぶべき芯もない。
ただ、その小さい身で敵対者となるべく立ち塞がった姿には賞賛を。
目の前の人間に奇妙な苛立ちこそあるものの、ミノタウロスの行いは平等だった。
迷ったまま戦場に出た自分を呪えと、空虚を見つめるルクスを睨みつける。
通りはミノタウロスが歩く度に破壊されるも、先程までと同じように戻っていっていた。
『……なんだ?』
ふと、妙な違和感をミノタウロスは感じ取った。
ルクスに辿り着く前にミノタウロスは立ち止まり、後ろを振り返る。
通りに敷かれた石畳は破壊される前と同じ状態へと戻っている。
それがミノタウロスの支配した迷宮の特性。
迷宮という形を保ち続けるため、どれだけ傷つけられても魔力によって再生する。"現実への影響力"によって生まれた現象のはずだった。
『……!?』
そう、そのはず。
そのはずが――
『何だと……!?』
ミノタウロスは違和感から足下に視線を下ろし、足を持ち上げた。
再生が始まるはず、はずなのに――たった今踏み抜いた石畳には何も起こらない。
迷宮を戻す蠢くような紋様はどこからも現れず、ただ壊れたままの通りがミノタウロスの真下にはあった。
『馬鹿な……我が身が支配する迷宮が――!?』
突如訪れた異変にミノタウロスは声に動揺を現しながら空を見上げる。
「え……?」
ルクスの目の前に、一筋の光が降りた。
それは決して、照明用の魔石などではない。
周りを見れば、ルクスの動きを封じるためにと現れていた壁は徐々に消えていっていた。
ルクスは周囲の変化を確認すると、目の前に降りた光を辿るように空を見上げる。
そこは異常なまでの黒に包まれていたが、先程とは明らかに違う変化がある。
瞳の先で崩壊する黒き天蓋。
拠り所を失い、ひび割れていく迷宮。
目の前に落ちた光が、朝の日差しだと気付くのに時間はかからなかった。
迷宮の作り出した偽りの光景は消え去り、ベラルタの街に魔法が消える音が鳴り響く。
「あ……」
今までの暗闇が嘘のように降り注ぐ光の中、ルクスの瞳にそれは飛び込んできた。
「何で……何でずっと一緒にはいられないんですか母上……? ずっと、ずっと一緒にいてください……!」
ルクスの頭を巡るのは今まで思い出せなかった幼少の記憶。
ベッドに臥せる長く美しい黒髪の女性に向けて八歳の自分が問い掛けていた。
自分に向かって伸ばしてくれた細い手はそのままだと消えてしまいそうで、少年だったルクスはその指を握っている。
ルクスの母はルクスの願いを聞いて、首をゆっくりと横に振った。
「どうじて……ですが……!」
何度言っても自分の望んだ答えは返ってこなくて、駄々をこねるように涙が溢れていた。
そんなルクスに、ルクスの母は慈愛を湛えた青い瞳を向ける。
「ずっと一緒にいたら、ずっと一緒にいたいという気持ちも……持てなくなってしまうからですよ、ルクスさん」
きゅっ、指を握っていたルクスの指をルクスの母は弱々しく握り返す。
「母と別れるのが悲しいですか?」
「はい……」
「でも、それは必要な事なのです」
「なんで……何故ですか……? こんな悲しい思いを、ずるなら……!」
「いいえ、決して……いらない事などではありません」
ルクスの母はルクスの頭を撫でる。
ふわりと指を通る金色の髪。撫でた場所から愛しさを伝えるようにそれは優しく繰り返された。
「ルクスさんが母とずっと一緒にいてほしいと思ってくれるのはとても嬉しいです……けれど、その思いは永遠の中では生まれません。別れがあるからこそ思えるのです。出会いがあるから思えるのです。永遠とは、決して万人の幸いなどではありません。私達は出会いと別れを繰り返すからこそ、誰かと一緒にいられる時間を大切に思えるのですから」
「別れがあるがら……?」
「別れとは、今まで自分が幸せだったと知る事。そして出会いは新しい幸せを知る事をいうのです。母がかつて"アオイ・ヤマシロ"からあなたの父上クオルカ様と出会い、アオイ・オルリックになったように……そしてルクスさん。あなたと出会えたように。私は故郷と別れて、あなた達という幸せに出会えたのです。そして今あなた達との別れを惜しむこの心が、母が……母があなた達と出会えてどれだけ幸せだったかを私に教えてくれるのです。そして私と別れるからこそ、ルクスさん……あなたはいつか出会う大切な人との時間を幸せに思えるのですよ」
「でも……でも……!」
「だから、今は別れを拒絶するよりも、こうして母といれることを大切に思ってください。こうして一緒にいれる平和な場所を、お話できるかけがえのない時間を、触れ合える幸せを……母との思い出が悲しみだけで包まれないように」
顔色が悪いながらも微笑む母の表情に応えるため、ルクスはこれ以上言うのはやめて鼻をすする。
「ルクスさん。あなたは魔法使いになるんでしょう?」
「すん……すん……! はい……!」
「きっと、あなたならなれますよ。あなたは母とクオルカ様の誇りですから」
「はい……」
「いつも……私のせいで肩身の狭い思いをさせてごめんなさい。やはり母が他国の得体の知れない女だと色々と言われてしまうようですが……いずれあなたが魔法使いになればそんな声も消えるでしょう」
母の謝罪にぐしぐしと涙を服で拭いながらルクスは首を横に振る。
自分の意思などほとんどなく、魔法使いになろうとしていた八歳の自分。
貴族の義務だから。オルリックの才能があったから。
義務も才能もまだ理解できていないというのに口にすれば立派だと褒められる理由。
しかし、母から貰った言葉が彼に真の理由を作る。
「できるでしょうか……!」
「ええ、ルクスさんならできますよ」
「母上のいう……今の僕達のような人達を守れるような……出会いと別れが育む幸せを……今を大切に思える場所を守れる魔法使いに、なれるでしょうか……!」
ルクスの声にルクスの母は一瞬驚いたような表情を浮かべると、そのままルクスを抱きしめる。
「ええ、ええ……! ルクスさんならきっとなれます……そんな、そんな立派な魔法使いに!」
表情が見えなくても聞こえてくる母の涙声。
やせ細った、でも温かい母の温もりを感じながら、目一杯抱きしめ返したいのを我慢して、手加減をして抱き返す。
「きっと、なれます。なれますよ……! ここに来たことも、こうなったことも、母は何一つ後悔はありませんでした……! 幸せでした……!」
「母上……!」
「ですが……あなたが立派になる所だけは、この目で見たかった……!」
最後に……母は未練を一つだけ口にしたことを思い出すと、そこで記憶は途切れた。
『馬鹿な……核が……迷宮を支配していた我が身でも読み取れなかった核を……誰かが破壊したとでもいうのか……!?』
黒い天井が崩壊し、ベラルタは異質な迷宮から日常へと戻っていく。
驚愕するミノタウロスの前で、ルクスは祈るような表情を浮かべていた。
「……さようなら、シャーフさん」
巡る記憶を見せてくれたのはどこまでも広がる青い空。
どこからか、さよなら、が聞こてきた気がしてルクスは呟いた。
目に入ってきたのは青い空だけではない。
朝日を浴びて輝くベラルタの街。
そして遠くに見えるは、空の下に建つベラルタ魔法学院。
今を一緒に過ごしたい人達がいる場所。今を一緒に過ごす時間がここには何気ない思い出となって眠っている。
これはきっと、雨が苦手だと言っていた彼女が見たかった光景。
こみ上げてきた寂しさを堪え、ルクスは今見ている光景を胸に刻む。今をいたい人達と出会えたこの街を愛しく思う心とともに。
そうだ。
自分は大切な誰かと過ごす場所を守りたくて、その大切な時間を守りたくて……そんな今を過ごす人達を守りたくて――魔法使いを目指した。
「何を……している……?」
涙が溢れる。
味わった悲しみと喪失の中で、自分がどれだけ恵まれているのかを自覚して。
二つの別れに背中を押されて、自分は何を立ち止まっている――?
「何を……してる……!」
今の自分は、母上の見たかった姿か?
今の自分は、シャーフさんに胸を張れる姿か?
「何を……している!?」
思い出した自分の原点が、自分の敵にも怒りを向ける。
誰だ。この場所を壊そうとしているのは。
誰だ。この時間を奪おうとしているのは。
思いとともに、ルクスの手の平に現れるは魔力の雫。
黄色の魔力光は輝き、魔力の雫は天へと捧げられる。
悲しみと喪失を乗り越え、やるべき事は一つだけ。
ミノタウロスはルクスの敵意を感じ取り、二つの視線が交差する。
『好機と見たか? 迷いし者よ』
「違う。僕はただ……思い出させてもらっただけだ」
目の前にいるは恐怖。依然として災害に等しい脅威。かけがえのない"今"を奪う自分の敵。
やる事は変わらない。やれる事も変わらない。
変わったのはただその思いだけ。
誰が為を思った主の思い。
記録の海から聞こえる鼓動。
刻まれた記憶で何かが目を覚まし、歴史の結晶は主の心に呼応する――!
「僕は、あなたを倒す魔法使いだということを!」
捧げられた魔力の雫は、天から降る涙のように地に落ちる。
それは悲しみを越え、恵まれた別れに感謝を込めた無垢なる天泣。
そして出会いを守るための怒りの雷光。
眼前の敵へと宣言し、決意を胸に彼は唱えた。
「――【雷光の巨人】」
空に届ける願いのように。
『なに――!?』
稲妻とともに現れる雷。
雲が無い空から降り注いだその雷は消えることなく、ルクスの背後で寄り添った。
相対した怪物は目を疑う。
どう言い表せばいいのかがわからない。
何故なら――ルクスの背後にあるのは、先程のような甲冑ではなく、ただただ巨大な雷そのものだったのだから――。
「無様な姿を見せてすまなかった。もう……僕はあなたに負けない」




