23.九尾絢爛4
カンパトーレには古くから伝わる伝承がある。
それは祖国の危機に現れ、あまねく民を救う白髪の聖なる王。
外敵を蹴散らし、腐敗に満ちた世を浄化して、長き歴史の中ただ一人だけの王として君臨する、と。
他国からすればこの伝承は何てことは無い。今はマナリル北部となった太古の国ラフマーヌの王の傍に寄り添う白き姫の伝承が変化してカンパトーレに伝わり、独自の形に定着しただけの民話に映るだろう。
しかしカンパトーレではこの伝承は広く信じられている。
カンパトーレが貴族達による共和制であるのも、この伝承を差し置いて王という地位を作らないためである。カンパトーレには他国から来た嘱託貴族も多く、その者らにとってはピンと来ないようだが……カンパトーレ出身の貴族や平民にかかわらず知られている伝承であり、今でもこの伝承を信じている者は多い。
十年前、蛇神信仰が広まったのはカンパトーレのこうした国民性によるものが大きいと言えよう。
――そんなカンパトーレの中で、特にその伝承を信じた一族こそイリーナが生まれたペレーフト家だった。
「この身は貴方様の現代の父としての役割を果たすべく生を受けた者でございます、王が生みし奇跡よ」
屋敷のどこよりも豪奢な部屋。金の玉座に宝石が散りばめられた冠。
物心ついたイリーナの記憶に残るのは、自分に向かって膝を突く父の姿だった。
三歳になったばかりで魔法も知らず、血統魔法も継承していない。
嫌いな食べ物にそっぽを向いて、使用人とかくれんぼで遊んで、お絵描きをして、廊下で転んだら泣いて、母親に抱っこされるのが大好きな子供の時に彼女は祭り上げられた。伝承に現れる王が現代に産み落とした奇跡の子として。
ただ……ただ髪が白かったという理由だけで。
「お父様、お母様はどこにいったの?」
「あなたを産んだ女などおりません。あなたは奇跡の子なのですから」
奇跡の子という事を信じる為だけに母はいつの間にか殺されていた。
母から産まれた事すら否定され、誰も彼もが彼女に傅く。
幼い頃一緒に遊んでくれた使用人ですら挨拶は必ず床に額をつけるようになっていた。
誰もが奇跡の子として彼女を崇める異様な環境で育てられ、さらに拍車をかけるような出来事が訪れる。
「神の一部を授かるのはあなたしかおりません」
カンパトーレ全体に広まる蛇神信仰。突如現れた大蛇という絶対なる存在による侵略。
ペレーフト家には常世ノ国から来た鵺の宿主が訪れており、その存在こそがカンパトーレを救う手立てになると考えたペレーフト家はイリーナを奇跡の子として証明すべく大蛇の疑似核をイリーナに植え付けた。
【ああ、お前のような女は覚えがある。我等の時代にもいたものだ】
十歳の脳に流れ込んでくる大蛇の声。
共有される呪いの記憶。泣きながら食われる男、喉が裂けるまで叫ぶ女、生きたまま胸を裂かれる子供に病で死んでいく赤ん坊。
異様な環境すらも塗りつぶす悪夢のような記憶を絶えず見続けて、疑似核を植え付けられた他の人間の髪が黒く染まり完全に大蛇の操り人形になる中、
「――ああ、必死で素敵ね」
十歳のイリーナは瞳の色が金になるだけで耐え切った。
幸運だったのか不幸だったのか……奇跡の子として祭り上げられた彼女は本当にその器を持っていた。
呪いの記憶を通じて感じる大蛇の力。神としての圧倒的な存在感。
その全てを受け止め、真に感じ取って飲み干した。
しかし、その上でイリーナ・ペレーフトは大蛇を信仰しなかった。
十年前アルムによって大蛇が倒され、彼女の中の疑似核が消えた瞬間、彼女は口角を上げた。
「ほら、あなたじゃなかった」
彼女は大蛇の死を嘲った。
彼女の声にはもう一つの声が聞こえていたのだ。
尊大で、残虐で、悪辣で、それでいて何よりも自由。
力で支配するのではなく、いるだけで支配してしまう。
この世に一瞬だけ姿を見せたもう一体の神獣の声。
そこからイリーナの人生は変わる。異様だった環境は当然に。
自分がただの人間だという認識は完全に消え、伝承から生まれ落ちた存在に。
そう望まれたから。そう言われ続けたから。それだけでは決して生まれなかった最後の自信。最悪の切っ掛け。
大蛇から流れ込む呪いの記憶を受け止めた末、イリーナは自分なりの救国を決めた。
私が成し遂げる。私が救う。この私こそが、イリーナ・ペレーフトこそが――
「私が、祖国を勝者にする」
――伝承の玉座に座る唯一の存在。
伝承の王に代わって、この国を従える奇跡の子。伝承の血を引く聖王女。
何もしない貴族の豚も、家族も同年代の友人も優しくしてくれた使用人も庭師も料理長も、故郷に住まう民も、何もかもその命を貢ぐといい。
血塗れの手で天を仰ぎ、今こそ示そう。この身に真なる神を宿して。
「くっ……!」
ネロエラはキヨツラの血統魔法を破壊し、外へと出る。
倉の中は外界の情報が完全に遮断されていて、匂いも音も無かった。
脱出と同時に血統魔法を解除して状況に備える。
カーラは、スリマは、フロックは。自分が閉じ込められている間にエリュテマ達がどうなっているかが気掛かりだったがネロエラの予想に反して三体は全員無事だった。
スリマに至ってはキヨツラを押さえつけているくらいだ。
「よかった……!」
ネロエラは三体の様子に安堵するが……どこか様子がおかしい。
全員が一点を見つめている。ネロエラが視線をやると、自分を閉じ込めた倉がもう一つあった。
ネロエラが脱出できたというのに、エリュテマ達はその倉を見つめたまま固まって動かない。
いや、それどころか逃げるように後退っていく。
外に出た事によってネロエラにもエリュテマ達の感じている恐怖が伝わった。
「ど、どうした……!?」
来る。何が?
来る。何かが。
来てしまう! ここにいてはならないものが!
戸惑いと恐怖が入り混じったエリュテマ達の感情にネロエラはキヨツラのほうを見た。
「流石だ……一分も経たずに破壊して、くるとは……だが遅かった、な……」
防御を捨ててスリマに両腕を噛み砕かれたキヨツラは倒れながらも勝利を確信している。
何故か、キヨツラから黒い魔力が発せられた気がした。
しかしその魔力は形を成す事無く、空に消えていく。
「【異界……降誕】!!」
倉の中から聞こえるイリーナの声。外界と遮断されているはずなのに、その声は草原に吹く風のように周囲に広がる。
三体のエリュテマ全員がその場から逃げ出し、ネロエラの下へと集まった。
そして、ネロエラの背筋にも寒気が走る。
数日前に水浴びしていた時に感じた嫌な予感と同じ。
ようやく、ネロエラにもエリュテマ達の言っている意味がわかる。
何か……何かが――!!
「【神堕礼賛・白面金毛九尾】」
天候が変わる。晴れやかな空に太陽を避けて雲が陰り、太陽だけが切り取られたかのようにこの場を照らす。
その太陽に突如映し出される金の瞳。眼。目。
雷鳴のような魔力と氷河のような空気。火炎のような熱に嵐のような苛烈。
黒を照らし、白を穢す呪いの眼がこの世界を見つめた。
耳に届くは新たな生命の鼓動の音。
聞け下等な生命よ。国を滅ぼす出囃子を。
ただの獣だ緊張する必要などない。
そう、国をうっかり一つ二つ傾けただけのただの狐。
さあいざ仰げ下等な種よ。九尾の狐その絢爛たる力を。
「ふ、はは! あははははははははは!!!」
キヨツラの笑い声と共にイリーナのいた倉が内側から崩壊する。
ネロエラのような破壊ではなく、水となって溶けるように。
そして、ネロエラ達の立つ草原に四本の影が伸びる。
ネロエラの直感が事態の深刻さを察知し、すぐさま通信用魔石を取り出した。
(通信用魔石が、汚染されて――!?)
しかし、もう遅い。
すでに蔓延した桁違いの黒き魔力が魔石を穢す。
魔石に刻まれている魔法式はもう機能していない。
この状況を外に伝える手段が無い最悪がネロエラの頭をよぎる。
【はぁあ……! いけずな御方。まずは器たる、ワタシに操れと、言う事ですね?】
溶けた倉の中からイリーナの姿が、いやイリーナだった存在が現れる。
現れたのは魔力の獣。黒い魔力で形作られた巨大な狐の形。
瞳は金色に輝いて、牙は本物よりも死に近く、その尾は天に伸びるように四本が立っている。
そんな巨大な狐の形をした魔力の中心でイリーナはは恍惚の表情で天を仰いでいる。
喋ると同時に気泡が漏れ、まるで呪詛の海に浸っているかのよう。
いてはいけない。こんなものがいていいはずがない。
魔力の塊という生命とは遠い存在にもかかわらず、目の前の存在は生命だと認識してしまっている脳内のエラー。
そんな不完全な姿すら自分達の本能が拒絶するのをネロエラは感じた。
【それでも、四本も力を貸して下さるなんて……! やはりワタシは、彼の神に選ばれた……! やはりワタシに相応しいのは、あの蛇ではなく! あはは……あっはっはっは!!】
(やばい……やばいやばいやばいやばい!!)
その存在に粟立つ全身の肌。
十年前に見た災厄の再来にネロエラは最悪の未来を見る。
こんなものが……こんなものが放たれたら近くの村や町など一瞬で――!
「カーラ! 全員を引き連れて撤退しなさい! 応援を……! 応援を呼ぶの!! 行って! 一秒でも早く!!」
たどたどしさすら消えた焦るネロエラの命令にカーラは一吠えして駆け出す。
スリマとフロックを連れて目指すは王都。いやもっと近いベラルタに。
この異常事態を知らせなければまたマナリルに甚大な被害が出る。
ネロエラは魔法使いとしての覚悟を決めて、次の命令を出す。
「この命令を最後に輸送部隊アミクスの指揮官をフロリア・マーマシーに譲渡! 私はこいつの足止めをする!!」
「!!」
カーラの足が止まる。
その命令の意味するところはつまり。
「早く行きなさい! 私じゃ何分持ちこたえられるかわからない! アルムを……アルムを連れてきて!! 後は頼んだって伝えて!!」
カーラが聞いたは友人からの最後の言葉。
ネロエラの意思を汲んだカーラは二体を引き連れて足を動かす。
一度だけ振り返って、ネロエラの背中を濡れた瞳で見つめて……そのまま草原を走っていった。
【ああ、そうだ。あなたは信仰属性、ダッタわねぇ"魔獣令嬢"? 正面に立ってるのに、息が出来てるなんて……流石と褒めて、おこうかしら?】
イリーナの声は所々がうめき声のような音に変わっていた。
不完全な顕現のせいか、それとも九尾の魔力の濃密さゆえか。この世界に敷かれる理である"言語の統一"を弾いている。
それは同時に、イリーナが人間からかけ離れた存在になりかけているのを意味していた。
【ソレデ、遺言は?】
「もう、伝えた」
【なら、モウ生きてなくてもいいわね?】
鮮血が舞う。黒く染まった魔力がその血すらも呑み込む。
この怪物を一秒でもここに足止めすべく、ネロエラ・タンズークはこの命をこの場で使い切る事を決めた。
お読み頂きありがとうございます。
九尾の魔法名については第十部の設定に書かれている通り、これが正しい名前です。




