プロローグ -鏡の中の私-
彼にとっては他意の含まれていない、なんてことない一言。
間違いなく私――ネロエラ・タンズークの人生の分岐点で、私を取り巻く世界はそこから変わっていった。
投げられていた石はいつもの挨拶に変わって。
底意地の悪い笑みで弱みについて聞く問いは今日の昼食の予定を聞く問いに変わって。
いつも一人ぼっちだった帰路は隣に誰かがいたりして、膝を抱えて寝ていたベッドには遠慮無く潜り込んでくる友人のせいで膝を抱えられるスペースなんて無くなっていた。
誰も彼も敵に見えていた世界は様変わりして、志を同じくする温かい毎日に。
そんな大切な思い出は卒業して十年経った今でも私の中できらきらと輝いている。
……けれど、そんな輝いた思い出とは裏腹に今日も鏡の中に一点の陰りがある。
鏡の中に、何故かあの時の私がいる。
エリュテマ以外は信用せず、人間は敵で、自分が大嫌いだった時の自分。
女だとばれると余計に惨めな思いをするからと、男の制服を着ていた時の私……そんな私がこちらを睨んでいる姿を空目する。
"……嘘つき"
軍服に着替えながら責められる。
何故そんな風に言うの?
あの日をきっかけに、私が手に入れた場所なのに。
"……卑怯者"
白い髪を梳いている途中で罵られる。
何故そんな風に睨むの?
こうしてお洒落を気にするようになったのだって、あの日の私が恋を知ったからなのに。
"あなたが狼? 小狡いだけの野良犬がハリボテを演じているだけでしょう"
目元を化粧をしている間ずっと馬鹿にする。
何故あなたはそんな風に毛嫌いするの?
鏡の中の赤い眼は呆れたように私を見つめて続けている。
口内に並ぶ牙を隠すお気に入りのフェイスベールを着けると、鏡の中で過去が口角を上げた。
"ほら……何も変わってないじゃない"
過去は牙を剥き出しにして、今を嘲笑う。
何を言っているのだろう。
あの日から間違いなく私は変わった。それは過去もわかっているはずだ。
あの言葉を信じてからずっとずっと、欲しかった生き方が手に入ったんだから。
なのに――なんでそんな風に首を横に振るの?
「綺麗な白い歯だと思うが……」
きっと永遠に忘却しないであろう声が頭の中で再生される。
初恋の人がくれた祝福。快晴よりも透き通った飾り気のない純粋な声。
私という人間を変えた永遠のような言葉。
その言葉で私は自分の人生を疾走し始めた。
私と友達になってくれた彼等との未来が、全部欲しいと願える自分になれた。
幸せと信じる未来に向けて、今日まで走ってきたと断言はできる。
…………そう、本当にそう思っているのに。
鏡の中の過去は恨めしそうに今を見ていて、今日まで走ってきた人生の中で何かを取りこぼしてしまっているのだと訴える。
全部があると思った今には何かが欠けている。
だから、昔の私は鏡の中から私を責め立てるのだろうか。
最低限の身だしなみを終えて、新たな任務の内容を聞くために王城へ。
そんなつもりはなかったけれど、まるで鏡の中から目を逸らしたような罪悪感が残った。
それは私に欠けている何かを指し示すように私の中で巣食い続けている。
……ああ、誰か教えて欲しい。
私は本当にあの日貰った彼の言葉を、信じる事が出来ていたのでしょうか?
あけましておめでとうございます。
更新は二月以降になりますが、予告を兼ねたプロローグとなります。
ここからは番外「その咆哮は誰が為に」になります。
アルム達がベラルタ魔法学院卒業から十年経った二十八歳の時の話になります。
番外長編ですが、本編の一章よりは短くまとめられると思いますので更新の際はどうぞ読んでやってください。




