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第四十三話― これぞ青春 派茶目茶高校よ永遠なれ!【後編】(2)

 午前九時を過ぎた頃。

 夢野一家を乗せた引っ越し業者のトラックと乗用車は特段のトラブルもなくスムーズに走行していた。途中、道路沿いのパーキングでトイレ休憩をしたりしたものの、概ね予定通りの経過時間であった。

 乗用車の後部座席で暗い表情を浮かべていた由美。母親と姉との会話もなく、黙り込んだまま車窓に映る矢釜市の景色を眺めていた。

 もうすぐこの矢釜市の景色とお別れとなる。親しみと思い出の詰まったこの光景を彼女は目に焼き付けようとしていたようだ。

(…………)

 引っ越しと転校のこと、それを知ったクラスメイトはどんな反応をするのだろうか。寂しく思ってくれるのだろうか、それとも何事もなかったかのようにさらりと流されてしまうのだろうか。

 何よりも心配なのは拳悟の反応だ。内緒にしてしまったからきっと怒っているのではないか。実家へ戻ってから電話しようと思っているが、彼の反応が気になって電話を掛けるのがちょっぴり怖い。

 いずれにせよ、彼とは気軽に会えなくなるのは間違いない。最悪の場合、遠距離恋愛の果て決別という結果となってしまうかも知れない。

 親友を失い、彼氏まで奪われてしまうのか。彼女にとって向かう先に喜びの出来事や楽しい未来など思い描けるわけなどなかった。

(あ――。海だ)

 ふと由美の視界に映ったのは、水の都矢釜市を代表する観光名所である矢釜海岸の大海原だった。

 矢釜海岸――。そういえば、拳悟と初めてデートをした時に訪れた場所だ。彼女の記憶の中にその時の思い出が蘇ってくる。

 砂浜を駆けずり回ったこと、波打ち際に腰を下ろして語り合ったこと、そして愛を確かめるために互いに抱き合い口付けを交わしたこと。

「……運転手さん、すみません」

 由美はおもむろに乗用車の運転手に声を掛けた。それに反応する運転手。

「はい、どうかしましたか?」

「あの、窓を……窓を開けてもいいですか?」

 ここは矢釜海岸沿いのなだらかな道路。ただいま速度も時速四十キロぐらい。これぐらいの速度なら問題ないと思い、運転手は快く承諾の意思を示した。

 乗用車の窓をそっと開けてみる。すると、心地良い春の風に乗ってほんのりと潮の香りが漂ってきた。車内が少しばかり暑かったせいか、吹き込んでくる風が思いのほか涼しかった。

 もう間もなく、道路は海岸線から市街地方面へ向かっていく。青色が美しい海が観賞できるのもあとわずかだ。

(……さようなら)

 矢釜海岸にお別れを告げると、由美はボタンを押して窓を閉め始める。

 彼女はすべてに別れを告げた。実家に戻ってからどんな生活になろうともそこで生きていくしか道はない。彼女は悲しみと寂しさを断ち切る覚悟を決めた。

『――ブオオオーン』

 後方からバイクの爆音が聞こえてきた。由美がチラリと窓へ目を向けると、二人乗りのそのバイクはあっという間に乗用車の脇を通り過ぎていった。

 時速八十キロ以上は出ていたであろうそのバイクは、引っ越し業者のトラックすらも瞬く間に追い越していった。

「ずいぶん、危険な運転ねぇ」

 いくら交通量が少ないとはいえ、猛スピードで横から追い越していくのはあまりにも危険な行為だ。母親の涼子はあからさまに不機嫌な表情で苦言を呈した。

 そうはいっても、追い越し行為など日常にありふれたものだろう。そう思っていた彼女たちだったが、この後、とんでもない出来事が待っていた。

『キキィィ――』

「キャッ!?」

 いきなりの急ブレーキ。後部座席に乗っていた由美たちはその反動により前のめりになってしまった。最愛、そこまで速度を出してはいなかったのでケガをしたりはしなかったが。

「いったいどうしたというの!?」

 涼子は悲鳴に似た甲高い声を上げた。理恵と由美はキョロキョロと周囲を見渡して不安げな顔色を浮かべている。

 信号もなく横断歩道もない道路の真ん中でなぜか乗用車は停車している。これは明らかに非常事態であろう。

「どうも済みません! い、いきなり前のトラックが急ブレーキを掛けたものだから」

 運転手が慌てて叫んだ通り、乗用車の前方数メートル先には引っ越し業者のトラックがハザードランプを点灯して停車していた。

 シートベルトを外して車外へと出てみた運転手。目を凝らしてみると、トラックの前には何と、先程追い抜いていったあのバイクが停車しているではないか。これが急ブレーキの原因のようだ。

 当然ながら、トラックに乗っている父親の俊介と運転手もびっくり仰天だ。進行を妨害されたのだから黙っているわけにはいかない。彼らは揃ってトラックから飛び出した。

「おい! 危ないだろ。そのバイクをどかせっ」

「どういうつもりだ! 警察に通報するぞ」

 激高する男性二人に対し、バイクに乗車する二人はどう対処するのだろうか。――もうご承知とは思うが、この二人こそ由美を追い掛けてきた拳悟と静加である。

 フルフェイスのヘルメットを外した彼ら二人。何をするかと思いきや、いきなり内輪揉めを始めてしまった。

「あなた、飛ばし過ぎよ。目が回っちゃったじゃないの!」

「しょーがないじゃん。こうしなきゃトラックに追い付かないでしょ」

 拳悟は静加のナビゲートにより、平均時速八十キロで矢釜海岸沿いの道路を突っ走ってきた。そのせいで後ろにいた静加はそれはもうスリル満天だった。だが、そのおかげで市街地へ合流する直前のポジションで追い付くことができたのだ。

「そんなことよりも、早く行かなくちゃ。きちんと事情を説明しないと」

「あのさ、シズカちゃん」

 先頭を歩いていく静加を呼び止めた拳悟。彼女の肩をすり抜けて自らが先頭に立つ。

「ここは俺一人に任せてくれないかな」

 自分一人に行かせてほしい。拳悟は凛々しくそう言い放ったが、静加はとてもそれを承知できなかった。

 トラックを停車させるためにバイクを道路の真ん中に停車させた。いくら交通の流れが緩やかとはいえ、交通の流れを妨害していることに違いはない。この状況となってしまっては子供一人で説得できるものではない。

 だが言い出したら聞かないのが拳悟という男なのだ。肝が据わっているのか、それともただ単に後先を考えていないだけなのか。彼女の制止など気にも留めずにスタスタと一人きりで歩いていった。

「もう! こうなったらわたしが交通整理するしかないじゃない」

 通報されたらそれこそ面倒になる。これ以上、事が大げさにならないよう静加は交通の誘導を始めた。由美のことも理恵のことも含めて、拳悟がすべて丸く収めてくれることを期待するしかなかった。

 その一方、由美は何が起こっているのかまるでわからず車中で戸惑っていた。わからないままは不安だ、それならわかった方がいい。ということで、彼女は後部座席のドアを開けて屋外へ降り立った。

「――え?」

 由美は目を丸くして唖然とした。一瞬だけ頭の中が混乱したものの、わかったことが一つだけあった。もう会えないと思っていた人物がそこにいたことだ。

「ケ、ケンゴさん……」

 胸が熱くなる、自然と両目から涙が溢れてきてしまう。愛した人がここへやってきた。今の由美には、拳悟が白馬の王子様に見えていた。

 衝動的にその場から走り出した彼女、向かう先は素敵な王子様のもとである。

「ちょっと、ユミ! どこに行くの!?」

 妹が突然走り出したものだから、姉の理恵は驚きのあまり大声を張り上げた。しかし、妹の足を止めることはできなかった。

 居ても立っても居られなくなり、理恵と涼子も車外へと飛び出した。道路の真ん中に停車しているバイク、そこから歩いてくる一人の少年、そこへ向かっている由美の後ろ姿。そのシーンからいったい何が想像できるというのか。

「あれ、まさかアイツは……」

 理恵は気付いた。バイクに乗って進行を妨害したのが、あの忌まわしい不良学生だったことに。怒りと動揺が交じり合う中、彼女も衝動的にその場から駆け出していった。

 さてその頃、トラックの前で直立不動の男性二人はどうしていたかというと。

「おい、アイツは誰なんだ?」

「知りませんよ。お客さんの知り合いじゃないんですか?」

 彼ら二人にしたら、正面から近づいてくる少年の存在を知る由もない。見ず知らずの人物が真顔でやってくるものだから、いくら大人の男性でも不安に駆られてしまうのは当然だろう。

 そこへ突如、横をすり抜けていく少女がいた。俊介はそれが、実の娘だったと気付くのに数秒間という時間が必要だった。

「ケンゴさ~ん!!」

「ユミちゃん!」

 由美は勢いのままに拳悟の胸に飛び込んだ。そして、彼の胸の中で嬉しさと後悔の涙を流した。

「ゴメンね、ケンゴさん、本当にゴメンね」

「気にするなよ。もう泣かなくていいから」

 再会の喜びを噛み締めながら抱き合う男女二人。離れたくない、もう離れないというお互いの気持ちを通わせるかのように。

 そんな二人の光景を目の当たりにした俊介は愕然とした。気が動転し、さらに冷静さを失って烈火のごとくいきり立つ。

「おい、おまえたち、何をやってるんだ!?」

 怒鳴り声を上げる父親の傍へやってきたのは理恵だ。彼はそこで、この状況の真相を知ることになる。

「あの男よ。ユミと付き合っているのは」

「な、何だと!?」

 目の前にいる男が由美の心を奪った不良の輩。この不届き千万は断じて許すまじ。俊介はさらに怒りが込み上げてきて憤慨した。

「キサマ、今すぐユミから離れろ!」

 大事な娘を奪い返さんばかりに、俊介は強引に由美と拳悟の間に割って入っていった。

 拳悟はこれに抵抗するかと思いきや、それに素直に応じた。そもそも、由美を連れて逃避行するなんて考えてもいない。できれば話し合いで解決したいと思っていたからだ。

 由美との交際を許してもらうためには好青年でなければなるまい。拳悟は決して感情を表に出さずに心して臨むつもりだった。

「挨拶が遅れました。俺は勇希拳悟。ユミさんとは同じ学校のクラスメイトで、仲良くさせてもらってます」

 低姿勢で深く頭を下ろした拳悟。ところが、一方の俊介はというと挨拶などお構いなしに高圧的なままだ。

「キサマに挨拶される覚えはない! さっさとどこかへ行け」

 拳悟の話にまるで耳を貸さないつもりのようだ。それは交際相手である彼が不良だからなのか。それとも、手塩に掛けて育てた娘を素性もわからない男に奪われたくないだけなのか。

 とはいえ、どこかへ行けと言われて引き下がる拳悟ではない。これだけ大胆なことをしでかしてまでここへやってきたのだ。由美との交際を認めてもらえるまで諦めるわけにはいかない。

「俺は真剣にユミさんが好きなんです。絶対にユミさんを悲しませることはしません」

 拳悟は誠心誠意を込めて必死に訴える。これには由美も感激のあまり震えが止まらなかった。嬉しさと喜び、今の彼女は彼の顔しか見ることができない。

 しかし――。俊介はまったく聞く耳を持たなかった。それどころか、消えてしまえなどと罵詈雑言を吐きつつ無理やり彼女の腕を掴んで連れ去ろうとした。

 まさかここまで貶されるとは。拳悟はこの上ないぐらいの苛立ちと怒りが喉元まで込み上げてきたのを感じた。だかここで感情的になったら元も子もない。彼はゴクッと生唾を呑み込んでから震える声で呟く。

「……認めてくれないのは、俺が不良だからでしょうか?」

 確かに、拳悟は優等生とは言い難い。むしろ不良の域であろう。それは彼自身も当然ながら把握しているつもりだ。だからこそ、ついそんな質問をしてしまったのかも知れない。

 さて、その質問に俊介はどう答えるのか。彼がピタリと足を止めて、振り返りざまに発した答えとは。

「そんなことは関係ない」

 俊介の言葉から見えたもの、それは不良だろうが優等生だろうが交際を許す気はないということ。

「いいか、これだけは言っておく。ユミはまだ子供だ。男と付き合うなど早過ぎる。交際については父親であるわたしが決める」

 俊介はキッパリと言い切った。十七歳の子供に色恋沙汰はご法度、今は勉学に集中して大学へ進学し、安定した将来だけを考えればいいのだと。

 この父親の台詞を聞いて衝撃を受けたのは由美だけではなかった。すぐ近くにいた理恵もびっくりしたのか驚愕の表情を浮かべた。

「お父さん、いくらなんでもそれはあんまりだわ!」

 交際相手が不良ならわかる。それなのに、交際そのものを認めないのはあまりにも行き過ぎではないか。理恵はしつけの厳しい父親のやり方に反論せずにはいられなかった。

「おまえは黙っていろ!」

 娘は父親の言う通りにしておけばよい。そう言わんばかりに俊介は理恵の主張を突っ撥ねた。由美にもそうだが、理恵に対しても怒鳴り声という威嚇ですべてを押さえ付けようとする父親の姿がそこにあった。

 いつもならここで萎縮してしまう理恵だが、この時ばかりは頭に血が上っていたのか感情が爆発して理性を抑えられなかった。

「ユミはね、これまでずっとお父さんの言うことに従ってきたわ。だからこそ、ここまで立派な子になったのかも知れない、でも、でもね――!」

 ――わたしたちは両親に作られた子供だけど、人間であって人形ではない。理恵の口から飛び出したのは心の奥底にしまっていた本音であった。

「ユミにだって、わたしにだってそれぞれの人生がある。生き方のすべてに介入するなんて親バカ過ぎよっ!」

「おまえまで、このわたしに楯突く気か! 許さんぞっ」

 ただでさえ短気な性格の俊介。怒りが沸点に到達すると、手を挙げるという行動に走ってしまう。

『パチン――!』

「きゃっ!」

 理恵は頬を叩かれると、その勢いのままに道路に尻餅を付いてしまった。

「お姉ちゃん!」

 由美は父親の手を振り解くなり、すぐさま姉の傍へ駆け寄った。

 姉妹二人は俊介に猜疑の視線を送る。これが正しい親子のあり方なのだろうか?愛すべき家族の姿なのだろうか?父親の支配下にいる彼女たちにその答えが見つかるはずがない。

 対する俊介は動じた様子もなく仁王立ちだ。幸せの家族像こそ、父親が絶対であり頂点に君臨するべきもの、そういう古い考えが根強く残っているのだろう。

「いいか、二人とも家に戻ったらしばらく外出禁止だ。両親のありがたさと尊さをとことん教え込んでやるからな!」

 俊介はこの期に及んでも、娘二人のしつけと教育ばかりを口にする。彼女たちが間違った道を進まず、いつまでも幸せな家族像を維持するために。

(――何が両親のありがたさだ)

(――何が両親の尊さだ)

(ふざけるんじゃない!)

 これは姉妹二人の心の声ではない。ここまで感情をがむしゃらに我慢してきた拳悟の心の声だった。彼はもう苛立ちと怒りを抑圧することができなかった。

「うわっ! 何をするんだ!?」

 感情を爆発させる拳悟。気付いた時には、俊介の胸倉に掴み掛かっていた。

「あんたさ、娘を引っ叩いてさぞ満足か? 引っ叩かれた人の気持ちがわかるのか?」

 しつけだろうが教育だろうが、女性に暴力を振るうのは男として恥ずべき最低の行為だ。拳悟は眉を吊り上げてそう言い放つ。不良と呼ばれる彼でも、これまで女性の顔に暴力を振るったことは一度もない。

 彼はたくさんケンカをしてきた。殴られた回数は数え切れない。喧嘩両成敗なら痛み分けで納得もいくが、一方的に殴られたのなら悔しさと痛みしか残らない。彼はそれをよく知っているのだ。

「叩かれたもんの気持ち、知りてーなら俺が教えてやるよ」

 目には目を、鉄拳には鉄拳を。拳悟は握り拳を高々と振り上げた。それは、驚愕の眼差しで見つめている姉妹二人の気持ちを代弁しようとするものであった。

 今まさに、彼の鉄拳制裁が下されようとしたその瞬間――。

「ケンゴさん、やめてぇー!!」

 由美の制止の声が拳悟の耳をつんざいた。それに反応し、彼は握り拳を急停止させる。

「……お父さんを、お父さんを殴らないで、お願い」

 いくら疑念を抱いていても、暴力を振るわれるのはさすがに目を覆いたくなる光景であろう。そんな由美の心情を悟った拳悟は、俊介の胸倉から両手を解いた。

 すっかり放心状態の俊介は、震える両足の支えが利かずに地面に座り込んでしまった。それを心配して、妻の涼子が血相を変えて駆け付けてくる。

「大丈夫、お父さん!?」

「……ああ、心配ない」

 俊介の表情から血の気が引いていた。心配ないとはいえど、すぐに立ち上がれるほどの気持ちの余裕はなかった。

 意気消沈としている両親の傍へ寄り添っていく由美と理恵の二人。衝突はあってもこれこそが家族のあるべき姿なのかも知れない。

 それを見ていた拳悟はさすがにばつが悪かった。いくら由美たちのためとはいえ、余計なお世話だったのではないだろうかと。

「申し訳なかった。どうしても我慢できなかった」

 拳悟は謝罪の弁を口にした。そして、取り返しの付かないことをしてしまったと猛省し、この場から立ち去る決心を言葉で示した。

 ただ、立ち去る前に少しだけ話を聞いてほしい。彼はそう言うと、自分なりの思いを吐露し始める。

「両親ってのはさ、子供の成長を見守り、時には手助けをし、時には間違いを正し、最後には立派な大人に育てるものだよね。まあ俺はさ、子供を育てたことがないから生意気なこと言える立場じゃないんだけど」

 小さい頃から両親に迷惑を掛けたという拳悟。素行が悪かったからこそ、それはもう両親からたくさん叱られたり殴られたりしたこともあるという。それでも、彼は両親への感謝を忘れることはなかった。

「オヤジもオフクロも厳しいんだけどね、でもさ、俺の気持ちというか俺の話をちゃんと聞いてくれるんだよ」

 ケンカをしたり、人を傷付けたりするのにはそれなりの理由があり事情がある。両親というのはそういったものに耳を傾けて、時には慰めたり励ましたりする存在であるべきではないだろうか。

 子供のいろんな気持ちを理解せず、叱責したり暴力を振るうだけの存在であってはいけないのではないだろうか。それでは子供は両親のことを信用しなくなってしまう。つまり、家族間の信頼関係の崩壊というやつだ。

「オヤジとオフクロさ、照れながら嬉しそうな顔をするんだよ。ここまで育ててくれてありがとう、って俺が言うとね」

 拳悟は少しばかりはにかんでいた。その時の彼の表情から、彼と両親の温かみのある繋がりのようなものが感じられた。

 その一方で――。今の夢野一家はどうだろう?絆こそあっても信頼関係は構築されているのか、家族間に温かみのある繋がりはあるのだろうか。

「だからあんたもさ、娘二人が大人になってから、パパ育ててくれて本当にありがとう、って言ってもらったらさぞ幸せなんじゃないかな?」

 ”幸せ”というフレーズに、俊介はビクッと全身が反応した。

 娘の成長こそがすべてだった。だから厳しくやってきたつもりだ。それに固執するあまり、娘の気持ちに耳を傾けずに自分の物差しで何でも言う通りにさせてきた。

 確かに娘は道を外さずに立派に育ってくれた。だが、それがもし独りよがりの幸せの形なのだとしたら……。娘から感謝してもらえなければ、そんな幸せも形骸化したものになってしまう。

「なぁ、オヤジさん。二人が小さい頃さ、パパあれ買ってっておねだりされたら買ったりしたでしょ。その時にさ、パパありがとう、って言われてすごく嬉しかったんじゃないかな?」

 俊介の記憶の中に、幼少の頃の娘たちのかわいらしい姿が浮かんでくる。

 娘たちに好かれたいがあまり、いっぱいわがままを聞いてあげた。ありがとうと言ってくれた時の笑顔が大好きだった。……そういえば、ここ最近二人の屈託のない笑顔を見ていない気がする。

 拳悟から言われた一つひとつの言葉は、俊介にとって耳の痛いものばかりだった。こんな少年にここまで言わせてしまうなんて悔しくてたまらない。だけど、反論できる余地などどこにもなかった。

「俺が言いたいのはそれだけ。どうもお邪魔しました」

 拳悟は由美に向かって一声掛けた。引っ越しが終わった後、これからのことは電話で相談して決めようと。

 後ろ髪を引かれる思いながらも、彼は夢野一家に背を向けて去っていこうとする。由美とはもう二度と会えなくなるだろうな……。そんな予感を意識しながら。

 静加が待機しているバイクのところまで一歩、また一歩と進んでいく彼の今の心境は、寂しさと空しさもあったが言いたいことがハッキリと言えて清々しくもあった。

「あなた、お待ちなさい」

 いきなり背後から呼び止められた。拳悟が足を止めて静かに振り返ってみると、その声の主はここまで無言を貫いてきた母親の涼子であった。

 彼女は真剣な眼差しで彼に問い掛ける。娘を、由美のことを本当に悲しませないと約束してくれるのか?と。

「もちろん、それだけは約束します」

「……そう」

 涼子はホッと吐息を零して安堵の顔色を浮かべる。彼女はその顔色のまま夫である俊介の方へ視線を向けた。

「お父さん、二人のこと認めてあげましょうよ」

「な、何だと?」

 俊介は目を剥いて驚きの声を上げた。まさか、自分の味方であろう妻からそのような言葉が出てくるとは思ってもみなかった。

「あの子の言ったことを聞いてどう思った? わたしたち、どこかで間違っていたんじゃないかしら。娘たちの育て方を」

「ちょっと待て。たとえ育て方が正しくなかったにしても、交際を認める認めないとは関係ないじゃないかっ」

 やはり納得ができないのか、俊介は顔を紅潮させながら声を荒げる。大切に育てた娘を手元に置いておきたい親バカの心情といったところか。

「そうかも知れないけど。でも、ユミだってずっと子供じゃない。いつかは大人になって、わたしたちの傍から離れてしまうのよ」

 子供はいつまでも子供ではなく、いずれは結婚しそれぞれの家庭を作る。子供が大人になる前に、まずは自分たちが大人にならなければ。涼子は子離れできない俊介をそう諭した。

「……そ、それはわかるんだが」

 ほんの少し態度を軟化させた俊介だが、交際についてはどうしても認めたくないといった顔つきだ。

 状況が膠着する中、ここで母親の援軍が登場することになる。それは意外と言えば意外な人物だった。

「お父さん、わたしからもお願い」

 その援軍こそ、拳悟を不良扱いして散々毛嫌いしてきた姉の理恵であった。

「……お姉ちゃん」

 由美は唖然とした。まさか姉までも応援してくれるなんて考えてもみなかったからだ。

「わたしは、アイツのことが嫌いよ。それは変わらないわ。でもね、両親のことを大切にできる人に悪い人はいない」

 自分なりの持論を展開し始める理恵。不良というものは、どんなことでも無気力で他人への思いやりがない、そして自己中心的で自分勝手。でも、正面に立つ拳悟という人物はそれとは少しばかり異なる。

 確かに、人とケンカもするし平気で女の子をナンパするような男なので心配は残る。だが、心配だからといって自分も含めて妹に過保護になってばかりいては妹のためにならないのではないか。

 実際に由美は、派茶目茶高校に通学してからいろいろな友人たちに巡り合えたことで性格も明るくなり男性恐怖症だって克服できたのだ。社会へ出る前の心構えだって身に付けているのだ。

「…………」

 さすがに言い返せなかった。理恵の力説を、俊介は苦渋の表情で口をつぐんだまま聞くしかなかった。

「ねぇ、お父さん。わたしもユミも、育ててくれてありがとうって心から言いたい。だからお願い。わたしたちの気持ちをもう少しわかって」

「お父さん、リエとユミのこと、親という立場で見守ってあげましょうよ。信じてあげましょうよ」

 俊介は苦渋の表情を崩さず、しばらく無言を貫いた。

 父親の一人として、家族のルールを作り尊厳だけは守ってきた。だから、今こうして矢面に立たされて妻や娘から集中砲火を浴びるのは初めてだ。

 初めてだからこそ見えたものがある。それは、家族を守るために振るっていた尊厳が、むしろ家族の崩壊を招いてしまうかも知れないということに。

 ガクッと肩を落とした彼。それは落胆の意味ではなく、これまでの罪を清算し肩から荷を下ろした安堵感のようなものだった。

「……さすがに、三人相手ではわたしも負けを認めるしかないようだ」

 俊介の一言、それは由美の交際を認めることを意味していた。娘二人にとってどうすることが本当の幸せなのか、自分なりの答えに行き着いた瞬間でもあった。

「お父さん、ありがとう……」

 感激のあまり、由美は大粒の涙を零した。緊張感や緊迫感、そういった感覚から解放されて全身から力が抜けていくようだった。

「キミは……ケンゴくんだったかな」

 涼子と理恵の手を借りて、俊介はゆっくりと腰を持ち上げた。そして、拳悟の近くまで歩み寄っていく。

「正直言って、キミには一本取られたよ。参った。不束な娘だが、どうかよろしく頼む」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 俊介と拳悟、お互いに熱い気持ちをぶつけ合った彼ら二人は男同士の固い握手を交わした。

「今日のところは挨拶までにさせてくれ。すでに引っ越し中の身だ。わたしたち家族はいったん自宅へ戻る」

 俊介は続けて言う。さまざまな手続きが済むまでは自宅で生活するが、落ち着いてから娘二人をここ矢釜市で住まうよう手配をすると。

 父親の許可が下りたと知るや否や、理恵と由美の姉妹は抱き合って喜んだ。またクラスメイトと会える、気に入った会社で勤務が続けられる、彼女たちの喜びもひとしおであろう。

 いつまでも交通の妨害をするわけにはいかない。というわけで、俊介と涼子は足早に引っ越し業者のトラックと乗用車へ戻っていく。

 理恵と由美の二人はその場に残り、拳悟とのしばしのお別れを挨拶を交わす。

「お姉さん、ありがとう。説得してくれて」

「お礼を言うのはわたしの方よ。わたしたちの思いを汲み取ってお父さんに立ち向かってくれたんでしょ?」

 父親に頬を叩かれた理恵。その時の悔しさと痛みを拳悟が代わりに父親へ伝えようとしてくれた。父親に歯向かえない自分のために勇気を振り絞ってくれたことに彼女は感謝の気持ちを述べた。

 それと、感謝の気持ちとは別に反省の気持ちも伝えた彼女。

「不良という先入観だけであなたを判断してた。それだけは謝るわ。でもわたしは、過去のあなたの非礼を許してないけどね」

 理恵からギロッと睨まれてしまった。初めて出会った時のナンパ事件。それについ先日の喫茶店での騒動。拳悟にとっては自戒するばかりで顔を引きつらせるしかなかった。

 彼女は去り際に、もう一つだけ拳悟に釘を刺した。

「もし、ユミを泣かしたら承知しないからね」

「泣かせません、泣かせません!」

 怖いお姉さんが去っていくと、そこには拳悟と由美の二人だけになった。

「ケンゴさん、追い掛けてきてくれて本当にありがとう」

「当然じゃないか。俺たち、恋人同士なんだぜ」

 しばしのお別れとわかっていても、次に会えるのがいつになるのかわからない。二人の表情から離れたくない気持ちが滲んでくる。

『プップー!』

 引っ越し業者のトラックからクラクションが鳴らされた。由美に早く戻るよう催促の合図であろう。

「ほら、行かないと」

「……うん」

 たとえ離れていても二人は結ばれた者同士。いつ会えるかわからないけど、どんなに時間が経過しようとも二人の心は絶対に離れたりはしない。拳悟と由美はお互いに見つめ合い永遠を誓い合った。

「早く行かないと、お父さんに叱られるぞ」

「あっ、もう行くね!」

 由美は真っ赤に腫らした目元を拭い、ニコッと満面の笑みを浮かべた。今日のさようならは、次に会う時までのたった一つの約束に過ぎないのだから。

 またすぐに会える、大好きな拳悟ともそしてクラスメイトたちとも。期待に胸を膨らませて彼女は乗用車の後部座席へと乗り込んだ。

 トラックと乗用車が徐行しながら走り出す。車内から手を振っている由美、それに手を振って応える拳悟。矢釜市の市街地に背を向けた二台の車はあっという間に交通の流れに紛れていった。

(ユミちゃん、俺はずっと待ってるから)

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