第四十三話― これぞ青春 派茶目茶高校よ永遠なれ!【後編】(1)
数日が経過し、今日は土曜日。雲が広がっているものの、ほのかに暖かい春らしい陽気。今日は由美と拳悟の記念すべき初デートの日であった。
待ち合わせの時刻が朝八時ということもあり、二人とも朝早くから目覚めてそわそわする時間を過ごしていた。
ただいまの時刻は朝六時。彼がむくりと布団から起き出した頃、彼女はすでに支度を済ませて自宅を出ようとしていた。
そわそわしているとはいえ、いくらなんでも自宅を出るには時間が早過ぎるのではないか。それにはそれなりの理由があった。
「…………」
玄関までの道のり、由美は抜き足差し足忍び足で歩いていく。足元からほんの数十センチ先には、すやすやと寝息を立てている姉の理恵がいる。
理恵を起こさずに玄関まで辿り着かなければならない。もし起きてしまったらどんな追求をされるかわからない。いや、追及どころか頭ごなしに説教されてしまうだろう。
それもそのはず、今日はデートであると同時に、姉と両親と一緒に矢釜市の観光に行く予定だったからである。つまり由美は、その予定をすっぽかしてデートに出掛けようとしていたのだ。
自らの意思で決めたとはいえ、これまで両親に対して逆らったことのない彼女だから負い目を感じていないわけがない。足は玄関に向いていても、良心という足かせを引きずっている感じであった。
「う、う~ん……」
うなされているのだろうか、理恵が表情をしかめて寝返りを打った。
突然だっただけに、ドキッと心臓が高鳴った由美。内心ビクビクしながらそっと理恵の様子を窺ってみると……。
(……ふぅ、大丈夫。寝てるみたい)
由美はホッと胸を撫で下ろす。どうやら眠りから目覚めてはいないようだ。
それにしてもどんな夢を見ているのだろう?しかめっ面でうなされているから、きっと悪い夢でも見ているのかも知れない。
とにかく理恵が目覚めるまでにアパートを出なくては。無意識のうちに気持ちが焦ってしまう由美がそこにいた。
そろりそろりと歩くこと数秒間、いよいよ玄関まで辿り着いた。下駄箱から靴を取り出して、もう大丈夫だろうと安心した――まさにその直後だった。
「あんたなんかに、妹を渡さないからねっ!」
『――ドキッ』
突如、背後から耳をつんざくような怒鳴り声が聞こえてきた。
由美がびっくりして反射的に振り返ると、そこには、悪夢から目覚めた理恵が飛び起きた姿があった。
「…………」
「…………」
寝ぼけ眼で呆けたままの理恵、そして口に両手を宛がって心音をバクバクさせている由美。それからわずかな沈黙の時間が流れる。
それから五秒ほど経つと、理恵は倒れ込むように寝そべってしまった。どうやら、まだ眠りの途中だったようだ。
(良かったぁ……)
由美は物音を立てないよう慎重に靴を履くと、そこから逃げるように玄関から飛び出していった。
(それにしても、すごい執念だな。お姉ちゃんの夢にまさかケンゴさんが出てくるなんて)
不安と戸惑いを抱えながらも、由美はデートの待ち合わせ場所である矢釜中央駅へと向かう。とはいえ、約束の時刻まであと二時間近くある。どう時間を潰そうかと悩んでしまう彼女であった。
* ◇ *
それから数時間後、ここは矢釜中央駅から徒歩十分ほどの位置にあるビジネスホテル。ここでは、由美と理恵の両親が一週間前から滞在していた。
両親の帰宅は明日であるが、今日は土曜日ということもあり家族みんなで観光でもしようと予定していた。
ホテルの一階にあるカフェでコーヒータイムを満喫していた両親。そこへ姉の理恵がやや慌てた様子でやってきた。
「おお、リエ」
「あら、ユミはどうしたの?」
「そ、それが……」
理恵は息せき切って告白する。朝起きた時にはすでに由美の姿がなかった。今日の予定のことは知っていたにも関わらず。ただ、彼女は書き置きを残していったようだ。そこには次のような文面が綴られていた。
「お姉ちゃんへ 今日の予定にどうしても行くことができません。どうかわがままなわたしを許してください。お父さんとお母さんには後でわたしからきちんと謝ります。今日の夕方には帰ります。由美より」
この書き置きには行き先が書いていない。だから探しようもない。彼氏とデートしているなんて理恵は当然ながら知り得ないわけで。どこへ行ったのか皆目見当が付かないのであった。
それを聞かされた父親である俊介は怒りを露にする。彼の性格なのだろうか、どういう理由があろうとも約束を破ったりする行為そのものが許せないらしい。
「まったく、アイツは何を考えているんだっ!」
「……ごめんなさい」
自分が悪いわけではないのに頭を下げてしまう理恵。父親の怒りを静めるにはこれしか方法がない、それが昔からの夢野家での慣習のようだ。
「やはり、ユミをこっちにやったのは間違いだったようだな」
「そうね。あの子はまだ未成年だし。親元から離すべきじゃなかったのね」
苦虫を噛み潰したような顔をする俊介、そして冴えない表情を浮かべている涼子。由美のしつけが行き届かなかったとばかりに口からは小言が漏れるばかりだ。
これらの発言について、理恵は少しばかり疑念を抱かずにはいられなかった。声こそ上げなかったものの、いくら娘が大切とはいえ箱入り娘のまま成長させるのはいかがなものか、と。
「それよりも、お父さん、これからどうします?」
「どうするもこうするも観光どころじゃないだろ」
ここにいる三人で観光に出掛ける気分ではないだろう。というわけで、由美が帰宅するまで理恵のアパートで待機することで話がまとまった。
閉塞気味な悪い空気が流れる中、両親の後ろに付いてホテルのカフェを後にする理恵。おもむろに天井を見上げて沈んだ声でポツリと呟く。
「ユミ……。どうなっても知らないからね」
* ◇ *
その頃、ここは矢釜海岸。
矢釜市を代表する矢釜川の下流に当たり、海水浴や海釣りなど年間を通して観光客が多く訪れる魅力のあるスポットだ。
今日は四月中旬という季節。そのためか、海を楽しんでいる観光客の姿は特段見受けられない。潮騒の音だけが耳に届くぐらいの静けさであった。
ゆっくりと穏やかに浜辺を打ち付ける波。どこからともなく漂ってくる潮の香り。矢釜中央駅から電車に揺られること一時間ちょっと。由美と拳悟の二人ははるばるここまでやってきた。
彼女たちは初デートの場所としてここを選んだ。海に行きたかったのは彼女の方だった。自分にとって重大な告白を前にして心が憔悴し切っている。それを少しでも癒したくて大海原を観賞したかった。
「へぇ……。矢釜海岸に初めてきたけど、とっても綺麗なんだね」
「そうか、ユミちゃんはこっちに来てまだ一年ぐらいだもんな」
一年ということは、海の季節とも言うべき夏も一度しか経験していない。由美がこうして初めての海の観賞となるのも頷ける話だ。
「もうちょっと海に近づいてみようよ」
「うん」
拳悟が由美をリードして、手を握り合って砂浜を歩き出す。足場がぬかるんで歩き難いからと、途中で靴と靴下を脱ぎ捨てて海まで近づいていく。
砂の柔らかさとさらさらとした感覚が足の裏を通して伝わってくる。さらに海に近づいていくと、その感覚に海水で湿った冷たさも加わった。
海までの距離、残り一メートルほど。彼ら二人は砂浜の上で立ち止まる。
「うわぁ、大きな海」
由美は感動のあまり大きな声を上げた。母なる海に抱かれるかのように、彼女は両手を目一杯伸ばして大海原に胸を預けた。
静かに瞳を閉じてみる。緩やかな風に乗ってやってくる波の音、潮の香り――。それらが彼女の心の傷を癒していった。まるで何事もなかったかのように心が浄化されていく。
彼女が心地良さに浸っていると、拳悟一人だけが海の方へゆっくりと歩き出した。そこで何をするかと思いきや、海水をすくい上げるとそれを彼女の足元に引っ掛けたのだ。
「ほ~れ」
「きゃっ!?」
冷たさにびっくりし、由美は後ろに飛び跳ねてしまった。
拳悟は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。せっかく海に来たのだから海と戯れようと。ただそれだけの理由で海水を彼女に引っ掛けるなんてさすがは悪戯っ子である。
海水をすくい上げてはそれを放り投げる彼。引っ掛けられまいと砂浜を駆けずり回る彼女。春の海岸に男女二人の賑やかな声が溢れる。
「もー、ケンゴさん、やめてー」
「ははは、ほ~れ、ほ~れ!」
水遊びの追いかけっこを続けること数十秒。由美が砂場で足を取られてひざを付いたところで終了した。
「はぁ、はぁ……」
「はぁ、はぁ……」
走り回ったせいだろう、息継ぎをしながら砂浜の上に座り込んだ拳悟と由美の二人。まるで子供のようなやり取りでも、恋人同士なら無邪気に喜べて思い出の一つになるエピソードだ。
それからしばらくの間、彼ら二人は水平線に広がる大海原の風景を眺めていた。他に邪魔する者がいない、二人だけの世界を満喫するかのように。
「海はやっぱりいいな」
「そうだね。次は夏に来ようよ」
「……夏。うん、そうだね」
――その時、由美の表情から微笑みが消えてしまった。今年の夏まで、ここにはいられないだろうから。
今日という日を迎えるまでに決心を固めていた彼女。矢釜市から引っ越して転校しなければいけない、それを自らの口できちんと拳悟に伝えようと。
「ケンゴさん」
「ん?」
砂浜に腰を下ろしたまま見つめ合う由美と拳悟の二人。
「あのね……」
胸を締め付けてくる緊張と不安――。由美は鼓動が大きくなり表情もカチンコチンに硬直していく。
ここで事実を伝えたら、彼はどんな顔をするのだろうか。どんな態度を取るのだろうか。この場でお別れを告げられてしまうのだろうか。彼との恋も終わりを迎えるのだろうか。
そんなことばかりが頭の中を駆け巡り、彼女の口は意志とは裏腹に固く閉ざされてしまう。せっかく決意したのに……。いざという時に勇気が出せない自分が悔しくてたまらない。
彼女は居たたまれなくなり、彼から目を逸らすように俯いてしまった。もし一人きりだったら、嗚咽を漏らして泣きじゃくっていたかも知れない。
泣くに泣けない。言葉も出てこない。いったいどうしたらいいのかと逡巡としていると――。
「…………!」
いきなり由美は拳悟に抱き寄せられた。右肩にある彼の右手から、温もりとたくましさが伝わってくる。
「言いにくいなら言わなくてもいい」
「え……」
由美は唖然としながら拳悟の顔を見つめる。
「苦しい思いをするぐらいなら言わなくてもいいよ」
恋人同士だからといってすべてを知る必要はない。自分たち二人はまだ始まったばかり、これからゆっくりと時間を掛けてわかり合っていこう。拳悟はそう言ってさわやかに笑った。
「だからさ。かわいい笑顔を見せてくれよ。俺はユミちゃんの笑顔が大好きなんだ」
「ケンゴさん……」
感激のあまり、うるっと瞳に涙を浮かべた由美。彼の優しい心遣いに胸の奥が熱くなり、そして頬も熱くなった。
彼女はニッコリと微笑むと、彼の胸の中に埋もれるようにもたれかかる。すると、心の中にあった苦しみや悲しさをすべて忘れさせてくれた。これが本当の幸せなのかと感じるぐらいに。
美しい大海原に見守られながら、彼女たち二人は強く抱き合った。熱い口づけを交わし、お互いの愛が本物であると確かめ合った。
(離れたくない。ケンゴさんとずっとこうしていたい)
引っ越したくない!転校したくない!由美は拳悟の胸に抱かれながら心の中で何度もそう叫んだ。声に出していたら嗄れてしまうのではないかと思うほど、彼女は何度も何度も繰り返し叫んだ。
現実に目を背けていたい。せめて彼とこうして一緒にいられるうちは……。彼の温もりに包まれながら夢心地の中にいた彼女。夢から覚めてほしくないとそう願いながら。
――しかし、夢はいつかは覚めてしまうもの。時は瞬く間に流れて、彼女たちが矢釜海岸に別れを告げる時間がやってきた。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
今日のために決心した告白、由美はそれを最後まで拳悟に伝えることができなかった。自らの決心を、ここ矢釜海岸の砂浜の中へ埋めることしかできなかった。
* ◇ *
その日の夕方。時刻はまもなく午後五時。
由美が暮らすアパートの一室には彼女の両親と姉の姿があった。家族が顔を揃えていても、そこには明るさや楽しさといったものはない。
由美はいったいどこにいったのだ、いつ帰ってくるのだ。娘の身を案じる親心、約束を破ったことへの不信感、それらがピリピリとした険悪な空気となって部屋中に充満している。
父親の俊介は険しい顔をしながらタバコを灰皿の上でもみ消した。よく見ると、灰皿の上にはタバコの吸殻が何本も溜まっていた。彼の苛立ちの大きさを象徴するかのようだ。
母親の涼子は時折重たい吐息をついては顔を俯かせていた。なかなか帰宅してこない二女が心配で心配でたまらないのだろう、長女が出してくれたお茶に手を出そうとはしなかった。
そして、理恵は複雑な心境のまま床の上に正座していた。妹の身勝手な振る舞いに戸惑いを隠せない。それと同時に、両親への気遣いから来る苦労と疲労で表情は少々やつれ気味だった。
『カチャ――』
室内の時計の針が午後五時五分を指し示した頃、玄関のドアが静かに開いた。
それに逸早く気付いた理恵が立ち上がるなり玄関へと走った。彼女の視線の先には、おしゃれな衣装を身にまとった妹がぽつんと一人で立っていた。
負い目を感じているせいか、理恵と目を合わすことができずに伏し目がちになる由美。聞き取りにくいほどの小さい声で”ただいま”の一言だけ呟いた。
「あなた、いったいどこに行ってたの!?」
「……お父さんとお母さんいるんでしょ? そこで正直に話すから」
海の砂で汚れたパンプスを脱ぐと、由美は理恵の横をすり抜けて部屋の中へと入っていく。部屋の中で待機しているのは、仏頂面の父親と安堵の笑みを零す母親だ。
「ユミ、心配したのよ」
理由はどうあれ、娘が無事に帰ってきてくれた。涼子はまるで聖母のような暖かな表情を浮かべて由美を出迎えた。
両親との約束を破ってしまったことへの罪の意識が由美の心を縛り付けている。だから彼女は母親の顔すらまともに見ることができない。
「ごめんなさい……」
「ほら、こっちにいらっしゃい」
由美は居たたまれなさに苦しんでいたが、母親が優しく寄り添ってくれたおかげで心の縛りがほんのりと解けていく感じがした。こういう時ほど娘にとってありがたいのが母親の愛情というものだ。
――だがしかし、緩みかけていた由美の心を一瞬で竦ませてしまったのは父親である俊介の怒号であった。
「ユミ、ここに座れっ!」
その怒鳴り声はあまりにも凄まじく、玄関にいた理恵すらも竦み上がらせた。
鬼の形相で腕組みしながらあぐらをかく俊介。聖母のような母親とはまったく正反対の雰囲気を滲み出しており、まるで眉を吊り上げた仁王様のようだ。
恐怖、不安、緊張――。それらを抱え込んだまま由美は俊介の正面に正座する。そして深く頭を下ろして謝罪の弁を口にした。
「……約束を破って出掛けてごめんなさい」
「おまえは何をしでかしたのかわかってるのか?」
「……ごめんなさい」
由美が土下座してもなお、俊介の叱責は続く。父親である自分への裏切り行為は断固として許さない構えである。
厳しいお叱りが続けば続くほど室内の空気は悪くなるばかりだ。居ても立っても居られず母親の涼子が仲裁に入った。由美にもきちんと話をさせてあげてほしいと。
「ねぇ、ユミ。どこに行っていたの? 正直に答えなさい」
「…………」
すぐには即答できなかった由美。なぜ答えを躊躇ったのか、それは彼とのデートという理由が不純なものだったから、それと、彼が不良だと思われているから。
とはいえ、この期に及んで嘘を付くわけにはいかないだろう。彼女は正々堂々と正直に答える覚悟を決めた。
「……デートしてたの。彼と」
この告白により、両親と姉に激震が走った。父親の表情が怒りに満ち、母親の表情が唖然とし、姉の表情が蒼白と化した。
「ユミ、今日という日にアイツと一緒だったってこと!?」
理恵は真っ青な顔で由美を問い詰める。両親との約束をすっぽかして不良とデートだなんてとんでもないことだ。理恵は冷静さを失って動揺をごまかせない。
とんでもないことでもそれが真実なのである。正直に打ち明けた由美であるが、後ろめたさに塞ぎ込みながらコクンと頷くしかなかった。
「おまえというヤツは――!」
男とデートしていたという許されざる行為、しかもその相手が不良となれば黙ってはいられない。俊介はいきり立って憤怒を露にした。
「絶対に許さんぞ! しばらくの間、不要な外出は禁止だ!」
「ああ、なんてこと。ユミがこんな子になってしまうなんて……!」
彼とのデート一つで、由美本人も素行不良のように扱われたこの結末。娘のふしだらな行動にただただ怒りが収まらない父親、そして娘の育て方が間違っていたのではないかと悲観する母親。
両親が言い放つ感情的な言葉をじっと黙ったまま聞いていた由美。悪いことをしたのだから、何を言われても仕方がないのかも知れない。それぐらいは自分でもわかっているつもりだ。
――だが、自分自身の気持ちや本心に耳を貸そうとせず言いたい放題の両親に疑念を感じずにはいられなかった。いくら子供だからといって、何でも両親の言う通りにしなければいけないのだろうか。
言い訳するつもりはない、だけど自分にだって言いたいことがある。由美は全身をブルブルと震わせながら小さな声を搾り出した。
「……わたしは、デートしちゃいけないの? 男性と交際しちゃいけないの?」
由美は瞳に悔し涙をいっぱい溜めながら主張した。一人の少女として、一人の人間として男性に恋をしてはいけないのか。男性と素敵な時間を過ごしてはいけないのかと。
本音をぶちまけたことによる興奮、それに両親への反抗が相まって感情が高ぶり取り乱してしまう彼女。アパートの室内に絶叫の声が響き渡った。
「ユミ、落ち着きなさい!」
由美の乱心を制止しようとしたのは姉の理恵だった。家賃三万五千円のごく一般的な賃貸アパートでこんな大声を出されたらそれこそ近所迷惑になり兼ねないからだ。
理恵は激高している父親と興奮している妹の間に割って入っていく。この場をとにかく静めようとして、泣きじゃくる妹のことを優しい口調で宥めようとする。
「あのね、お父さんが言いたいのはそういう意味じゃないのよ」
「そういう意味じゃないなら、どういう意味だっていうの!?」
理恵にまで食って掛かる由美はもう感情を抑え切れないようだ。親子どころか姉妹のケンカにまで発展しそうになったその直後、父親からの一言で姉妹二人の顔色が一変する。
「そういう意味だ」
俊介の口から漏れた”そういう意味”――。それこそ、由美に恋愛など許されないと決め付けるものだった。
姉妹二人は驚きと戸惑いを隠せない。あれだけ喚いていた由美も絶句して言葉を失った。そして、冷静さを保っていた理恵もこの時ばかりは反論せずにはいられなかった。
「お父さん、それはあまりにもひどいわ!」
「恋愛なんてまだ早過ぎる。まだ十七歳のくせに大人ぶるな」
十代の少女に色恋沙汰はご法度。何よりも不良との交際が許せない。俊介は眉を吊り上げた険しい顔つきで声を荒げる。これも、手塩に掛けて育てた娘を思う気持ちの表れであろうか。
娘を思う気持ちはわかる。だが、あれもダメ、これもダメと雁字搦めに縛り付けるのはいかがなものか。理恵は我慢できずに心の中に抑え込んできた不平不満を声に出してしまう。
「ユミにだって人を好きになる権利はあるわ。いくらお父さんでもそれを奪う権利はないはずよ!?」
「やかましい! わたしはな、おまえの恋愛だって認めてはおらん!」
まさに父親は強情で頑固一徹。娘の気持ちなどまったく気にも留めない。ただでさえ、怒りと苛立ちのあまり頭に血が上っているから尚更であろう。
「もう話はこれで終わりだ。おまえたちの引っ越しは予定通りだ。それまでに荷物をまとめておくんだ。いいな」
俊介が一方的に話を終えると室内は途端に静かになった。母親の涼子はただ黙って見守っている。理恵も空しさと惨めさを感じつつも抵抗を止めてしまった。夢野家の家庭内における彼の権威の大きさを象徴している光景だ。
(…………)
由美は顔を俯かせながら震えていた。それは父親に対する恐れや怖気のせいではない、父親に対する怒りと不信のせいだ。
ゆっくりと顔を持ち上げる彼女、悔し涙で真っ赤に腫らした瞳で彼を睨み付ける。
「お父さんなんか大嫌い。わたしはここに残る」
「何だと?」
母親も姉も何もしてくれない。だったら自分がやるしかない。由美は最後まで抵抗しようとする。たとえそれが無駄な足掻きとわかっていても。
「絶対に引っ越しなんてしないもん!!」
由美の絶叫が室内にこだました。その次の瞬間――!
『――パチン!』
絶叫の後に高らかな音が室内に響いた。そこには、右手を振り上げている俊介と、頬に手を宛てて呆気に取られている由美がいる。
「お父さん――!」
涼子と理恵は衝撃のあまり絶句した。父親が娘の頬をぶつシーンを目の当たりにしたのだからそれも無理はない。
「引っ越しは次の週末だ。わかったな?」
俊介は顔色も声も普段通りだった。娘に手を挙げても心がまるで動じていないようだ。
一方で、由美はすっかり萎縮してしまっていた。痛みのある頬だけではなく全身までもが燃えるように熱かった。視線も虚空を泳いでおり、父親の顔を直視することができない。
「そろそろホテルに戻る。母さん、行こうか」
いくら腹が立ったとはいえ大事な娘を叩いてしまったのは事実。さすがにばつが悪いと思ったのか、俊介は立ち上がるなりそそくさと玄関へと向かう。
支度をするから先に外に出ていてと告げる涼子。彼が一人先に玄関を出ていくのを見計らってから由美の傍へ駆け寄っていく。
「ユミ、大丈夫?」
「……お母さん」
由美は戦慄のあまり全身の震えが止まらない。それから数秒後、涼子の温もりを感じると同時に大粒の涙を零し始めた。
「お父さんの気持ちもわかってあげて。向こうにいる時もね、あなたたちのことを一度だって心配しなかったことはなかったんだから」
一年間の海外への出張は父の俊介にとっては寂しいものだった。いくら妻が一緒にいたとしても、娘二人との離別は耐え難いものだったはずだ。実際に、彼の財布の中には娘二人の写真をこっそり忍ばせていたという。
母の涼子も娘二人の身を案じていた。経済的に困らないよう毎月姉の理恵の銀行口座に仕送りをしたり、向こうから手紙を送っては機嫌を伺ったりしていたのだ。
そんな父親の思い、そして母親の思い、それを肌で感じた由美にもうわがままを突き通すことなどできなかった。というよりも、これほどまでに愛してくれた両親相手に文句の言葉が見つからなかったのだろう。
「それじゃあ、行くわね」
涼子は理恵に見送られながら玄関を出ていった。
両親がいなくなり、アパートの一室は姉妹二人だけとなった。だからといって、楽しくて賑やかな会話がやってくるとは限らない。
彼女たち二人は少し距離を置いたまま床の上に正座をしていた。テレビの音もない、外から吹く風の音もない、静寂なる沈黙の時間がしばし流れていく。
――それから十数秒後、沈黙の時間を破ったのは姉の理恵だった。
「ユミ、そのままで聞いて」
由美は俯き加減でコクンと小さく頷いた。
「引っ越しのことも、それにお父さんのことも……。わたしも思うことがあるわ」
理恵にとっても、慣れ親しんだ街や職場から離れるのはやっぱり寂しいはず。でも両親の気持ちも痛いほどよくわかる。彼女の暗い表情から複雑な心境が垣間見れた。
ここまで来たのなら、どう転んでも引っ越しは覆しようがない。一人の大人としてそれを冷静に受け止めるしかない理恵は、妹の気持ちを気遣いながらも納得させるしかなかった。
「転校のことだけど、明後日の月曜日に静加先輩に話しておくわ。それでいい?」
「…………」
即答できなかった由美。しばらく考えてから震える声で結論を出した。
「……まだ言わないでほしい」
引っ越しは次の週末だ。つまりそれまでの一週間は派茶目茶高校へ通学しなければならない。もし転校の話が担任の静加に知れたら、クラスメイトにも知れ渡る可能性もあり残りの一週間をギクシャクしたまま過ごすことになる。
できれば、クラスメイトとはこれまで通りに接していたい。変に気遣われたくないし、それにお別れを意識すればするほどそのお別れが辛くなってしまうから。
「連絡は、引っ越しの当日にしてほしい」
「……そう。わかったわ」
理恵は勘ぐったりせず了解の意志を示した。妹には妹なりの考えもあるのだろうから、詮索すること自体無用だと思ったようだ。
それから二人は会話らしい会話のないまま就寝の時を迎える。
朝からの彼氏とのデート、そして夜は両親とのいざこざ。目まぐるしいほどいろいろあった長い一日がまもなく終わりを告げようとしている。由美はこの夜、どんな夢を見るのであろうか。
さまざまな思いが交錯する中、物語はいよいよ佳境へと向かっていく。由美と拳悟の仲はどのような結末を迎えるのであろうか。
* ◇ *
時間は瞬く間に流れて、ついに由美が矢釜市を離れる日、引っ越しの当日となった。
この一週間、彼女は学校では普段通りに明るく振舞った。クラスメイトとの交流にもできる限り参加し、楽しくも賑やかな時間を過ごした。
そして――。彼氏である拳悟とも毎日のように下校デートを楽しんだ。その一つ一つを忘れられない思い出とするために。
当日の朝、彼女はアパートの部屋の中にいた。たった一人で、殺風景になった室内をじっと眺めていた。
そこにはもう、毎日食事を囲んだテーブルも、毎日自身を映した姿見もない。最初から備え付けてあった窓とカーテンしか残ってはいなかった。
(とうとうここともお別れか……。たった一年間、でもとても充実した一年間だった)
思い出に浸るほど、ジーンと胸が熱くなって涙が零れてしまいそうになる。由美は何かを振り払うように頭を何度も左右に振った。
「ユミ、トラックに荷物積み終わったわよ」
「あ、はい」
理恵の一言、それはいよいよこのアパートから出ていく合図でもあった。
部屋を施錠し、姉妹二人は階段を下りていく。その後、管理人の部屋を訪ねて鍵を手渡し”お世話になりました”の言葉で別れを告げた。
荷物の運搬は引っ越し業者にお任せだ。トラックの助手席には父親の俊介が乗車し、業者が用意した乗用車に母親の涼子、姉の理恵、そして由美が乗車することになる。
「それでは出発しましょうか」
引っ越し業者が夢野一家に声を掛けた。すると、街路の隅でタバコをくわえていた俊介がタバコを携帯灰皿の中でもみ消した。
「道案内よろしくお願いします」
「うむ」
俊介がトラックの助手席に乗り込んだ。それに連なるように、涼子と理恵も乗用車に乗り込んだ。
最後の一人、由美は儚げな表情のまま遠くの景色を眺めていた。そのはるか先には、楽しい出来事が詰まったあの派茶目茶高校がある。
(さようなら、みんな……。さようなら、ケンゴさん……)
由美は結局、今日を迎えるこの日まで引っ越しと転校の話題をクラスメイトに触れることはなかった。無論、拳悟にも内緒にしてきた。
引っ越ししてから手紙や電話で詳細を伝えるつもりでいた。ただ、まだすべてを告げる勇気は今の彼女にはなかったが。
「ユミ、ほら行くわよ、乗りなさい」
「……うん」
涼子に促されると、由美は理恵が隣にいる後部座席へと乗り込んだ。
「転校のことだけど、今朝先輩に電話しておいたから」
「……どうもありがとう」
理恵曰く、いきなり話を聞かされた静加はびっくり仰天だったという。引っ越しの当日にそれを聞かされたのだからそれも当然だ。
両親が帰国したことが引っ越しのきっかけ、それはわかるがあまりにも急過ぎる。しかも教え子のいきなりの転校もあって気が動転していた静加は、理恵との電話が終わった直後に着の身着のままで自宅を飛び出していた。
――そして、彼女はすでに夢野姉妹のアパートの近所まで来ていたのである。
(ちょっと待ってよ、どういうことよ。とにかく会って詳しく聞かないと!)
息せき切って猛スピードで疾走している静加。ここを曲がればアパートの全貌が見える曲がり角までやってきた。
心臓がバクバク、激しい動悸のまま彼女がそこを曲がり切ると。
「――――!」
静加の目に飛び込んだのは、家財道具を乗せた大きなトラック。しかも、そのトラックがゆっくりと動き出していた。
(間に合わなかった!)
夢野姉妹を乗せた乗用車もゆっくりとタイヤを滑らせた。それを目の当たりにした静加はそれはもうしどろもどろである。どうしようどうしようと、路地の真ん中で突っ立ったまま右往左往している。
(とにかく何とかしなくちゃ! どうしようかしら)
走り出した乗用車に追い付く術などあるのだろうか。しかし、このまま見過ごしてしまったら後悔が残ってしまいそうだ。何とか手はないものか。
数秒間の熟考後、静加はたった一つの結論に辿り着く。
(そうだ。確かこの先にあのお店があったはず――!)
* ◇ *
一方その頃。舞台は変わってここは拳悟の自宅。
今日は土曜日ということもあって、彼の自宅には親友でもあり悪友でもある勝と拓郎の二人も遊びに来ていた。というよりも、前日金曜日の夜からそのまま泊まっていただけである。
本日土曜日の朝はまあまあのお天気。にも関わらず、いい若い者が揃いも揃って部屋にこもって横になっているだけ。これでは不健康極まりないということで。
「なぁ、暇潰しにどこかへ遊びに行こうぜ」
「だな。どこへ行くよ?」
「俺、あんまり金ないから安く済ませられるところで」
金欠の三人が遊びに行ける先なんて、ゲームセンターでゲーム台と向き合うか書店に行って立ち読みするぐらい。それなら自宅にいるのとさほど変わらないのではないだろうか。
「じゃあさ、誰か誘ってみるか?」
「そうだな。ユミちゃんとアサミあたりを誘ってみるか」
「こっちは三人だからおじょうにも声掛けようぜ」
こうなったら六人デートとしゃれ込もう。そう思い付いたハチャメチャトリオは電話で由美と麻未、そして舞香の三人を呼び出そうとした。
すると、屋外の遠くの方から何やら大きな音が聞こえてきた。よく聞いてみると、バイクのエンジン音のようだ。
少しずつ大きくなっていくそのバイク音。拳悟の自宅前を轟音とともに通り過ぎる――かと思いきや、何とそのエンジン音は自宅の前でピタリと止まってしまった。
「単車の音だな」
エンジン音からしてそれなりの排気量のバイクだが、ご近所でこれほどのバイクを乗り回す人がいただろうか。拳悟は怪訝そうな顔で窓を開けて視線を下へ落としてみた。
バイクは自宅の目の前に停車していた。赤色と白色のツートンカラーで四百CCクラスのバイク。乗車しているのは細身で小柄な女性のようだ。いったい何者だろうかと彼は首を傾げる。
バイクに乗車していた女性がフルフェイスのヘルメットを外してみると――。
「なぬっ!?」
ヘルメットを外して正体を見せたのは、拳悟たちの担任である静加だったのだ。予想外のことに彼は唖然としてしまった。
由美と理恵がアパートから離れた直後、彼女はそこから数メートル先にあるオートバイ専門店に立ち寄り試乗目的でこのバイクを借用していたのだ。
彼女がすぐさま拳悟の自宅までやってきた理由、それは、この非常事態を彼に知らせるためだ。
「ケンゴくん! いてくれたのね。すぐ下に降りてきて!」
担任が朝っぱらから血相変えてやってきた。これはただ事ではないだろう。拳悟は鼓動を早めながら部屋を飛び出した。もちろん、クラスメイトの勝と拓郎の二人も連れ立って。
玄関先で静加と合流したハチャメチャトリオの三人。学内の緊急事態だろうか、それとも成績不振に関してか。緊張と不安で硬直していた彼らはここまでの事実を知ることになる。
「ユミちゃんが――!」
「引っ越しだと――!」
「しかも、転校――!」
その現実を受け止められず、拳悟たち三人は皆戸惑いと動揺を隠し切れなかった。
「ご両親がお仕事先から帰国したそうよ。それで、家族みんなで実家へ戻ることになったって」
詳しい経緯を説明する静加。理恵からの連絡が引っ越しの当日だったこと、引っ越しにはご両親も一緒にいたこと、そしてつい先程アパートを出発したことなどが彼女の口から明らかにされた。
(ユミちゃん、そんなバカな……!)
拳悟にしてみたら、恋人とのまさかの離別にショックが大きかった。何も知らなかった、何も聞かされなかった。どうして教えてくれなかったのかと。
改めて思い返してみたら、最近の由美の態度や言動におかしなところがあった。何かを言いたそうにしていたがそれを躊躇ったり、何か隠し事をしているような素振りがあった。
寂しがり屋の彼女のことだ。もしかすると、みんなと別れる辛さに耐えられなくてみんなに内緒で行ってしまったのではないか。最後の最後まで、明るく振る舞って笑顔で取り繕っていたのではないか。
「このバイクならまだ追い付くかも知れないわ。ケンゴくん、付き合って」
この事態に頭が整理できず、拳悟はまだ気が動転していた。由美に追い付いたところで何ができるのだろうか、彼女を止めることができるのだろうか。
いや、今は深く考えていても仕方がない。このまま離れ離れになったらきっと後悔だけが残ってしまうはずだ。彼は意を決したように力強く頷いた。
「実家へ向かっているとなると……彼女たちは矢釜市の北西部に向かっているはずだわ」
夢野一家へ追い付くためには二つのルートがある。静加は頭の中に矢釜市の地図を思い浮かべながらそう話した。
一つ目のルートは幹線道路。実家への直線距離は短いものの、道中は交通量も多くて信号も多いため交通渋滞に巻き込まれやすい。
二つ目のルートは矢釜海岸沿い。実家までの直線距離は長くなるが、その反面交通量も少なく信号も少ないので交通の流れが速い。
相手は輸送メインのトラックなのでそこまで高速で走行はしないだろう。排気量四百CCのバイクの性能と機能を生かせれば十二分に追い付けるという計算だ。
「ケンゴくん、どうする?」
「…………」
拳悟は想像してみた。由美がアパートを離れて帰宅するとなると、どういうルートを選択するのだろうかと。
とはいえ、引っ越し業者や両親もいる中、彼女の選択が採用されるとは限らない。それに土曜日の交通量も考慮しなければならない。いろいろなパターンを想定すると答えに行き着かずに迷走するばかりだ。
だから、彼は直感で決めた。考えるよりもまずは行動だ。
「よし、行くぞっ!」
由美に会いたい、会って真実を確かめたい。拳悟はこの上ないほど気持ちが高ぶっていた。今こそ、己の中に眠る男気と根性を見せてやると。
「さあ、後ろに乗って!」
静加から後部座席に乗るよう指示された拳悟。ところが、彼は彼女にバイクから下りるよう促す。
「俺が運転する。シズカちゃんは道案内を頼むよ」
「えっ! あなた、運転できるの!?」
「うん、二年前に合宿で取ってんだよ。自動二輪の免許証」
ちょっぴり不安もあったが、今は彼に任せてみよう。静加はヘルメットを被ると後部座席に腰を下ろした。
「急ぐのはいいけど、できる限り安全運転でお願いね!」
「オーケイ! これでも合宿の時は暴れん坊って呼ばれてたから大丈夫」
「ちょっと、それ大丈夫に聞こえないわよ!?」
勝と拓郎に見送られながら、拳悟と静加を乗せたバイクは激しいエンジン音を轟かせながら疾走を開始した。
果たして、拳悟たちはどんなルートを選択するのか、そして由美に追い付くことができるのだろうか――。




