第四十二話― これぞ青春 派茶目茶高校よ永遠なれ!【前編】(3)
それから二日後、月曜日の夕方過ぎ。ここは派茶目茶高校から十数分ほど離れた先にある小さな喫茶店、店名は“ランデブー”。
カウンター席に腰を下ろしているのは、下校の途中で立ち寄った拳悟が一人きり。そんな彼と向き合っているのはこのお店のマスター。彼ら二人の関係は同じ学校の先輩と後輩の仲である。
常連客以外はほとんどやってこないこの喫茶店。夕刻という時間帯のせいもあってか、店内はマスターと拳悟の二人だけであった。
「珍しいな、おまえが一人でやってくるなんて。まさか、彼女にフラれたんじゃあるまいな?」
「まさか。今でもラブラブだよ」
ちなみに彼女とは由美のことだ。マスターは彼女とも顔見知りであり、拳悟と恋仲となっていることもすでに知っていた。
「ふーん、その割にはあまり元気ないじゃないか」
「まあね……」
拳悟はコーヒーをすすった後、フーッと重たい溜め息を漏らした。マスターが察した通り、彼の表情からどこか活気のようなものが感じられない。
数分ごとにチラリと店内の壁掛け時計に目をやり、いつになく落ち着きがない様子の彼、それはどうしてかというと。
『カララ~ン――』
店内に鳴り響くカウベルの高らかな音色。この時間には珍しく来客のご登場のようだ。
マスターの視線の先に映ったのは、見覚えのない二十代ぐらいのOL風の若い女性の姿。艶のある長い髪の毛から覗く美しい顔立ち、彼は物珍しさも相まってその女性に思わず見惚れてしまった。
「――あ、いらっしゃいませ」
お客様に見入っている場合ではない。マスターは慌ててその女性をカウンター席へと促した。すると、彼女は店内をクルクルと見回しながら口を開く。
「済みません。女性と待ち合わせしているんですが。……まだ到着していないようですね」
待ち合わせということで、カウンター席ではなくテーブル席へと案内されたその女性。彼女の正体こそ由美の姉である理恵なのであった。彼女はこの日、親友であり高校時代の先輩でもある静加から呼び出されていたのだ。
氷の入った水の容器をテーブル席へ置くマスター。注文を確認すると、理恵はもう少し待ってほしいとサインを送る。待ち合わせ相手が来てから注文すると。
彼女はそわそわしながら腕時計にそっと目をやる。ただいま午後六時を過ぎたばかり。待ち合わせ時刻は優に過ぎていた。
待ち合わせ時刻になってもなぜ静加は現れないのだろうか。もちろん、それにはきちんとした理由があった。それを知っている人物こそ、カウンター席にいる緊張した面持ちの拳悟その人だった。
彼は意を決して席を立ち、テーブル席に座っている理恵の傍へ歩み寄っていく。
「シズカ先生は来ないよ」
「えっ!?」
理恵はびっくりして顔を向けた。静加のことを知っているなんて、いったい何者なのかと。
すぐ傍にいるのは高校生ぐらいの男性。一瞬誰かわからなかったが、よく見てみると見覚えのある顔をしていた。
「あ、あなた、まさか……」
「お久しぶりですね」
記憶の奥から蘇ってくる忌まわしい過去――。湧き立つ怒りで理恵の全身が震え出し、顔色がみるみる紅潮していく。
「あんたがどうしてここに! 先輩が来ないってどういうことよ!?」
興奮と混乱のあまり、理恵は店内に轟くほどの大声で喚き散らした。目の前にいるのは不良だ。何かしらの悪巧みに巻き込まれたのではないかと思って、彼女の頭の中はパニックに陥っていた。
これに驚きを隠せないのはマスターである。いきなり美女がやってきて、それが拳悟とは顔見知り、しかもその二人にとんでもない因縁があるようで何が何だかさっぱりわからない。
「ちょっと待ってくれ! 今日は話し合いがしたくて来てもらったんだ」
とにかく冷静になってもらおうと、拳悟は必死になって事情を説明した。
話し合いとはつまり、由美との交際を正式に認めてもらうことただその一つ。そのために彼は、理恵と二人きりで話し合いがしたいからと静加に頼み込んだ。
静加はその時、不安が拭い切れなかった。不良嫌いの理恵が拳悟との話し合いに応じるのだろうかと。
ただ第三者である自分が出しゃばるのも良くないし、ここは拳悟の熱意と誠意にかけてみたい。そう考えた末、彼女はこの日のセッティングを承諾したのである。
こうして、いざセッティングしてもらったものの……静加の予感は的中した。事の真相を初めてここで聞かされた理恵は当然ながら納得できるわけがない。不良の相手なんてお断りとばかりに、彼女の憤慨は収まる気配すらなかった。
「冗談じゃない、帰らせてもらうわ!」
拳悟の訴えに取りつく島などなく、理恵は一方的に話を断ち切ってお店を出ていこうとする。
せめて話だけでも!お願いだから!彼の熱意と誠意は、彼女を振り返させることもできず空しく背中をすり抜けていった。
「あの、お客さん」
張り詰めた緊張感の中、理恵の足をピタッと止めたのはマスターの一声だった。
彼の方へ顔を向ける彼女。睨みを利かせた鋭い目線が飛んできて彼は思わずたじろいでしまったが、ゴクッと生唾を呑み込んで心を落ち着かせてから言葉を繋ぐ。
「どんな事情があったか知りませんが、せっかく来店したんですから。せめてコーヒーだけでもご賞味していきませんか?」
「…………」
昔ながらのサイフォンがコポコポと沸騰している。店内に流れているジャズミュージック、かすかに漂ってくるコーヒーの芳醇な香り。そんな独特の雰囲気がギスギスした感情をどことなく消していくようだ。
理恵はわずかに視線を落として押し黙る。喫茶店のマスターには何の罪もないわけで、当然ながらヤツ当たりする理由もなく文句を言える立場でもない。それと、お店で怒鳴り声を上げてしまった恥じらいを反省する自分もいた。
それから数秒間の沈黙……。彼女はクルリと振り返るとテーブル席へ向かって歩き出した。
「……コーヒーをいただけるかしら。ブラックで」
「かしこまりました」
マスターは安堵の笑みを零した。彼だけではなく、理恵が話し合いの席に着いてくれたことにホッと胸を撫で下ろした拳悟も同様だった。
テーブル席に腰を下ろした彼女。話し合いの席に着いてくれたものの、その心中は穏やかではないだろう。それが憮然とした表情からも窺い知れる。
拳悟は緊張の面持ちで、彼女の向かい側のテーブル席へと腰掛けた。さてここからどうしようか。話の切り出し方を学力が乏しい頭の中で思案する。
しばらくすると、マスターがブラックコーヒーを二つ持ってテーブル席へとやってきた。それをそっとテーブルの上に置く。どうぞ、ごゆっくりと、この状況で空気の読めない言葉を投げ掛けながら。
「…………」
「…………」
口を閉ざしたまま向かい合う理恵と拳悟の二人。これでは何も進展しない。
由美との交際を認めてもらわなければ。この貴重な時間を無駄にしてはいけない。一人の男ととしてきちんとケジメを付けなければ。そういった観念が、拳悟の勇気を奮い起した。
「あの、お姉さん!」
「あなたに、お姉さんなんて呼ばれたくないわ」
「いや、あのその……」
開口一番、拳悟は出鼻をくじかれてしまった。二の句が継げなくなって口を噤んでしまう。
女性との対話には長けており、むしろ女性を口説くことを得意としている彼でも、恋人の姉が相手ともなればそう簡単に自分のペースに持っていくのは難しい。
とはいえ、ここまで来てマイペースなんて言ってられない。まどろっこしい表現など無意味だ、ここはストレートに伝えよう。彼はそう結論に行き着いた。
「お願いです。ユミちゃんとの交際を許してください!」
「許しません」
理恵は躊躇いなく返答する。まさに即答だった。
「あんたみたいな男に、妹を安心して任せられるわけないでしょう」
「あんたみたいな男とは……?」
「素行不良に決まってるでしょう」
日頃から悪事を働いていること、それを一般的に素行不良という。理恵の言い分からしたら、友人たちと連れ立って学校帰りに街をブラブラしたり、気安く女性に声を掛けてナンパしたりするのは素行不良と同じなのだ。
これには拳悟は納得がいかなかった。学校帰りに街で遊んだり女性をナンパしたりするのは高校生なら当たり前、それこそ青春真っ只中と言えるものだ。
確かに、自分自身は利口で優等生ではないのは承知している。暴言も吐くし、ケンカもするし、学校を遅刻や早退だってする。だけど、それだけで不良呼ばわりされるのは心外だ。彼は声に出さずとも表情には若干の苛立ちが映っている。
「つまり、高校生なら下校したら真っ直ぐに家に帰って宿題やって、夜更かしもしないでさっさと寝ろ、そう言いたいんで?」
「そこまで極端なことを言うつもりはないわ。ただ、高校生だったらそれなりの風紀を守って行動を慎みなさいと言ってるの」
理恵の表情にも少しばかりイライラが表れてきた。拳悟が皮肉っぽく言い返してきたのが気に食わないのだろう。
「ふーん、それなら、俺がその風紀を守って行動を慎んだら、ユミちゃんと付き合っても問題ないんだね?」
「それとこれとは話が違う。その時にならないとわからないわよ」
不良でもダメ、風紀を守って行動を慎んでもダメ。これでは改善のしようがないではないか。当然と言うべきだが、拳悟は釈然としない顔つきだ。
「結局どっちもダメじゃん。あまり言いたくないけどさ、姉が妹の色恋沙汰に口出すのもどうかと思うけど」
「そんなこと、あんたに言われる筋合いはない。わたしだって妹の恋愛にまで口出しするつもりはなかったわ。相手があんたみたいな落ちこぼれじゃなければね!」
『ドン――!』
理恵は感情的になってついテーブルの上に握り拳を叩き落とした。声のトーンの大きさ、紅潮していく顔色、明らかにイライラゲージが上昇しているのがわかる。
イライラゲージの上昇は何も彼女ばかりではない。真正面にいる拳悟も同様だった。人一倍プライドを重んじる彼にとって、まるで人格そのものを否定されたような言い方は断固として許されるべきではなかった。
ついに冷静さを失ってしまう彼。するとどうなるか、もうそれはここで言わずもがな。彼本来のやんちゃで悪ガキ根性が飛び出してくるのである。
「あんたさ、はっきり言うけど子供と一緒じゃん。自分の思い通りにならないと気が済まないんだろ?」
「な、何ですって!?」
子供扱いされた、しかも不良の高校生なんかに。理恵は怒り心頭でテーブル席から立ち上がる。ついにイライラゲージが最高潮に達した。
激しく睨み合う拳悟と理恵の二人。まさに一触即発、すぐにでも取っ組み合いのケンカに発展してしまいそうだ。
その様子をカウンターの奥から窺っていたマスターはハラハラドキドキが止まらない。仲裁に入るべきと思い立ったが、ここで他人が入ると余計にややこしくなる可能性もある。彼は冷や汗をかきながら状況を見守るしなかった。
「わかった、あんた彼氏がいないだろ?」
「――――!?」
拳悟の一言が理恵の表情を一瞬で強張らせた。なぜかというと、それが図星だったから。実際に彼女は現在、交際している男性はいない。
言葉に詰まって仁王立ちしたままの彼女。どういうわけか、それがどうしたというの?と言い返せない。彼氏がいなくても不思議なことではないのに後ろめたさを感じてしまうのはどうしてか。
彼女が黙っているものだから、彼の悪態はどんどんエスカレートしていく。その時の彼には年上のお姉さんに対する礼儀や尊厳など皆無であった。
「妹に彼氏ができたから羨ましいんだろ? 自分ばっかり寂しくてさ。だから妹の交際を反対したいんだ。そうだ、それで間違いない!」
理恵は歯軋りさせながら身震いしていた。悔しくてたまらない、ここまでの侮辱、屈辱を味わったことは過去にない。礼儀だけではなくまさかデリカシーすら持ち合わせていないのか。彼女の堪忍袋の緒は木っ端微塵に切り裂かれた。
「いい加減にしなさいよっ!!」
――それは突発的な行動だった。理恵はテーブルの上にあった水のグラスを手にすると、それを思い切り拳悟に向かってぶちまけた。
突然の出来事に、さすがの彼もびっくりして唖然としてしまった。顔やら髪の毛、そしてシャツまで冷たい水で湿っている。
「帰らせてもらうわ!」
拳悟に背を向けて一人で歩き去っていく理恵。もう話し合いに応じるつもりはないだろう。つまりそれは交渉決裂を物語っていた。
カウンターへやってきてコーヒー代金の三百五十円を支払うと、彼女は足早に出入口のドアをこじ開けて出ていってしまった。
けたたましく鳴り響いたカウベルの音が止むと、嵐が去ったかのような静けさが店内に戻ってきた。
「…………」
呆然としながら天井を仰いだ拳悟。氷水のおかげで熱があっという間に冷めていく。冷静さを取り戻していくと同時に、自分自身の愚かさと情けなさが心の中を埋め尽くしていった。
そんな拳悟の傍へゆっくりと近寄ってくるマスター。乾いたタオルを拳悟の濡れた顔にそっと掛けてあげた。
「どういう事情かだいたいわかったけどよ。どーみてもおまえの方が悪いぜ」
マスターは由美の存在を知っているだけに、理恵が何者だったのか、また拳悟がどうして元気がなかったのかなどおおよその察しが付いたようだ。
かわいい後輩のことだから応援したくもなる。だが、いくらプライドを傷付けられたとしても女性に対しての非礼は恥じるべき。立派な男だったら紳士として振る舞えと、マスターは先輩の一人としてそう諌めた。
とはいえ、今更反省したところで時間は戻ってはこない。謝罪を兼ねてもう一度話し合いの場を設けても応じてはくれないだろう。はて、どうしたものか。事態は暗礁に乗り上げてしまった。
「ねぇ、マスター」
「おう、どうした?」
タオルを顔に掛けたまま拳悟がポツリと呟く。
「このタオル、臭いんだけど」
「悪い、悪い。丁度いいの持ってきたら、それ雑巾だったわ」
――拳悟の心はますます曇り空の中に包まれてしまうのであった。
* ◇ *
その日の夜のこと。
「プルルルル、プルルルル……」
公衆電話の中で受話器を握り締めている少女、その名は由美。
自宅の電話機ではなくわざわざ公衆電話を使ってまで連絡を取る相手、それは彼氏である拳悟。姉の目を盗んで電話のやり取りをしなければいけない。
――それから数秒後、受話器の向こうから男性の声が聞こえてきた。
「……もしもし」
「ケンゴさん?」
「ユミちゃんか」
拳悟と由美は安堵の声を漏らす。距離が離れていても、お互いの声が届いたことが何よりも嬉しい。
「今大丈夫? 話がしたかったから」
「大丈夫だよ。俺も話がしたかったんだ」
交際を反対されている以上、拳悟の方から由美に連絡することができない。だからこそ、由美の方から連絡してもらえると助かるというわけだ。
「ユミちゃんからどうぞ」
「ううん、ケンゴさんからどうぞ」
お互いがお互いに先に話すよう譲り合った結果、先に話すことになったのは拳悟だった。
「あのね、実は今日……」
拳悟が切り出したのはつい先程の顛末。そう、静加の協力により由美の姉である理恵との話し合いを設けたこと、しかし交渉は難航し、結局物別れに終わってしまったことだ。
「……そうだったんだ。お姉ちゃん、何も言わなかった」
交際が始まってからというもの、由美と理恵の仲はギクシャクしたままだ。お互いに無視するほどではないが、交わす会話はどこかよそよそしい。それこそ拳悟の話題なんてタブーであろう。
由美は少し前の記憶を思い返してみる。確かに姉が不機嫌そうな顔つきで帰宅してきたような気がするが、まさかそんな出来事があったとは。彼女は驚きを隠せなかった。
「いやはや、面目ない」
「ううん。わたしがちゃんと説得できなかったのが悪いんだもん」
申し訳なさと遣る瀬無さ、さらに不甲斐なさ。拳悟と由美の二人はお互いの傷を舐め合うように励まし合った。こうすることでしかお互いの想いを繋ぎ止めておく方法が見つからなかったのかも知れない。
「でもさ、俺は諦めないよ。ちゃんと認めてもらうまでがんばるから」
「……ありがとう、ケンゴさん」
由美は嬉しさのあまり胸が熱くなった。拳悟が自分のために必死になってくれている。愛されていると感じられる。ただそれだけで幸せだった。
しかし、それと同時に――。その嬉しさと幸せがスーッと引いていくのも感じていた。わざわざ公衆電話で連絡をした理由、伝えなければならない”引っ越し”という事実を思い出して。
ゴクッと緊張の唾を呑み込んだ。心音が小さく高鳴り始める。次は彼女が話を切り出す番だ。
「あのね――」
「そうそう――」
ほぼ二人が同時に声を出した。お互いの声が受話器を通じて反発し合い会話がストップした。
「あ、ごめん」
「いいの、続きをお話して」
由美はまたしても拳悟に譲った。正直なところ、彼女はまだ事実をどう伝えるべきか気持ちの整理ができていなかったから。
それではお言葉に甘えてとばかりに、彼は話を続ける。
「昨日さ、スグルから電話があったんだ。この前の土曜日にさやかと会ったんだって」
それは拳悟にとっても由美にとっても明るい話題だった。
彼曰く、勝は土曜日の休みを利用してさやかが暮らす街へと遊びに行ったらしい。遊園地へ行ったりお買い物に行ったり食事に行ったりと、話のほとんどがのろけ話だったそうだ。
これには由美の沈んでいた表情も少しだけ晴れやかになった。勝とさやかのキューピット役でもあった彼女、二人が幸せであることが何よりも嬉しかったのだろう。
「そうか。離れていても二人の気持ちは一緒なんだね」
由美は心が救われた気がした。離れ離れになっても恋人同士でいられる、たとえ離れたとしても愛する気持ちは変わらない。自分が遠くへ引っ越したとしても、きっと、いや絶対に彼を愛し続ける自信があるから。
勝とさやかの関係を自分の境遇に重ねていた彼女。――だが、拳悟の次の一言に彼女の表情は瞬時に青ざめてしまう。
「俺は無理だな。遠距離恋愛は」
「――――!」
何気ない拳悟の一言は、由美の心を凍り付かせるほどの衝撃を与えて、離れ離れになっても愛し続けられる自信を喪失させるものだった。
遠距離恋愛は無理――それはつまり、離れてしまえば破局を迎えるということか。彼女の頭は真っ白になって言葉を失ってしまった。
ショックのあまり気が遠くなるような感覚。彼女は全身が小刻みに震えていた。受話器を持つ両手すらも。当然ながら、それが受話器を通して拳悟に伝わることはなかった。
「お待たせ、ユミちゃん。話って何かな?」
「…………」
拳悟が話を振っても由美から反応がない。彼は不思議がって小首を傾げる。
「ユミちゃん?」
「――あっ、ごめんなさい」
ハッと我に返った由美。気付かぬうちに、背中は汗でびっしょりだった。
「次はキミの番だよ」
「……う、うん」
由美は言葉に詰まってしまう。彼女がここで打ち明けるつもりでいた事実、それはここ矢釜市から引っ越して派茶目茶高校を転校しなければならない。
だがそれを言えるわけがない。お互いが愛し続けられる自信を喪失した今、正直な話を切り出せるなんてできるわけがない。
「あれ? 言いにくいことなのかい?」
「…………」
混乱に陥るぐらい、頭の中がさまざまな思考で埋め尽くされる。どう言葉を発したらいいのだろうか、この場をどう取り繕ったらいいのだろうか。数秒間の沈黙の後、由美が出した結論とは。
「ごめんね。わたしの話はまた会った時にでも」
由美は正直に伝えることを躊躇った。気持ちを落ち着かせてから、そして言葉を整理し直してから話そう。そういう結論に至ったようだ。
「あ、その代わりにね……デートに連れて行ってほしいの」
デートのお誘いなら大歓迎、お安い御用だ。拳悟は快く承諾した。この二人だが、交際が始まってからというもの、一緒に下校する以外にデートらしいデートは一度もなかった。
「どこがいい? 矢釜遊園とか?」
「ううん、海に行きたい」
海といったら矢釜海岸だろう。矢釜海岸へは矢釜中央駅から電車で一時間ほど進むと辿り付ける。季節感はあまりないが、初デートにはもってこいの場所であろう。
約束の日取りについても決めた。次の土曜日、朝八時に矢釜中央駅の待合室で合流することになった。
――次の土曜日、それは由美が姉と両親と一緒に観光に行く予定がある日であった。彼女はあえてその日を選択した。その意図とは?
「それじゃあ、そろそろ切るね。嬉しかった」
「俺も嬉しかったよ。それじゃあまた明日学校でね」
時間にして十分少々、由美と拳悟は会話を終えてそっと受話器を置いた。
デートの約束を決めた二人、期待に胸を膨らませる彼とは裏腹に、彼女の思いはどこか遠くを彷徨っているようだった。




