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第四十二話― これぞ青春 派茶目茶高校よ永遠なれ!【前編】(2)

「おめでとう、ユミちゃん」

「やってくれたわね、ユミちゃん」

「とてもお似合いのカップルですわ」

 三年七組の教室内は由美と拳悟のカップル誕生に大賑わいだ。

 拓郎、麻未、そして舞香の三人はそれぞれお祝いのメッセージを贈った。二人が相思相愛の仲であろうと思っていただけに、ようやくくっ付いてくれたかと安堵の表情も浮かべていた。

「や、やだなぁ、みんな集まってきてー」

 由美は恥じらいながら困った顔で受け答えする。それでも幸せいっぱいなので、友人からの祝福は素直に受け取っておきたい。

「ねぇねぇ。何て告白したの?」

「え? それはその、ごく普通な感じで……」

「へぇ、そうなんだ。その時のケンちゃんの反応はどうだった?」

 次から次へと麻未から質問攻めに遭ってしまい、由美は答えに詰まってしどろもどろになってしまう。正直なところ、昨日の出来事を思い出すだけで顔から火が出るほど恥ずかしかったりする。

 どう答えるべきか困り果てている由美に助け舟を出したのは、このたびの告白劇の立役者であるクラス委員長の勝だった。

「おい、そういうのはあんまり聞くなって。おまえは芸能レポーターか」

「え~、でもさ、知りたくなるもんなのよ~」

 うら若き乙女なら誰だって恋愛話に興味深々なもの。そう主張する麻未は目を輝かせてすっかり色めき立っている。

「そういうのはな、二人だけの秘密ってヤツなんだよ」

『パチン!』

「あいたぁ!」

 勝はいい加減にしなさいとばかりに麻未のおでこを指でこつんと弾いた。デコピンがあまりにも華麗に決まったものだから、周囲にいるクラスメイトたちは溜まらず笑い声を漏らしてしまった。

 告白シーンは恋愛成就させたカップルだけの大切な思い出だ。そう主張する勝はもちろん、自分の告白についての質問にはノーコメントを貫いている。

 笑い声が飽和する和やかな雰囲気の中、教室のドアを開けて元気良く入ってくる男子生徒がいた。それは何を隠そう、由美の恋心をバッチリと射止めた喜びいっぱいの拳悟であった。

「よう、諸君。おはよう!」

 クラスメイトたちが一斉に拳悟に注目した。いつもと少しばかり様子が違うので、彼は思わず呆然としてしまった。

「ん? どうかしたのか」

 その直後、クラスメイトたちが割れんばかりの拍手で拳悟を出迎えた。三年七組一番の幸せ者のご登場に教室内はそれはもう大賑わいだ。

 そんな幸せ者に向かって、勝と拓郎の二人がいきなり駆け足で突進していく。どういうわけか握り拳を振りかざして。

「来やがったな、この幸せ者!」

「羨ましいぜ、この野郎!」

 勝と拓郎は有無を言わさず、拳悟に向かってパンチやキックをお見舞いした。これこそが、ハチャメチャトリオを結成する彼らなりの祝福のやり方なのであろう。

『ポカポカ――! ガスガス――!』

 とはいえ、このパンチとキックがエスカレートして数秒間も続いたらお祝いどころではない。というわけで、拳悟も我慢の限界を突破して反撃せずにはいられなかった。

「いい加減にせんかぁー!」

 拳悟は怒鳴り声を上げるなり勝と拓郎の胸倉に掴み掛かった。

「きさまら~、かなり根に持ってるようだな」

「ははは、そんなことねーって」

「そうそう、気にし過ぎってヤツさ」

 あくまでもお祝いの気持ちだと言い張る勝と拓郎であるが、三年七組のマドンナをゲットした拳悟に妬みや嫉みといった感覚がないと言ったら嘘になるだろう。

 悪友二人はさておき、他のクラスメイトたちからはおめでとうコールで迎え入れられた拳悟。これにはさすがの彼も顔が緩みっ放しで照れ笑いを浮かべるばかりであった。

「ケンちゃんにはもったいないよねぇ」

「ユミちゃんを大切にしなくてはいけませんわよ」

「わっはっは。何とでも言いやがれ」

 麻未と舞香もちょっぴり意地悪な言葉で拳悟を出迎えた。これも幸せ者に対する羨ましさの裏返しというやつかも知れない。

 それでも今の彼にしたら、女子たちのちょっとした嫌味や忠告なんてまるで気にしないといったところか。むしろ、それが心地良く感じるほどすっかり有頂天になっているようだ。

 そんな彼の登校を誰よりも心待ちしていたのは言うまでもなく由美だ。彼女はゆっくりと椅子から立ち上がると照れくさそうにはにかんだ。

「ケンゴさん、おはよう」

「おはよう、ユミちゃん」

 いつもと変わらないありふれた朝の挨拶。だが、晴れて恋人同士になった拳悟と由美の気持ちは今までとは違う。

「…………」

「…………」

 黙ったままお互いに見つめ合う拳悟と由美の二人。クラスメイトから冷やかされようが野次を飛ばされようが関係なし。そこには誰にも邪魔されない二人だけの世界があった。

 とはいえ、いつまでも見つめ合っているわけにはいかず。始業開始のチャイムがスピーカーから聞こえると、ハッピーな二人を邪魔するかのように担任の静加が教室内へと入ってきた。

「ほらほら、いつまでも突っ立ってないで席に着きなさい」

 静加の一声により、生徒たちはそれこそ蜘蛛の子を散らすように走り出して一目散に着席した。少しでも機嫌を損ねさせると、彼女ご自慢の聖なる鉄槌が飛んでくるからだ。

 ここでいつもならシーンと静まり返る朝のホームルームだが、今日ばかりはいつもと違った。

「やぁ、シズカちゃん、おはよう! 今日も一日よろしくねっ」

 突然大声を張り上げて挨拶を交わしたのは拳悟だった。それを見るなり静加は一瞬だけ呆気に取られたが、その真相がはっきりとわかった途端クスリと不敵な笑みを浮かべた。

「ケンゴくん、やけに元気いっぱいじゃない。何かいいことでもあったのかしら?」

「ははは。そうだね、人生がバラ色ってこういうのを言うんだろうね」

 拳悟は態度も口ぶりもどこかおかしくてわざとらしい。このとぼけた素振りが周囲の生徒たちの失笑を買ってしまったのは言うまでもない。

 静加はもちろん拳悟が浮かれる理由を知っている。そんな彼の前途を祝してやろうと思い付いた彼女は、知らぬ存ぜぬ振りをしながら最高のプレゼントを贈ることにした。

「よし。バラ色の人生を手に入れたキミには、今日の放課後、特別に英語の補講をしてあげよう!」

「なぬ!? ちょ、ちょっと待ってくれ、シズカちゃん! そんなのやられたらまた灰色の人生に戻っちまうよっ」

 補講なんてまっぴら御免。拳悟は両手をブンブンと振って拒否を示した。卒業がかかった英語検定で猛勉強してからというもの、若干ながら英語アレルギーに陥っている彼なのであった。

 由美と一緒の補講ならどう?と静加から提案されると、拳悟はうーんうーんと唸りながら困惑していた。英語の勉強は大嫌いだけど、由美と一緒なら楽しいと思える心晴れやかな彼がそこにいた。

「ケンゴさん、わたしと一緒に補講を頑張りましょう」

「おいおい、ユミちゃんまでその気にならないでよ~。とほほ」

 由美が乗ってくるとは思っておらず、拳悟はますます頭を抱えて困惑してしまうのだった。

 カップル二人のやり取りに三年七組の教室内が大爆笑に包まれる。そんな中、静加が茶目っ気たっぷりなウインクをしてピースサインを送った。それに応えるように、由美もニコッと微笑んで小さなピースサインを送り返した。


* ◇ *

 その日の夜、ここは由美と姉の理恵が暮らすアパートだ。

 由美は前日の夜、外泊を許可されて担任の静加の家に泊まった。さすがに二日連続で泊まるわけにもいかず、静加に付き添われながら重たい足取りのまま自宅へと戻ってきた。

 理恵は仏頂面でどっかりと腰を下ろしていた。虫の居所が悪いのはその表情からも見て取れる。家出同然の行為に走った妹に対して思うことがあるのだろう。

 そんな姉を警戒しているのか、由美はまるで隠れるかのように静加の後ろで小さくなっていた。今はただ、静加が事を丸く収めてくれるのを期待するしかなかった。

「あなたも本当に強情ねぇ。許してあげなさいよ」

「いいえ。絶対に許すわけにはいきません」

 話題はもちろん、由美と拳悟の清き交際についてだ。静加は若い二人の交際を認めてやるよう説得するも、理恵は頑固一徹でそれを認めようとはしない。このままでは事態が進展せずに埒が明かない。

 理恵は不機嫌そうな顔つきで本音を言う。別に妹の交際を認めたくないわけではない。ただ、交際相手に問題があるのだと。

「つまり――。あの子じゃなければ許してあげた、と」

「そういうことです」

 フーッと重たい溜め息を漏らした静加。理恵が不良を毛嫌いしているのは知っている。だから否定的になるのも無理はないが、一人の男の子を一面だけでしか判断しない考え方にもいささか問題があるのではないかと指摘する。

「確かに、彼はやんちゃなところもあるし不真面目なところもあるけど。でもね、彼には彼なりにいいところもあるのよ」

 拳悟という少年は、世間一般的に言えば落ちこぼれと呼ばれても仕方がない。それでも、クラスメイトから慕われて頼られて何よりも愛されている。それぐらいの人望の持ち主なのだ。

 静加は担任として二年以上もそんな彼を見守り続けてきた。手を焼いた分、彼のいい面をよく理解しているつもりだ。由美のことを真剣に愛して、そして守ってくれると断言もできる。

 だからこそ聞く耳だけでも持ってほしい。静加がそう訴えかけてみるも――。

「あの不良にいいところなんてありません! 憎たらしいだけの畜生です!」

 眉を吊り上げて、それこそ鬼の形相で大声を張り上げた理恵。聞く耳なんて冗談ではない。拳悟という人間を真っ向から拒絶する構えを崩そうとはしなかった。

 彼女は興奮が収まらないのか声の調子がどんどん激しくなっていく。落ち着きなさいと静加が慌てて宥めても、それが火に油を注ぐ結果となりますますヒートアップしてしまう。

 出るわ、出るわ、拳悟に対する悪態と侮辱。これにはさすがの由美も黙って聞いていられるはずがない。怒りの感情が高ぶってしまい顔を真っ赤にしながら思わず暴言を吐いてしまった。

「お姉ちゃんは何もわかってない! 何もわかってないくせに偉そうなこと言わないでよっ!」

 由美のこの暴言こそ、火に油を注いだ中へさらに薪をくべるようなもの。理恵は右手を振りかざすなり怒髪天を衝く勢いでいきり立った。

「あんたは黙ってらっしゃい!!」

「ひっ! ゴ、ゴメンなさい!!」

 引っ叩かれたらたまったものではない。由美はすぐさま静加の後ろへと隠れてしまった。姉の脅威になす術もなく、全身をブルブルと震わせるしかなかった。

「とにかく静かにして! お隣さんから苦情が来ちゃうわ」

 ここは古めかしい木造アパートだけに怒鳴り声が隣の部屋に伝わってしまうかも知れない。静加は事態を収束させようと躍起になった。言い争っていても何も解決しない、とにかく冷静になりなさいと。

 幸い隣の部屋の住人は留守だったようで苦情まではなかったが、理恵が怒りを静めるまでそれから十数秒ほどの時間が経過した。

「仕方がないわね。このお話は終わりにしましょう」

 静加はお手上げとばかりに深い吐息を漏らした。由美と拳悟の二人のために何とかできればと思っても、理恵がこの状態では話が進まないどころか余計にこじれてしまい兼ねない。

 傷口を大きく広げてしまう前に撤退しよう。静加は後ろ髪を引かれながらもゆっくりと腰を持ち上げる。

「ユミちゃん、ごめんね。これ以上は力になれそうにないわ」

「いいえ。どうもご迷惑をお掛けしました」

 由美は落胆の色を表情に映しながら頭を下げた。頼れる静加の説得でも姉の了解を得ることができなかった。姉とのぎこちなさもあるだろうし、これからの生活に不安が尽きない。

 とはいえ、静加をずっと引き止めておくわけにもいかない。彼女が部屋から出ていくのを黙って見送るしかなかった。

「先輩。怒鳴ってしまった非礼はお詫びします」

「わかってるわ。わたしの方こそ余計な口出しをしてゴメンなさい」

 理恵は憮然とした顔のまま静加を見送った。多少の言い合いとなっても、お互いへの気遣いを忘れない彼女たち二人。高校時代からの強い友情はこんなことで壊れたりはしないだろう。

 静加が玄関から出ていくと部屋の中がシーンと静まり返った。当然ながら、姉妹二人に弾んだ会話もなく顔すらも向け合うこともなかった。

「…………」

「…………」

 ――しばらく沈黙の時間が続く。

 由美は当惑していた。自分は悪くないと思っていても、やっぱりどこか負い目を感じていた。姉と仲直りしたいがそのきっかけが思い付かない。

 居心地が悪くて落ち着かない。どうにかしたいけどどうにもできない。もどかしさを抱えながら、肩を落として黙り込んだままの彼女、すると、長い沈黙を先に破ったのは姉の理恵の方だった。

「ユミ、そのままで聞いてちょうだい」

 どんな話なのだろうか。由美はドキッと心音が高鳴り、理恵の言葉に耳を傾ける。

「お父さんとお母さんね、日本に帰国したそうよ」

「え、本当に?」

 彼女たちの両親は一年ほど前から仕事の都合で海外へ出張に出ていた。どうやらその出張が終わったらしく、つい先日帰国の途に就いたとのことだ。

 昨日の父親からの電話はその話だったのだろう。由美は驚きの声を漏らした反面、両親が無事に帰ってきてくれて安堵の表情も覗かせていた。

「それでね、次の週末にここへ来るそうよ」

 久しぶりに両親に会える。しつけに厳しくても優しい一面もある父親、柔和な笑みを絶やさず気配りを忘れない母親、そんな二人に会えると思ったら由美の気持ちはパッと晴れやかになった。

 嬉しさと恋しさのあまり表情が綻んでいた由美。――ところが、理恵の次の一言でそれが一瞬で消え去ることになる。

「あなたを実家へ連れ戻すためにね」

 それは由美にとって衝撃的な一言だった。彼女は一瞬、どういうことなのか理解できなかった。

 実家へ連れ戻される、つまりここ矢釜市から離れる、ということは派茶目茶高校ともお別れすることになる――。彼女の思考がその結論に行き着くまでしばらくの時間を費やした。

「そ、そんな……。そんなのって……」

 由美はショックの大きさに声を震わせた。その時、彼女の頭の中には派茶目茶高校で知り合った親友たちの顔が浮かんでいた。――もちろん、愛すべき彼氏の顔も。

「そんなのってひどいよっ!」

 あまりにも一方的過ぎる。納得などできるはずがない。由美は顔を紅潮させながら怒鳴り声を上げた。

「あなたの言いたいことはわかるわ。でもね」

 そもそも、由美がここへ来たのは両親が家を留守にしなければいけなかったからだ。だから両親が帰宅したのであれば由美がここにいる理由もなくなる。理恵は冷めた表情でありのままにそう話した。

 だからといって、由美にしてみたらそれを素直に受け入れるなんて無理な話だ。両親の都合が変わっただけで引っ越しやら転校までさせられたらあまりにも身勝手だからだ。

 直接両親と話したい、そして説得したい。由美が興奮しながらそう申し出るも、理恵はそれをさせようとはしなかった。無理なのは百も承知のことだったから。

「連れ戻されるのはあなただけじゃない。このわたしもなのよ」

「――――!」

 由美は愕然とした。まさか、姉まで実家に連れ戻されるとは思ってもみなかった。

 このアパートは事実上、理恵が契約しており家賃などの維持費もすべて彼女が支払っている。たとえ由美が頑なにここに留まろうとしても一人きりで生活していくのは不可能だ。

 もう諦めるしかないというのか。どんなに拒んでも、どんなに抗っても、自分一人の力ではこの現実を覆すことはできない。由美は落胆の顔色を浮かべて途方に暮れるしかなかった。

 会社員である理恵は、退職などの手続きに多少なりとも時間を要するためもうしばらくここに留まることになるが、退職の手続きが終わり次第すぐに実家へ戻ることになるという。

「……お姉ちゃんは、それでいいの?」

「……お父さんに言われちゃったら逆らえないでしょう」

 理恵は鉛のような重たい溜め息をつく。彼女とて実家への強制送還に難色を示していないわけではなかった。仕事にも職場にも慣れてこれからという時に離れてしまうのだからやり切れなさもあるのだろう。

 彼女たちの父親を表現するなら厳格者で頑固者。一度言い出したら聞かないぐらい融通の利かない性格の持ち主だ。そういう人柄を知っているからこそ、姉も抵抗したりせずに覚悟を決めたというわけだ。

 ――ただ、理由はそれだけではない。

「お父さんとお母さんの気持ちになるとね……。考えてみたら、娘二人とずっと離れて暮らしてるんだもの。寂しさとか愛おしさとかあるじゃない」

 海外出張という事情があって離れて暮らしていた家族、それが今一つになる絶好の機会と言えなくもなかった。

 理恵の言う通り、家族みんなで一緒に暮らす方がいいに決まっている。当然それは由美もわかってはいた。だが、あまりにも急で唐突なものだから気持ちの整理が付かないというのが本音だ。

「詳しいことはお父さんとお母さんが来てからね。それまでは、あなたは普段通りに過ごしてもらって構わないわ」

「…………」

 普段通り……。引っ越しと転校、彼氏や親友たちとの別れをいきなり告げられて普段通りに過ごせるなんてできない。それが正座しながら呆然と床を見つめる由美の今の心境であった。


* ◇ *

 翌日の朝、由美はいつも通りに学校へ登校した。

 矢釜東駅から電車へ乗り込み矢釜中央駅で下車する。

 朝八時過ぎ、派茶目茶高校に辿り着くとそのまま校門を潜り三年七組の教室へ入る。すべては普段通り、何も変わりはない。

 クラスメイトから声を掛けられて、彼女は笑顔でそれに応答する。いつもと変わらないありふれた朝の挨拶だ。

(……今は笑っていよう。まだどうなるかわからないもんね)

 昨晩、姉の理恵から告げられた衝撃的な事実、両親の帰国により実家に帰らなければならない。由美はそのショックを引きずったままだったが、それを表に出すことはなかった。

 両親とはまだ直接話ができていない彼女、熱心に説得すれば、引っ越しや転校の時期が延期になるかも知れない。そんな淡い期待も心のどこかにあった。

 その一方で、理恵が言っていた通り娘二人を恋しく思う両親の気持ちもわからなくもない。両親と一緒に暮らすこと、そして矢釜市に残りたい気持ちとの戸惑いと葛藤に苦しむ自分もいた。

(ケンゴさんと離れたくない。クラスメイトのみんなとも別れたくない。だけれども……)

「……おーい、ユミちゃん!」

『ビクッ――』

 いきなり誰かに呼び掛けられて、考え事をしていた由美は咄嗟に我に返った。

 慌てて声のした方へ顔を向けると、そこには彼氏である拳悟の姿があった。チラッと時計を見てみると朝八時三十分を優に過ぎていた。どうやら三十分近くも考え事をしていたようだ。

「どうかしたのかい? ボーっとしちゃってさ」

 拳悟は心配そうな顔で由美を見つめている。こういう時の彼氏の心遣いはとても嬉しい。だが、今はそれがむしろ悲しくなったりもする心情だ。

「な、何でもないよ」

「それならいいけど。何回も呼んだのに気付かないもんだから」

 何回も呼ばれたのに気付かなかった。普段通りにしているつもりでも、周囲が見えなくなるほど悩んでしまっていたのか。由美はやり切れなさに作り笑いで取り繕うしかなかった。

「あのさ、さっきスグルやタクロウと話してたんだけど、学校の近くにおいしいラーメン屋ができたんだって。放課後に寄っていかないか?」

 今日の放課後、特に用事はなかった。ただ一つだけ言えるとしたら気持ちの問題だけだろう。

 由美は少しだけ押し黙り考えた。気持ちが沈んでいる時こそ、親友たちとの交流は願ったり叶ったりではないか。一人きりだと余計な心配までしてしまいそうだから。

「……うん。一緒に行く」

「よし、そうこなくっちゃ!」

 拳悟の屈託のない笑顔を見て、由美も純粋に笑顔になれた。不思議なほど心が救われた気がした。

 きっといい展開に向かってくれる。彼女はそう信じてやまなかった。これからも拳悟とたくさんの思い出を作っていけるとそう願わずにはいられなかった。


* ◇ *

 数日後の放課後のこと。

 授業が終わって生徒たちが下校しても、明日の授業や課題の準備で忙しい教員たちはまだ帰宅とはいかない。というわけで、教務室は授業中よりも賑やかである。

 三年七組の担任の静加もその一人。彼女は英語の小テストの作成、それと宿題のチェックのため机と向き合っていた。

「失礼しまーす」

 そんな教務室に一人の男子生徒が入ってきた。彼は有名人らしく、教員とすれ違うたびに声を掛けられては恥ずかしそうに苦笑した。

 この有名人こそ、遅刻や成績の件でしょっちゅう教務室に呼び出しを食らっている拳悟なのであった。だが、今日に限っては呼び出されて来室したわけではない。どんな用事であろうか。

「シズカちゃん」

 拳悟は静加の傍までやってきた。少しばかり騒がしい教務室での彼の声は彼女の耳に届かなかったようだ。

「シズカちゃん、ちょっといいかな」

 肩をツンツンと叩かれてようやく気付いた静加。ふと顔を上げて振り向くと見慣れた教え子の顔があった。

「あら、ケンゴくん。どうしたの、補講の申込みかしら?」

「違うって。英語の補講はホントに勘弁して」

 教務室に苦手意識があるはずの拳悟がなぜここへ?静加は理由が思い当たらずにキョトンとした顔をした。

 どうやら学習や宿題のことではない様子だ。拳悟の表情からして何か悩み事を抱えているような印象を受けるが……。

 教師たる者、教え子のメンタル的な問題にも対処すべき。彼女は業務の手を休めて彼の相談事に耳を傾けてみることにした。

「ちょっと待って。会議室が開いてるか確認するから」

「いや、ここでいいよ。聞かれて困る話じゃないんだ」

 拳悟曰く、自分自身の問題ではないのだという。では、誰の問題なのかというと。

「……実はね、ユミちゃんのことなんだ」

 念願叶って晴れて恋人同士になれた。とてもラッキーでハッピーな拳悟であるが、どうも気になることがあるらしい。それは、数日前から由美の様子がおかしいというのだ。

 授業中や休み時間に呆けている時があり、声を掛けても上の空。そのことを尋ねても作り笑いでごまかされてしまう。彼氏として気が気でないというわけだ。

「シズカちゃんなら何か知ってるんじゃないかと思ってさ」

 他のクラスメイトに聞いたところで誰も知らないと答える。それならば、由美とプライベートでも交流がある担任の静加であれば何かわかるかも知れない。そう思い付きここへやってきたのである。

「……なるほどね」

 静加は納得したような素振りでコクンと頷いた。いくら交流があっても真実までは把握していないが、彼女なりに思い当たる節があるのは間違いなかった。――由美が悩んでしまうであろうその原因について。

「何か知ってるんだね」

「まあね」

 ここまで来て隠し立てしても仕方がない。それに、由美の彼氏である拳悟には伝えておくべきだろう。静加はそう判断して溜め息交じりで口を開く。

「ユミちゃんのお姉さんがね、あなたたちの交際に反対してるのよ」

 せっかく勇気を出して告白し恋が実ったにも関わらず、姉がそれに理解を示してくれなかった。最愛の姉から猛反対されたとなれば、由美が喜ぶに喜べないのも無理はない。

 仲良し姉妹の間に溝ができてしまい、今でもギクシャクした関係のままで過ごしているはず。静加はそう推測しながら由美のことを慮った。

 それを聞いた拳悟だが、ショックを受けるかと思いきや特に驚く様子もなく冷静に受け止めていたようだ。あの不良嫌いのお姉さんなら納得できる、それが彼の心境だったのであろうか。

 ただ、このままでは良くない。お姉さんの許可を得ない限り由美に本当の笑顔は戻ってこないからだ。彼はどうにかできないかと思案に暮れる。

 ――しばしの熟考の後、彼が出したたった一つの結論とは。

「あのさ、一つだけ頼まれてくれないかな」


* ◇ *

 それから数日経過し、今日は土曜日。時刻は午後二時を過ぎたばかり。

 この日、理恵と由美の姉妹は矢釜中央駅のプラットホームにいた。一年ぶりに帰国した両親がここ矢釜市へ観光に来るのを出迎えるためである。

 久しぶりの両親との再会。通常であれば嬉しかったり照れくさかったりするはず。しかし、由美の表情は幾分か堅かった。引っ越し、転校というキーワードが頭から離れなかったからであろう。

 改札口の傍で待つこと十数分、人混みに紛れて姿を見せた五十代前半の男女がいた。それに気付いた理恵が大きく右手を振って合図を送る。

 その合図に気付いた男女、彼女たちの両親は安堵の笑みを零した。改札口で切符を渡すと、逸る思いで娘たち二人の近くまで足を速めた。

「ようこそ、お父さん、お母さん」

「おお、リエ、ユミ。元気そうで何よりだ」

「二人ともお迎えどうもありがとう」

 彼女たちの両親を簡単に紹介しておこう。父親の名前は俊介、貿易関係の商社の課長を務めるエリート社員。母親の名前は涼子、現在は主婦だが父親と結婚する前は保険会社のセールスレディーだった。

 俊介は休日ながらも首にはネクタイを下げてビシッとスーツを着こなしていた。髪の毛も整髪料できちんと整えており、その身だしなみから規律正しい人柄が窺える。

 涼子は春らしく淡い色を基調としたワンピース姿だった。髪型はふんわりとしたボブヘアで顔立ちは化粧のりが良くて美形、さすがは美人姉妹の母親といった感じだ。

 両親二人は帰国して早々矢釜市への来訪となった。目的はもちろん娘二人に会うためであるが、その他にも「水の都」と言われる水資源に恵まれた風光明美なここ矢釜市の観光も兼ねてのものだった。

 滞在期間は一週間。理恵のアパートではさすがに狭いということで、矢釜中央駅周辺のホテルでの滞在となる。

「おまえたちはお昼はどうした?」

「この時間だもの。もう済ませたわ」

 約一年ぶりの家族水入らず、積もる話もあるだろう。というわけで、夢野一家四人は落ち着いて話ができるであろう喫茶店へと向かうことになった。

 その道中、由美は考え事をしながらやや視線を落として歩いていた。引っ越しについてどういう風に話を切り出そうか、どんな風に自分の気持ちを伝えて説得しようか。

 彼女があまりに黙り込んでいるものだから、すぐ隣を歩いていた涼子がそれに違和感を覚えた。

「ユミ。何だか元気がないみたいだけど、どうかしたの?」

「ううん、何でもないよ」

「そう? それならいいけど」

 由美は作り笑いを浮かべていつも通りであると訴えた。それに涼子はホッとしたものの、どうも顔色が優れない娘に気掛かりが拭えない様子だった。

 矢釜中央駅を後にしてから歩くこと十分ほど。夢野一家は商店街の並びにあるレンガ造りのおしゃれな喫茶店へ入店した。

 コーヒーの香りを漂わせるサイフォン、そしてアンティーク調の照明が特徴的なお店だった。カウンター席が八席、テーブル席が四つ。カウンター席の奥には鼻ひげを生やしたダンディー風の男性マスターがいる。

 そのマスターに促されて、ソファータイプのテーブル席へと腰掛けた一家四人。俊介と涼子はブラックコーヒーを、理恵は紅茶を、由美はココアをそれぞれ注文した。

「やはり日本はいいな。空気も水もおいしいし」

「フフフ、そうね。お父さん、向こうでは早く帰りたいって毎日のように言っていたものね」

 テーブルを囲んだ四人の会話はまず、海外出張先での苦労話から始まった。

 不慣れな海外での生活、人種の異なる人々との仕事は俊介にとって相当なストレスだったであろう。彼を支える涼子もきっと大変な思いをしたはずだ。

 ただ一つの救いは、出張先の国の公用語が英語だったことだ。彼ら二人は英語には長けていたのでそこだけは苦労がなかったようだ。

「早く戻れて良かったわね。長ければ確か三年間の予定だったのよね」

 理恵は微笑しながら、苦労話が絶えない両親のことを気遣った。

 出発前の話では、俊介の海外出張の期間は最長で三年間であった。いざ向こうでの業務が開始されると思いのほか順調に進んだらしく、出張の期間が予定よりも短くなり一年間での帰国となったわけだ。

「うむ。自分の努力が報われたということだな」

「こうして、あなたたちと早く会うことができて良かったわ」

 誇らしげに口元を緩める父親、柔和な笑顔を浮かべる母親。久しぶりの再会なのだから、一週間後の帰宅する日は家族みんなで観光でもしようと娘二人を誘ってきた彼らはとても嬉しそうだ。

 そんな両親の姿に、娘二人も自然と表情が綻んで喜ばしく思えてくる――はずなのだが。

「…………」

 由美一人だけがどうにも表情が優れない。ココアばかりすすって、会話どころか両親ともまともに目を合わす素振りさえも見せなかった。

 両親との再会を嬉しく思う、両親と一緒に暮らせることを嬉しく思う反面、ここ矢釜市から離れてしまう、最愛の親友たちとも離れてしまう寂しさに心が支配されている自分もいる。

「おい、ユミ。どうしたんだ?」

「あなた、さっきからおかしいわね。具合でも悪いんじゃない?」

 心配そうな顔をしている俊介と涼子。由美はそれを見て居たたまれなくなり、思わず口を閉ざしたまま俯いてしまった。

 そろそろ引っ越しのことを触れなくちゃ、でもどう切り出したらいいのだろう。由美は頭の中が戸惑いと葛藤で埋め尽くされる。

 救いを求めてチラッと姉の方へ視線を送ってみた。すると、妹の胸のうちを感じ取ってくれたのか姉は理解を示したようにコクンと小さく頷いた。

「ねぇ、お父さん。この前、電話で話した引越しのことなんだけど」

 いよいよ理恵が本題に踏み込んだ。彼女にしてみても、父親からの電話一本で引っ越しすると決め付けられても心の準備ができない。こうして面と向かって話し合う機会が必要だ。

 もちろん、心の準備ができていないのは由美も同じ。彼女は緊張のあまり全身を硬直させながら父親からの回答に耳を傾けていた。

「もう決まったことだ」

 俊介の一言は至って単純明快であった。彼にとって単純でも、今の由美にとってはとてつもなく衝撃的でショッキングな一言だった。

 彼は続けて言う。引っ越し業者には手配を済ませてある。日程は次の週末なのでそれまでに荷物の準備をしておくように、と。

 それと、由美の転校の手続きは引っ越ししてから行うとのこと。転校先は前の学校の方が友人もいて馴染めるだろうと思って、現在転校が可能かどうか学校に確認しているそうだ。

 それがせめてもの配慮だと、由美のことを気遣う俊介であったが彼女本人の気持ちは複雑で納得できるものではなかった。

「……あ、あのね、お父さん」

 由美は弱々しく声を搾り出した。自分自身の本心、ここに留まり続けたい思いを目の前にいる父親に伝えなければ。

「わたし、転校したくない。ここに残りたいの」

 ここ矢釜市へやってきて、派茶目茶高校へ転校してかけがえのない親友たちと出会った。そのおかげで、臆病で引っ込み思案の性格、そして男性恐怖症も少しだけ改善することができた。

 だから、そんな親友たちとお別れしたくない。せめて高校三年生としてもう一年間だけここに居させてほしい。由美はそう言葉を紡いで頭を下げながら懇願した。

 それをすぐ隣で聞いていた理恵は言葉なく黙り込んでいた。彼女もできることならここに残りたい、会社も退職したくない。伏し目がちになった彼女の顔色からそんな思いが伝わってきた。

 娘の切なる願い。それを正面で聞いていた俊介。彼が出した答えとは――。

「ダメだ」

 またしても、俊介の一言は単純明快だった。由美の心を奈落の底に突き落とさんばかりの一言であった。

「ユミ、おまえの言いたいことはわかる。しかしな。家族が揃ったのなら一緒に暮らすのが当然だ」

「そうよ、ユミ。あなたはお父さんやお母さんと一緒にいるのが嫌なの?」

 そうじゃない!家族みんなと一緒にいたいけど、もっと大切にしたいものがあるの!由美は黒髪を振り乱しながらそう叫んだ。その叫びは、赤の他人とも言うべきお店のマスターの耳にまで届くほどだった。

「静かにして、ユミ」

 理恵から冷静になるよう諭されても、由美の怒りはなかなか収まらなかった。我慢していた何かが一気に吹っ飛んでしまったかのごとく。

 そんな娘の乱心を見て、俊介は表情を一変させた。ただでさえ険しい顔つきをより一層険しくしながら。

「リエから聞いたが、おまえは不良と仲良くしているそうだな?」

 ドキッ――。由美も表情が一変した。紅潮していた顔色がみるみる蒼白していく。

「いいか、不良なんかとの関わり合いは一切認めないからな」

「お母さんもよ。あなたをそんな風に育てた覚えはないわ」

 姉から猛反対されて、さらに両親からも完全否定された。この状況の中で、由美はとても反論などできなかった。――彼は不良なんかじゃない、と。

 そして彼女は悟った気がした。もうどんなに抵抗しても無駄なのだと。母親も姉も味方になってはくれない。夢野家では、どんな事情であっても父親の鶴の一声がすべてなのだと。

 この引っ越しと転校も、不良との接触を断つための強硬手段だったのではないか、そういう考えに行き着いてしまうほど疑心暗鬼になり両親への不信感も募った。

 聞く耳すらもってもらえず、彼女はただ悲しみに暮れるしかなかった。その時、頭の中に浮かんできたのは、昔から父親の言う通りに従ってきた狭苦しい窮屈な過去ばかりだった。

(……わたしはいつも、お父さんの言いなりだった。いつも、こうしろ、ああしろ。わたしの気持ちなんてまるでわかってくれなかった)

 悔しさ、切なさ、寂しさ、悲しさ、空しさ、侘しさ。いろんなマイナス感情が由美の心を埋め尽くしていく。気付くと、彼女の両目から大粒の涙が溢れ出ていた。

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