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第四十一話― 不良たちの恋する季節 春②(2)

 校内のスピーカーからチャイムが鳴り、一時限目の授業が終わった。

 三年七組の二時限目の授業は化学。というわけで生徒全員が化学室へ移動することになる。

 生徒たちが教科書やら筆記用具を手に持ってぞろぞろと教室を出ていく。それは拳悟も同様なわけで。

「はぁ、教室の移動面倒くさいな」

 拳悟は小言を漏らしながら、机の中にしまっておいた化学の教科書を探した。ところが、乱雑に片付けてあるのか教科書がなかなか出てこなかった。

(あれ、おかしいな。家に置いてきちまったかな)

 机の中をまさぐること数分間。やはり教科書は一向に姿を現してくれない。その間も一人また一人と生徒が教室から出ていき、気付いたら教室には彼一人だけとなってしまった。

 そんな中、ふらりと教室へ入ってきて彼の背後に近づいてくる一人の男子生徒がいた。

「おまえの探してるものはこれだろ?」

 くるりと振り返ってみると、そこには化学の教科書を手にしている勝が立っていた。

「おい、どうしておまえが?」

「教室の隅っこに落ちてた」

 どうして教室の隅っこに……?それを不審に感じながらも、拳悟は勝から教科書を受け取った。

 ようやく教科書も見つかり、いざ席を立って教室を出ていこうとした矢先――。

「ケンゴ、ちょっと待ってくれ。ちょっとトイレ行ってくるからさ、俺が戻ってきたら一緒に行こうぜ」

 いつもは別行動なのに、今日に限って一緒に行こうとはいったい?拳悟はそれを疑問に思ったのか小首を傾げる。

「何でおまえと一緒に行かなくちゃいけないんだ?」

「そう言うなって。話があるんだよ」

 時計を見てみると、化学の授業開始まで残り五分少々。まだ余裕もあるし話の内容も気になるので、拳悟は勝の言う通りに教室内で待つことにした。

「それなら早くしろよ。遅れたらどやされるからなっ」

 とにかく一人で行くな、そこから動くなと念を押してから、勝は一人だけ教室から出ていった。

 教室のドアを閉めると、彼は一歩、また一歩とある方角へと進んでいく。その先にトイレも化学室もないにも関わらず。

 彼が向かった先は階段の踊り場。そこには、そわそわと落ち着きのない由美がポツンと立っている。もうご推測の通りと思うが、これこそが、彼が思い付きで考えた告白大作戦の決行を告げるものであった。

「教室にはケンゴ一人だけだ。さぁ、告白のチャンスだぞ」

 教室へ向かうよう急かす勝を尻目に、由美は緊張と不安のせいで両足がガクガクと震えて竦み上がっている。とても告白なんてできる心理状態とは言えない。

「ス、スグルくん……。わ、わたし、無理……。告白なんてできないよ……」

 心臓がドキドキバクバクと激しく高鳴る。顔も恥ずかしさで真っ赤だ。想いを寄せる異性への告白を前にしたら、人一倍照れ屋な由美がこんな感じになってしまうのは当然だ。

 とはいえ、このままここでじっとしているわけにもいかない。化学の授業開始まで残り五分ちょっとだ。急がないと教室移動に間に合わなくなってしまう。

 動かなければいけないのに動けない葛藤に苦しむ彼女、そんな純真な女心などまるで理解できない勝はとうとう痺れを切らしたのか、彼女の背後に回るなりドンと強く背中を押した。

「今更何を言ってるんだっ。ほら、早く行けって!」

「ちょ、ちょっとスグルくん、お、押さないで――!」

 由美はあっという間に教室の前まで押し出されてしまった。勝の手によって教室のドアを開け放たれると、押し込まれるように教室の中へ突入した。

「おい、遅いぞ、スグル……ってあれ?」

 待ちぼうけだった拳悟が教室のドアへ目を向けてみると、そこには意外な人物が立っていた。

「ユミちゃん。もう化学室へ行ったんじゃないのか?」

「あ、あの……。わ、忘れ物、しちゃって……」

 ――たった二人きりの教室内。いつもはガヤガヤと賑やかで騒がしいが、この時ばかりは異様なほどの静寂に包まれた。

 恥ずかしさのあまり、真っ赤な顔を俯かせてしまう由美。心音もどんどん大きくなり、足の底から床を通じて数メートル先にいる拳悟にまで伝わるのではないかと心配してしまうほどに。

(ど、どどど、どうしよう……。ケンゴさんの顔がまともに見れないよ。だ、誰か、助けてぇ~)

 どんなに心の中で救いを求めても、今の由美を助けてくれる人物は誰もいない。彼女の傍には、告白しなければいけない相手の拳悟しかいないのだから。

 そんな彼女の真意をまったく知らない彼は呆然とするしかなかった。忘れ物を取りに来た彼女が、湯気が出るほど顔を赤くして立ち止まっているのだからそれを不思議に思うし心配もするだろう。

「ユミちゃん、どうしたんだ。まさかさっき言っていたリンゴ病が出ちゃったのか?」

「い、いえ、そうじゃないの!」

 リンゴ病はもちろんただの言い逃れの口実。というわけで、逃げるに逃げられない由美はついに覚悟を決める。そうしなければ、告白はおろか化学の授業まで遅刻してしまうからだ。

「あのね、お話があるの……」

「話? どんな話だい?」

 いよいよ告白か――!これに興奮を抑え切れない男が一人だけいる。それは何を隠そう、この作戦のお膳立てをした勝である。彼はちゃっかりと、ドアの隙間から教室内を覗き見していた。

(よし、いいぞ。さぁ、早く告白しちゃえ!)

 勝がドアの向こうから見守る中、由美と拳悟は黙ったまま向かい合っていた。

 そこは誰も立ち入ったり邪魔したりしない彼女たち二人だけの空間だ。告白をするには絶好のシチュエーションと言えるだろう。

「ケンゴさん」

 由美は赤らんだ顔をそっと持ち上げる。そして、彼女はついに告白をする――。

「――早く化学室に行かないと遅れますよ」

『バターン!』

 教室のドアと一緒に教室内に倒れ込んできたのは勝だ。由美が告白するどころか、まったく関係のない発言をしたので思わずズッコケてしまったのである。

 それを見るなり、唖然としながら目を丸くしている拳悟。

「……スグル、おまえどうしちゃったんだ?」

「は、ははは、何でもねぇよ。つまづいて転んじまっただけだ」

 勝はもちろん、告白の場面を覗き見していたなんて言えるわけもなく冷や汗を飛ばしながら高笑いするしかない。そしてその後、何やってるんだと言わんばかりに由美のことをジロリと睨み付けた。

 ゴメンなさい……と言わんばかりに、由美は顔を俯かせてガックリと肩を落とした。せっかく彼が用意周到な準備をしてくれたのに期待に応えられずに頭が上がらないといったところか。

 この男女二人のやり取りを知らない拳悟はあからさまに怪訝そうな顔つきだ。自分一人だけが仲間外れにされている感覚であろうか、ちょっぴり不服そうな表情でもあった。

「何なんだよ。俺に秘密の話か何かなのか?」

「そ、そうじゃないの。ゴメンなさい、わたし先に行ってますから」

 由美は俯き加減のまま、そこから逃げるように教室を飛び出していった。

 廊下を無我夢中になって走っていく彼女。ここぞという時に勇気の出せない自分の愚かさ、そんな自分の情けなさに薄っすらと瞳に涙を浮かべていた。

 さて、教室に残っている男子二人。教室の時計を見てみると、化学の授業まで残り二分少々。さすがに急がないとヤバいということで、拳悟と勝も教科書と筆記用具を抱えて教室から飛び出していった。


* ◇ *

 時間は瞬く間に過ぎて放課後を迎えた。

 由美はまだ拳悟に告白できないままであった。休み時間、お昼休みなど勝がその機会を窺ってみたものの、なかなか彼女と二人きりになるチャンスを作ることができなかった。

 そして放課後、ここは屋上へ通じる階段の途中。そこには勝と由美の二人が何やら相談し合っていた。

「いいか、ユミちゃん。これが最後のチャンスだ」

 その相談内容とは、勝が奔走してどうにか機会を作ってくれた告白大作戦第二弾についてだった。

 拳悟は現在、屋上で一人きりだ。帰宅がてらゲームセンターで遊んでいこうと勝から誘われて屋上で待っているという構図である。

「言っておくけど、俺が協力できるのはこれが最後だ。だから絶対に失敗するなよ」

「う、うん……」

 由美は自信なく小さく頷いた。まだ面と向かって拳悟に告白する勇気が沸かない。とはいえ、勝が作ってくれたチャンスを無駄にするわけにもいかない。彼女は奮起するしかなかった。

 勝に背を向けると、彼女はゆっくりとした足つきで屋上を目指して歩き出した。一段、また一段と上がるたびに、緊張と不安が彼女の心をより一層締め付ける。

(神様、どうかわたしをお見守りください)

 神頼みするほど追い詰められてしまっている由美。それをまったく知らない拳悟は一人ポツンと屋上で待ちぼうけを食らっていた。

(スグルのやろう、遅いな。それにしてもアイツ、今日は何なんだよ。やたら声を掛けてきやがってさ)

 拳悟は手すりにもたれかかり、上空に流れる白い雲をボーっと眺めていた。

 教室内ではなくなぜ屋上で待つのか?今日の勝の言動がさっぱりわからない。それに待つことへの苛立ちが重なって彼の口から漏れるのは小言と愚痴ばかりだ。

 屋上で待つこと十分ほど、アルミ製の扉を開けて入ってきた生徒が一人。彼がそこへ目を向けてみると、勝ではなくどうしてか由美が入ってきた。彼は不思議に思って小首を傾げる。

(ユミちゃん、まだ帰ってなかったのか。そういえば、今日のユミちゃんもいつもと違うんだよな)

 様子がおかしいのは勝ばかりではなく由美もだ。ぎこちない足取りでゆっくりと近づいてくる彼女、恥ずかしそうに赤らんだ顔を俯かせながら。

(勇気を出すのよ。大丈夫よ、きっと今度こそ告白できるわ)

 由美は気持ちを落ち着かせようと自分自身に暗示を掛ける。歩きながら足が竦んでいるが、ここまで来てもう後戻りすることはできない。目前にいる意中の人に想いを伝えるしか選択肢はないのだ。

 拳悟との距離はわずか一メートル。彼女は伏し目がちのままピタリと両足を止めた。

「ケンゴさん――!」

「は、はい!?」

 思ってもみないほどの大声で呼ばれてびっくりしてしまった拳悟。思わず反射的に姿勢を正した。

「わたし……。ケンゴさんが……」

 鼓動が激しく高鳴っている。緊張のせいで由美の心臓は爆発しそうだ。

「す……す……すき……」

 “すき”というキーワードに拳悟はすぐに反応する。彼も年頃の少年だ、面と向かって告白されたら胸の高鳴りを感じないはずがない。――だって、彼も目の前の少女に想いを寄せていたのだから。

「すき……? まさか、ユミちゃん、俺のことが」

 蒸気が噴き出すほど顔を真っ赤にしながら、由美はついに内に秘めた切なる想いを告白する――。

「……すき焼きって好きですかぁ!?」

『ドテーン!』

 拳悟はつまずくように前方にズッコケてしまった。由美の口から明かされた内容が、告白とはまったく無関係のものだったからだ。

「すき焼き? す、好きだよ」

 一応質問されたので、拳悟は呆けた顔をしたまま正直に答えた。牛肉は国産で割り下は濃い目が好みだと付け加えながら。

「やっぱりねー。わたしも濃い目が好みなんですよー。一緒ですね!」

 別にすき焼き談義がしたかったわけではない。でも口から出てしまった以上、話を合わせるしかないので由美は作り笑いがバレないよう無理やり明るく振舞って見せた。

「あのさ、話ってそれだけ?」

「うん、そうなの。それじゃあどうも!」

 結局、由美は告白できないままその場から逃げるように離れてしまった。目を丸くして呆然と立ち尽くす拳悟を一人残したままで。

 屋上の扉を勢いよく開け放ち、彼女は俯いたまま校舎内へ飛び込んだ。そんな彼女を待っていたのは、告白の朗報を心待ちにしていた勝であった。

「スグルくん、ゴメンね。わたし、やっぱりできなかった」

 由美はありのままに正直に答えた。せっかくのチャンスを台無しにしてしまい、申し訳なさにただただ謝るしかない彼女、勝のミラーグラス越しの視線が胸に突き刺さる。

「そうか、無理だったか。それなら仕方がないな」

 告白が叶わなかった由美を責めても意味がない。もどかしさや苛立ちのような感情が表情にこそ表れた勝だったが、それを言葉にして語ることなくフーッと重たい溜め息を漏らした。

 告白大作戦第二弾も失敗に終わってしまった。肩を落として落胆に暮れている彼女に対して、彼は厳しくも冷酷な台詞を言い放つ。

「さっきも言ったけど、俺が協力できるのはここまでだ。悪いな」

「…………」

 由美は何も言えなかった。言える資格もなく言える立場でもないだろう。自分自身の不甲斐なさを心の中で嘆くしかないのだから。

 拳悟を屋上に待たせたままということで、勝は由美に別れを告げると駆け足で屋上へと上っていった。

 そして――。彼女は屋上を背にして一人寂しく階段を下りていった。もう告白なんてしない、これからも想いを伝えずにいよう。彼女はそう自分に言い聞かせて自分の心を守るしかなかった。


* ◇ *

 それから一時間ほど経過した頃、由美は帰宅のために矢釜中央駅にいた。

 情けなさ、愚かさ、不甲斐なさ。どうして勇気を出すことができなかったのだろうか。

 生まれて初めての男性への告白――。よくよく考えてみたら、いとも容易く想いを告げるなんてできっこないのが普通なのではないだろうか。

 そうはいっても、クラスメイトの勝が親身になってセッティングしてくれたのにその恩を仇で返してしまった。しかし、後悔しても今更どうすることもできない。

 いろいろな考えが頭の中を駆け巡っている彼女、落ち込んだまま駅の構内を歩いていると声を掛けてくる女の子がいた。

「ユミちゃーん」

「…………」

 駅の雑踏のせいか、はたまた考え事をしているせいだろうか、由美は声を掛けられたことに気付かない。

「おーい、ユミちゃんってばー」

 女の子はもう一度声を掛けてみた。やはり由美はその声に気付かなかった。

 気付かないなんておかしい、何やら落ち込んでいるように見えるが具合でも悪いのだろうか。心配になってしまった女の子は駆け足で由美の傍へ近づくなり彼女の肩をポンと叩いた。

「――――!?」

 びっくりした由美は慌てて後ろへと振り向いた。

「ユミちゃん、どうかしたの?」

「あっ、アサミさん……」

 由美の目の前に立っていたのは、クラスメイトであり親友の麻未であった。

 声を掛けてきたのが親友で安堵した由美。確かに、痴漢だったり不審者だったらそれこそ困りものであろう。

「べ、別に何でもない、大丈夫だよ」

「そう? 顔色はあまり良くないみたいだけど」

 作り笑いを浮かべて取り繕う由美を見て、体調面を危惧しないわけではない麻未ではあったが、無理に詮索したり問い詰めたりすることはなかった。

 それはそれとして、矢釜中央駅を通学で利用しない麻未がどうしてここにいるのかというと、彼女はついさっきまで他校の友人と駅前のお店でショッピングを楽しんでいた。

 その友人がこの駅を利用しているので、お見送りのためにやってきてその帰り際に由美のことを見つけたというわけだ。

「ねぇ、これからさ喫茶店で甘いものでも食べていかない?」

 駅前においしいパフェがあると話題のお店があるらしい。麻未が興奮しながら由美を誘ってきた。先程まで駅前で遊んでいたのにまだまだ遊び足りないようだ。

 誘ってくれた厚意そのものは嬉しいが、由美は冴えない表情のままで首を小さく横に振った。その理由はもちろん、お腹がいっぱいだからとか甘いものは太るからという理由ではなくそんな気分ではなかったからだ。

「もう帰らないといけないの、ゴメンね」

「う~ん、そうか。それは残念。また今度だねー」

 少しだけ後ろめたい気持ちながらも、由美は麻未に別れを告げて一人改札口へと向かう。そして、麻未はつまらなさそうな顔をしながら改札口を背にして駅前の商店街を目指して歩き出した。

 時刻も夕方五時に差し掛かり、駅の構内は通学の学生のみならず通勤の会社員の姿も目立ってきた。帰宅ラッシュの賑わいというやつだ。

 麻未がそれを掻き分けながら歩いていくと、その途中、見知った人物にすれ違った気がした。

(……あれ?)

 ふと振り返ってみる麻未。その人物の後ろ姿を捉えたものの、すぐに人混みの中に紛れてしまいそれが誰だったのかはっきりとはわからなかった。

(今の人、ケンちゃんに似てたなぁ)


* ◇ *

 ここは矢釜東駅から徒歩数分ほどにある小さな公園。

 夕焼け空の下、公園のブランコに揺られている少女が一人。思い詰めたような表情をしながら一人寂しく佇んでいる。

(…………)

 その少女こと由美は途方に暮れていた。どうして気持ちを伝えることができなかったのだろう。それと一緒に、気持ちを伝えることの難しさも痛感していた。

 だけどもういい、もう悩む必要はないのだ。だって、もう告白しないと心に決めたのだから。これからも親友として傍にいられたらそれでいいのだから。

 彼女は何度もそう自分に言い聞かせた。たぶん、十回は繰り返したであろうか。どうしてそれだけ繰り返してしまうのか。それはきっと、このままでは良くないという気持ちが心のどこかで顔を出しているからであろう。

「ふぅ……」

 視線を落として重たい溜め息を漏らしてしまう。いつまでたっても心がすっきりしない恋する乙女がここにいた。

 とはいえ、ずっとここで悩んでいても仕方がない。由美が自宅へ向かおうとブランコから立ち上がろうとした、その瞬間――。

(――えっ!?)

 由美を乗せたブランコが何かの力によりガクンと大きく揺れた。どうやら背後から誰かに押されたようだ。彼女は慌てふためき後方へと振り向く。すると――。

「ケ、ケンゴさん! どうしてここに!?」

 ブランコを押した人物は何と拳悟であった。

 由美が驚愕するのは当然だ。ここは彼の通学路でもなく自宅の近所でもない。それよりも何も、彼女にとって意中の人、恋焦がれていた相手がそこにいたのだからびっくりしない方がおかしい。

 しかも、彼は勝と屋上で待ち合わせており寄り道がてらゲームセンターへ行っているはずだ。それなのになぜ?

「うん、ちょっと迷子になっちゃってね」

「ええ?」

「ははは、それは冗談。いやね、矢釜中央駅の近くでユミちゃんを見掛けてさ。あまりにフラフラ歩いてるからちょっと心配になってね」

 拳悟曰く、勝から寄り道に誘われたが気乗りしないという理由で断ったとのこと。それから一人で矢釜中央駅付近までやってきたところ、偶然にも由美を発見したのだという。

「そうだったんですか……」

 勝のことを裏切ったばかりか、拳悟にも心配を掛ける結果を招いてしまった。由美は申し訳なくなり罪悪感に苛まれた。つくづく臆病者の自分が嫌になりそうだ。

 居たたまれなさに顔を俯かせてしまう彼女、そんな彼女の隣のブランコへ腰を下ろした拳悟。

「今日のユミちゃんさ、俺に何か言おうとしてただろ? 本当のことが聞きたくてね」

「…………」

 リンゴ病のことも、化学室へ急かしたことも、そしてすき焼きのことも、それがすべて本心ではなかったことを拳悟に見透かされていたようだ。

 この期に及んでも本心を隠し、自分をごまかし続けるべきなのであろうか。その方が楽なのかも知れない。だが、嘘を付いたままの人生ほど苦しいものはないはずだ。由美はぐっと瞳を閉じたまま熟考した。

 すぐ隣には大好きな人がいる。心は嘘を付けない。いくら声に発しなくても、心が騒いでいるのだ。もう、隠し続けることなんてできないと。

 今なら勇気を出せるかも知れない。もしダメだったらそれでもいい。彼女は意を決してブランコから立ち上がる。――ついに本心を声に乗せる覚悟を決めた。

「わたし、派茶目茶高校に転校してきてもうすぐ一年になるの」

 由美がここ矢釜市へ引っ越してきてから丁度一年。見知らぬ街で運命的な人に出会い、運命的にも同じ学校へ通うことになった。

 不良ばかりの学校の中で涙を流したこともあった。それでも、励ましたり勇気付けてくれた人がいた。不良たちに囲まれて身の危険に曝されることもあった。それでも、自分の身を呈して救ってくれて守ってくれた人がいた。

「この一年間、おもしろいことも、楽しいことも、もちろん怖いこともあった。そんな喜怒哀楽を感じることができたのも、きっとケンゴさんがいてくれたから」

 矢釜市へ来る前、由美は殻に閉じこもった学生生活を送っていた。男性に嫌悪感を示し男性を拒否してきたが、拳悟という人物に出会い男性の素晴らしさ、たくましさ、優しさ、カッコよさを初めて知るに至った。

「最初はね、ただの憧れだったんだと思う」

 だけど今は……。そう前置きした由美は勇気を出せずにずっと言えなかった胸のうちを告白する。

「……好きになってた」

 やっと告白できた――。鼓動が激しく高鳴り、蒸気が噴き出すほど顔が赤面する……と思ったら、なぜかそんなことはなかった。

 あれだけ恥ずかしくて怖くて言えなかったのに、いざ言ってみるとどうしてか冷静でいられる。これが覚悟を決めた潔さというものなのだろうか。由美は過去に経験のない不思議な感覚だった。

「スグルくんが協力してくれたんだけど、その時は言えなかった。だからもう言わないでおこうと思った。でも、胸の苦しさを我慢できなかった」

 由美の切なる想いを真剣な顔で聞いていた拳悟。ゆっくりとブランコから立ち上がると、彼女の傍へと歩み寄っていく。

「ユミちゃん」

 拳悟の反応が気になる。答えによってはもう親友同士ではいられなくなってしまうかも知れない。でも、本心を打ち明けることができて良かった。由美は静かに瞳を閉じて彼の答えを待った。

「ありがとう。その言葉、俺ずっと待ってたんだ」

 由美の気持ちを拳悟はしっかりと受け止めた。

 ちょっぴりおとなしくてお淑やかで、勉強もできて運動もそこそこできる、ごく普通の少女なのだがどうしてか守ってやりたくなる。最初こそ親友のつもりだったものの、気付いた時には恋愛対象として見ていた。

「本当なら俺が先に言うべきだったんだろうね。好きだって」

 女の子の扱いに長けていたはずの拳悟でも、本当に好きになった相手には不器用になってしまうようだ。

 彼がなかなか好きと言えなかったのは由美と同じ理由だったりする。もし振られてしまったら親友として触れ合えなくなる怖さ、それならばいっそ黙っていた方が安心だろう。

 勇気を出すことができなかった自分の代わりに、覚悟を決めて告白してくれた彼女に彼は感謝の気持ちでいっぱいだった。

「ケンゴさん」

 ゆっくりと拳悟の方へ顔を向ける由美。その時、彼女の瞳から涙の滴が零れていた。それはまさに感動の極み、想いが叶った者にしかわからない嬉しさいっぱいの涙であった。

「ユミちゃん、好きだよ」

「ケンゴさ~ん」

 由美は涙を零しながら拳悟の胸に飛び込んだ。彼のシャツを濡らすほど、彼女は止めることのできない涙をたくさん流した。

「うえ~ん、うう、ぐすっ……」

「おいおい、そんなに泣くなよ。まるでお別れみたいじゃないかぁ」

「だあってぇ~、ふえ~ん……」

 少しばかり不器用な二人だが、ここに新しいカップルが誕生した。

 これからも彼に守ってもらいたい。これからも彼女を守っていきたい。そんなお互いの願いを伝え合うように、彼らは時間の経過も忘れてしばらく抱き合っていた。


* ◇ *

 時刻は夜七時になった。辺りはすっかり暗くなっている。

 由美と拳悟の二人は夜闇に包まれた矢釜東駅の前にいた。彼女たちにとって、ここがひと時のお別れの舞台となる。

「わざわざ送ってくれてありがとう」

「ううん。少しでもケンゴさんと一緒にいたいから」

 離れたくない気持ちを示すように、お互いの手が強く繋がれている。それでも、この手を離さなければならない瞬間はいつかはやってくる。

「信じられないなぁ。こんなことが本当に実現するなんて」

 拳悟と恋人同士になれたこと、由美はいまだに夢を見ているような気分だった。頬をつねったら、夢から覚めてしまうのではないかと不安になってしまうほどに。

 そんな彼女だが不安なんて感じる必要などなかった。彼の手から伝わってくる暖かさ、優しさ、たくましさ。それを感じるたびに、これが現実なのだと実感されてくれるから。

 幸せな時間はあっという間に過ぎていくもの。拳悟が乗車する電車の到着まで残り数分。そろそろお別れをする時刻だ。

「そろそろ行くよ」

「うん。気を付けて」

 拳悟と由美の繋がれていた手が離れた。手の温もりがなくなるだけで、心まで寒く感じてしまうのだから不思議なものだ。

 胸の高まりが収まらない若きカップルにとって別れは寂しいが、明日また学校で会えるのだからひと時の辛抱だ。笑顔を向け合う二人は手を振ってさようならの挨拶を交わした。

「ユミちゃん。目を閉じてくれるかな」

「え? うん」

 いったい何だろう?由美は言われるがまま静かに瞳を閉じる。

 彼女に向かって拳悟が一歩前へ足を踏み込んだ。そして、彼女の顔にゆっくりと近づいていくと。

『チュッ――』

「――――!」

 唇に伝わった柔らかな感触――。由美はびっくりして目を見開いた。

 目の前には照れくさそうにはにかむ拳悟の顔があった。それが彼との、いや男性との初めてのキスとわかった途端、心音がバクバクと大きくなり顔が燃えるような赤色に染まった。

「それじゃあ、また明日!」

 拳悟は駅構内の改札口へと走っていく。その数秒後には、駅の利用客の人混みの中に紛れていった。

 由美は呆然としたままそこに立ち尽くしていた。初めての経験から来る衝撃、歓喜、困惑。あらゆる感情が頭の中を駆け巡り、次なる行動を起こすことができなかったようだ。

 春の夜風は心地良く、彼女の全身の火照りが冷めるまでそれから三十分ほどかかったのであった。

 こうして拳悟と由美の両想いは幸いにも実った。――しかしこの後、そんなハッピーな関係を引き離す事件が起こることなど今の彼ら二人に知る由もなかった。

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