第四十話― 不良たちの恋する季節 春①(3)
さやかの引っ越しと転校。そのニュースは彼女本人から由美へと伝えられ、それが三年七組の仲間たちへと伝わった。
それを聞かされた面々は驚きを隠せなかった。だが、それを止めることなどできるわけもなく受け入れるしかなかったわけで。
「ふ~ん、そうか。さやかがいなくなると寂しくなるな」
「そうね。とびっきり明るかったから、静かになると思うとね」
「そうですわ。チャーミングでかわいい女の子でしたもの」
拓郎と麻未、それに舞香の三人はさやかとの別れを惜しんだ。思い起こせば、いろいろな出来事が頭の中に浮かんでくる。
「昨日の夜に、さやかちゃんから電話が来て……。わたしも本当にびっくりしちゃって」
誰よりも驚いたのは、第一報をその耳で知った由美であろう。遠くの街からここ矢釜市へ引っ越してきた彼女だからこそ、親友と離れ離れになるさやかの気持ちにより同情することができた。
本当であれば、さやかのお別れパーティーでも開催できたらと思った。しかし彼女の引っ越しまで残り一週間ほど、全員が集まれる都合の調整が難しいと判断して見送ることになった。
何となく重苦しい空気が辺りを包み込んでいく。しばしの沈黙の後、ポツリと言葉を漏らしたのは拳悟であった。
「それはそれとしてさ……」
さやかと会えなくなるのは寂しい、だがその前に、拳悟は一つだけ気になることがあった。
「……スグルは知ってんのかな?」
拳悟からの質問に答えたのは由美だった。
「知ってます。さやかちゃんが直接スグルくんに会って話したそうです」
「そうか。アイツ、どうするつもりなんだろうな」
勝とさやかの二人の関係はこれで終わりになるのだろうか。いくら他人事とはいえ、拳悟の表情から少しばかり複雑な心境が窺い知れた。
彼ら二人の追いかけっこを一番に楽しんでいた。ちょっとした意地悪で、彼ら二人を仲良くさせようと画策したこともあった。もしかすると、彼ら二人のことをそれとなく応援していたのかも知れない。
ちなみに、ここでの話し合いは派茶目茶高校三年七組の教室内での一コマだ。たまたま今、当事者である勝はトイレのために席を外していたタイミングであった。
「さやかのことは、スグルには触れないでおこう。またアイツ、暴れ出すだろうからな」
拳悟の指示により、勝がいる間はさやかの話題はタブーということで合意に至った。ここにいる誰もが、怒り狂った勝のバイオレンスシーンなど見たくはないだろう。
引っ越しの一件がまるで何事もなかったかのように時間だけが過ぎていく。そうこうしているうちに、勝とさやかにとって最後のデートの日がやってきたのである。
* ◇ *
その日は快晴であった。
心地の良い陽気が感じられる土曜日の午後、勝は矢釜中央駅の待合室の中にいた。彼はここでデートの相手であるさやかを待っていた。
(何してやがんだ、アイツはよ)
待ち合わせの時刻は午後一時三十分、ただいまの時刻は午後一時二十分、まだ十分前だというのに勝は苛立っていた。もともと時間にうるさい性格だからなのであろうが。
本日のデートの目的地は矢釜遊園である。彼ら二人はここで合流し、電車に乗って矢釜遊園の最寄駅である矢釜遊園前駅へ向かう予定なのだ。
それから五分ほど経った頃、さやかが手を振りながら待合室へと入ってきた。
彼女の今日の衣装は襟付きのチェック柄のワンピース。空色のロングソックスに黄色のスニーカーを履いていた。ほんのりとお化粧しており、耳にもイヤリングをぶら下げてちょっぴり大人の装いだ。
一方の勝はというと、デートにも関わらず学校へ登校する時と同じ雰囲気のワッペンの付いたセーターとデニムパンツといういでたちであった。
「スグルくん、お待たせ」
「おまえなー。もう少し早く来いよ」
「でも、まだ約束まで五分ほどあるよ」
約束の時刻まであと五分。間に合ったのだから、さやかはもちろん悪びれる必要はない。だけど、約束の時刻よりも三十分も前からここで待機していた勝にしたら一言言いたくなるわけで。
とりあえず約束の時刻までに無事に合流できた彼ら二人。矢釜遊園を目指して駅の改札口へと足を向けた。
* ◇ *
矢釜中央駅から電車に乗ること三十五分少々。勝とさやかの二人は矢釜市最大のテーマパークである矢釜遊園に到着した。
遊園地としてはお馴染みのジェットコースターに観覧車、それにメリーゴーランドにコーヒーカップの乗り物といったアトラクションがあり、休憩施設やレストランも常設しており一日を通して楽しめる集客スポットだ。
今日は土曜日の午後ということで、園内はそこまでの混雑ぶりではなかった。それでも、小さい子供を連れた若いお母さんや学生カップルの姿もちらほらと見られた。
入場料金を支払い、彼ら二人は園内へと入っていく。彼女は嬉しさのあまり興奮を抑え切れない様子であったが、彼はどちらかというと遊園地が苦手なので表情は少しばかり固かった。
最後のデートだから――。彼はただそれだけの理由で遊園地でのデートを了承したのだ。今日ぐらいは、彼女のわがままに付き合ってやろうと。
「ねぇねぇ、スグルくん。何から乗ろうか?」
ドキドキワクワク、さやかは心が弾んで明るさいっぱいだ。高校生というよりも小学生みたいなはしゃぎぶりだ。
「おまえの好きにしろよ」
「それじゃあ、ジェットコースターにしようよ!」
「うっ……。いきなりそれ来たか」
さやかの一言により、矢釜遊園一発目のアトラクションはスリル満点のジェットコースターに決まった。その数分後、スリル系が苦手な勝の大絶叫が園内にこだましたのは言うまでもない。
それからというもの、矢釜遊園のありとあらゆる遊具を満喫した彼女たち二人。休憩施設ではアイスクリームを食べたり、体感ゲームやクレーンゲームなどで盛り上がったりもした。
それこそ、彼女は引っ越しという憂いを忘れたかのように、そして彼も英語検定という憂いを忘れるかのように午後のひと時を楽しんだ。彼女たち二人にとって忘れられない思い出とするかのように――。
* ◇ *
時刻は夕方五時を過ぎた。
矢釜遊園を後にした勝とさやかの二人は、お互いにとって懐かしい場所へと足を運んでいた。そこは二人が初めて出会ったあの公園であった。
今日は晴天だったこともあり夕焼けがとても美しい。夕陽の赤みが公園の緑に溶け込んで幻想的な雰囲気を醸し出していた。
木製のベンチに腰を下ろしていたさやか、そこへ勝が自動販売機で購入したジュースを手に持って戻ってきた。
「オレンジジュースでいいよな?」
「うん、ありがとう」
さやかにジュースの缶を手渡すと、勝も彼女のすぐ隣のベンチへ腰掛けた。
彼が買ってきたのは炭酸飲料。プシュッと缶のプルトップを開けると、ゴクゴクと一気に飲み干して渇いた喉を潤した。
公園の落ち着いた雰囲気の余韻に浸っていた二人。しばしの沈黙の後、彼の口からおもむろに言葉が漏れる。
「おまえ、この公園覚えてるか?」
「もちろん、覚えてるよ。あたしが、初めてスグルくんと出会った場所だもん」
二年前のある日の夜、さやかはこの公園で不良二人組に絡まれていた。そこへ颯爽と現れて追っ払ってくれたヒーローこそがここにいる勝なのである。
彼女の記憶の中から、二年前に出会った彼のイメージが浮かび上がる。それはいわゆる一目惚れというやつだった。名前しか知らなかったヒーローにもう一度会いたい、会って気持ちを伝えたい。
運よく再会が叶った。思いの丈を伝えたが、受け入れてもらえなかった。でも諦められなかった。だから何度も何度もアタックした。くじけるなんて自分らしくないとそう言い聞かせながら。
結局、恋は最後まで憧れで終わった。でも、その方が良かったのかも知れない。どうせ離れ離れになる宿命だったのだから……。
「あれからもう二年も経ったんだね」
さやかはゆっくりと立ち上がる。一歩、また一歩と前進すると、無言のままそこに立ち止まっていた。
木陰から漏れる夕陽が彼女を包み込んだ。逆光で眩しくてよく見えないが、彼女はわずかながら全身を小刻みに震わせているのがわかる。
何かあったのだろうか?それが気になった勝もベンチから立ち上がる。そして、彼女の近くまで歩み寄っていく。
「さやか、どうかしたのか?」
全身をブルブルと震わせていたさやか。くるりと顔を振り向かせると、両方の瞳から大粒の涙が溢れ出していた。
「引っ越しなんてイヤ! あたし、スグルくんと離れたくない!」
さやかは衝動のままに勝の胸に飛び込んだ。寂しさと悲しさに耐え切れず、彼の胸の中で顔がくしゃくしゃになるまで泣きじゃくった。
彼は黙ったまま彼女を抱き寄せた。この場で突き放すなんてできるはずもない。今はただ、彼女の思い通りにしてあげたい、そんな気持ちだった。
「……そんなの、あたしのわがままだもんね。ゴメンね、スグルくん」
さやかはそっと勝の傍から離れた。ポーチからハンカチを取り出すと、顔を覆い隠すように零れる涙を拭った。
「あたし、わかってるの。スグルくんはユミさんのことが好きなんだって」
「な、何だよ、いきなり!?」
勝はびっくりして仰け反ってしまった。まさかここで、由美の話題が出るなんて思ってもみなかったから。
「う、うるせーな。おまえには関係ないだろ」
照れ隠しなのか、勝は赤らんだ表情でそっぽを向いた。根が正直なので、すぐに顔に出てしまうのが彼の欠点であろう。
「ユミさんが相手ならどうせ勝てっこないし。諦めるしかないもんね」
「さやか……」
この時、勝は初めて弱気なさやかを見た気がした。いつも傍から離れずに追い掛けてくるしつこさは、彼女の粘り強い強気な姿勢そのものだったからだ。
由美は確かに男子諸君を虜にする美少女だ。だからそれも頷ける。とはいえ、潔く諦めてしまう健気な一面を知ると、さやかという一人の少女が不思議と愛おしく感じてしまうものだ。
「あたしもユミさんみたいにキレイになって胸も大きくならなくちゃ! そうしたらまたここに戻ってきて、スグルくんをギャフンと言わせるんだもん」
「そらまた、結構なことで。期待しないで待っててやるよ」
さやかと勝はジョークを口にしてクスクスと笑い合った。お互いが後腐れなく決別できるようにしようとする気持ちがそうさせたのであろうか。
楽しい時間はあっという間に過ぎていくもの。いよいよ彼女たち二人のお別れの時刻となった。
「あのね、引っ越しの日が決まったの、来週の火曜日の夕方に。できたら、お見送りに来てくれると嬉しいな」
(ちょっと待てよ。来週の火曜日って――)
その時、勝の脳裏を過ったもの、それは何かというと。
「参ったな。来週の火曜日っていったら、英検の当日じゃないか」
勝は事の経緯をさやかに説明した。留年生は学校主催の英語検定の受検が必須であり、かつ合格しなければ卒業の資格を失うこと。その実施日が来週の火曜日の放課後であることを。
「……そうなんだ。残念」
「すまねぇな」
顔色から笑みが消えてしまうさやか、そして申し訳なさに表情を曇らせる勝。事実上、彼女たちにとって今日が最後の日になってしまう。
時はイタズラなもので、お別れのその時は刻一刻と迫っている。どんなに名残惜しくても、どんなに心寂しくても時を止めることはできない。
「スグルくん、今までありがとう。これからも元気でね」
「ああ、さやかも達者でな」
さやかは勝に背中を向けると、公園の出口に向かって小さな歩幅で歩き出した。途中から小走りになって去っていく姿は、未練を残したくないという気持ちの表れのようでもあった。
彼女が見えなくなるまで見送ってから、勝はポケットに手を突っ込んでその場から歩き出した。
頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。さやかのこと、由美のこと、さらに英語検定のこと。それらが複雑に絡み合って思考回路を邪魔してくる。今の彼には、どこに答えがあるのか導き出すことなどできなかった。
* ◇ *
今日は英語検定の実施日。派茶目茶高校の三年七組の教室には、留年生であるハチャメチャトリオの三人が顔を揃えていた。
これに合格できなければ卒業の資格を失う。そのプレッシャーの中で、彼ら三人とも不安と緊張でいっぱいであった。
とはいえ、検定対策はそれなりに積んできたつもり。拳悟はかつて由美から教わった英語の基礎を徹底的にやり直した。拓郎も独学や友人からの知恵を借りて英単語の理解は深まった。――問題は最後の一人の勝である。
勝は結局、ここ数日間もまともに勉強に集中できなかった。やる気がなかったわけではない、ただやる気が出ないのだ。昨晩も布団に潜り込んでもぐっすりと眠ることができず、ただいま寝不足で頭までボーっとしている始末であった。
それから五分ほど経過してから、三年七組の試験監督である担任の静加が教室へ入ってきた。教え子の卒業がかかった検定ということで、彼女の表情はいつにも増して引き締まっていた。
「それでは試験問題を配るわね。言っておくけど、不正は一切認めないからそのつもりでいなさい」
机の上に配布された数ページ綴りの問題用紙。その次に配布されたのが一枚の解答用紙。机の上に置くことが許されているものは、それらと筆記用具だけ。
静加は試験開始の時刻を腕時計で確認する。試験時間は一時間である。
静まり返った三年七組の教室。聞こえてくるのは時計の秒針の音だけ。独特の緊張感がハチャメチャトリオの三人を支配していく。
(…………)
試験開始までの間、勝は心の中で激しく葛藤していた。
(今は英検に集中するしかねぇ。それ以外のことなんて考えてる場合じゃねぇ)
勝はひたすら心の声で反芻した。卒業しなければならない、だから合格しなければらない。だから彼女のことなんて忘れようと――。
「それじゃあ、始めて」
時刻は午後四時三十五分。静加の一声により英語検定の開始となった。
ハチャメチャトリオの三人は一斉に筆記用具を手にすると、問題用紙の一ページ目をめくった。
問題用紙の一問目に目を通した勝。だが、問題そのものが理解できなかったのか繰り返して目を通してみた。やはり理解できない。彼の焦りはそれはもう半端なものではない。
一問目を飛ばして二問目へと進んだ。しかしこれまた解答がわからない。寝不足の影響もあるのだろうか、彼の思考は明らかに機能しておらず意識はどこか遠くへ飛んでしまっていた。
(……さやか)
さやかとの最後のデート、その時の出来事がまるで今そこにあるかのごとく蘇ってきた。矢釜遊園でたくさん遊んだ。公園に立ち寄って思い出を語り合った。そして、永遠の別れを告げた……。
(……さやか)
無意識のうちに、勝は解答用紙に“さやか”と書いていた。それに気付いた時、彼の筆記用具を持つ手が完全に止まってしまっていた。
そんな彼の異変に気付いたのは、試験監督を務める静加だった。
「スグルくん、どうかした? 体調でも悪いの?」
静加からの問い掛けに勝は何も反応しない。もしかすると、彼の耳に届いていなかったのかも知れない。
拳悟と拓郎も手を休めて様子を窺う中、勝が振り絞るような声で出した答えとは。
「……シズカちゃん、すまねぇ。俺さ、行かなくちゃいけないところがあるんだ」
その直後、勝はいきなり立ち上がり教室から出ていこうとした。すぐさま静加はそれを制止しようとする。
「待ちなさい! まだ退出可能時間前よ。ここで教室を出ていったら不合格確定になるわ」
それを聞いてピタリと動きが止まった勝。
途中での退出は不正行為に当たり試験の放棄とみなされる。それはすなわち、卒業への道が完全に閉ざされることになる。
彼はその時、たった一つの結論に辿り着く。どうせ試験を受けても解答用紙は真っ白だ。卒業なんてもうどうでももいい。それよりも、自分の気持ちに正直になった方が楽になれる、と。
「許してくれ。これを逃したら、ずっと後悔し続けることになるんだ」
静加の制止を振り切り、勝は駆け足で教室を出ていってしまった。
猛スピードで廊下を駆け抜けていく彼、向かう先はもちろん、あともう少しで遠くに引っ越してしまうさやかの自宅であった。
* ◇ *
午後五時三十分を過ぎた。空は夕焼けから夕闇に変わりつつある。
ここはさやかの自宅前。彼女の両親の指示のもと、引っ越し業者が忙しそうに大きなトラックと自宅の間を行き来している。
トラックの中を覗き込んでみると、タンスや戸棚、そして電化製品などの家財道具のほとんどは積み終わっていた。残すところは小さな荷物のみという感じであろうか。
その大きなトラックのすぐ傍にいるのはさやかともう一人、引っ越しの見送りにやってきていた親友の由美であった。
「いよいよ行っちゃうんだね」
「うん」
由美とさやかは寂しそうな表情を向け合う。お別れが名残惜しくてたまらない、それがお互いの今の心境であろう。
ハチャメチャトリオの三人は検定試験真っ最中、さらに麻未と舞香の二人も所用のために都合がつかなかった。残念ながら、さやかに最後の別れの挨拶ができるのは由美一人だけとなってしまった。
「今日が試験じゃなかったら良かったのに……」
……それならば、きっと勝はお見送りに来てくれたはずだ。そう思わずにはいられない由美は残念そうに溜め息を漏らした。
彼が来れないのは事前に知っていた。だからもう諦めもついたし悔いもない。さやかは何もかも吹っ切ったかのように清々しく笑みを零した。
「大丈夫。スグルくんとは最後のお別れも済んだし。それに……」
「おーい、さやか。そろそろ出発するぞ」
父親から呼び掛けられて、さやかは話を途中でやめてしまった。
それに……彼に会ったら、我慢していた涙が溢れてしまいそうだから。彼女はそれを口にすることなく心の中で語った。
「それじゃあ、元気でね」
「うん。ユミさんも元気でね」
たとえ離れ離れになっても親友同士でいよう。さやかと由美の二人はお互いに手紙でのやり取りを約束してから別れを告げた。
手を振る由美に見送られながら、さやかは父親が運転する乗用車へ乗り込もうとする。住み慣れた自宅、そして近所の景色をまぶたに焼き付けながら。
(……さようなら。スグルくん)
いくら吹っ切れたといっても、やはり後ろ髪を引かれてしまう。ぐっと悲しみを堪えて、さやかは助手席のドアへ手を掛けた。
「――か!」
遠くの方から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。近所のどこかで誰かが叫んでいるのだろうか?
「――さやか!」
その怒鳴り声は、さやかの名前を呼んでいる男性の声だった。彼女はびっくりしてその声のした方角へ目を向ける。すると――。
(スグルくん!)
ショートウルフの髪型、ミラーグラスで目を隠し、お馴染みのスタジアムジャンパーに袖を通した勝が駆け付けてくるではないか。ひと目見た時から恋に落ちて、忘れたくても忘れられない彼がやってくるではないか。
さやかは驚きと嬉しさが入り交じりただ呆然としていた。胸がジーンと熱くなり、抑えてきた感情が胸元から込み上げてくる。
由美も呆然としていた。英語検定を受けているはずの彼がここへやってこれるはずがないと思っていたからだ。
「スグルくん! 試験はどうなったの!?」
「英検は諦めた! あと、ユミちゃんもなっ」
「えっ、えっ、ど、どういうこと!?」
わけがわからずに動揺してしまう由美。慌てふためく彼女の横を、勝がクスリと微笑しながら通り過ぎていく。
派茶目茶高校から飛び出して、がむしゃらに走ること一時間ほど。彼は息を切らせながらようやく辿り着いた。気持ちを伝えるべくさやかの目の前へ。
「はぁ、はぁ……。間に合ったか」
「スグルくん……」
もう会えないはずだった。それなのに、どうしてお見送りに来てくれたのだろう。それを聞く間もなく、さやかは勝の力強い両腕で抱き寄せられた。
「俺はおまえが好きだ。遠くになんか行かせねぇ!」
信じられなかった。だから、さやかは耳を疑った。でもそれは真実だった。とにかく嬉しかった。ずっと想い続けて良かった。彼女は感激のあまり、勝の胸の中で大粒の涙を流した。
彼ら二人の想いが今ここに通じ合った。それはそれでハッピーなのだが、彼女の両親にしたら何が何だかさっぱりわからない。実の娘が見知らぬ男に抱かれていたら呆気に取られるのは当然だ。
無論、このまま放置できるわけもなく父親は慌てて運転席から飛び出してきた。
「おい、さやか! 何をしてるんだ」
今のさやかに父親の声など耳に届かなかった。今はただ、抱き締めてくれている彼氏の傍から片時も離れたくないという思いでいっぱいだった。
「どうする、さやか。俺に付いてくるか?」
「うん! 付いていく」
勝とさやかは手を握り合って、行き先の決まっていないどこかに向かって駆け出していく。
父親が大声を張り上げる中、母親が車中で戸惑っている中、そして由美が呆然と立ち尽くす中、勝とさやかの二人は夕闇の中へと紛れていった。
* ◇ *
男女二人の逃避行――。勝とさやかが辿り着いた先は、川のせせらぎが聞こえてくる矢釜川の河川敷であった。
河川敷の雑草の上で仰向けになって寝そべっている彼ら二人。駆け出してからここまで来るのに数十分ほど経過していた。見上げる空はすっかり暗くなっていた。
どこからともなく吹いてくる涼風が額を掠めていく。汗ばんだ顔には心地良いが、汗びっしょりの彼らにしたら少しばかり寒さを感じさせた。
「…………」
「…………」
勝とさやかは黙ったまま真っ暗な空を見上げていた。
二人きりでいられる喜びと逃げ出してきたという罪悪感。現実なのに現実ではないような感覚。それらが交錯し、どのような言葉を交わしたらよいのか戸惑っていたのだろうか。
――しばらくしてから、この沈黙を破ったのはさやかの方だった。
「試験はどうなったの?」
その質問に、勝は小さい息継ぎをしながら答える。
「……エスケープした」
「えっ! そ、それじゃあ卒業できなくなっちゃうんじゃ」
勝にとって英語検定の途中放棄は卒業資格を失うことになる。それはさやかも承知していることであった。
ショックのあまり唖然としてしまう彼女。大げさかも知れないが、自分の引っ越しという理由のためだけに、勝のこれからの人生を狂わせてしまったと感じて言葉を失っていた。
「気にするな。俺はな、卒業よりも大切なものに気付いたんだ。それを失いたくなかったんだ」
後悔などしていないと、勝はそう言って清々しく笑って見せた。卒業については、また一年留年してからでも再チャレンジできる。それよりも今は、大切なものを失わずに済んで喜ばしい気持ちであろう。
「スグルくん、本当にいいの? あたしなんかで本当にいいの?」
勝はさやかの腕を掴んで彼女を強引に引っ張り寄せた。すると、彼女が彼の上に馬乗りになる体勢となった。男性の上に馬乗りになるなんて初めてだ。彼女は興奮と期待が膨らんで頬を赤らめた。
「俺が信じられないか?」
さやかにしてみたら、まだ夢のような感覚だ。信じられないといっても嘘ではないだろう。
「だって、スグルくんはユミさんが好きだったんでしょ?」
「まあな」
「それならどうして?」
ほんの少しだけ時間を置いて、勝が口にした答えとは。
「……高根の花ってヤツさ」
追い掛けても追い掛けても追い付けないものがある。どんなに想ってみたところで、その想いが届かない人もいる。勝にとって由美は近くにいてもどこか遠くにいる女の子だった。
それならば、男らしく潔く諦めた方が楽でいい。それに、自分にはこんなに近くにいる一途に思いを寄せる愛らしい女の子がいるではないか。
「ふーん、そうなんだ。あたしは諦めないで追い掛けたよ」
「だから、俺に追い付いたんだもんな」
クスッと照れくさそうにはにかんださやか。勝の答えを聞いて、この現実を信じることができ、また恋人同士になれたと自覚することもできた。
「まあ、ユミちゃんはあの野郎に譲ってやるさ」
「え? あのヤロウって誰?」
さやかからしつこく問いただされても、勝は最後まで“誰なのか”を答えることはなかった。今はそんなことはどうでもいい。二人きりの貴重な時間に他人の話など無用なのだから。
彼はご自慢のミラーグラスを外した。鋭く尖った目つきが露になるも、目の前の彼女を見つめる視線はとても優しくて穏やかだった。
彼女の鼓動がどんどん速くなっていく。感情が高ぶってもう興奮と期待を抑え切れない。彼女はそっと瞳を閉じると、真っ赤な顔を彼の顔へと近づけていった。
「大好きだよ」
「俺もだ」
熱い口づけを交わした勝とさやか。これからもずっと一緒にいよう。お互いがそう願いながら、彼ら二人はいつまでも雑草の上で抱き合っていた。




