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第四十話― 不良たちの恋する季節 春①(2)

 そして翌日の朝。物語の舞台は派茶目茶高校。

 勝はその日もいつも通りの時刻に登校した。いつも通りの歩調と歩幅で三年七組の教室を目指して歩いていた。

 ただいつもと違う点を挙げるとしたら、英語検定の対策がまったく順調に進んでおらず苦悩していることだろう。卒業できなくなるかも知れないプレッシャーが翌日になってより強くなっていた。

 ちなみにその英語検定だが、一週間後に実施されるとすでに公示されていた。残り日数から考えても、とても合格できるレベルになんて到達できそうにない。

『ガララ――』

 建て付けの悪い教室のドアを開け放つ。すると、始業開始まで余裕があるというのに、馴染みのクラスメイトたちのほとんどが顔を揃えていた。

「おう、みんな。今日は珍しく早いんだな」

 勝がさわやかに朝の挨拶を交わした。ところが、馴染みのクラスメイトたちは挨拶を返したりせず誰もが一様に険しい表情をしていた。それに不穏を感じて彼は小首を傾げる。

「おいおい、どうしたんだよ。朝っぱらからしけた顔しやがって」

 クラスメイトの中の一人である拓郎が手を使って合図を送る。とりあえず椅子に座れと。

 何が何だかさっぱりわからない。とはいえ逆らえる状況でもなさそうなので、勝は憮然としながらもおとなしく自分の席へ腰を下ろした。

「で? 俺に何か話でもあるのか?」

 クラスの仲間たちがどうして険しい顔をしているのか。その理由が拓郎の口から明かされる。

「おまえさ、さやかに随分と冷たいそうだな」

「はぁ!?」

 勝は驚いてしまって素っ頓狂な声を上げた。まさかここで、さやかの話題が出るなんて思ってもみなかった。

 どうしてこんな話題になってしまったのかというと、昨日の夜、さやかが落ち込んでいること、悩んでいることなどを由美が拳悟に電話で相談した。もちろん、他言無用のつもりであったが。

 ところが今朝になってみたら、他の仲間たちがみんなそのことを知っているではないか。どうやら拳悟からスタートして、緊急時の連絡網のごとく情報が次々に伝搬していったようなのだ。

 ちなみに由美は、さやかが落胆している原因が勝であるとは断言していなかった。それにも関わらず、勝が原因であろうと決め付けられてしまったのは彼がいかに常日頃からさやかをぞんざいにしているかがわかる。

「あんたさー、あの子がかわいそうだと思わないの?」

「そうですわ。あんなにかわいらしい子なのに」

 ここぞとばかりに、勝をチクチクと攻撃してくる女子生徒が二人。

 一人は長い茶髪をリボンでまとめており、色っぽく下がった目尻が特徴的な女の子。拳悟と一緒に遅刻の常連であり、勝とは一緒にクラス委員を務めている和泉麻未。

 そしてもう一人は、高級ブランドの制服を着こなしてワンレングスのストレートヘアが特徴の女の子。大富豪のお嬢さまの名を欲しいままにしている伊集院舞香。

 彼女たち二人も由美と同様にさやかとは親しい。だから、さやかの味方をするのは当然というわけだ。

「ちょっと待てよ。いきなり何を言い出すんだよ」

 四面楚歌なこの状況に、しどろもどろになってしまう勝。あらゆる方向から軽蔑の視線を浴びてしまって戸惑うばかりだ。

「だいたい、てめーには人情ってもんがないんだよ。人情ってもんがさ」

 ここでトドメを差さんばかりに攻撃してきたのが拳悟であった。女の子に優しくするのがモットーな彼だけに積極力があるが、好みではないタイプの子が言い寄ってきたらあっさりとフェードアウトする非情なところもあったりする。

「ケンゴさん、それは言い過ぎですよ」

 拳悟の忠告に苦言を呈したのが由美である。さすがは心優しくて思いやりのある彼女、さやかを思う気持ちもわかるし勝の気持ちもそれとなくわかっているつもりだ。

 それよりも彼女は困惑していた。自分自身が撒いた種がこんな風に膨らんでしまったのだから。彼女はたださやかに元気になってほしいだけで、勝のことを責める気なんてなかったはずだ。

「…………」

 さやか――。さやか――。友人たちの口から出てくるのは彼女の名前ばかり。おまけに人情がないとまで言われたら誰だって頭に来るはずだ。

 ただでさえ英語検定の問題を抱えていた勝は、ここまでおとなしく聞いていたが、ついに血流が頭のてっぺんに逆流して怒りの感情を露にした。

「うるせーな、てめぇら!」

 その怒鳴り声はクラスメイト全員を驚かせるほどの大きさだった。

 それこそまさに狂犬、怒り狂ったら何をしでかすかわからない。勝はすぐ隣の席にいる拓郎に食って掛かっていった。

「俺とさやかは付き合ってるわけじゃねぇだろうがっ!」

「そ、それはそうだが……」

 迫りくる勢いに圧倒された拓郎。思わずたじろいでしまった。

 勝の次なる標的は麻未と舞香。彼は彼女たちに目一杯顔を近づけて怒声を放った。

「だから、冷たくしようがおまえらには関係ねぇだろうがっ!」

「ちょ、ちょっと寄らないでよっ。いやらしい!」

「ツバを飛ばすの、やめてくださる!?」

 次なる標的は拳悟だ。勝はさらに身を乗り出すと拳悟の襟元に掴み掛かった。

「人情があるなしの問題じゃねぇんだよ! 違うか、コラ!?」

「服が汚れるから手を離せよ! おまえには、人情よりも任侠の方がお似合いだ」

 そして、最後の標的にされてしまったのは――!

「なぁ、そう思うだろ、ユミちゃん?」

「えっ、えっ、あっ、は、はい!」

 怒鳴られると思いきや、まさかの優しい口調で同意を求められた。これには由美も呆気に取られて無意識のうちにコクンと頭を頷かせてしまった。

 彼女があっさり言いくるめられたものだから、他のクラスの仲間たち一同も思わず椅子からずり落ちてしまった。

 それはごり押しというやつだ。気が弱くて他人の意見に流されやすい由美を狙うとは勝もなかなかの策士と言えるだろう。

「よーし、これでこの話は終わりだ。俺はちょっと小便でも行ってくるわ」

 勝は勝ち誇ったような顔つきで一人教室から出ていってしまった。

 彼が出ていった後、教室内は嵐が去ったかのごとく静かになった。クラスメイトたちは一様に呆然としたままであった。

「ご、ごめんなさい。頷いてしまって……」

「いや、ユミちゃんのせいじゃない。アイツの言うことはすべて間違ってないよ」

 由美のことを擁護した拳悟であるが、彼ばかりではなく拓郎も麻未も舞香も納得せざるを得ない気持ちは同じであろう。さやかが想いを寄せていても、勝にその気がなければただのお節介なだけでいい迷惑だからだ。

 そういうわけで、さやかと勝をくっつけよう作戦は残念ながら不発に終わってしまった。

 さやかの悩み事を少しでも解消できたら。そんな思いで作戦に賛同した由美であったが、結果的に何も進展することはなかった。彼女はこれ以上どうしてみようもなく、複雑な表情を浮かべながら溜め息を漏らすしかなかった。


* ◇ *

 その日の放課後。時刻は午後四時を過ぎたばかり。

 勝はたった一人で下校していた。向かう先は自宅……ではなく矢釜中央駅の近くにあるゲームセンター。理由は無論、ただの時間潰しである。

 本当であれば、英語検定対策の学習に当てるべき大切な時間。それなのに、彼は勉強などそっちのけで遊び呆けている。というよりも、考え事が多くて勉強に集中できずにいたのだ。

 表情に苛立ちが浮かんでいるせいなのだろうか。彼とすれ違う人は皆、どこか避けているような素振りだった。人を寄せ付けないオーラを醸し出していると言った方がいいのかも知れない。

 目的のゲームセンターまであと数メートルという距離。とある曲がり角に差し掛かったところ、彼は一人の女子高校生の姿を発見する。

 その女子高校生こそ、彼のことを待ち伏せしていたさやかであった。

 彼女はある程度、彼が行きそうな場所などたまり場を把握している。矢釜中央駅近くのゲームセンターを見張っていれば必ず会えると思っていたのだろう。

「……そんなとこで何してんだよ?」

「スグルくん」

 勝から声を掛けられてそれに反応したさやか。いつもなら明るさいっぱいの笑顔で向かってくるのだが、今日はどこか様子が違う。

「俺を待ってても無駄だぞ」

 いつものように冷たくあしらう勝。今朝、学校で冷やかされたせいもあってか声の調子がいつもよりも素っ気ない。

「付き合ってくれなんて言わない。ただね、話だけ聞いてほしいの」

 さやかは真剣な顔で訴えた。だが、勝はそれに取り合おうとはしなかった。

「俺にはそんなヒマはない。これから帰って勉強しなきゃならんからな」

 勝はさやかの横を通り抜けて去っていこうとした。

 それは明らかに嘘だった。勉強に集中できないからここへやってきたのだから。 彼女を突っ撥ねるために、勉強しなければならないという自分に置かれた立場を理由にしただけであろう。

 ここで離れてしまったら、ここまで足を運んだのが水の泡だ。彼女は必死になって叫んだ。時間は取らせない、すぐ終わるからと。

 彼はこのまま無視しようとも考えたが、今朝の拳悟たちの言葉がどうにも心の奥に突き刺さっていた。薄情者などと思われたくない、そう思い立ち去っていこうとする足を止めた。

「一分以内だ。一分以内で話せ」

 一分とはいえ、どうにか話を聞いてくれる機会を作ってもらえた。さやかはホッと胸を撫で下ろした。

 今日の彼女は間違いなくいつもと違う。思い詰めた表情で何を語るのであろうか。

「あのね。あたしね、あの、その……」

 どういうわけか、さやかは言葉に詰まってしまう。好きだとか愛だとかは平気で語れるのに、この時ばかりはうまく言葉を繋ぎ合わせることができずにいた。

 それがますます勝を苛立たせる。これでは一分なんてあっという間に過ぎてしまうだろう。彼は仏頂面を振り向かせて怒鳴り声を上げる。

「じれってぇなーっ、はっきり言え!」

 その怒鳴り声でさやかはビクッと全身を震わせた。怒られるのは慣れているとはいえ、やっぱり勝の大声にはいつもびっくりさせられる。

 そうだ、はっきり伝えなければ。彼女は深呼吸をして全身の緊張を解きほぐした。そして、ついに伝えるべき事実を口にする。

「あたしね。――引っ越しするの」

 さやかはここ矢釜市から遠く離れた地へ引っ越さなければならなくなった。彼女の本当の悩み事、ここ最近元気がなかったのはこれが原因だったようだ。

「……本当か?」

「……うん」

 引っ越しの理由とは、さやかの父親の転勤であった。父親の職業は銀行員。業種柄、転勤はごく当たり前だという。

 父親は単身赴任するかどうか悩んだ。彼女は現在高校二年生。友達もたくさんいる学校を転校させるのは気が引けたが、家族で相談した結果、単身赴任ではなく家族全員での引っ越しを決めたそうだ。

 矢釜市から遠く離れた地への引っ越し、それはつまり、大好きだった勝とのお別れを意味する。彼女の表情に悲しさと寂しさが浮かび上がっていた。

 さすがに勝も予想だにしていなかった。彼女とは交際していたわけではない。だが、お別れともなれば寂しくないと言ったら嘘になるし惜しくもなるものだ。

「いつ引っ越すんだ?」

「まだ決まってないけど、来週中ってお父さんが言ってた」

 転勤が当たり前の職業だからといってすぐに引っ越しというわけにもいかず。業務上の引継ぎや荷造りなどの準備が残っており、実際の引っ越しまでもう少し時間がかかるとのこと。

 それでも、勝とさやかの二人に残された期間はたった一週間ほどである。それは決して長い時間ではないだろう。

「…………」

「…………」

 勝とさやか、お互いの会話が途切れてしまった。どう会話を続けたらよいのか迷っているのだろうか。

 何となく重苦しい空気が彼ら二人を包み込んでいく。どちらかが言葉を発しない限り、二人ともその場に留まり続けそうな雰囲気だ。

 このまま夜を迎えるわけにもいかないので、口火を切ったのは先に痺れを切らした勝だった。

「それなら、引っ越し前に最後のデートでもするか?」

「ホ、ホントに!? デートしてくれるの?」

「ああ、おまえさえ良ければな」

 それは願ったり叶ったり。さやかにとって最愛の男性からのデートのお誘いは最高の気分であろう。彼女の表情がパッと晴れやかになった。寂しさとか悲しさとか吹き飛んで、それはもう両手を叩いて大はしゃぎであった。

「ヒマな時に連絡しろよ」

「うん、わかった! 絶対に連絡する!」

 さやかは手を振りながら、笑顔いっぱいでそこから走り去っていった。

 そんな彼女のことを見送っていた勝。どうしてデートしようと思い立ったのだろうか。あれだけ冷たくしていたのに……。

 これが最後のデートとなる。だから、彼女へのせめてものはなむけのつもりだったのだろうか。それとも、彼自身も最後の思い出として記憶に残したいと思ったのだろうか。

 時刻は夕暮れ時、市街地のビル群に夕日が沈んでいく。彼はゲームセンターへ立ち寄ることをキャンセルし、自宅のある方角へと足の向きを変えた。


* ◇ *

 その日の夜、ここは勝の自宅である。

 彼は夕食を終えると、リビングにてテレビ観賞をしていた。放映していたテレビ番組は、夜八時からの連続ドラマ「彼女はボクのアイドル」。アイドルの女の子と普通の男子高校生が恋に落ちる古典的なラブストーリーであった。

 ちなみに、彼が好きなテレビ番組はプロレスやボクシングといった格闘技。それなのに、どうしてこんな恋愛ドラマを視聴しているのか。

 彼は今、何をするにも集中できないでいた。英語検定のこと、由美への告白のこと、そしてさやかの引っ越しのこと――。当然ながら外出する気にもなれず、自宅にあるテレビの画面をただボーっと見つめることしかできなかった。

「あれから数週間が経ったんだね。まるで昨日のことみたい」

「そうだよね。時が過ぎるのって早いな」

 これはテレビドラマの台詞だ。物語の舞台は夕方の公園、そこでアイドルの女の子と男子高校生の二人が語り合っているシーンである。

 このシーンでは、アイドルの女の子と男子高校生が初めて出会った日のことを過去を振り返りながら再現していた。

 それをボーっと眺めていた勝はふと、このドラマと同じく公園を舞台にした自分自身の過去を思い出していた。

(初めて知り合った時……か。そういえば、さやかと知り合ったのも丁度二年前だったな)

 コロコロと展開が変わって申し訳ないが、物語の舞台は勝の二年前の記憶の中へ移行する――。

「ちょっと、いい加減にしてよ!」

「つれないこと言うなよ。俺たちと遊ぼうぜ」

 夜の公園にて、一人の少女が二人組の少年に絡まれていた。

 その少女であるさやかは、学校帰りの放課後に友人たちと買い物を楽しんだ。そして友人たちと別れた後、街中の公園を通り抜けようとしたところ、公園でたむろしていた不良二人組に目を付けられてしまった。

 それを無視して振り払おうとした彼女だったが、不良たちはしつこく言い寄ってきた。それどころか、彼女の体にまでタッチしてくる始末であった。

 助けを求めようにも、夜の公園には彼女たちの他に誰もいない。大声で叫んでみても、近隣の住民もどこ吹く風とばかりに誰もやってはこなかった。

「ほれっ!」

「キャッ!?」

 さやかはいきなり悲鳴を上げた。なぜかというと、不良の一人に学生服のスカートを捲られてしまったからだ。

 下着を隠そうとするあまり逃げ足を止めてしまう彼女、その隙に背後に回ってきたもう一人の不良に両腕を拘束されて身動きを取ることができなくなった。

「捕まえたぜぇ~。さてと、パンツをゆっくり拝ませてもらおうかな」

「いやぁっ!」

 これこそ絶体絶命。今まさに、スカートを捲り上げられてさやかの下着が露になってしまうのか――!?

『パコッ』

「ぐえっ!?」

 乾いたような音が鳴り響いた直後、スカートを捲ろうとした不良が悶絶しながら公園の地べたを転がり出した。どうやら、背後から頭部を何かで殴られてしまったらしい。

 どうしたのだろうか……?さやかは恐る恐る暗闇に目を凝らしてみた。すると、皮製のベルトをまるでムチのように振り回している一人の少年の姿があった。彼こそが何を隠そう、あの勝なのであった。

「女のパンツが見てぇならよ、自分で女を作って死ぬまで見さらせ、ボケがっ」

 勇ましく登場した勝であるが、彼はこの時、友人の家でテレビゲームを楽しんだ後だった。帰宅途中に公園付近までやってきたら、少女が不良に襲われている現場を目撃したというわけだ。

「な、何だ、てめえは!?」

 仲間が倒されたまま黙ってはいられないと、もう一人の不良はさやかを解放するなり勝の正面に立ちはだかった。

「この俺のことを知りたいってか?」

 勝は不敵な笑みを浮かべると、この頃からトレードマークであるミラーグラスをそっと外した。そして、禁断とも言うべき切れ長の鋭い目から眼光が解き放たれた。

「――派茶目茶高校二年七組、ニンタイスグルとは俺のことだ!」

「うわぁぁぁ~!」

 それは失禁してしまうほどの衝撃であった。不良は恐ろしさのあまり腰を抜かして尻餅を付いてしまった。

 いくら不良の名で通っていても、ケンカをして良い相手と悪い相手がいる。勝は紛れもなく後者であろう。それはこの不良たちにも十二分に理解できた。

 彼らは四つん這いのままで、許しを請う甲高い叫び声を上げながら公園から逃げ出していった。眼力だけで敵を退散させてしまうとは、勝の目の破壊力はそれはもう半端ではない。

 こうして不良たちは去った。さやかはホッと胸を撫で下ろしたいところだったが、目の前に現れた男性も眼光が鋭くて不良っぽいからまだ安心できないというのが本音であった。

 それでも助けてもらったのは紛れもない事実、というわけで御礼はきちんとすべきであろう。

「……ど、どうも、ありがとうございます」

「いやいや、どーってことねーよ」

 どういうわけか含み笑いを浮かべている勝、さやかの近くまでやってきて何をするかと思いきや――。

「ほれっ!」

「キャッ!?」

 勝は何と、さやかのスカートをペラッと捲り上げたのだ。純白のノープリントの下着が露になってしまった彼女、反射的に右手を思い切り振り上げた。

「な、何すんのよっ!」

『パッチーン――』

 乾いた音が夜の公園に鳴り響く。さやかの振り抜いた平手打ちが、勝の左の頬を確実に捉えた。

 かなりの痛打だったのだろう、彼は赤くなった頬に手を当てて苦しみ出した。

「うぉぉ~! これは痛いぞぉぉ~……」

 さやかは呆然と立ち尽くしたままだった。いくら反射的とはいえ、見ず知らずの男性相手に手を挙げてしまったのだ。報復を恐れるあまり、全身が硬直して両足を動かすことができない。

「痛いぞ、痛いぞぉぉ~……」

 これから逆襲が始まるのか。勝は唸り声を漏らしながらゆっくりとさやかの方へ顔を向ける。すると……。

「……虫歯がね」

「えっ」

 勝はニヤッと笑った。さやかは何が何だかさっぱりわからず唖然とした。

 苦しむように痛がっていたのは勝なりのジョーク。彼は姿勢を正して深く頭を下げるとスカートを捲った非礼を丁重に詫びた。

「そんなにいいビンタ持ってるなら、次に絡まれた時はそれで撃退してやんな」

 その一言だけ告げると、勝はさやかに背を向けて公園から去っていった。

 偶然にも初めて出会った男性。下着を見られて憎くて悔しいはずなのだが、どうしてなのか心がときめいて気になってしまう。勇ましさと強さ、それにちょっとキザでカッコいい。

 彼女はボーっとしたまま、彼の後ろ姿が見えなくなるまでその場から離れることはなかった。

 それから数分後、公園から数メートルほど離れた路地にて、勝は左の頬に手を当ててしゃがみ込んでいた。

「うぉぉ~、マジにいてぇ! あの子、ホントにいいビンタ持ってるなぁ」

 さやかにカッコいいところを見せられても、どこまでもカッコよくというわけにはいかない勝なのであった。

 ――さて、物語の舞台は再び勝の自宅へと戻る。

(あの後、アイツがいきなり学校へやってきたんだっけ)

 ”派茶目茶高校二年七組ニンタイスグル”。さやかはこのキーワードを頼りに勝のもとへ辿り着くことができた。それからというもの、彼女がとにかくしつこいまでに彼を追い掛け続けているのは承知の通りである。

(…………)

 勝はゴロンと床の上に転がった。そっと目を閉じると、不思議なほどに過去の記憶が蘇ってきた。

 体育祭に乱入してきた彼女、学校の肝試し大会で一緒に回った彼女、クリスマスを一緒に過ごした彼女、キャンプ旅行で一緒に遊んだ彼女。振り返ってみると、思いのほか楽しい思い出がたくさんあった。

(……最後のデート、か)

 さやかは一週間も過ぎたら遠くへ引っ越してしまう。そうしたら離れ離れになる。約束した次のデートが、勝にとっても彼女にとっても最後の思い出作りとなるだろう。

 彼はそれからもしばらく寝転がっていた。テレビから流れるドラマの台詞などまるで耳に入らないままで。気付いた時には、睡魔との戦いに敗れて眠りこけてしまっていた。

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