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第三十九話― 性格が大逆転? 大胆過激な女の子(2)

「……そうですか、後遺症が出てしまいましたか」

 男性医師は気難しそうな表情でポツリと漏らした。

「先生、ユミを治す方法を教えてください!」

 涙目になって必死に訴える理恵。だがしかし、男性医師は気難しい表情を崩さなかった。

「残念ながら、このわたしにはどうすることもできません」

 理恵が矢釡市立中央病院へ到着するなり、診療時間少し前にも関わらずすぐに診察に応対してもらえた。それはいいのだが、頭部強打による後遺症にはこれといった特効薬はないのだという。

 もともとはショックによる症状であるがため治療というものが存在しない。人により症状もまちまちで、自然に発症し、また自然に治る可能性もあるので様子を見るのも一つの選択肢とのことだが。

「……まあ、治せる方法がないわけではありませんが」

 治療という選択肢ではないが、男性医師はたったひとつの希望を示した。

「どんな方法でも構いません。教えてください」

 理恵はゴクッと生唾を呑み込んだ。どんな試練と困難でも受け入れる覚悟ができたようだ。

「再ショックによる逆転現象にかけてみるのです」

「そ、それは具体的にどうしたらいいんですか?」 

 一言も聞き漏らすまいと、理恵は身を乗り出して聞き耳を立てる。――それから数秒後、男性医師は重たい口を開く。

「つまり、再度同じショックを与えるんです」

「……と言いますと?」

「……頭部にもう一度、同じ程度のショックを与えるということです」

 それを聞いた瞬間、理恵の表情が一変した。不安と緊張で青ざめていた顔色が憤怒により赤らんでいく。

「同じショックって、あの子にまた電信柱に頭をぶつけろと言うの!? あなた、それでもドクターなの!?」

 理恵は感情が爆発して理性が飛んでしまっていた。

 部屋中に響き渡る怒鳴り声を上げながら、彼女は男性医師の胸倉に掴み掛かり首を締め上げ始めたのだ。両手をじたばたさせながらもがき苦しむ男性医師。このままでは窒息死してしまう。

 その数秒後、異変に気付いた看護婦が慌てて診察室に入ってきた。理恵を引き剥がすのにかなりの力と時間を要したが、どうにか男性医師の生命を守ることができた。

「夢野さん、落ち着いてください!」

「落ち着けるわけがないわ! 妹をみすみす危険に晒すなんてできっこないじゃないの!」

 理恵の言い分は最もであろう。電信柱に頭を強く打ったおかげで大変な目に遭ったのだ。それをもう一度自発的に起こせだなんてあまりにも無茶過ぎる。

 男性医師から言わせたら、その無茶を承知で提案したつもりだった。治療行為ではないと前置きもしていたはずだ。彼は乱れた髪の毛とメガネを整えながらそれしか方法がないと言い切った。

「もし、それができないとなれば、様子を見るしかありません。もしかすると、偶発的な出来事がきっかけで元に戻る可能性もありますから」

 結局、病院では有効と言うべき治療方法も治療薬も見つからなかった。理恵は落胆しながら病院を後にするしかなかった。

 由美を痛い目に遭わせるなんてできない。理恵は様子を見るという選択肢を選ばざるを得なかった。自然に治ってくれることを期待しながら。


* ◇ *

 物語の舞台は所変わって派茶目茶高等学校に移る。

 時刻は朝八時三十分を過ぎたばかり。始業まであと少しということで校舎へ向かう生徒たちは誰もが急ぎ足であったが、一週間の春休み明けだけあってその足取りは心なしか重かった。

 駆け足で校舎へ向かう生徒たちを尻目に、とことんマイペースでのんびりと歩いている男子生徒がいる。その人物こそ、遅刻だけで派茶目茶高校の歴史に名を残すであろう勇希拳悟であった。

 新学期しかも今日から高校三年生。彼は遅刻魔の汚名を返上しようとばかりに、いつもよりもほんのちょっぴり早い登校というわけだ。

「あっという間に春休みが終わってしまった。今日から学校か、かったるいなぁ」

 大きなあくびをしながら、拳悟はこれ見よがしに眠たそうな顔をしている。

 ちなみに、彼の春休みはほとんど遊びっぱなし。夜遅くまで女の子や友人と外出したりして昼夜逆転の毎日を送っていた。だから平常に戻っても寝不足なのは当然なのである。

「ケンゴさ~ん!」

 後方から女の子の呼び掛ける声が聞こえた。聞き覚えのある声に、拳悟はそれがクラスメイトの由美だとすぐにわかった。

 彼はくるりと後ろへ振り返る。すると、数メートル先から駆けてくる女の子は紛れもなく彼女だった。ところが、その見慣れない装いを見るなり呆気に取られてしまった。

「あれ、ホントにユミちゃんか……?」

 拳悟が呆気に取られるのも無理はない。いつもは地味な色のブレザーとスカート、それにローファーを身に付ける由美が、まったく正反対の派手な色のタイトなワンピースにパンプスを履いているのだから。

「やっほ~、おっはよ~!」

 さらに驚いたのは由美の異様な明るさだった。彼女は人前でほとんど目立った行動をしないのに、今の彼女は人目も気にせずに大声で叫んでいるではないか。

 拳悟が呆然と立ち尽くしていると、彼女は走っていた勢いのままに彼の胸へと飛び込んでいった。

「ケンゴさん、お久しぶり!」

「わっ、ユミちゃん、どうしたんだよ!?」

 いきなり抱き付かれたものだから拳悟はびっくりして慌てふためいた。内心嬉しい気持ちもあったが、それよりも何が起こったのかその真意が知りたいといったところだろう。

 これでは周囲の生徒たちの注目の的である。さすがに恥ずかしいからと、拳悟は由美を引き剥がそうとするが彼女の両腕はますますきつく締まっていく。まるで、もう二度と離れたくないと言わんばかりに。

「あはは、会えて嬉しいよ、ケンゴさ~ん」

「俺も嬉しいけどさ……。それよりもいったん離れてくれない? 胃が苦しくて朝メシが戻ってきそうだから」

 胃の消化物をぶちまけたら大変ということで、拳悟はどうにか由美の締め付ける両腕から解放された。

 目の前にいるのは正真正銘の彼女だ。だが綺麗にメイクしており、まるで男子生徒を誘惑するかのようなセクシーな衣装、これには彼も困惑の表情を浮かべるしかない。

「あ、あのさ、いったいどうしちゃったの?」

 拳悟が恐る恐る問い掛けてみると、由美は満面の笑顔で明るく答えた。

「だって、一週間も会ってなかったんだもん。寂しかったから」

「一週間なのに、まるで十年も会ってなかったぐらいの喜びだね」

「うん! わたしにとって一週間は十年ぐらいの長さになるの」

 照れたり恥じたりすることもなく、由美は拳悟の腕にピタッとしがみついた。それはもう仲睦まじい恋人同士のように。

 ご承知の通り、この大胆不敵な行動は頭部強打による後遺症が原因である。彼女はこれまで彼に密かな恋心を抱いていたわけだが、性格がガラリと変わってそれを素直にまた正直なまでに表現するようになった。

 彼は当然そのことを知る由もない。喜ぶべきか喜ばざるべきか判断に困ってしまうところだが、今はただ彼女の異変に対応できず戸惑うばかりであった。

 もうまもなく始業のチャイムが鳴る。彼女たち二人はピタッとくっつきながら生徒玄関まで足を早めた。


* ◇ *

「シズカせんせーい、お電話ですよ~」

 ここは派茶目茶高校の教務室だ。始業開始直前、三年七組の担任である斎条寺静加宛てに一本の電話が掛かってきた。

 彼女は教室へ向かう足をいったん止めてからきびすを返した。そして、自分の机の上にある電話機の受話器を持ち上げる。

「もしもし? ……あら、リエじゃない、どうしたの?」

 電話の相手は理恵であった。静加と理恵の二人は高校時代の先輩後輩の仲である。

「先輩、朝早くから済みません。実は、少し問題が発生してしまいまして……」

 理恵の声から明るさが伝わってこない。何かトラブルにでも巻き込まれたのだろうか。ただならぬ不穏を感じ取った静加は、緊張感に包まれながら受話器の向こうに耳を傾けた。

「――えっ、ユミちゃんの性格がおかしくなった!?」

 それはあまりにも唐突だった。いきなり性格がおかしくなったと言われたら誰もが驚愕してしまうだろう。静加は何が何だかさっぱりわからず呆然とした。

 理恵から昨日の事故の一部始終を聞いて一応納得はできた。とはいえ、性格が正反対になるなんてあり得るのだろうかと、静加は首を傾げて少しばかり半信半疑のようだ。

「ユミがとんでもないことをしでかさないよう見張ってください。どうかお願いします。わたしもこれから会社へ行きますので」

「うん、わかった。できる限りやってみるわ」

 静加は電話を終えると静かに受話器を置いた。それと同時に、始業開始のチャイムがスピーカーから流れた。

 おもむろに天井を仰いだ彼女、フーッと大きな溜め息を漏らした。

(性格が正反対……ねぇ)


* ◇ *

 三年七組の教室――。ここには、かつての二年七組の生徒たちがそのまま進級していた。派茶目茶高校では二年から三年の進級時のクラス替えはないのだ。

 始業を告げるチャイムが鳴ったというのに、担任がまだ不在のせいか教室内は賑やかな話し声で溢れている。

 春休みの思い出話に花を咲かせる者もいれば、春休みの疲れで朝からぐっすり居眠りしている者もいる。ここの生徒たちは三年生になってもあまり成長していないようだ。

 そんな生徒たちを束ねているクラス委員長である任対勝。彼は腕組みしながら、友人の関全拓郎と一緒になって天井を見上げていた。

「いよいよ俺たちも三年生か……」

「ああ、一年遅れだけどな……」

 瞳を閉じて、感慨深そうな顔をしている勝と拓郎の二人。

 ご存知かと思うが、彼ら二人は一年間留年している。学期末テストでギリギリ赤点なしとなり落第を免れることができた。そういう事情もあってか、三年生になれた達成感の余韻に浸りたい気分なのであろう。

 そこへやってきたのは、後輩にあたるクラスメイトの桃比勘造と大松陰志奈竹の二人。彼らはパチパチと拍手をして、無事に進級できた先輩二人のその功績を称えた。

「スグルさん、タクロウさん、進級おめでとうございます!」

「そういう拍手はやめろ。惨めになるだろーがっ」

 いくら進級できたとはいえ、年下の後輩から拍手で称えられたら恥ずかしくてちょっぴりばつが悪い。本当なら喜ばしいことなのに、ついつい仏頂面をして突っ掛かってしまうところが人一倍プライドの高い勝と拓郎らしい。

 ここで、さらに彼ら二人を苛立たせてしまう発言をする女子生徒がいた。それは、ここ矢釜市で一二を争う大富豪のご息女の伊集院舞香だった。

「本当でしたら、あなた方は卒業でしたものね」

「うるせーな! おまえには関係ねーだろ」

 勘造も志奈竹も、それに舞香も別に悪気があるわけではない。これは嫌味ではなく、純粋に勝と拓郎の進級をおめでたく思っているだけなのだ。むしろ、悪気がないものだから始末が悪いと言えなくもないが。

 今年もまた一年、こんな感じで後輩からいじられるのかと思うと途方に暮れてしまう彼ら二人であった。

『ガララ――!』

 扉を開けた時のきしむ音が教室内に鳴り響いた。

 開いた扉は教卓がある前方ではなく後方だ。ということは担任である静加ではないようだ。

 後方の扉から教室へ入ってきたのは遅刻寸前で間に合った拳悟。それだけならまだ納得できるのだが、ひとつだけクラスメイトたちを震撼とさせる光景が視界に飛び込んだ。

 アップした髪の毛に小悪魔っぽいメイク、色っぽいワンピースを着こなして彼にぴったりと寄り添っている由美がそこにいたからである。

 三年七組の生徒たちは皆、その見慣れない光景に言葉を失った。賑やかだった教室内が水を打ったようにシーンと静まり返ってしまった。

「あれ、みんなどうしちゃったの?」

 数秒間の沈黙を破ったのは、ただ一人異変を感じていない当人の由美であった。

「こ、これはいったい、どういうこっちゃ……?」

 勝はショックのあまり気が動転していた。由美の衣装もさることながら、彼女が拳悟と腕組みしているシーンを見てしまったからだ。――本当のことをあえて言うと、勝は彼女に好意を寄せていたのである。

 さすがに黙ったまま見過ごすわけにはいかない。勝は怒り心頭で拳悟に突っ掛かっていく。どういうことなのか説明しろと怒声を浴びせながら。

「どうにもこうにも、俺にもさっぱりわからんのよ」

「はぁ? てめえ、なめてやがるのか!」

 拳悟がのらりくらりと答えるものだから勝の怒りのメーターはますます上昇していく。由美が傍にいるにも関わらず取っ組み合いのケンカに発展してしまいそうだ。

 こうなったらなったで、彼女もじっとしてはいられない。拳悟を救おうという一心から自らを犠牲にする覚悟で彼らの中に割って入ってきた。

「スグルくん、愛しのケンゴさんに何をする気!?」

 愛しのケンゴさん――!?その一言は、勝の淡い恋心を一瞬で打ち砕いた。

 衝撃のあまり放心状態となってしまった彼、普通の人ならここで落胆に陥って意気消沈としてしまうのだが、普通からちょっとだけ逸脱している彼は違う。

(ふぬぬぬ~、いつの間にそんな仲に……!)

 勝はわなわなと全身を震わせて、表情は鬼のごとく憤怒に満ちていた。

 怒りのメーターが頂点に達し、彼は衝動のままに拳悟に向かって憎しみの握り拳を振り上げた。

「このやろう、ぶっ殺してやるっ!」

「わっ、ちょっと待てって!」

『ガツッ!』

 問答無用に振り下ろされた怒りの鉄拳、それが拳悟の頬にヒットした。

 吹っ飛ばされた彼は床の上に崩れ落ちてしまった。事態が事態なだけに、クラスメイトたちのどよめきにより騒然となる三年七組の教室内。

「へっへっへ、ざまーみろ、俺を差し置いて勝手に出し抜いた罰だ」

 勝はニヤリと不敵に笑った。いくら拳悟を殴ったところで何も解決しないのはわかっているのだが、頭で考えるよりも先に手が出てしまうのは短気な性格をそのまま表しているといっても過言ではない。

 床の上でうずくまっている拳悟の傍へ由美が慌てて駆け付けてくる。彼女は心配そうな顔をしながら、何度も何度も彼の名前を叫んだ。そしてカバンからハンカチを取り出して、彼の真っ赤になった頬を繰り返し拭って手当てをした。

 それを見ていた勝はますます苛立ちが込み上げてきた。二人の仲がここまで進んでいたのかと思うと悔しくてたまらない。

「…………!」

 由美は振り返りざま勝のことを睨み付けた。敵意を剥き出しにしたその視線は、軽蔑する者を突き刺すかのごとく鋭く尖っていた。

 立ち上がるなり、彼女はずんずんとかかとを踏み鳴らして勝の近くまで歩み寄っていく。その怒涛なる勢いに、彼は全身が硬直して身動きが取れなくなってしまった。

「ケンゴさんに何すんのよっ!」

『パッチーン――』

 それはとてつもなく痛い平手打ち。今の勝にしたら、頬の痛さよりも心の方が痛かったに違いない。

「今度、ケンゴさんに手を出したらこんなものじゃ済まないんだからね! わかった!?」

「……は、はい」

 勝は呆然としながら床の上にペタンと尻餅を付いた。

 とにかく由美が怖かった。これまで戦ってきた強敵よりもずっと怖かった。だから、彼は何も言い返すことができなかった。

「ケンゴさん、大丈夫? 立てる? スグルくんにはわたしがきつ~くお灸を据えておいたからね」

「……そ、それはどうも」

 拳悟は由美の手を借りて起き上がることができた。

 それにしても、あの勝を平手打ちして平然としているなんて信じられない。そんな肝が据わった彼女があまりにも怖くなって笑うに笑えない彼がそこにいた。

「さあ、ケンゴさん、もうすぐ授業だよ。机に行きましょっ」

 由美は拳悟の腕に抱き付きながら自分の机へとやってきた。彼女たち二人の机は前後で並んでいるため椅子に座ると離れ離れになってしまう。そこで――。

「ねぇ、マイカちゃん。悪いんだけど、わたしと席変わってくれない?」

「え? ええ、構いませんわ」

 舞香は拳悟の隣の席だ。というわけで、由美と舞香が入れ替わることで拳悟と離れたりせずにピッタリとくっつけるというわけだ。

「お、おいユミちゃん、いつまでこうしてるつもりなんだ?」

「もちろん、一日中ずっとだよ♪」

「そう……。あ、あはは……」

 こうべったりくっつかれると窮屈のこと極まりない。しかし、由美に離れてくれなんて強くも言えない。拳悟は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。

 それから数分後、今度は前方の扉を開けて担任である静加が教室へとやってきた。

 彼女は警戒しながら教室内を見渡してみた。すると、教室の隅っこでなぜか座り込んだまま拗ねている勝がいる。そして、拳悟にピッタリと寄り添っている由美がいた。

(なるほどね。新学期早々、このクラスには手を焼きそうだわ)


* ◇ *

 出席の確認、連絡事項などが済んで、三年七組の朝のホームルームは終わりを告げた。

 静加はあえて、教室内に漂っている違和感に一切触れなかった。クラスメイトの面々もいつも通りの表情でその場をやり過ごした。違和感の原因である拳悟と由美の二人を除いては。

「ちょっとケンゴくん、話があるから一緒に来て」

「はい! 了解でありますっ」

 これこそ助け舟、一時的にも由美から解放される。いつもなら静加から呼び出されると及び腰になる拳悟だが、今日ばかりは行儀よくすぐさま起立した。

 ところが――。彼が動き出そうとすると由美も一緒になってくっついてきてしまう。しかも、離れたくないという気持ちを悲しげな顔で訴えてくるものだから引き剥がすこともできない。

「悪いんだけど、ユミちゃんは教室で待っててくれる?」

 ここで、もう一度助け舟を出したのは静加であった。担任からそう言われてしまっては、いくら性格が反転した由美でも従うしかないわけで。

「すぐに戻ってきてね。さもないと、わたし泣いちゃうから」

「わ、わかった! すぐに戻るよ」

 女の子の涙なんて見たくもない。拳悟は冷や汗かきまくりで由美を説得してから、静加の後ろを追い掛けて教室を飛び出していく。

「助かったよ、シズカちゃん。今日のユミちゃん、どうもおかしいんだよね」

「話というのは彼女のことなの」

 昨日、工事現場での事故により偶然にも電信柱に頭部を強打してしまった由美。脳に異常はなかったものの、ショックによる後遺症が残ってしまった。その後遺症こそ、性格が正反対になってしまうというものだった。

 静加からそれを聞かされると、拳悟もさすがにびっくり仰天。確かにいつもの由美はおとなしくて消極的、それに臆病なところがあるが、今日に限っては明るく活発で積極的、それに大胆不敵だからそれも頷ける。

 原因がはっきりしたのは良かったのだが、由美がこのままでは当然困る。というわけで、治す方法について彼が尋ねてみると。

「お医者さんの話では、もう一度同じ程度のショックを頭に与える必要があるらしいわ」

「つまり、電信柱にもう一回頭をぶつけろってこと? そんなことできるわけないじゃん、こりゃ参ったな」

 拳悟は重たい溜め息をついた。手の施しようがないわけではないが、完治の確率はかなり低いと思われる。それに、同じ程度のショックを与えるなんてあまりにもアバウト過ぎて実現不可能だ。

「そういうわけだから、ケンゴくん。あなたをユミちゃんの監視役に任命します。あの子のこと、ちゃんと見張っておくのよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺困るよ、あそこまでベタベタされるの」

 拳悟は頭と両手をぶんぶんと振ってそれを拒んだ。教師としての責任放棄は許さないと非難しながら。だが彼の言い分など聞く耳も持たず、静加はまるで逃げるかのようにその場から駆け出していった。

 それにしても、彼女も監視役という手段を使って面倒事からうまく切り抜けたものだ。ただ、教師としての責任放棄というよりは職権乱用と言うべきかも知れないが。

 彼は廊下に立ち尽くしたままふて腐れていた。そんな彼のすぐ後ろに立っていたのは、自らの振る舞いに悪びれる様子もなく満面の笑顔をした由美であった。

「ケーンゴさん、さっ、教室に戻りましょっ」

「……オーメン」

 これからも、大胆不敵で過激な由美の標的になってしまうのか。拳悟は計り知れない絶望感にガックリと肩を落とした。


* ◇ *

 それからというもの、拳悟と由美の二人はほぼ密着したまま時を過ごした。

 授業中も、教室の移動時も、お昼の食事中も、さらにトイレに行く時までも。そして、当然ながら放課後の下校時も彼ら二人は一緒なのであった。

 いくら想いを寄せる相手であっても、四六時中一緒というのは肉体的にも精神的にも疲れるものだ。それを証拠に、彼の表情から生気が感じられずすっかりやつれてしまっている。

 これが毎日続くのだろうか、どんどんエネルギーを吸い取られるのではないかと考えるだけで、彼は重たい足かせを付けて歩いているような気分で今にも倒れてしまいそうだった。

 その一方で、彼女は放課後になっても元気いっぱいでパワフルのままだ。彼の手を引っ張って歩き、これから放課後のお買い物デートへ向かおうとしていた。

「どーしたの、ケンゴさん! ほら、早く行くよ」

「お~い、待ってくれ~い……」

 派茶目茶高校から矢釜中央駅までの道のりを歩く彼ら二人。その途中、道路沿いの一角では耳触りな騒音が鳴り響いていた。

『カーン……コーン……』

『ガガガ、ガガガ――』

 そこは地上十二階建ての高層ビルの建設現場であった。高層ビルということで、背の高いクレーン車も忙しそうに仕事している。

 拳悟はそれをボーっと見上げていた。今の彼は意識がどこかへ飛んでおり、由美の呼び掛ける声も工事現場の騒音も耳には入っていなかった。

『ガクッ――』

(――ん?)

 怪しげな金属音とともに、クレーン車に非常事態が発生した。

 拳悟の視界にあるもの、それはビルの骨組みに使われる鉄骨。しかも、クレーン車の先端にあるはずのそれが鎖がちぎれて落下しているではないか。これは明らかに事故であった。

 落下してくる鉄骨の下には、守るべき彼女がいた。このままだと鉄骨の下敷きになって大惨事となってしまう。

 次の瞬間、彼はやつれていながらも咄嗟に行動を起こしていた。

「ユミちゃん、危ない――!」

「キャッ!?」

 拳悟は由美の背中に向かって両手を突き出した。その勢いにより、由美は前のめりになったまま歩道の上に倒れ込んでしまった。

『――ガコーン!』

 それから一秒後、鉄骨が地面に落下した。まるで爆弾が爆発した時のような大きな地響きを轟かせて。――昨日も、同じような出来事があったような気がする。

 それよりも、由美は無事だったのであろうか。

 幸いにも、彼女は落下した鉄骨から一メートルほど離れたところにおり事なきを得た。だが押し倒された際に、歩道沿いにある電信柱に頭を強く打ちつけてしまっていた。――昨日とまったく同じ展開のようだ。

 工事現場の関係者や野次馬など、ぞろぞろと歩道に人だかりができてきた。拳悟は顔面蒼白のままで、それを掻き分けながら彼女のもとへと向かう。

「おい、ユミちゃん、大丈夫か!? しっかりしろ」

 拳悟が必死になって呼び掛ける。昨日は姉の理恵がどんなに呼び掛けても応答がなかった。しかし、今日は違った。由美は苦痛の表情をしながらも無事に意識を取り戻してくれた。

「え、え? ケ、ケンゴさん? あれ、ここはどこですか?」

 頭部を強打したショックからか、由美は記憶の一部を失っているようだが記憶喪失というほど重篤な症状ではなさそうだ。

「無事で良かった。大丈夫かい?」

「頭がズキズキするけど大丈夫です。それよりも、ケンゴさんの方こそ大丈夫ですか? 何だか顔色が良くないですよ」

 ――その時、拳悟は由美の変化を感じ取った。それはいい意味での変化だった。

 彼女の言動や雰囲気が本来の姿に戻っていたからだ。もう説明も不要だろうが、彼女は偶然にも二度目の頭部強打という悲劇に遭い、性格が正反対になるという後遺症の呪縛から解放されたのである。

「やったー! ユミちゃんが元に戻ってる」

「?」

 これで悪夢を見なくて済む。拳悟は由美の両手を握り締めて歓喜に沸いた。大胆で過激な彼女よりも、おとなしくて臆病な彼女の方が好みだからであろう。

 喜んでいる彼の目の前で、彼女は目を丸くしながら呆気に取られていた。彼女にしてみたら、今日一日の記憶が飛んでいるようなものなので疑問に思うのも不思議ではない。

 頭部を強く打っているため、彼ら二人は担任の静加へ連絡した上で念のために病院へ行くことになった。そして検査の結果、特に異常が見られなかったのでそのまま帰宅となった。


* ◇ *

 病院からの帰り道。時刻は夕方六時を過ぎて空が暗くなってきた。

 由美と拳悟は隣り合いながら家路に向かって歩いていた。もちろん、ピッタリくっつくことなく二人の間には一定の距離が空いている。

「そうだったんですね。全然気付かなかったな」

「とにかくびっくりしたよ。まるで別人なんだもん」

 性格が正反対になるなんて――。由美は驚きもそうだが戸惑いの方が大きかった。戸惑うのも無理はなく、自分が着ている衣装を鏡で見た瞬間、衝撃のあまり卒倒してしまいそうだったからだ。

 今の自分とは別人格がしでかしたこととはいえ、彼女は恥ずかしさと照れくささで穴があったら入りたい心境だったであろう。

「ユミちゃんはこうしてみるとスタイルがいいね。時々はそういう格好もいいんじゃないかな?」

「や、やだっ、ケンゴさん、冗談はやめてください」

 由美は制服を含めて露出度が少なめな衣装を好んでいる。だから、二度とこんな派手な格好なんてできるわけがない……と思いつつも、拳悟から褒められるとまんざら嫌でもなかったりする彼女であった。

「ケンゴさん」

「ん?」

 歩いている途中で立ち止まった由美、それにつられて拳悟も足を止める。

「命を助けてくれて本当にありがとうございました」

 由美は深々とお辞儀をした。命の危機が二日連続で続くのは不運としか言いようがないが、もし拳悟が一緒にいなければ、彼女は危うく命を落としていたかも知れなかったのだから。

 どういたしまして、当然のことをしたまでと命の恩人は白い歯を見せてクスッと微笑んだ。どんな女の子にも平等に優しく思いやりのある紳士を気取っている拳悟らしい答えだった。

 そんな二人が立ち止まったまま、数秒間という時間が流れた。

「あの……」

 思い詰めたような表情でもじもじし始める由美、それを見て拳悟はドキッと鼓動が高鳴った。まさか、告白とか――?

 彼は緊張の唾を呑み込んだ。女の子からの告白には慣れているが、なぜか彼女を目の前にするとドキドキしてしまう自分がいる。

「あの……」

 由美は恥じらいながら、右手をスッと拳悟に向かって伸ばした。

「……これからも、わたしとお友達でいてくれますか?」

 それは友情の証とも言うべき握手のサイン。これが照れ屋の由美ができる精一杯の気持ちの表現だったのだろう。

 ちょっぴり拍子抜けした拳悟であったが、そんな彼女が愛おしく思えて苦笑しながら右手を差し出した。これからもよろしくと伝える気持ちで。

「ははは、もちろん。握手なんてお安いご用だよ。今日みたいに抱き付かれたり迫られたりするよりはね」

「へっ――?」

 突如、由美は驚愕して素っ頓狂な声を上げた。顔色がどんどん青ざめていく。

「――わたし、そんなことしたんですか?」

 別人格になっていた自分を知らない由美、だから拳悟に抱き付いたり迫ったりしたことは当然ながら記憶にない。

「うん、ほぼ一日中ずっとね。さすがに愛しのケンゴさんって言われた時は照れくさかったけどね」

 由美の顔が真っ赤に染まった。まるで火が噴き出すかのごとく。

 うるうると瞳からたくさんの涙が溢れてきた。取り返しの付かないことをしてしまったと今更ながら後悔しても無駄だ。だって無意識のことだし記憶になかったのだから。

 恥ずかしさが頂点を突破した彼女は、わんわんと泣き叫びながら地面にひざから崩れ落ちてしまった。

「わ~ん、どうしよう~。もうお嫁に行けないよ~!」

「わー、泣かないでくれっ。俺がお嫁にもらってあげるから……なんちゃって」

 街行く人々が通り過ぎる路地の上で、由美はそれからしばらく泣き続けた。拳悟が半泣きになってどんなに宥めても、彼女は人目もはばからず泣き続けた。

 これは後日談であるが、彼女が精神的に立ち直るのに一週間ほどかかった。脳に損傷がなかったとはいえ、心に少しばかり傷が残ってしまう結果となってしまった。

 そんなわけで、由美にしても拳悟にしてもとんだ災難な事件ではあったものの、彼女たち二人の距離が縮まった出来事になったとも言えよう。

 ちょっと不器用で、ちょっともどかしいこの二人の恋はこれからどのように展開していくのであろうか。このハチャメチャな学園物語もいよいよ佳境へと入っていく。

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