第三十九話― 性格が大逆転? 大胆過激な女の子(1)
四月に入り季節は春本番。
桜がピンク色の花びらを咲かせる中、どこの小中学校でも入学式、そして一般的な企業でも入社式が行われていた。四月は新しい出会いの季節とも言えよう。
今日は春らしい陽気の日曜日。桜並木の街路を歩く二人の女性の姿があった。
「もうすっかり春ね」
「うん。もう四月なんだよ」
「そうね。春真っ盛りって感じね」
春の心地良さを満喫していたのは夢野由美と姉の理恵の二人だった。
寒さも幾分か和らいでいたせいか、スプリングコートを自宅に置いて薄手のセーターにワイシャツ姿の彼女たち、これから日用品の買出しを兼ねてショッピングに出掛ける途中であった。
「わたしがここに来たのが昨年の五月だから、もうすぐ一年になるんだよ」
「あら、そうだったかしら。一年って早いものね」
由美が矢釜市に来てからもうすぐ一年となる。
この一年間で彼女はいろいろな経験をした。新しい学校で愉快な仲間たちと出会い、楽しい思い出や怖い出来事もたくさんあった。それらを通して、彼女は一つ年を重ねて一つ大人として成長した。
そんな彼女も四月から高校三年生となる。これから進学や就職といった進路の選択にも迫られるわけだが、まだまだ仲間たちとの思い出作りを優先したいというのが本音であろう。
他愛もない会話を楽しみながら、買い物スポットである賑やかな市街地までやってきた彼女たち二人。自宅アパートから徒歩で三十分ほどの距離にあるので利便性は悪くはない。
『カーン……コーン……』
『ガガガ、ガガガ――』
雑踏とはまた違った騒音がこだまする。
市街地の道路沿いでは、高層ビルの建設工事が行われていた。バリケードで覆われた敷地内にはブルトーザーやダンプカー、さらにクレーン車が所狭しと配置されている。
看板を見てみると、地上十二階建てのマンションを建設しているらしい。市街地のど真ん中ともなれば、分譲価格もそれなりに高額となりそうだ。
鼓膜を刺激してくる騒音を避けつつ通り過ぎていく人々。興味ありげに頭上をじっと眺めながら歩いていく人々。さて、夢野姉妹はどうだろうか?
「ふ~ん、ずいぶんと背が高いマンションができるのね」
姉の理恵はいったん立ち止まり、看板と建設現場を交互に見ていた。彼女はただいま安い家賃のアパート住まい、いずれは高級マンションに住んでみたいと願う気取り屋さんである。
「お姉ちゃん、ほら、早く行くよっ」
一方、妹の由美はというと、機械の音に気分を害したのかそこから小走りで抜け出そうとした。彼女にしてみたら、マンションができようができまいがさほど興味がないらしい。
「そんなに急かすんじゃないの」
理恵が先へ歩いていった由美を追い掛けようとした、まさに次の瞬間――。
『ガクッ――』
頭上から何やら怪しげな金属音が聞こえた。
それを耳にした理恵がすぐさま頭上を見上げてみると。
「――えっ!?」
理恵の視界にあるもの、それはビルの骨組みに使われる鉄骨。しかも、クレーン車の先端にあるはずのそれが鎖がちぎれて落下しているではないか。これは明らかに事故であった。
落下してくる鉄骨の下には愛すべき妹がいた。このままだと鉄骨の下敷きになって大惨事となってしまう。
姉は考える間もなく行動していた。つま先を蹴り上げるなり、猛ダッシュで妹のもとへ走り出した。
「ユミ、危ない――!」
「キャッ!?」
理恵は由美の背中に向かって両手を突き出した。その勢いにより、由美は前のめりになったまま歩道の上に倒れ込んでしまった。
『――ガコーン!』
それから一秒後、鉄骨が地面に落下した。まるで爆弾が爆発した時のような大きな地響きを轟かせて。
果たして、由美は無事だったのであろうか。
幸いにも、彼女は落下した鉄骨から一メートルほど離れたところにおり事なきを得た。だが押し倒された際に、歩道沿いにある電信柱に頭を強く打ち付けてしまっていた。
市街地のど真ん中で突如発生した建設現場での事故。野次馬のごとく人々が群がり現場周辺は騒然となった。
建設現場から工事作業員らしき人が何人も飛び出してきた。事態が事態なだけに、みんな血の気が引いて青ざめた表情をしている。
「だ、大丈夫ですか!?」
工事作業員から声を掛けられたのは、ひざを地面に落として激しい息継ぎをしている理恵だった。妹を助けるために無我夢中で走り出した彼女、精神的ショックと疲労感によりなかなか言葉が発せない。
「はぁ、はぁ……。わ、わたしは、だ、大丈夫……よ」
自分のことは心配ない、それよりも妹の安否は――?理恵は周囲をキョロキョロと見回してみた。だが、歩道を埋め尽くすぐらいの群集に邪魔されて肝心の妹の姿がどこにも見当たらなかった。
その直後、数メートル先の方から誰かの大声が彼女の耳に飛び込んだ。”ここで倒れている女の子がいるぞ”という言葉が。
(ユミ――!)
理恵は真っ青な顔ですぐさま立ち上がる。そして、由美がいるであろう場所に向かって群集の中を突き進んでいった。
歩道沿いの電信柱の傍に人だかりができていた。よく見ると、その中心でうつ伏せたまま倒れている少女の姿があった。理恵は人だかりを掻き分けてそこへ滑り込んでいく。
「ユミ! しっかりして!」
愛すべき妹を抱きかかえて姉は必死に名前を呼び掛ける。しかし、妹は意識を失っておりその呼び掛けに応じることはなかった。
工事現場の関係者により、すぐに救急車出動の通報がなされた。それでも現場が混雑している市街地だったせいか、救急車が到着したのは通報してから十分以上経過した後だった。
救急隊員の話によれば、頭部の打撃による脳震盪であろうとのこと。脳の検査が必要であると判断されて、由美は病院にて診察を受けることになった。
担架の上に乗せられて救急車へと運ばれていく由美、そして彼女に付き添う理恵。楽しいはずの春らしい陽気の日曜日が、白昼の市街地で起きたまさかのアクシデントにより最悪の一日に変わってしまった。
* ◇ *
ここは矢釡市立中央病院。由美が救急搬送された病院だ。
彼女は脳に大きな損傷がないか調べるため、CTスキャンによる検査が施された。
検査結果は脳外科医が読影してからとなる。理恵は不安と緊張を抱えながら待合室で声が掛かるのをじっと待っていた。
いくら命を救うためだったとはいえ、突き飛ばしたせいで由美は頭部を強打して脳震盪を起こしてしまった。罪の意識を感じていた理恵はとにかく大事に至らないことを祈るばかりであった。
そわそわしながら待合室で待機すること数十分、診察室から出てきた看護婦が理恵の傍へとやってきた。
「夢野由美さんの親族の方ですね? どうぞ、診察室へお入りください」
理恵は看護婦に連れられて診察室へと入っていく。そこには凛々しい顔立ちでメガネを掛けている男性医師がいた。髪の毛も乱れておらず白衣をピシッと着こなしているその姿はいかにも名医という印象を感じさせる。
男性医師は気難しそうな表情でカルテに見入っていた。カルテに書かれたドイツ語らしき言葉はさっぱりわからないが、ただその雰囲気からして深刻な状況なのではないかとつい勘ぐってしまう。
「どうぞ、お座りください」
「……あの、ユミはどうなんでしょうか?」
気持ちが焦っているのだろう、理恵は椅子に座るなりすぐさま由美の病状について尋ねた。
彼女からの質問に、男性医師はなぜか即答しなかった。しかも気難しい表情のままだ。これでは、理恵も不安に駆られて気持ちを落ち着かせることができない。
「先生、教えてください! 由美はどうなんですか!?」
興奮のあまり、理恵は男性医師の白衣に掴み掛かってしまった。愛すべき妹の病状が心配でたまらないのだろう。
「お姉さん、落ち着いてください」
「落ち着いてなんていられません! あなたも、もし逆の立場だったらわたしの気持ちがわかるでしょう?」
妹はどこにいるのか、意識は戻ったのか、無事に退院できるのか、理恵は男性医師にしがみつきながら質問の嵐だった。
男性医師にも病人を救うべく使命がある。だから、必死に訴える彼女の気持ちも十分にわかっている。別にもったいぶっているわけではなく、彼なりの説明の手順というものがあるのだ。
「これから順を追ってお話しますから、落ち着いてください」
看護婦から優しく支えられたおかげで、理恵はようやく冷静さを取り戻した。取り乱してしまったことを謝罪し、男性医師に向かって深々と頭を下げた。
「命に別状はありません。そこはご安心ください」
CTスキャンの検査の結果、由美は頭部に若干ながら擦り傷はあるものの脳そのものに損傷はなかった。緊急措置はすでに済んでおり、今は病室で安静にしているそうだ。特に目立った症状がなければ今日にも退院ができるとのことだった。
それを知るや否や、理恵の表情に安堵に色が蘇ってきた。妹の無事を知ることができて生きた心地を感じているのだろう。
ところが――。男性医師はひとつだけ懸念があることを伝える。
「ただ、頭部を強く打っていますから、もしかすると後遺症が出るかも知れません」
「後遺症……ですか?」
そのキーワードに、理恵の頭にクエスチョンマークが浮かんだ。
男性医師曰く、頭部強打による後遺症にはいろいろな症状があるという。一般的には記憶の喪失、そのほかにも性格が別人にようになったり不可解な行動をしたりすることがあるそうだ。
考えてみれば、ダメージを受けたのが脳という人間としてのあらゆる機能を司っている部位なのだ。ショックによる後遺症が出やすいのもそれとなく頷ける。
「これから、一緒に病室へ行きましょう」
「はい、よろしくお願いします」
男性医師と看護婦、そして理恵の三人は診察室を出てから由美が待つ病室へと向かう。
いずれにせよ、命に別状がなかったことが何よりも幸いだ。理恵は極度の緊張感から解放されてホッと胸を撫で下ろしていた。後遺症は気になるが、男性医師から言わせれば症状が出る可能性は非常に低いという。
由美が退院となったら、ご馳走を作ってお詫びしよう。夕食のおかずは何がいいかしら。そんなことを考えているうちに、理恵は病室の前まで辿り着いた。その病室は他の患者がいない個室であった。
ドアを開けて病室へと入っていく男性医師。――すると、そこにはちょっと予想外な展開が待っていた。
「あっ、先生!」
由美はすでに目覚めていた。それについては何ら問題ないのだが、ただ彼女はどういうわけかベッドの上に腰掛けたまま両手に長い棒を持って皿回しをしているではないか。
クルクルと器用にお皿を回している彼女、素晴らしいバランス感覚を持っているが、もちろん彼女にこんな曲芸の特技などない。
男性医師は呆気に取られて開いた口が塞がらなかった。彼にしたらそれが尋常ではなく異常に見えるわけで、どのような言葉を投げ掛けたらよいか判断に困っていた。
「ユ、ユミ、あなた何をしているの!?」
「お姉ちゃん! 皿回しだよ。見てわからない?」
「そ、それはわかってるわ!」
そういう問題ではない、病人がいったい何をしているのだ。理恵はそれを叱責しているわけだが、由美はそれが理解できずにまったく反省の色が見られない。
とにかく止めなければ――!お皿を落として割ってしまったら大変なので、理恵は慌ててその場から駆け出した。
「バカなマネはよしなさい!」
「はい、お姉ちゃん、タッチ!」
ここで由美は何を思ったのか、両手で持っていた長い棒を理恵に手渡したのだ。しかも、棒の先端でお皿をクルクルと回したままで。
皿回しをバトンタッチされた理恵はそれはもうびっくり仰天だ。お皿を落とすまいと、両手を小刻みに揺らしながらしっかりとバランスを取っていた。もちろん、彼女にとってこれが初めての曲芸である。
「あはは、お姉ちゃん、上手だねっ!」
「ちょ、ちょっとユミ! こ、これ何とかしてっ」
由美の手によってお皿が回収されて、理恵はやりたくもない皿回しからどうにか解放された。それにしてもとんだ災難だ。まさか病院で曲芸を披露する羽目になるなんて思ってもみなかっただろう。
それはもう愉快に、由美はケラケラとお腹を抱えて笑っている。先程ケガをして意識を失っていたとは思えないほどの回復ぶりだ。
「あなたね、イタズラもたいがいにしなさいよ」
「あはは、まさかホントにやってくれるとは思わなかったよ」
理恵がどんなにお説教しても、由美はただただ明るく振舞うだけだった。ベッドの上で横になっているよりはましだろう、それに病み上がりなので叱るに叱れない姉であった。
病室内が静かになり、ここでようやく男性医師の出番となった。
「皿回しをするなとは言わないが、キミは頭部を強打したばかりなんだ。あまり過激な行動は慎まないと」
「ゴメンなさい、先生。あまりに退屈だったから。あ、でも、お皿は一枚も割ってませんよ!」
「こら、ユミ! そういう意味じゃないでしょ」
理恵が注意すると、由美はペロッと舌を出してはにかんだ。
その後、酸素量や血圧、さらに心拍数などを簡単に計測しても特に異常は見られなかった。このぐらい元気なら心配ないだろうと判断し、男性医師は退院の許可を出した。
「一晩様子を見てみてください。大丈夫とは思いますが、もし異常が見られたら明日にでもおいでください」
「本当にお世話になりました。どうもありがとうございます」
無事に退院となって良かった。応急処置をしてくれた男性医師に、理恵は髪の毛を振り下ろすほど大きくお辞儀をした。そこには感謝の意味の他にも、由美がちょっぴりイタズラしてしまったことへの謝罪の意味も含まれていたに違いない。
受付で手続きを済ませてから夢野姉妹は病院を後にした。すると時刻はもう夕方、太陽が傾き始めていて空も赤らんでいた。
これからショッピングという気分でもない。彼女たち二人は日用品と夕食の食材だけ購入してから帰宅することにした。
「お夕食は何が食べたい?」
理恵がそう問い掛けてみると、由美はうーん、うーんと唸り声を上げながら少しだけ悩んだ。そして出した答えとは。
「ステーキもいいし、ハンバーグもいいし、あとお寿司もいいよね~。あっ、そうだ。今日はお姉ちゃんにわたしがお料理作ってあげようか? う~ん、待てよ、そういえばわたしはお料理ぜんぜんダメだったんだ。あはは、女の子として情けないな~」
ほとばしるかのごとく言葉がポンポンと出てくる。由美は満面の笑みを浮かべながらひたすらしゃべり続けた。
いつもと様子が違う。まるで別人のようだ。理恵は怪訝そうな顔つきで由美のことを見つめていた。少しばかり気掛かりではあったが、明るく振舞ってくれているならきっと大丈夫だろう、そう自分を納得させていた。
“いつもと様子が違う”――。
“まるで別人のようだ”――。
もうおわかりであろう。そう、由美は頭部を強打したショックにより後遺症を発症していたのだ。当然ながら、理恵はこの時点でまだそれに気付いてはいなかった。
* ◇ *
翌日、月曜日の朝のこと。
「ユミ、朝ごはんできたわよ。早く起きてらっしゃーい」
ここは夢野姉妹が暮らすアパート。彼女たちはこれから会社と学校へ行かなければならないため休日よりは早い朝であった。
朝食の支度はすべて姉の理恵が担当している。お化粧やら身支度やらで何かと忙しい平日の朝、本音を言えば食パンやお弁当で済ませたいところだが、手料理にこだわっている彼女は思いのほか家庭的だったりする。
テーブルに並べられた朝ごはんは昨日の残り物の焼き魚、ハムエッグとお漬物、それに玉子スープというラインナップだ。
「ほら、ユミ。早くいらっしゃい!」
「は~い、すぐに行きま~す」
理恵が数回呼び掛けても、由美は返事をするだけで一向にやってこない。
いったい何をしているのかと思ったら、由美はどうも身支度に時間を掛けているようだ。いつもの紺色のブレザーと白のワイシャツ、それにスカートは揃っているはずなのになぜ?
とうとう痺れを切らし、理恵は由美が着替えている化粧台へと向かった。
「いつまで着替えてるの! 早しくしなさ……」
化粧台の前に立っている由美を見た瞬間、理恵は言葉を失い唖然とした。
由美が着ていたのはいつものブレザーとスカートではなかった。肩を露出させたボディコンシャス風のタイトなワンピース。しかも、両足には靴下ではなく光沢のある黒色のストッキングを履いていた。
また黒髪を真紅のリボンで結い、色白なうなじを引き立たせるアップな髪型に仕上げ、さらに頬にはチークを塗り、まつげをビューラーでカールさせており、これからパーティーにでも出掛けるかのようなコーディネートである。
「ちょっと、あなた。それ、わたしのじゃないの……」
実はこれら、すべて理恵の私物なのであった。彼女は時々、仕事で溜まったストレスを発散させるために繁華街にあるクラブに繰り出しては狂ったように踊っていたりする。彼女もまだ二十三歳、遊びたい年頃というわけだ。
それはそれとして、なぜ由美がこんなパーティードレスに袖を通しているのか。その理由がさっぱりわからず、理恵は表情を引きつらせながら戸惑うばかりだった。
「お姉ちゃん、今日この服借りていくね」
「あなたまさか……。その格好で学校へ行くつもり?」
由美はニッコリと微笑んで大きく頷く。もちろん、そのつもりだと。
「わたしももう十七歳だもん。かわいらしくドレスアップしないとね」
ドレスアップはいいとして、そのいでたちはどう考えても通学用ではないと思うが。とはいえ、由美が通う派茶目茶高校は自由がモットーで制服の指定もない。だからどんな格好で登校しても問題はないのだ。
理恵はいささか納得し難かったが、妹がちょっぴりイメージチェンジするぐらいは許してあげようと思った。自分にだってそんな学生時代があったからだ。
そういう思いがありながらも、この格好で学校へ行かせるべきかどうかも悩んだ。これではまるで、男子生徒を誘惑するかのような衣装ではないか。いくら制服が自由だからといって許していいものだろうか。
いろいろと考えて悩んだ挙句、今日のところは容認することにした。というよりも、早く朝食を済ませて会社へ急がねばならない。いつまでもここで時間を潰すわけにはいかないからだ。
「とにかく急いで。このままだと遅刻しちゃうわよっ」
「うん、すぐに行くよ」
すぐに行くと言っておきながら、由美は化粧台の鏡の前から離れようとしなかった。これにはさすがの理恵も頭に来たらしく、由美の腕を掴まえて半ば強引にテーブルまで引っ張っていった。
テーブルの椅子にちょこんと腰を下ろした由美。両手を合わせて合掌し、いただきますの挨拶をした。
テーブルの上に並んでいるのは、ごくありふれた朝食のメニューの数々。食材も味付けもいつもとまったく同じはずなのに、なぜか由美は一口頬張るたびに感激の声を上げた。
「うんうん! このハムエッグ最高だよっ。あっ、この焼き魚も丁度よく焼けてるね。あとね、お漬物もとってもシャキシャキしててバッチリだよ!」
食べたり、話したり、感動したり。由美はとにかく落ち着きがなかった。食事が楽しいのはいいことであるが、発言も仕草もすべてがオーバーでわざとらしいのだ。
理恵は呆然としてしまって食事が喉を通らなかった。本来なら手料理を絶賛されたら嬉しいはずなのに、それがあまりにも大げさなものだから素直に喜んでよいのかわからない彼女であった。
――朝を迎えて、由美の後遺症はますますエスカレートしていた。
* ◇ *
「行ってきま~す」
「行ってらっしゃい。車に気を付けてね」
由美は理恵よりも一足早く学校へと出掛けていった。
理恵は何をしているのかというと、化粧台の鏡とにらめっこしながらお化粧の真っ最中だった。彼女だって麗しのオフィスレディー、男心をくすぐるような魅力的なメイクアップに余念がなかった。
彼女たち姉妹だけが例外なのではなく、女性だったらどんな年代でも男性諸君から注目されてちやほやされたい生き物なのである。
さて、お色気たっぷりにドレスアップした由美であるが、意気揚々としながらルンルン気分でアパートの廊下を歩いていく。今日はいつものローファーではなく真っ赤なパンプスを履きこなしている。
やはりパンプスは履きなれていないせいか、階段を下りていく姿が少しばかり危なっかしい。途中でつまずいて転んだりしなければよいが。
丁度その頃、一階のアパートの前でせっせとお掃除をしている男性がいた。彼はこのアパートの大家で、現在七十歳のご老人。アパートのすぐ近所に住んでおり、週に数回ほどやってきては住人と挨拶がてら朝の清掃をしているのだ。
階段から高らかな靴音を耳にするなり、彼はそちらの方向へと目を向けた。すると、ボディコンシャス風の衣装を身にまとった女性の後ろ姿を目撃した。
「おはよう。おや、その格好はリエちゃんだね?」
大家の男性は当然ながら、アパートの住人である理恵とは面識があった。後ろ姿だけでそう判断して声を掛けてみたものの――。
「おはようございます! えへへ、残念ながら妹の由美でした~」
「おやおや、妹さんだったか、これはびっくりした」
目を丸くして唖然としている大家の男性。由美が女子高生であることを知っているだけに、あまりの見た目の違いに驚きを隠せない様子だった。
彼女は階段を下りるなり、クルっと全身を一回転させてモデルみたいに颯爽とポーズを決め込んだ。まるで着ている衣装を見せびらかすかのように。
「大家さん、どうです? 今日のわたし、かっこいいでしょう?」
「うんうん、かっこいいよ。でも今日はどうしたの、学芸会でもあるのかい?」
「違いますって。単なるイメチェンですよっ」
イメチェンと言われても、大家の男性はどうにもピンと来なかった。七十代のご老体であれば、今風の言葉や横文字に疎いのはやむを得ないところだ。
いずれにせよ、女の子が明るく元気いっぱいなのはいいことだ。それに加えて美しくなるのはさらに素晴らしいことだ。彼はそんな自論を展開しつつ穏やかな目をしながら由美のことをお見送りした。
「行ってきま~す!」
「おお、行ってらっしゃい」
由美が学校へ向かってから十分少々だろうか。今度は姉の理恵がコツコツとパンプスの音を鳴らしながら階段を下りてきた。彼女は春らしく空色のスーツ姿でのご出勤であった。
「リエちゃん、おはよう」
「大家さん、おはようございます」
大家の男性に丁寧な挨拶をした理恵。どんなに慌ただしい朝であっても、お世話になっている年配の人への配慮だけは欠かさない。
「そうそう、さっき妹さんに会ったけど、どうしちゃったんだい? イマチャンだとか言っていたけど。あれ、メリージェンだったかな」
「メ、メリージェンですか?」
メリージェンだと、何だか頭の中にハスキーボイスが聞こえてきそうだが。理恵は意味がわからず首を捻ったが、大家の男性の話を詳しく聞いてみると由美のイメージチェンジのことだとわかった。
彼はとかくびっくりしていた。それは由美があまりにもスタイリッシュだったからだ。姉の理恵と見間違えてしまうぐらいに。姉妹揃ってべっぴんさんだと褒めちぎっていた。
スタイルを褒められるのは嬉しい限り。それでも、男性の目を引く露出度の高い衣装もどうかと思う。丈の短いタイトスカートを履く理恵は、照れ笑いを浮かべながらも複雑な心境を覗かせていた。
「驚かせて済みません。何だかあの子、昨日の夕方から少しおかしくて」
理恵は昨日起こった建設現場での事故について端的に伝えた。由美が電信柱に頭部を強打して病院に搬送されたことも含めて。
大家の男性もすでに事故のことは知っていたようだ。一歩間違えれば、死傷事故につながる大惨事になっていたであろうこの事故。地方新聞や地元のニュースでも取り上げられていたらしい。
そんな大きな事故の中でも、由美が大事に至らずに済んだのは幸運であった。理恵と大家の男性は安堵の笑みを向け合った。
「妹さん、いつもよりも明るくて元気だったよ。まるで別人みたいだったね」
「別人だなんて、そんなオーバーな……」
“別人みたい”――。理恵はその言葉を聞いて、昨日の病院での男性医師とのやり取りを思い出した。
頭部強打による後遺症にはいろいろな症状がある。記憶の喪失が一般的ではあるが、それ以外にも性格が別人にようになったり不可解な行動をしたりすることがあるという。
(ま、まさか――!)
理恵はようやく気付いた。由美の異変の原因が、頭部強打による後遺症だということに。
由美はもともと控え目で引っ込み思案、いわゆる内向的な性格なのだが今の彼女はまるっきり正反対で、大胆不敵で思ったことをハッキリ口にする外交的な性格に変わっていた。
昨日の病室での奇妙な行動や発言、今朝のお化粧や服装のイメージチェンジなど思い返したら当てはまることばかりだ。
早く病院に連れていかなければ――と思っても時すでに遅し。由美はすでに矢釜中央駅行きの電車の中であろう。理恵は焦りのあまり頭が真っ白になってあたふたとし始めた。
「リエちゃん、どうかしたのかい?」
「大家さん、実は……」
大家の男性と相談した結果、取り急ぎ理恵一人で矢釡市立中央病院へ向かうことになった。男性医師から何かしらの解決方法が聞けるかも知れないからだ。
一方の由美に関しては、始業開始時刻を見計らって学校へ連絡して事情を説明することにした。元気なのは事実だし、そこまでの緊急性はないだろうという判断であった。
「よし、わしがタクシーを呼んであげよう」
「ありがとうございます。わたしはこれから自宅へ戻って、会社に遅刻の連絡を入れてきますので」
それからさほど時間も掛からず、アパートの前に一台のタクシーが到着した。
不安と緊張が交錯する中、理恵は逸る気持ちを抱えたままタクシーに乗り込んで病院へと向かった。




